第18話・そして嵐はながれを運び・8


 はてさて、うるわしき補佐官の唇から唖然呆然の真実が<狼>たちへともたらされたのとほぼ同じころ。


「どうなさいました、ダウフト殿」

 中空に明るく輝く月をうっとりと眺めやっていたランスの市長が、何を思ったか腕に抱えた聖女さまへと問いかけました。

「突然のことにたいそう驚かれたのですか、それとも恥じらっておられるのか」

 なんと慎み深き乙女であろうと賛美に顔を輝かせる怪鳥男の傍らで、ひとことも発さずにいた娘さんがかくりと頭を垂れました。

 まるで口から魂が抜けてしまったようなその顔ときたら、悪漢にさらわれ涙にくれる乙女の風情などこれっぽっちもありゃしません。救いに馳せ参じるであろう騎士ですら、思いきり退くよなありさまです。

 頭のてっぺんからつま先まで派手やかに飾り立てた奇人変人に抱えられ、彼を生け捕りにせんと迫り来る人々からあちこち逃げ回っているあいだに、かぼちゃさまと羊さまに救いを求める気力すら娘さんからは奪われてしまっておりました。

 こうして今では、ひゅるりらと風が鳴く西の胸壁で、アーケヴいち恥ずかしい男にぬいぐるみのように抱えられ、砦を阿鼻叫喚に陥れる詩にも匹敵する愛の賛歌を囁かれるはめに陥っていたのです。


 おばあちゃん、たすけて。


 こんな情けない目に遭ったのは、村じゅうでも娘さんぐらいなものでしょう。おじいさんと出逢うまで、<かぼちゃの接吻>にかけては右に出る者なしと、近隣の村々にまで名を轟かせたリリアーヌの孫娘にあるまじき事態です。

 こうなったら<ヒルデブランド>の一撃をという危険なおもいも、頭のすみっこをよぎったのですけれども。

 肝心かなめの聖剣ときたら、どうやら寄り代の危機には無視を決めこんだようです。いくら心で呼べど叫べど、うんともすんとも応じやしません。ああまったく、何とありがたいなまくら剣でしょう!


 つまりわたし、このまま朝まで市長さんとふたりっきり。


 背筋をすう、と滑り落ちてゆく氷のように、自らの置かれたあやうい立場を理解した娘さんが、いやーおかあさーんと新たな恐慌に陥りかけているあいだにも、へぼ詩人による濃厚な語りは続きます。

「紺碧の海深くに輝く真珠のごとき貴女にこそ、わたしは熱きくちづけを捧げた」

 そう言うなり近づけられた市長の顔は、すかさず伸びた娘さんの手によってみし、と遮られました。

「……かないませんか」

「当たり前ですっ」

 懸命に指へ力をこめながら、素朴な娘さんは市長の顔を必死の形相で押し戻します。

「ううむ、聞きしにまさる手ごわさかなオードの乙女」

 めくるめく恋の戯れのまま、相手を違えるごとにつぎつぎと誓いを与える淑女がたとは趣が異なるようだと、娘さんの指跡を顔に貼りつけたへぼ詩人は溜息をついたのですが、

「なれど、朝露に震える薔薇の蕾のごときその初々しさがまた」

 いっそながれに身を任せと、またも近づけられた市長の顔は、すかさず娘さんの手に遮られ左へそらされました。

「ううむ、難攻不落をうたわれし都アーンのごときこの守り」

 右頬をむに、と押されつつ苦悩の呟きをもらした市長に、いいからあきらめてくださいと娘さんは訴えます。

「いくら市長さんでも、だめなものはだめです」

 幾世代にもわたって、乳と血のもとにつらねられし隠し名を伝えてきたオードの女たち。いくら他に類を見ないのんき者と評されようとも、娘さんとて音に聞こえしかの地の乙女、たやすくゆるしを与えたりなどしないのです。

 けれどもそれがかえって、ランスの怪鳥男の情熱をより暑苦しく、より迷惑な方向へとかきたててしまったようでした。

「なんということ。このわたしともあろう者が、たおやかな乙女を恐怖におののかせ涙させてしまうとは」

 愛のしもべにあるまじきふるまいと、叙情たっぷりに嘆くさまを見た娘さんが凍りつきかけているのにもおかまいなしに、怪鳥男は懐から何やら怪しげなものを取り出しました。

 どこかで見たことのある繻子のリボンに、ほのかにたちのぼるすみれの香。はるかなる東方の国々では、書簡や書物を巻いて保管するのだとのっぽの学僧から聞いたことがありましたけれども。

「…………もしかしなくとも、詩?」

 彼の手に握られた、矢筒もかくやというおそろしく太い巻物に顔を引きつらせた娘さんに、

「さすがは聖なる乙女、よくお分かりに」

 こどものように顔を輝かせると、ランスの市長は巻物を封じていた絹の組紐をさらりとほどきました。

「貴女を想ってしたためた、つたなき我が詩の数々をつねに懐へとしのばせているのです」

 ふたりをからかうように、すぐ脇を高笑いしながら飛んでいった小鬼が、断末魔の悲鳴とともにはるか下の堀へと落ちていったのはけして偶然ではありません。

 簡単な読み書きを習い始めたばかりの娘さんには、市長の手になる流麗かつ難解な綴りをすべて読み取ることはできませんでしたけれども。

 語彙のひとつ、表音文字のひとつひとつから、<けもの>すらも軽く凌駕するであろうただならぬ圧気が押しよせてきます。寄り代の災難には無視を決めこんだはずの聖剣でさえ、一度は警告を発するかのように目醒めたのですが――それが市長の詩と分かるやいなや、今度こそ完全なる沈黙を保つことにしたようでした。ああっこのはくじょうものー、という娘さんの魂の叫びにも知らんぷりです。

「読むんですか、その詩」

「もちろんです。とはいえ、わずか百篇ほどに過ぎませんが」


 ひゃっぺん。


 ふう、と意識が遠のきかけた娘さんに、いつかこのように、美しき月を愛でながら貴女へ切なるおもいを捧げることがねがいでありましたと怪鳥男は続けます。

「田舎騎士の昏き嫉妬ゆえに、はかなき灯火のごときさだめにならんとしておりましたが」

 所詮は嫉妬など、まことの愛の前にはかなわぬものですと笑った市長を、娘さんは思わず見上げます。

「田舎騎士って、ギルバートのことですか」

「ほかに誰がいると仰せですか、聖なる乙女よ」

 かつて、大陸に未曾有の繁栄を誇りし紫の帝国に終焉をもたらし、長きにわたる戦乱の世を招いたと伝えられる北方の夷狄いてきのごとき田夫野人ではありませんかと市長は続けます。

「あのような地上のただ人、<母>よりもたらされし慈愛たる天上の乙女が気に留めるような者では」

「ギルバートはいてきなんかじゃありませんっ」

 さっきまでのよれよれぶりはどこへやら。緑の瞳に強い輝きをたたえた娘さんから巻き起こった反論に、こんどは市長がたまげる番でした。

「わたしだって天上の乙女なんかじゃありません。<かあさん>がほめてくださるより、大公さまから山ほどのごほうびをいただくより、ギルバートが側にいてくれるほうがずっといいもの」

 裸足で野原を歩き回り、友達とたわいもないおしゃべりをくり広げ、丘の上から転がした水汲み桶を追いかけてはしゃぐのが大好きだった、ふつうの。

 瞳深くよぎった、誰ひとり知ることのない翳りを振り払うように、娘さんは言葉を続けます。

「そりゃかぼちゃあたまだし、そよ風ほどもにこりともしないし、ちょっといじわるだし、ご本の邪魔をするとご機嫌ななめだし、やかまし屋だし、おしおきは芋と玉ねぎだし、肝心のところでちょっぴり間が抜けるし羊には蹴られてばっかりいるけれど」

 とうていかばっているとは思えぬあれやこれやをまくしたてていた娘さんが、そこで頬を桜色に染めました。

「わたしみたいに中途半端なにんじん色より、ずっとすてきな黒髪だもの。マントにくるまれるといつも香草とお日さまのいい匂いがするもの。ご本や遠い国のお話を読み聞かせてくれるときの声にほっとするもの。手だって胸だって大きくてあたたか――」

「……………………いいから、声を落とせ」

 いまや市長を圧倒せんばかりの主張に割りこんできた、地を這うような声のあるじが誰であるかを悟った娘さんが、あああとたまげた声を上げました。

「ギルバートっ」

 怪鳥男の脇に抱えられた娘さんの前へ、それなりに颯爽と現れた救い手は、まぎれもなくかぼちゃ君という新たな二つ名を戴いた若き騎士でした。

 相も変わらず無愛想の権化ともいうべき男が、口元を真一文字に引き結びながらも、なんとも居心地の悪そうな顔をしていたのは、月が見せた気まぐれだったのでしょうか。

 いやだわもしかして今のぜんぶ聞かれていたのと、嬉しいやら恥ずかしいやらで罌粟のように顔を赤らめた娘さんへ、

「誰がかぼちゃあたまだ」

 果たして突っこみどころはそこなのかと言いたくなるよなひとことを、黒髪の騎士は放ちました。

「こ、言葉のあやです」

「ちょっといじわるで、やかまし屋で、肝心のところで間が抜けるだと」

「だって全部ほんとうのこ――」

 言いかけて、己が口をはたと手で塞いだ娘さんに、そうかと低く静かに呟いた騎士のこめかみに青筋が浮かびました。

「芋と玉ねぎに、きゃべつと蕪と人参と林檎を追加」

 後で覚えていろと宣言した騎士に、きゃべつはいやーと目を潤ませてもがく娘さんを、へぼ詩人が離すまいとするかのように抱え直しました。それでも、乙女をさらい宵闇へ消えゆこうとする悪者というよりは、仔羊のぬいぐるみを脇に抱えた子供のようにしか映らないのは、これまたどうしたものでしょう。

「出たな、聖なる乙女へ不埒なふるまいに及ばんとする不逞の輩め」

「きさまのことか」

 斜め向こうにずれた非難を一刀両断すると、黒髪の騎士は極彩色の市長をねめつけます。

「奥方のゆるしもなしに婦人部屋へ押し入り、娘ひとりをさらって遁走するとはいい度胸だ」

 よほど末代までの恥として語り継がれたいようだなと、漆黒の双眸に冷ややかさを増した騎士のもとへ、同胞の災難にも懲りずにまたも人間をからかってやろうとやってきた別の小鬼が、恐怖の悲鳴だけを細く長く残して宵闇の彼方へと飛び去っていきました。

 それもそのはず。

 リャザンの凍土を渡る烈風のごとき空気を身にまとわせた、砦いちの無愛想が手に握りしめているのは、武骨な<灰色狼>にはまるで似つかわしくないもの――乙女の身を飾るにこそふさわしい、繊細可憐なレースのリボンときたものです。

 娘さんを抱えたまま縦横無尽に逃げ回る怪鳥男を追いかけて、砦じゅうを駆け回ったであろう黒髪の騎士が通り過ぎたあとには、おれ何も見てないよな、そうさ見てないんだよ俺たちはッ、と互いに抱き合い泣きじゃくっている兵士たちの姿があちこちで見受けられるはずです。

 突如として天から降ってきた、聴覚への侵略というべき市長の歌声に容赦なく打ちのめされ――ようよう立ち直りかけたところへ、可憐なリボンを握りしめた砦いちの無愛想が目の前を通り過ぎて行くという視覚への横暴。

 まじめに地道に務めを果たし、一杯の葡萄酒か麦酒をささやかなたのしみとしている彼らに、いったい何の咎があるというのでしょう!

 けれども、今や周囲へと盛大なる迷惑を及ぼしつつある当の男たちは、そんなことにはまるでおかまいなしであるようでした。

「ダウフトを置いて、とっととランスへ帰れ」

 意識せずして、ふだんの堅苦しい態度をかなぐり捨てている騎士を娘さんがぽかんと見つめている側で、ランスの市長が断ると即答しました。

「なにがダウフトだ。<母なる御方>が使わしたもうた聖なる乙女を、名もなき市井の娘と同じように呼ばわるなどと」

「俺ははじめから呼び捨てだ」

 聞きようによっては傲慢ともとれるひとことを放つと、お下げ髪を弾ませて、俺をいたずらにひっかけて喜んでいたどこぞのはねっ返りが、神の娘などであるものかと騎士は続けます。

「筋金いりの能天気、猫か子供よろしくどこでも寝こける無防備、海千山千のご婦人に立ち混じり市場で野菜を値切る豪胆、寝起きと寝相の悪さにかけては天下一品、聖剣すらそのあたりの斧や松明と等しく扱う常識外れの図太さは、気高さと慈愛と徳の深さをもって知られるたおやかな聖女たちとは一線を画し」

「だれが図太いんですかっ」

 聞き捨てならぬとばかりに、ふくれっ面で抗議の声を挙げた娘さんでしたが、

「それでも、羊飼いのパイは悪くない」

 ほろりとこぼれたひとことに、ぴたりと抗議をやめた娘さんがみるみるうちに頬を染めあげていきました。

「じゃあ、こんどはもっと腕によりをかけます」

「甘いプディングには木いちごを忘れずに」

「黒すぐりもたっぷりとでしたね」

 ひょろろろろとかぼそい風が鳴く胸壁の上で見つめ合う、レースのリボンを握りしめた仏頂面の騎士と、怪鳥男にぬいぐるみのように抱えられたままの娘さん。どうにも場違いなやりとりだというのに、見ているほうがむず痒くなってくるような、妙にほのぼのとした世界ができあがっています。

 いいからよそでやれよと言いたくなる、そんなふたりのやりとりを打ち破るかのように突如動きを見せたのは、すっかり蚊帳の外に置かれてしまったランスの市長でした。

「とおおおおおおおおおおおおッ」

 気合いとともにマントを翻し、きらびやかな変態はいきなり胸壁から下の足場へと飛び降りました。

「ああ何だ、何だというのだ我が胸の裡に嵐のごとく激しく渦巻くこの不可解なる感情はッ」

 悲鳴を上げる娘さんをがっしと抱えたまま、両頬を滂沱の涙で熱く濡らした怪鳥男は石段を駆け下りながら大いに嘆きます。

「認めん、断じて認めんぞッ。貴女が田舎騎士と見つめ合っておられたときに我が心に深く鋭く穿たれし痛みなどッ」

「ただの胃痛だろうが」

 感性が泣き出すような突っこみに市長が振り向いてみれば、何と彼のすぐあとを、黒髪の騎士が猛然と追いかけてきているではありませんか!

 それも他の追手とは覚悟の度合いが格段に異なるらしく、場合によっては第一級戦闘態勢に準拠した武力行使はもとより、公の立場と彼の私情とをふんだんに織り交ぜた鉄拳制裁も辞さぬ構えであるようです。

「ダウフトを放せ、ランスの赤っ恥めが」

「ええい放さん、放さんぞッ。きさまごとき輩にけがれなき乙女をゆだねるなどこのわたしの身命に代えてもッ」

 一人の乙女に幾人もの殿方と聞けば、その愛をめぐり名だたる騎士諸侯が相争ったと伝えられる美しきアエノール姫がごとく、世のご婦人がたがうっとりと思い描く波瀾万丈の浪漫にもなろうものですが。

「いやあああああああああああああぁもう帰してええええええええええええぇ」

 どこをどう見ても浪漫からはほど遠い、どっちもどっちな男どもによる泥仕合のはざまに立たされた、哀れな村娘の叫びが西の胸壁一帯に響き渡るのを、ぽっかりと浮かんだ月が呆れたように見つめていたとかいなかったとか。



               ◆ ◆ ◆



「今の声、ダウフト殿では」

 風に乗って聞こえてきた娘さんの叫びに、椅子に座していた奥方さまが窓の向こうへとまなざしを向けました。

「エクセター卿には、一刻も早くその腕に乙女を取り戻していただかなくては」

 砦の息子と娘を案ずるがゆえなのか、かくなるうえは援護命令をと口を開きかけた砦の母君へ、傍らに控えていた琥珀の騎士が穏やかに問いかけました。

「いかがなさるおつもりですか、奥方」

「そうですわね。大弩弓か投石機による射撃か、それとも東方伝来の火薬を使おうと」

 かつてある城を陥落寸前にまで追いこんだ、シャロンの風来坊とゆかいな仲間たちの暴れぶりをほのめかした砦の母君に、先達一同のとんでもない所業を知る壮年の<狼>たちの顔から血の気が引いてゆきました。

「おおおおおおおおおおおやめください奥方ッ」

「ランスの市長とエクセターの若造ならまだしも、うら若き乙女の身を傷つけて何とします」

「我らが砦を内部から陥落させるおつもりかッ」

 口々に押しとどめる壮年の騎士たちへ、あらいやだ冗談ですよと奥方さまはやわらかく微笑みました。

「ネヴィル殿は、相変わらず真面目でいらっしゃること」

「貴女にかかっては、冗談も冗談では済みますまい」

 それよりも早くダウフト殿をと、真面目なボース卿は気が気でない様子でした。娘さんと近い年頃の姫君がいるゆえに、市長による今宵の暴挙はとうてい許しがたきものであったようです。

「たしかに、今は冗談を申しあげている時ではありませんね」

 ふうと息をつくと、奥方さまは部屋の真ん中へと灰青のまなざしを向けました。逃亡を防ぐためにまとめて簀巻きにされたうえ、丈高い兵士たちにぐるりと取り囲まれた三人の長老たちの姿があったからです。

「こらジェフレ、年寄りに向かってこのような無体な仕打ち」

「王の生誕を予言せし賢者を、獣どもの巣穴に放りこんだ暴君かおぬしは」

「元凶が目を潤ませて何をほざいておられるのです」

 琥珀の騎士に痛いところを突かれながらも、なおも抗議を続けようとする元気なご老体一同に、遊んでいる場合ではございませんのよと奥方さまは訴えます。

「皆さまがたが、例のものをいつ何時入手なさったのか知りたいのです」

 堀を総ざらいさせるほどの、大々的な捜索を要するものだと伝え聞いておりますよと、すべてを話すようにと暗に命じた奥方さまに、いやディジョンから来たという行商人がなとガスパール老が口を開きました。

「あまり見かけぬ顔じゃったし、さしてめぼしい品も持っておらぬ様子に見えたんじゃが」

 あれは格別であったなあと呟いたガスパール老に、同じく縛につかされていたイドリス老とヴィダス老が口をそろえてうなずきました。

「いやはや、竜にも匹敵する発見であったなあれは」

「<深淵に棲むもの>の卵など、混沌の世にすべて失われたものと思うておったが」

「じゃがあの男、いかにしてあのようなものを手に入れよったのか」

 ううむと首を傾げる長老たちに、あれはひそかに持ち出された品だったのですよと奥方さまはまなざしを険しくしました。

「ランスの市長が、代々その職務とともにかたき封印を守ることを託されしものだったそうです」

 けれどもお天気ベルナールが市長に就任するやいなや、ランスはすぐさま魔族の侵攻を受けることとなりました。

 長きにわたる包囲と激しい市街戦をくぐり抜け、ようやく復興に向けて第一歩を踏み出そうとしたそのとき――<深淵に棲むもの>の卵、忌まわしき過去の遺産があとかたもなく消え失せていることに気がついたのです。

 町へ魔族を引き入れた前市長の差し金によるものか、それともどさくさにまぎれてめぼしいものを持ち出そうとした盗賊の仕業によるものか。いずれにせよ、卵の紛失は大きな衝撃となって市庁舎に務めるものたちを打ちのめすこととなったのです。

「異形の存在が公に知られたならば、ランス市は非難の矢面に立たされます。大公家や司教がたをはじめとする、エーグモルトの諸勢力が市政へ介入する格好の材料ともなりかねませぬ」

 偉大なる王や女王たちがくにを治めていたころから、自治と独立を誇りとしてきたランス市にとっては、まさしく存亡の危機にほかなりません。

「まさか市長みずから、その行方を捜しつづけていたと?」

 琥珀の双眸を驚きに満たした若き騎士に、ベルナール殿とはそのようなかたなのですと奥方さまは微笑みます。

「ランスの市庁舎がいよいよ魔族の手に落ちかけたとき、あのかたは市長の正装に身を包み、ひとり執務室に残ったと聞きます。ともに残ると言い張ったクロエに、市長のあかしたる印璽と指輪、それにランスの市旗を託して」

 クロエはずいぶんと怒ったようですけれどと呟いた奥方さまが、ふいに何かに気がついたかのようにあたりを見まわしました。

「いかがなさいました、奥方」

「――クロエはどこに?」

 奥方さまのことばに、琥珀の騎士がしまったとばかりに頭をめぐらせました。

 広間に集い、迷惑きわまりない怪鳥男が引き起こした騒ぎと、今後の対策をああでもないこうでもないと話し合う人々の中に、銀髪をさらりとなびかせたうるわしき主席補佐官の姿がどこにも見あたりません。

「カミーユ補佐官」

 琥珀の騎士の問いかけに、すぐ側にいたランスの新米補佐官がびくりと身をすくませました。

「アルキュシアのクロエ殿はいずこに」

「ええと、そ、そのう」

 へどもどと返答に窮する補佐官に、ことはおぬしにかかっているのだぞと琥珀の騎士は厳しい表情を見せました。

「ランスの存亡はもとより、うるわしき淑女の身に及ばんとする災厄に見て見ぬふりをすると?」

 このような単純なひっかけにすらたやすく応じてしまうほどに、新米補佐官は相当に思い悩んでいたようです。

「申し訳ありませんっ。クロエさんには、黙っていろって言われたんですけれど」

「知っているのか」

 騎士の問いに今にも泣きそうな顔をのぞかせて、きっと市長を探しに行ったんですと新米補佐官は訴えます。

「ベルナール市長が、夜も眠らずに卵の捜索を続けていたのをクロエさんが一番よくご存じでしたから」

 探して探して、とうとうこの東の砦へと持ちこまれたと判明したとき、市長が飛び上がって喜んでいたのをクロエさんがそばで嬉しそうに見つめておられたから――

 おそらくは彼女に憧れているのであろう、新米補佐官の真摯なことばに、これは意外と琥珀の騎士は呆然と呟きました。

「検討事案、第二号の誕生か」

 ひとの前ではけして口にしてはならぬ秘密結社首席幹部として、誰もが認める才色兼備の淑女が、どこをどう見ても奇人変人としか言いようのない男にこころ寄せるというこの世の不条理と不公平を見いだして。

 <母>の御業は、我らただ人の思惑をはるかに越えるものであるらしいと、琥珀の騎士は苦悩混じりに呟くのでした。

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