第18話・そして嵐はながれを運び・6
「あら」
不思議そうな顔をした娘さんに、お茶を淹れていた金髪娘が問いかけました。
「どうしたんですか、ダウフトさま」
「なんだか、聞き覚えのある声が」
レオとヴァルターに似ていましたと首を傾げるあるじに、いくら何でもこんな時間にあいつらが出歩いているわけがありませんわと側づきの娘は笑います。
「月夜の窓辺で小夜曲を披露、なんて柄じゃありませんもの」
近しい年頃の少年たちが、どうもこどもっぽく映るのか。金髪娘の酷評に、それではお気の毒というものですよとやんわりとたしなめる声がありました。
「デュフレーヌの侯子さまも、リンゼイのヴァルター殿も、時が至ればさぞたのもしい騎士におなりでしょうに」
短く切りそろえた銀髪を優雅に揺らし、ランスの補佐官は金髪娘へと投げかけます。
はなやかな宴の間を、砂漠の怪人に扮したあるじの補佐として行き来していた麗人は、慌ただしい務めを終えたのちに、淑女がたのお招きに応じてお茶をともにすることになりました。
ふだんならばとうに寝静まっている乙女の園は、今夜だけは砦じゅうを彩る灯火や貴紳淑女のさんざめきがそのまま持ちこまれたかのよう。奥方さまのおゆるしもちゃんといただいて、娘さんたちとランスの淑女は、軽い食事やお茶を囲みながらおしゃべりに花を咲かせていたのです。
「クロエさまは、そう思いますの?」
「ええ。もちろん、ご本人がたの努力次第ですけれども」
そうつけ足した麗人に、周りに集っていた乙女たちがたちまち笑い崩れます。
「ほんとうかしら」
「あら、クロエさまのおっしゃるとおりだわ。見た目だけならレオがずば抜けていてよ」
「そうかしら、わたしはヴァルターのほうがいいと思うけれど」
はしゃぎあうかしまし娘たちに、驚いたのは金髪娘でした。寄れば喧嘩ばかりの彼らが、意外にも注目を集めていると知ったからです。
「ふたりが聞いたら、びっくりしますね」
ヴァルターはりんごみたいになりそうとのんびり笑った聖女さまに、向こう見ずは真っ赤になって怒り狂いますわねと金髪娘は返しました。誇り高き王の裔も、あるがままの彼を知る乙女たちの前には形なしであるようです。
「ずいぶんと、侯子さまに手厳しいのですね。レネさまは」
ほのかなカモミールの香りを楽しみながら、お茶の杯を傾ける補佐官に、あいつを見れば誰でもそう思いますわと金髪娘は鼻息も荒く応じます。
「猪突猛進、短慮軽率、無策無謀。あれで世継ぎの君なんて務まるのかしら」
「わたしも、ベルナールに同じことを思います。あれで市長が務まるのかしらって」
溜息をつく麗人の表情には、突飛な上司を持った部下ならではの並々ならぬ苦労がしのばれます。今朝がた、自分めがけて全力疾走してきた薔薇の生け垣をなるべく思い出さないようにしながら、娘さんはランスの麗人へと問いかけました。
「そういえば、クロエさんと市長さんは幼馴染でしたね」
「ええ」
あの子くらいの歳でしたと、はしばみ色の瞳が小さなマノンへとやさしく向けられました。お姉さんたちのはしゃきぶりが伝わったのか、当の幼子は同じく寝つけずにいる未来の戦乙女とふたりで、わがまま侯子からもらった仔羊のぬいぐるみで遊んでいます。
「初めて会ったときのことを、今でも覚えています。全身羽根だらけでわたくしのもとに現れましたから」
「……羽根」
あのめざましい衣装を、そんなころからまとっていたのかとめまいを覚えた娘さんに、意外なことばが飛びこんできました。
「わたくしは身体が弱くて、ほとんどを館で過ごしていました。遊び相手といえば、母や姉が作ってくれた人形や、父や兄が贈ってくれた仔猫や本だけ」
ないしょで庭の花を摘んだだけで、晩には熱を出すような身体です。元気よくはしゃぎ回る他の子たちを大きな窓からじっと眺めては、さみしさにそっと涙をぬぐう日が続きました。
そんな彼女の前に突然現れたのが、全身をこれでもかと羽根で飾りたてたベルナール少年だったのです。
「お母さまやお姉さまがたの羽根飾りをこっそり持ち出して、服や帽子に貼りつけたそうです」
きゃあと驚いた小さな令嬢の前で次いでくり広げられたのは、貴重な飾りを台無しにされたランス家の淑女がたが少年をとっちめるの図でした。
「おばさまやお姉さまがたの迫力満点なお顔と、ベルナールの情けない姿を見ていたら、わたしついおかしくなって」
くすくすと笑い出した小さな令嬢に、まあクロエちゃんがと驚くランス家のご婦人がたをよそに、やったと指を鳴らしたのは何と当のベルナール少年でした。
「後になって母から聞きました。あの全身羽根飾りは、わたくしを笑わせようとしてやったのですって」
家族に連れられ訪れたアルキュシア家の館を探検していたところ、大きな窓からさみしそうに外を眺める女の子がひとり。娘は身体が弱くてねと案ずるクロエ嬢のおとうさんに、まかせてと胸を叩いて請け負った結果が、鳥人も腰を抜かすよな代物だったのだとか。
「それからです。わたくしとベルナールの奇妙な縁が始まったのは」
奇っ怪な少年に、病魔が腰を抜かして退散したのでしょう。ともかくこれをきっかけに、アルキュシア家の末娘はみるみるうちに薔薇色の頬を取り戻してゆきました。翌年の春には、友達と遊び回るまでになった令嬢のそばに、これまたにぎやかな格好をした少年がいたことは言うまでもありません。
「……やっぱり、あれって市長さんの趣味なんですね」
「とにかく、人を驚かせることが大好きですの。夏の盛りに甲冑姿で現れて、暑さにあてられそのままひっくり返ったこともありました」
三年、五年、そして十年。ランス家のいたずら小僧と、アルキュシア家の令嬢との奇妙なえにしは続きます。
ランス初の試みとして、市立学院に女生徒が通うことを許されたときのことです。
女のくせに生意気なと、クロエ嬢や女生徒たちに嘲笑を浴びせたさる名家の若君を睨みつけたかと思いきや。翌朝にきらびやかな女装と高笑いで登校して学院じゅうの度肝を抜き、当の若君のもとへ昼夜を問わず出没してとうとう彼を泣かせたこと。
フォル・カルキエ家の可憐な姫君に一目で胸を射貫かれ、小夜曲を捧げんと広大な館に忍びこんだまではよかったものの。月夜にぼうと浮かび上がった、仮面の怪人を目の当たりにした姫君の悲鳴に駆けつけた人々によって袋叩きにされたこと。
とかく騒ぎを巻き起こしてばかり。ランスのベルナールによる数々の所業を、銀髪の麗人は穏やかに挙げてゆきます。
「クロエさんは、市長さんを止めなかったんですか」
「止めて聞くようなひとではありませんもの。女装騒ぎの後は、衣装を持ち出したことがばれてお姉さまがたに半死半生の目に遭わされていましたし、フォル・カルキエ家の姫君からは後日正式に断りのお返事をいただいて、三度の食事が六度になるほどの落ちこみようで」
長年のつき合いならではというべきか。何かがずれている市長のおこないを、さらりと語ってのける麗人を、素朴な娘さんは唖然と見つめるしかありません。いったいどうしたら、あの這い寄る混沌に毅然と立ち向かうことができるというのでしょうか。
「市長選に立候補したときもそうでした。対抗陣営の妨害に屈するどころか、逆に乗りと勢いのままに皆を引きずっていきましたから」
お天気ベルナールが市長とな、いよいよこの町も終わりじゃのうと、幼いころから彼を知るお年寄りたちの不安をよそに、ランスの若き長と市庁舎のゆかいな面々はよどみきっていた町の空気を一掃し、攻め寄せた魔族を市民兵と<狼>たちの尽力で退けました。
「ちょっとパンが安くなったし、少しぐらい衣装がおめでたくてもいいかねえと、下町のおかみさんたちに言われたこともあります」
「…………」
どうやら、素朴な娘さんが極彩色の男に抗するには、おかみさんたちのように清く図太くたくましくなる必要があるようでした。
こうなったらかぼちゃ大王さまのご加護をと、故郷では豊作の使いとして崇められるかぼちゃの化身にお祈りをしかけたのですけれども。そのかぼちゃがもとで、他ならぬ黒髪の騎士へ痛烈な一撃を見舞ってしまった先日のできごとを思い出しました。
オード秘伝の湿布薬を顎に貼り付け、年下の騎士や兵士たちがこわごわ様子をうかがうほどの雷鳴轟く低気圧。へぼ詩人と違えられたと知るや、めったに感情を表さぬ彼が実はかなりすねていたことを思い出し、だめ、かぼちゃ大王さまはだめよと娘さんはみずからに言い聞かせました。
それなら聖なる金の羊さまにと思ったのですが、ふつうに通りを歩いていただけなのに、うっかり者が荷車から逃した大きな羊に蹴倒されていた騎士の姿がよみがえります。
ああだめ、羊さまはもっとだめだわと首を横に振る娘さん。
慈悲深き<かあさん>の御使いたるかぼちゃさまも羊さまも、どうも彼には災厄をもたらしてばかりです。やっぱり狼さんだからいけないのかしらと、自分の厄除けよりもいつの間にか騎士の身を案じていたところへ、
「エクセター卿のことをお考えですの、ダウフト殿」
銀髪の麗人が発したひとことに、娘さんの頬にさっと鮮やかな色が散りました。
「い、いえそんなことは」
「ジェフレ卿がお話しなさっていた通りですのね」
とてもわかりやすいと仰せでしたわと微笑む麗人に、リシャールさまったら何をお話ししたのと娘さんは大いに慌てます。
「違います。かぼちゃが羊に蹴られてとかそういうことがいろいろと」
おたおたと弁明につとめたものの、意図せずして騎士の星回りを言い当てた娘さんに、乙女たちからはまたもはなやいだ笑い声が上がります。
「まあ、ダウフトさまこそりんごみたいですわ」
「オードのりんごも、たいそうみずみずしいこと」
「冷たき海を臨む地から来た、狼さんのおめがねにもかないましょう」
次々にからかわれ、今にもゆであがりそうな顔になった娘さんに、
「ほんとうに正直ですのね、ダウフト殿は」
妹を見守る姉のような表情をのぞかせた麗人が、でもうらやましいわと呟きました。
「あなたのこころねが」
「クロエさん?」
「身を砦にとどめ置かれ、聖なる剣に縛められようと、あるがままにあろうとするあなたが。だからあのかたも」
言いかけて、はしばみ色の瞳を伏せたランスの補佐官に、ほてった頬を懸命に静めていた娘さんは目を丸くしました。ひみつのしかけが満載な部屋で、かぼちゃ談義に花を咲かせた的場で、同じまなざしを見せた麗人を思い出したからです。
かわいいかぼちゃを手に、オード女のたしなみを懸命に習得せんとしていたアルキュシアのクロエ殿の表情。
それは、娘さんへ牙剥く魔物と対峙したときの黒髪の騎士と、どこか似通ってはいなかったでしょうか――
「きゃあ」
「な、なにかしら」
突如巻き起こった一陣の風に、すべての灯りが吹き消されました。部屋を覆いつくす暗闇に驚いた乙女たちがおろおろとするなか、
「待ってください、いま<ヒルデブランド>を」
皆を落ち着かせようと、聖なる剣を灯り代わりに鞘ばしらせた娘さんの前に、信じがたいものが立ちはだかっていました。
ぼやんと浮かぶ、これまた派手な仮面がひとつ。砦に招かれた旅の一座が披露した楽しいお芝居で、たしか間抜けな恋敵役がこんな仮面をつけていたものでした。
でも、なんで恋敵役のひとがこんなところに。
あまりのことに、感覚が麻痺してしまったのでしょう。どこか遠いできごとのように、きらきら仮面を見つめていた娘さんに、聞き覚えのある声が届きました。
「嫉妬と偽りの罠をくぐりぬけ、ようやく薔薇たる貴女の許へとたどりつくことがかないました。聖なる乙女よ」
これも愛とよろこびのなせるわざと、リュートをつまびきながら歌いあげた男に、そういえばさっき似たようなはなしを聞いたばかりでと、じわじわとこみあげてきた何かの正体を娘さんは遅まきながら悟りました。
「ベルナール、あなたいつの間にッ」
心底たまげた麗人に、何羽もの孔雀を落涙させたであろう衣装をきらめかせ、きらきら仮面もといランスの市長は愛に不可能はないのだよと余裕の笑いを浮かべました。
「これも天なる<母>が、偽りなき我がおもいに祝福を賜ったあかし」
すっかり陶酔しきった調子で続けると、へぼ詩人は長いマントをばさりと翻し――なんと、聖女さまを腕に抱えてしまったではありませんか!
「さあダウフト殿、今宵こそは貴女とふたりめくるめく愛のしらべを」
これが別の時、別の場所、別のひとに囁かれたならば、たぶんそれなりにうっとりもしたことでしょうけれども。
茫然自失にぴしりと罅がはいり、ぱらぱらと崩れゆき――みずからの置かれた状況を嫌というほど理解した娘さんは、ついに救いを求める叫びを放ちました。
「いやああああああああぁかぼちゃさまたすけてええええぇ」
のちのちまで語り草となった、耳にした者を脱力せしめる乙女の悲鳴。
手足をばたつかせる娘さんを軽々と抱えあげると、世にも恥ずかしい孔雀男は、己が補佐官が鋭く繰り出したかぼちゃの一撃を素早くかわし、そのまま勢いよく窓から外へと飛び出していってしまいました。
「きゃあ、ダウフトさまがっ」
「誰か来てーッ」
騒然とする乙女たちのなか、真っ先に冷静さを取り戻した金髪娘とランスの補佐官はそろって窓辺へ駆け寄ります。
「な、なんてひとなの」
窓から身を乗り出し、奥方さまが念入りにしかけた罠の数々が――爆炎式呪文すらまったく反応しなかったことに金髪娘は愕然とします。
「この間忍びこんできた男は、ぼろきれみたいになっていたのに」
「あいにくですが、ベルナールに常識は通用しません」
野生の勘で、厳重な罠をくぐり抜けるすべを見いだしたのだわと呟く麗人に、砦の常識外れな人々を見慣れているはずの金髪娘も思わずそんなと叫びます。
「ほんとうに人なの、あのかたは」
「まごうかたなき人間です、レネさま」
ですがここまで常人離れしていようとはと、幼馴染に出し抜かれた悔しさを銀髪の麗人は横顔へにじませます。その間にも宵闇のかなたからは、あれーかぼちゃさまーという聖女さまの叫びが聞こえてきます。
「大丈夫かっ」
扉が勢いよく開かれるなり、騒ぎを聞きつけた人々が灯りを手に婦人部屋へとなだれこんできました。
「まあ、これはいったい何としたこと」
「ブリューナクが馬房を蹴破ったと思ったら、今度はあんたたちかい」
室内の散々たるありさまに唖然とする古参の淑女と、いずこともなく姿を消した黒鹿毛の気まぐれをぼやく厩舎のおかみさんの傍らでは、遅きに失した警告を携えてきた少年兵が真っ青になってへたりこんでいます。
「アルキュシア補佐官」
周囲に集った部下たちへ、ただちに追手をとランスの補佐官は毅然と命じました。
「ダウフト殿は無傷で保護なさい。騒ぎが広がらぬよう――」
言いかけてあたりの騒ぎを見やり、これではもう抑えるのは無理ねとランスの補佐官は溜息をつきました。
「<狼>の皆さまがたが動き出すのも時間の問題でしょう。わたくしたちも協力を」
「市長はいかがなさいますか、アルキュシア補佐官」
「生け捕りにしてわたくしのもとへ」
鉄拳制裁はその後ですと告げた銀髪の麗人には、会談の散々たる結果がすでに見えているようでした。
なんだか、騒動に巻きこまれたときのギルバートさまみたいだわと思った金髪娘の耳に、いやーひつじさまーと動揺のまっただなかにある聖女さまの悲鳴が飛びこんできます。
「ちがうよダウフト姉ちゃん。こういうときはギルバートさまだよ」
「マノンはかぼちゃさんがいい」
右往左往するおとなたちを見つめながら、ふたりの幼子が放ったことばに、勝ち気な金髪娘は言いようのないやるせなさを覚えます。
「……ダウフトさま」
騎士団長と奥方に伝令、エクセター卿をお呼びしろと、事態の収拾に奔走し始めた人々のただなかで、こんな時なのにちっとも名前を呼んでもらえない誰かさんはどうなるのよと、金髪娘はひそかに<かあさん>の慈悲を希わずにはいられませんでした。
◆ ◆ ◆
金髪娘が案じたとおりでした。
婦人部屋からやや南、中庭を臨む回廊で、いたずら小僧たちの捜索に当たっていた四人の騎士が、よりによってかぼちゃに救いを求めた乙女の悲鳴を聞いていたのです。
「ギルバート」
一行のなかで真っ先に立ち直った琥珀の騎士が、数歩先で石畳にくずれおれている黒髪の騎士を呼ばわりました。
「坊やたちをとっちめるより、さらわれた姫君を救いに馳せ参じるほうが先だな」
「だめだリシャール、こいつ聞いちゃいないぜ」
いくら気が動転しているからってかぼちゃじゃなと、砦いちのお調子者は気の毒そうに首を横に振ります。
「えい、何をためらっておるエクセター」
おぬしが行かずして何とすると、漢気あふれる言葉を発したのは<熊>どのでした。
「かような間にも、乙女が口にするもおぞましき目に遇わされておるやもしれぬというのに」
<熊>どののことばを証だてるかのように、遠くからはかあさーんという乙女の叫びが聞こえてきます。
「お、かぼちゃから人間になったぞ」
「おぬしは黙っておれ、サイモン」
傷に塩を塗りこむでないと睨んだ<熊>どのの言葉に、おばあちゃーんという叫びがかぶります。
「迷っている場合か、かぼちゃの騎士」
さっさと姫君を取り返してこいと琥珀殿が発した一言に、それまで微動だにしなかった若き狼が振り返りました。
「誰がかぼちゃだ」
昏い炎を宿す双の漆黒に、おぬし以外の誰がいると琥珀の騎士はけろりと答えます。
「聞こえるだろう、かぼちゃさま羊さまと救いを求める乙女の声が。あれはエイリイの子らでただひとり、偉大なる王の御前で羊に蹴倒されたアルヴィンの血を受け継ぎ、あまつさえ<かぼちゃの接吻>をも食らったおぬしのことに他ならん」
「そりゃこじつけだろ」
お調子者の突っこみにもおかまいなく、さあ行けと幼馴染を煽る琥珀の騎士の表情がとても楽しげに見えるのは、けして気のせいではあるまいと<熊>どのは確信します。
「……いつもいつも、あの小娘は」
なぜ俺だと、仔羊に振り回される灰色狼のごとき己が星回りを、故郷に伝わる古語で罵りかけた騎士の頭上に影が落ちました。
振り仰いだ漆黒の双眸に映ったものは、いかなる手妻か。
自慢の衣装を月明かりにきらめかせ、楽しげに夜空を飛翔する怪鳥もといランスの市長と、
「かぼちゃさ――ギルバートっ」
騎士の姿を見とめるなり、届くはずもない手を懸命に伸ばそうとした娘さんの、めまいを覚えるほどに情けないべそかき顔でした。それもすぐさま派手なマントに隠れてしまい、後には地獄の釜が愛を囁くかのような歌声と、呪文はやめてーという娘さんの懇願だけが残されます。
そのまま中空を見上げていた黒髪の騎士のもとに、はらりと舞い落ちてきたものがありました。咄嗟に手に取れば、それが繊細なアイルのレースで編んだリボン、めずらしくも彼が娘さんに贈ったものであることが分かりました。
ほっそりとした首元を飾る雪白を見つめ喜びに頬を染めていた娘さんへ、気の利いたことばひとつかけることができなかったのは相変わらずでしたけれども。
それが彼女の身を離れ、託されたかのように自分のもとへ落ちてきたこの事実。
「……ダウフト」
もはや退くに退けぬことを、
「だったら」
たいそう低い声で呟き、娘さんのリボンを握りしめ、
「最初から俺を呼べッ」
ぽろりと本音をほとばしらせると、黒髪の騎士は孔雀男と娘さんが消えていった方角へと駆けだしました。
「行け、かぼちゃ」
「かぼちゃの意地にかけて、市長に頭突きを食らわせてこい」
「万事うまくいったあかつきには、めでたき日の祝いとして我がリキテンスタイン特産のかぼちゃを進ぜようぞ」
「かぼちゃかぼちゃと連呼するなッ」
愛すべき友たちの声援に応えつつ、いまやかぼちゃの騎士という新たな名を冠せられた若い狼は、猛然と回廊のかなたへ駆け去ってゆきました。
「焚きつけ成功」
満足げにうなずいた琥珀の騎士に、できれば俺は見たくなかったぜとお調子者はうんざりした面持ちで応じました。
「堅物とへぼ詩人の泥仕合なんて、笑い話だけで十分だったのに」
「南の獅子と牙剥きあうよりははるかにましだろう、サイモン」
それもいつ均衡が崩れるかと呟いた琥珀の騎士に、小僧どもはどうすると<熊>どのは問いかけました。
「エクセターの私室から、勝手にものを持ち出したとかで捜していたであろう」
「まあ、放っておいてもそのうち腹が減れば出てくるさ」
おしおきに、そろってレネ殿の使い走りはどうだと提案してきた琥珀の騎士に、砦いちのお調子者は鬼だと呟きます。騎士であろうと見習いであろうと、立っている者は即働き手と見なす金髪娘の人使いの荒さを知っていたからです。
「まあ、まずはかぼちゃ君の凱旋を待とうじゃないか」
羊でも現われない限り、あやつがしくじるとも思えんしと笑った琥珀の騎士に<熊>殿は渋い顔をします。
「高みの見物か、リシャール」
「よく分かっているじゃないか、ウルリック」
だがその前に、我らが母君へことの次第をご報告申しあげねばと、琥珀の騎士はふたりの友へ、奥方さまの御前へともに参じるようにと促すのでした。
さて、かくも騒々しさのうちに幕を開けたこの一夜。
暗闇や物陰に身を潜めていた魔物を、次々と失神させんばかりの歌声を轟かせる怪鳥にとらえられた哀れな仔羊の運命やいかに?
かわいいもの好きという噂は本当だったのかと、居合わせた兵士たちに誤解と恐慌を巻き起こしつつ、レースのリボンを握りしめ回廊を突き進む若き狼の明日はどっちに?
そうして。
「ここはどこだ、ヴァルター」
「俺に聞くな、猪」
「ぶ、無礼な。とねりこの侯子を猪呼ばわりだと」
「ああ猪だとも、短慮軽率が服着て歩くよなこの考えなしが」
「やかましい、があがあ文句ばっかり垂れる腰抜け鵞鳥がッ」
うっかり発動させたいにしえの魔法にひっかかり、いずことも知れぬ場所へ飛ばされたにもかかわらず。相も変わらず口喧嘩を繰り広げるやんちゃ坊主たちは、無事に朝餉へありつくことができるのか?
なべては、中空に浮かぶ気まぐれな月のみが知るばかりです。
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