第18話・そして嵐はながれを運び・4


 やさしい雨がしとしとと降り注ぐ、昼下がりのこと。


「雨だよ、クロエ」

 臨時の市庁舎と化した砦の一室で、ペンを弄びながら物憂げに呟いた若き市長に、夕刻には止むようですわとうるわしき補佐官は冷静に応じました。

「ですから、執務には何ら支障もございません」

「ああ、いっそ女神の涙が胸に積もるこの悲しみをも洗い流してくれるとよいのに」

 天を仰いだへぼ詩人の嘆きを耳にするなり、彼のもとを訪れた若者が立ちくらみを起こしかけましたが、かろうじて踏みどまりました。

「カミーユ君、そちらは市長の机へ」

「は、はい」

 銀髪の麗人に促され、まだ務めて日の浅い補佐官が、抱えていた書類の束を机にどさどさと積み上げてゆくさまに、若き市長は悲鳴を上げました。

「こ、このわたしに書類の海で溺れろというのかい、クロエ」

「溺れてください」

 きっぱりと、銀髪の補佐官は答えました。

「いまだ家を建てなおすめどすら立っておらぬ市民が、会談の結果を一日千秋の思いで待ちわびているのですよ。それを思えば、あなたが書類に溺れようと埋もれようと些末なことにすぎません」

 市長とはすなわちランスが礎、己が血肉はもとより灰まで捧げる覚悟で臨むのですと言い切った補佐官に、周囲からは割れんばかりの拍手と喝采が上がりました。先ほど立ちくらみを起こしかけた新米補佐官などは、まなざしに熱い憧れをこめてアルキュシア家が誇る才媛を見つめています。そこへ、だからといってこんな仕打ちがあるかという哀れっぽい訴えがかぶりました。

「さっきから君が握りしめている縄は、わたしの腰に幾重にも結わえつけられているんだが」

「今朝がた、エクセター卿から厳重な抗議がまいりました。薔薇の生け垣が小間物屋から全力疾走してきたような格好で、ダウフト殿の前に現れるなと」

 『薔薇とレースとわたし』と題した衣装をまとった市長が、軽やかな足取りで朝の挨拶へやってきたのを見るなり、ひきつった笑顔のまま失神してしまった聖女さまの受けた衝撃たるや察するに余りあるでしょう。

 すぐさま薔薇の怪人を捕獲してランス側へと引き渡し、目を回している娘さんは懸命に介抱をしている乙女たちに任せて場を離れようとしたものの。騒ぎを聞きつけやってきた奥方さまの命により、黒髪の騎士は娘さんを婦人部屋まで抱えてゆくはめになったのです。

「お気の毒に、おばさまや淑女の皆さまがたにさんざんからかわれておいででしたわ。いっそこのまま、エクセターまでさらっていってはいかがと」

 その際、わたくしにあなたの処遇をお願いをされていったのですと、銀髪の補佐官はことばを続けました。

「そもそも、あの方がいわれなき<かぼちゃの接吻>を食らったのは、わたくしの勘違いが原因ですし」

 せめてこれぐらいはしないと申し訳が立ちませんと、覚えたてのかぼちゃ三連撃で逃亡中の上司をみごとに仕留めた補佐官は、恥ずかしそうに縄の端を握りしめました。

「あ、あの田舎騎士め。シエナ・カリーンから招いた仕立屋の手仕事を生け垣呼ばわりとは」

「たしかに仕立屋の腕は非の打ち所がありませんが、衣装の考案者があなただという点が大いに問題です」

 少なくとも衣装に関しては、エクセター卿はいたってふつうの感性をお持ちですわと麗人は答えました。

「では我が愛を捧げしオードの乙女は、婦人部屋で悪夢にうなされておいでなのか」

 なんたる悲劇かと、己がことの元凶だとまるで分かっていない市長は大いに嘆いてみせました。

「かなうものならば枕元に馳せ参じ、あのかたが心安らげるよう愛の賛歌を奏でてさしあげたいというのに」

「生命と引き換えになさるおつもりでしたら、止めはいたしませんよ」

 主塔ドンジョンから逆さ吊りにされても本望とおっしゃるならばと、銀髪の麗人は告げました。

「東部防衛の拠点たることを鑑みれば、当然ながら砦には殿方が多うございます。ご婦人といえば騎士さまがたの奥方に娘御、侍女に小間使いに厨房や洗濯場の下働き、厩舎や鍛冶衆のおかみさんくらいでしょう」

 砦において最も難攻不落を誇る一画――婦人部屋とその周辺は、奥方さまや年長のご婦人がたの許しがなければ容易に立ち入ることまかりならぬ場でした。

「無用の騒乱を避け、ご婦人がたの身辺をお守りするために、かの一画には建造当初より数々のしかけが施されております。おばさまがこちらにいらしてから、さらなる改良を施したとか」

 いつぞや婦人部屋への侵入がばれて捕まった、我が市の小間物売りがたどった末路をお聞きになりますかと問うた補佐官でしたが、

「敢然と苦難に立ち向かってこそ、乙女に愛と忠誠を捧げし騎士というものだろう」

 どうやら進んで破滅の道をたどりたいらしい男は、氷青のまなざしを熱くきらめかせて断言しました。

「妨げるものが多いほど、胸に灯した愛の炎もいっそう燃え上がろうというもの。たかが罠ごとき怖れることなど」

「塁壁はもとより、太い杭を打ちこんだ狼穽ろうせい鹿砦ろくさいがございます。草花や樹木で偽装されているため発見は困難をきわめるとか」

「…………」

「落とし罠に踏み抜き罠、巻きびしに捕獲網にしかけ矢にしかけ槍に大岩に爆炎式呪文。まあ、おばさまったら古今東西のありとあらゆる罠をつけ足して」

 これでは逢い引きも生命がけだわと感嘆する補佐官へ、もとより承知の上とランスの市長は己を鼓舞するかのように息巻きました。

「万が一にもわたしが斃れたら、墓碑銘は『愛に生き、愛に死す』としてくれたまえ。クロエ」

「それは結構ですが、斃れる前にまず決済をすべて終わらせてください。ベルナール」

 当分そのような暇もなさそうですがと、冷徹なる銀髪の補佐官に世知辛い現実へと引き戻されたランスの市長は、彼女との会話のあいだにも着々と築き上げられていた書類の壁に大いなる嘆きの声を上げました。

「さっさと働いてくださいよ、市長。本市からは矢の催促で」

「聖女さまをおどかして遊んでばかりいるから、こういう風にばちが当たるんです」

「さぼったら、きょうと明日のおやつは抜きですからね」

 厳しい表情を並べる補佐官たちに取り囲まれ、嗚呼所詮わたしは冷酷と無情の囚われ人と、滂沱の涙を流しながらペンを手に取った己が上司をはしばみ色の瞳でちらりと見やり、

「エクセター卿とおばさまには、とりあえず警告を発しておいたほうがよいかしら」

 何とはなしにいやな予感を覚えた、銀髪の麗人が発した呟きは、幸いにも誰にも聞こえることはありませんでした。



               ◆ ◆ ◆



 さて、ランスの市長が泣きながら執務に取り組みはじめるよりも少し前のことです。

「外が騒がしいぞ、爺」

 豪奢な一室にしつらえられた寝台の上に身を起こし、差し出された盆から薬湯を受け取ったわがまま侯子が顔をしかめました。

「なんの騒ぎだ」

「おそらくは、ランスのベルナール殿にございましょう。若さまがご不例のあいだ、かの御仁が賓客として砦にまいられましてな」

「ランスの成金が?」

 そう少年が応じたのには、いささかわけがありました。

 諦念と倦怠と破滅の危機を吹き飛ばし、めざましい復興を遂げつつあるかの市についてそれなりに評価はしていました。けれども一方で、ほとばしる情熱と豪華絢爛とが奇妙に混ざりあい、一気に吹き出したかのようなランスの人々の感性が、いにしえの宮廷の栄華を今に伝えるデュフレーヌの瀟洒と洗練を見なれた己とは、どうも相容れぬと痛感することが多かったからです。

 一度など、砦を訪れたランスのさる貴婦人が、金と大粒の宝石をふんだんに使った装身具で飾り立てているさまに、黄金の猪だとうっかり口を滑らせかけて周囲の者に沈黙を強いられたほどです。

「都市の復興に要する木材の確保、ふもとの町における商業権の規制緩和について、砦や町の皆さまがたや自由開拓民の長たちと会談を予定しておられる由にございます」

「ふん、おおかたディジョン公の差し金だろう」

 ランスとディジョン、長きにわたる両市の確執を口にのぼせると、わがまま侯子は薬湯を口に含みました。苦い薬は人参の次に大嫌いですが、ちゃんと飲むと聖女さまと約束をした以上守らぬわけにはいきません。

「ダウフトはどうした」

 熱が引いたら、オレンジのゼリーを作ってくれる約束だったぞと主張するあるじに、爺やは溜息をもって応じました。

「ベルナール殿が砦へ来訪なさった、三つ目にして私的な目的こそがダウフトさまにございます」

 市長がしたためた詩の一編を耳にして撃沈したわがまま侯子が、高熱でうなっている間に娘さんを見舞った奇禍を爺やは滔々と語ってみせました。回廊で、来客用の豪華な部屋で、もののふたちが闊歩するはずの的場で。救いを求める乙女の声が響かぬ日はなかったと、爺やはそっと目頭を押さえます。

「おいたわしゅうございます。可憐な野の小鳥が、極彩色の蛇に狙われるがごときありさまで」

「ダウフト会いたさに、なけなしの理性をすっ飛ばして押しかけてきたのか」

 自分のことは思いきり棚に上げて、わがまま侯子はランスの御仁を容赦なくこきおろしたのですが、

「エクセター卿は何をしている」

 仮にも聖女の側づきだろうとぼやいたわがまま侯子に、忠実なる爺やはたちまち苦悩の表情を見せました。

「どうした、爺」

 幼くして両親を喪ってよりのち、時に厳しく、時にやさしく自分を導いてくれた爺やがこんな顔をしたことはありません。不思議そうに問うた若君に、爺やはあえて直答を避けようとします。

「洗濯場のおなご衆が語る、下らぬ噂話にございます。若さまのお耳に入れるようなことでは」

「よい。話せ」

 しもじもの言葉を軽んじてはならぬと、教え諭してくれたのは爺やです。

 現にふもとの町を歩いていると、いくさの帰趨から今晩のおかずまで、道ゆく人々が交わすさまざまなはなしを聞くことができました。何事も耳に留めておくのが、とねりこの世継ぎたる者の務めと自負していたのですが、

「エクセター卿が、ダウフトさまに<かぼちゃの接吻>を食ろうたと」

 爺やが放ったひとことに、わがまま侯子は思わず薬湯を吹き出しました。

「……かぼちゃ?」

「さようにございます。オードの女たちのあいだで代々伝えられてきた、かの」

 広大なデュフレーヌの隅っこに、ちょこんとくっついているお隣さんこそ南東のオード、娘さんの生まれ故郷です。そんなわけですから、壮麗なとねりこ館にも<かぼちゃの接吻>に涙した男たちの言い伝えが呆れるほどに多く伝えられておりました。

 伊達男を自負する騎士が、かわいい村娘を誘惑しようとしたものの。返事は口づけの代わりに痛烈な一撃という喜劇が宴の余興として演じられるたびに、おすまし顔の貴紳淑女さえもが腹を抱えて笑い転げていたものでしたが、

「爺には信じられませぬ。若さまへつねづね篤い薫陶を賜っておられますかの御仁が、けがれなき乙女に対して不埒なふるまいに及ぶなどとはとうてい」

 かの騎士の人となりと、災厄の寵愛を受けているとしか言いようのない星回りを考えれば、そんな大それたまねができるはずもないとすぐに分かりそうなものでしたが、

「それに先日、エクセター卿のお部屋へ届け物に伺ったとき、爺は見てしまったのでございます」

 何と申し上げてよいのかと、忠実なる爺やははらはらと涙を流します。

「卿とてりっぱな殿方、いとしく思われる乙女御もおられましょう。ですが、あのようなものをひそかに隠し持たれるほどに思い詰めておいでだったとは」

「いいから本題に移れ、爺」

 若君の突っこみに、いやはや歳を取ると繰り言が多うなりましてなと爺やは涙をぬぐいました。

「エクセター卿が何を持っていたって?」

「隠し通路の図面にございます」

 それも婦人部屋へと至る道をとつけ足した爺やに、わがまま侯子の顎が落ちました。<狼>たちの詰所で、いけないお兄さんたちから聞かされた眉唾ものの言い伝えが、まごうかたなき真実であったことを思い知らされたからです。

 思い人逢いたさに先達たちが築きあげた血と汗と涙の結晶、すなわち婦人部屋へと続く隠し通路が、砦のいずこかに存在するという噂はわがまま侯子も耳にしていました。どちらかといえば通路よりも、二百年ほど前にそこへ入ったきり戻ってこなかった、間抜けな騎士の言い伝えのほうが知れ渡っていたというべきでしょう。

 どうしてそんなところに入ったのと、未来の戦乙女などは素直な疑問を発したのですが。

 そやつはたいそうな隠れんぼ好きでと答えかけた琥珀の騎士を遮ると、真っ赤になったわがまま侯子は幼子の手を引いて、あっちでおやつを食べようかとごまかしつつ詰所から退散しました。よい子のみんなにはちょっぴり早いはなしを、とうの昔によい子ではなくなった<狼>たちは、興味半分呆れ半分といった面持ちで聞き流していたものです。

 なにぶん、この砦のこと。仮に件の通路を探し当てたとて、言い伝えの男のごとくただで済まされるはずがないことを、若い騎士や兵士たちは重々承知していたからです。

 勇気と無謀をはき違えて血祭りに上げられるぐらいなら、かわいい彼女とこっそり逢い引きの約束をしたほうがましというもの。そんなわけで砦には、誰ひとり本気で隠し通路を探そうとする者などいなかったのです。

 それだというのに、ついに禁忌を犯さんとする不逞の輩が現れようとしています。いたいけな仔羊に、舌なめずりしつつ近づいていく灰色狼をこれでもかと思い描いてしまったのが、わがまま侯子の運のつきでした。

「……あの、かぼちゃ頭め」

 ついに本性を現したかと、地の底から響くような声で呟いて。すっかり頭に血がのぼったわがまま侯子は、羽根布団を押しのけて寝台から起き上がりました。

「着替えを用意しろ、爺」

 寝ている場合じゃないと、わがまま侯子は高らかに宣言しました。

「いずこへおいでになるのでごさいますか、若さま」

「妨害工作だッ」

 いくさが終わったあかつきには、聖女さまには豊かなデュフレーヌで穏やかに暮らしてもらおうとわがまま侯子は望んでいました。デュフレーヌとオードならば人々の気風やならわしも似ていますし、何より天涯孤独の身となった娘さんにとって、それがいちばんよかろうと彼なりに考えたからです。

 娘さんさえうなずいてくれるならば、とねりこ館に伺候する選りすぐりの騎士たちの中から、彼女を心から大切にしてくれる者をお婿さんに迎えてもらうこともできます。そのお相手が、おじいさまやおばあさまの覚えめでたき者ならば言うことなしです。それにもし、娘さんがとねりこ館の近くに住んでくれるならば毎日だって遊びに行けるはずです。

 ところがいざ蓋を開けてみれば、人も魔物もおかまいなしに動揺と恐慌を撒き散らすランスの市長と、武骨と無愛想と不器用の三拍子揃い踏みなエクセターの騎士とが、乙女の安寧をおびやかしているときたものです。

 このままでは、どっちもどっちとしか評しようのない男たちのいずれかが、あれー助けてーと嘆くオードの娘さんを高笑いとともに連れ去ってしまいかねません。


 冗談じゃない。


 わがまま侯子からすれば、頭が痛くなるような成金趣味丸出しのランスなどに娘さんを行かせるわけにはいきません。ましてやデュフレーヌからはあまりにも遠い、林檎と羊と冷たい海しかないエクセターなど論外です。おまけにかの騎士の一族ときたら、周囲の者によって牧場の囲いから引きずり出されるほどに羊との相性は最悪だというではありませんか!

 そんな恥ずかしい男どもに、アーケヴただひとりの聖女をゆだねたとあっては侯家の名折れです。黄金のとねりこにかけて、少年の持てる力をすべて捧げてでも断固阻止せねばなりません。

「ヴァルターを呼べ、爺」

 ましろき亜麻のシャツに袖を通しながら命じた若君へ、上品な緋色の上着を差し出しながら爺やは問いかけました。

「よもや、ヴァルターさまにご迷惑をおかけするようなことを企んでおいでではありますまいな。若さま」

 たちまち表情を厳しくする爺やに、隠し通路の図面を書き写してもらうだけだとわがまま侯子は応じました。

「エクセター卿の部屋から図面なんか持ち出したら、すぐにばれるだろう。その点、ヴァルターは絵や図面に長けているからうってつけだ」

「ヴァルターさまが、たやすく協力してくださるとは思えませぬが」

「するぞ、あいつなら」

 おまえのひみつを知っていると言えば、自分から恥ずかしいできごとをずらずらと並べ立てたあげくに慌てる奴だからと言い切った若君に、爺やはふかぶかと溜息をつきました。

「ご友人に対するさような仕打ちを、泉下のお父上とお母上が知ったら何とお嘆きになりますことか」

「乙女の名誉を守るためだと思え、爺」

 日頃のうっぷんも晴らせて一石二鳥だと、思いきり本音ものぞかせつつ身なりを完璧に整えて。

 どう考えても、事態をさらにややこしくするとしか思えないわがまま侯子は、かたい決意とともに部屋の扉を開け放ったのでした。



                ◆ ◆ ◆



 さて、周囲でそんな騒ぎが起こりつつあるとはつゆ知らず。

「お目覚めになりましたのね、ダウフトさま」

 よかったと心から喜ぶ砦の乙女たちに囲まれて、いったい何があったんでしょうと娘さんは寝台から上体を起こして問いかけました。

「わたしに向かって走ってきた、レースとリボンをいっぱい巻きつけた薔薇の生け垣に市長さんの顔がくっついていたような気がしたんですが」

 あとはさっぱり覚えていなくてと溜息をついた娘さんに、小間物屋の庭先から逃げ出したそうですわと金髪娘は明るくごまかしました。

「世の中にはそういうことだってありえますもの。ねえ、マリー」

「え、ええ。う、噂では長老さまがたの妙な研究だとか」

 ですがそんなものより、わたくしはエクセター卿にうっとりしてしまいましたわと、裕福な商家の末娘は夢見るように両手を組みあわせました。

「くるくると目を回しておられるダウフトさまを、かたく腕に抱えて部屋まで運んでまいられましたの。何人にも任せてなるものかと決意に満ちあふれておいででしたわ」

 乙女ならではの補正が強烈にかかった赤髪娘のことばに、寝台を囲んでいた娘さんたちからも声が上がりました。

「ダウフトさまへ襲いかからんとした、ベルナールさまを撃退したときのお手並みも鮮やかでしたわ」

「長く引きずっていたお衣装の裾を、すかさず踏みつけて思いきり転ばせて」

「奥方さまの言いつけで、エクセター卿がダウフトさまを抱きあげられたとき、わたくしまるで自分のことのようにどきどきしてしまいましたの。いっそあのまま、エクセターまでさらっていっておしまいになればよろしかったのに」

「まあ、ブランシュったら意外と大胆ねえ」

「この間、ウィリアムさんから借りたご本に登場した姫君のおはなしでしょう」

「わ、わたくし、別にそんな意味では」

 たちまち顔を真っ赤にする者、はなやいだ笑い声を響かせる者。そんな娘さんたちへ、静かになさいと声をかけたのは奥方づきの侍女でした。

「ダウフトさまには、しばしの休息が必要なのですよ。皆で騒いで何としますか」

 そう諭されて、はあいとしかたなさそうに応じた娘さんたちは、それぞれに聖女さまへいたわりの言葉をかけて持ち場へと戻っていきました。

「さあダウフトさま、あたたかいうちにどうぞ」

 気分が落ち着きますよと、金髪娘が差し出してくれたレモンの果汁と蜂蜜をお湯で割った飲み物を、娘さんはお礼を言って受け取りました。

「おいしい」

 迫り来る薔薇の生け垣に受けた衝撃と恐怖も、あたたかな金色にほろほろととろけて消えていくかのよう。ほっと表情をなごませた娘さんに、よろしければもう一杯お作りしましょうかと笑った金髪娘でしたが、

「あら、羊が」

 どうしてこんなところにと首を傾げる金髪娘につられて、窓の外を見てみれば。色とりどりの花や緑に彩られた中庭を、めえと鳴きながら横切っていく黒い仔羊の姿に、娘さんはなんとはなしに背筋が寒くなるのを覚えました。

「いかがなさいましたの、ダウフトさま」

 風に当たりすぎてはなりませんわとたしなめてきた金髪娘に、いえ心配はいりませんと答えたのですが、

「ただ、あの子を見ていたらなんとなく胸騒ぎが」

「まあ、何かの前触れでしょうか」

 どこぞの向こう見ずが心を入れかえてまじめに文武に励むとか、いいえそんなことは天地がひっくり返ってもありえませんわねと笑った金髪娘に、あら近頃のレオはひと味違いますよと応じつつも。

 胸の裡に生じたざわつきは、その晩まで娘さんから消えることはありませんでした。


 ふたたび砦に立ちこめんとするランスの暗雲、なぜか激しく勘違いをしているデュフレーヌの雷撃。

 嗚呼、迫り来る暑苦しい危機をまるで知らぬいたいけな乙女の運命やいかに?|

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