第18話・そして嵐はながれを運び・2
「来たか」
盾型に三つ星と黄金の鍵を配した、商業都市ランスの紋章を記した書簡を見やりつつ、砦の鬼が短く呟きました。
「ランスのベルナール、歩く諧謔と喧騒が何用だ」
「北東の街道に出現した<けもの>掃討の礼をと」
執務机へと無造作に放られた、ランス市評議会からの公式文書を手に取り、<狼>たちの長はまあそればかりではなかろうがとのんびりと答えました。
「ネヴィルの報告では、羊毛の輸出権をめぐるディジョンとの対立が本格化してきおったらしい。先だっては、町の再建に必要な木材の輸送を止められたそうだ」
「ランスの長みずから、東に救いを求めてきたと?」
「木材の確保と、ランス特産の毛織物を売り込みにといったところか」
こればかりは我らごとき武辺の一存では決められまいと、白髯の騎士団長は今にも雪崩を起こしそうな書類の山に囲まれたまま、大きく伸びをしました。
「商工組合の親方衆に貴族に聖職者、自由開拓民の長たちとも会談をせねばならんじゃろう。町の商いは守らねばならんし、あまり調子に乗って木を切り倒しては、樹海の王シルヴィアにおしおきを食らいかねんからの」
森に入るなり尻を噛まれるなぞごめんこうむるぞとぼやく砦の長に、おぬしなら妥当な罰だろうと副団長は返しました。その昔、森へ逃げこんだ哀れな恋人たちを燻り出さんと火を放ったがために、ましろき女王の怒りを買い城もろとも深き緑に飲みこまれた無情なる殿のはなしなど、陽気な砦の能天気な長にはまるで無縁なものでした。
「ただ、みっつめがいささか厄介での」
ぼそりと呟いた騎士団長に、峻厳なる砦の鬼も苦虫を噛みつぶしたような顔になりました。
「オードのダウフトか」
娘さんが<ヒルデブランド>の寄り代として、砦で暮らすようになって間もなくのことです。
魔族の侵攻を受けたランス市からの救援要請に、宮廷の重鎮たちが実りなき議論で無駄な時を費やすのをよそに、あっさりと<狼>たちへ出撃命令を下したのが何を隠そう砦の長でした。
敵の包囲をくぐり抜け、市内への入城を果たした騎士たちを拍手喝采で出迎えたランスの人々でしたが。<狼>たちのあいだを従者の姿でゆく娘さんの姿にたいそう驚くことになりました。
東部防衛の要たる砦、その危急存亡を救った聖剣のあるじが騎士でも魔法使いでもない、どこにでもいるような村娘という信じがたい事実に、ランスの人々は侮蔑の色を隠そうともしませんでした。
けれども、魔族の将みずから先陣を切った最大の侵攻を、<狼>や市民兵による獅子奮迅の戦いで切り抜けたその晩には、東の砦とランス市は魔族に対してともに戦うことを公言した間柄となっておりました。
所詮は虫けらどもの集まりぞと嘲った魔族の将を、娘さんが<ヒルデブランド>の一撃で討ち果たしたあとはなおのこと。アーケヴのゆくすえを憂いし<母>が遣わしたもうた奇跡と、聖女さまを熱く讃えた若き市長の強い意向によって、ふたつの町の間には頻繁に使者が行き交うようになったのです。
その市長こそがランスのベルナール、私服肥やしに明け暮れた前市長を退けた人々から圧倒的支持を得て選出された期待の星――だったのですが。
「あれさえなければ、いくぶんましな若造に見えるのだが」
砦の長をも嘆息せしめる、かの御仁の困った趣味。それこそが、ランスの市長が娘さんへの崇拝ぶりをこれでもかとうたいあげた詩の数々でした。
その破壊力たるや言わずもがな。
我があるじより聖なる乙女へとことづかってまいりましたと、かぼそい声で使者が読み上げる愛のしらべを、側づきの騎士に逃亡を阻まれた娘さんがこれまた卒倒しそうな表情で聞きつづけ――やがて双方ともにぱたりと倒れ伏すさまは、真綿や練り粉を耳に詰めて式典に臨んだ砦の首脳陣をも肝胆寒からしめる光景でした。おまけについ先ほど、回廊に侵入し乙女を襲撃せんとした虹色の不審人物が、黒髪の騎士に身柄を拘束されたという報告が執務室にも飛びこんできたばかりです。
「まさか手紙ではなく、本人が直接乗りこんでこようとは」
「嘆息する間があったら、早急に話をまとめろ」
ジェフレからの被害報告だと、砦の鬼は数枚の報告書を執務机へと放りました。
「東の見張り塔、応答なし。八百屋通りの騒動に乗じ窃盗を働こうとした数名を捕縛。西の見張り塔、兵士数名より帰宅願望の訴え。花街の長マドレーヌ殿より当面営業を見合わせる意向。北の詰所、沈黙――」
つらねられた報告を読み上げて、ここを陥とすならいまが好機だのとおそろしく悠長に呟いた騎士団長に、副団長は別紙参照と短く告げました。
「なに。北の森にて大規模な盗賊団が卒倒しているところを発見、ただちに捕縛。町への襲撃を計画していたもよう。西の絶壁より飛来せし<蝙蝠>の一団が<帰らずの森>へ落下、現在リキテンスタインのウルリックを中心とした掃討部隊を派遣中。南の市場にて身柄を確保した小間物売りは、尋問の結果エーグモルトの間者と判……明……」
読み進めるにつれ、しだいに愕然とする騎士団長に、見ぬ者は幸いだと副団長は皮肉げにつけ足しました。
「だがこちらの被害も尋常ではない。歩く喧騒には早急に帰還願え」
「そうは言うても、あの
一筋縄ではいかぬ、町の商人や貴族たちをどう説得したものかと頭を抱えかけた騎士団長は、何を思いついたのかぽんと手を打ちました。
「そうだ、エクセターがおったな」
魔族の侵攻を退けたのち、解放の喜びに沸きかえったランスの人々が盛大に催した祝宴もたけなわとなったまさにその時でした。感きわまった市長が、周囲の制止を振り切って竪琴を手に取るなり、壮麗な市庁舎に禍々しい歌声を朗々と響き渡らせたのです。
魔族に横っ面を張り飛ばされるよりも強烈な一撃を食らった<狼>たちと、市長の詩に免疫のない一部の市民が死屍累々のありさまを呈するなか、くるくると目を回す娘さんを支えたまま傲然と立っていた砦のただひとりこそが黒髪の騎士だったのです。
「エクセターの奴め、市長の詩を鼻で笑っての。それ以来、不倶戴天の敵同士じゃ」
市長に言わせれば、相手は美しき
騎士によれば、相手はめくるめく陶酔ぶりと斜め向こうに跳躍した表現がこれでもかと綴られた文字の羅列を惜しげもなく披露するランスの生き恥でした。
まさにどっちもどっちです。たとえ世の終わりが来ようとも、けしてわかり合えないことこのうえありません。
「若造どうしを互いに噛みあわせて、時間稼ぎという腹か」
毒を以て毒を制すとは苦い顔をする副団長に、別におぬしでもかまわんのだぞと騎士団長はやり返しました。
「よろけた愛の賛歌を聞いて打ちのめされるかわいげなぞ、とうの昔にすり減っておろう。ここはひとつ、後進のために尊い犠牲として」
「エクセターにしろ」
吾子を千尋の谷に突き落とす獅子のごとき愛にあふれた副団長の即答で、哀れな騎士の運命は決まりました。
「あれでも賓客だ。歓迎の式典と祝宴、それに続く諸々のつどい。オードのダウフトが騒動に巻きこまれる確率も格段にはね上がろう」
だが、と副団長はそこでいったんことばを切りました。
「のぼせ上がって務めを忘れるならば、俺はエクセターを<髪あかきダウフト>の側から外す」
情に傾きすぎ冷静さを欠いたばかりに、守るべきものを損なってしまうことなどこの世にはいくらでもありました。北方教国リャザンの僧兵であったムーロムのイリヤ、片翼にも等しき竜使いを喪った憤怒から影なき都を灰燼に帰した白い守竜、そして。
「思い出すか、昔のおぬしを」
友の胸でちかりと光ったものを見つめながら問うた騎士団長に、いらぬことをと冷然と呟くと、砦の鬼は襟元からこぼれ出ていた鎖に通した指輪を押しこめました。
上質の柘榴石を一粒あしらったオフィルの黄金は、はるかなる砂漠のくにの富と豊穣を象徴するものでした。かつて若さと熱情に満ちあふれていた遠き日に、恋の戯れのなかでかりそめの名を彼に示し、やがて吐息とともに真実の名を耳へと囁いたいずこかの婦人のものであったのかもしれません。
けれども老いたる灰色狼の双眸は、指輪に細く巻かれた一枚の紙片へと刹那注がれたかと思うと、すぐに腐れ縁のもとへと戻されました。
「客人はどうした」
「アルキュシアのクロエ殿が、我が奥と非公式に面会中だ」
かの令嬢は奥の親族だからのと告げて、砦の長はさてどうしたものかと椅子から立ちあがりました。
「魔物どもの横っ面を張り飛ばしておるほうが、まだたやすかろうに」
そんな騎士団長のぼやきは、やがてとんでもない現実となって砦じゅうに騒動を巻き起こすこととなるのですが。
彼はまだ、知るよしもありません。
◆ ◆ ◆
「よくいらしてくださったわね、クロエ」
心地よくくつろぐことを主にあつらえられた広い部屋にて、うるわしき補佐官の名を呼んだ奥方さまが歓迎の意を示しました。
「ごぶさたしております、おばさま」
互いに抱擁しあい、しばらく会わないうちにすっかりおとなになって、おばさまこそお元気そうで何よりですわと、儀礼ぬきのあたたかい挨拶をかわしあうふたりの淑女に、長椅子に寝かしつけられていた娘さんがひょっこりと頭をもたげました。
「奥方さまは、クロエさんをご存じなのですか?」
「クロエは、わたくしの父の従兄の孫にあたるのですよ。ダウフト殿」
もつれた網の目のようにややこしい、貴族の姻戚関係をたいへん簡潔に言い表した奥方さまは、まだ寝ていなくてはだめですよと娘さんをやさしく諭しました。
「とんだ災難だったこと、腰が抜けて歩くのに難儀したなんて」
「ダウフト殿には、ほんとうにご迷惑をおかけしてしまって」
恥ずかしそうに告げた銀髪の麗人に、ごとごとと物音を立てて主張したものがありました。
「わたしはいちおうランスの長なんだがね、クロエ」
「存じております、ベルナール」
「ならばこの、市場に並ぶ鶏のごとき扱いはいったい何だね」
仮にも淑女がたの御前だというのにと、ランスから来襲した極彩色が嘆いたのも無理はありませんでした。
砂漠のくにに伝えられる、古代の王や女王たちの
「防衛策です。あなたがダウフト殿に必要以上に接近しないための」
「な、なんと言うことを。この胸に大海のごとくあふるる愛を、心なき輩に阻まれ乙女そのひとに明かすことすらままならぬとは」
「あなたひとりが愛の海に溺れそうでも、あちらの騎士さまはそうは思っておりません」
にべもないことばを返した補佐官が、はしばみ色の瞳をちらりと部屋の片隅に向けました。娘さんがいる長椅子から数歩離れたところで、剣の柄に手をかけた黒髪の騎士が厳しいまなざしを見せています。
「わたしがいつ妙なことをしでかしたというのだね。すべては愛ゆえに」
「愛ゆえにと、いたいけな乙女へ出会い頭に口づけを迫る考えなしですものねあなたは。万が一にも完遂していたら、砦総出で血祭りに上げられたとておかしくはなかったのですよ」
もちろん、砦とランスの同盟関係を最優先かつ慎重に考慮したうえ、不幸な事故として内々に処理をさせていただきますがと、常識をどこかに置いてきたらしい市長を穏やかな低音でずばずばと刺し貫いてゆくランスの補佐官へ、黒髪の騎士が怖れるようなまなざしを向けるさまを娘さんはとらえていました。
「クロエは相変わらず、ベルナール殿と仲がよろしいこと」
やわらかな笑い声を上げた奥方さまに、子供のころからのつき合いですものと麗人は溜息まじりに応じました。
「このひとがとんでもないことをしでかすたびに、後始末に奔走していましたけれど」
まさかここまでつきあわされるとは思いませんでしたとぼやく銀髪の補佐官を、それもえにしですよと奥方さまはなぐさめました。
「ですが、そろそろベルナール殿の縄を解いてさしあげてはいかが。さすがにこのままというわけにはまいりませんし」
「僭越ながら、その提案は相当の危険を伴うものと推測されます。奥方」
すっぱりと言い切った黒髪の騎士に、砦最強とうたわれる淑女は灰青のまなざしをおかしげに細めました。
「何がどのように危険なのです。申してごらんなさい、エクセター卿」
吾子をからかう母のごとき奥方さまの投げかけに一瞬ぐっと詰まったものの、黒髪の騎士はあっぱれなまでに私情をそぎ落とした声音で答えました。
「先刻、視覚に惑乱を生じせしめるランスの極彩色は<髪あかきダウフト>への襲撃を遂行しております。一度放免すれば同様の騒乱を招くは必定」
「なにが視覚に惑乱だ。ランスの最新流行を知らぬとは、これだから田舎者は困ったものだな」
籠からやかましく主張してくる虹色に、黒髪の騎士は刃のごときまなざしを向けました。
「感性がねじれてどこかに飛んだような衣装がか。確かに、毎日が謝肉祭のごときおぬしにはあつらえ向きだが」
「し、詩人の愛と魂を解せぬ武骨な輩に何が分かる。麻と革と鎖かたびらしか知らぬがゆえ、わたしの華やかな装いをひがんでいるんだろう」
「誰がひがむか。道化も泣き出す代物を身にまとうくらいなら、羊に踏み潰されたほうがましだ」
微妙におとなげのなさを露呈し始めた騎士と市長のやりとりに、素朴な娘さんと美しき補佐官が唖然とするさまを見て、そのくらいになさいと奥方さまはふたりの若者を諭しました。
「クロエ。ベルナール殿の縛めを解いてさしあげなさい」
「おばさま」
「奥方」
同時に抗議の声を上げた補佐官と騎士に、案ずることはありませんよと砦の母君は鷹揚に答えました。
「ベルナール殿は、ランスから正式な客人としてまいられたのですよ。籠に押しこめたままでは外聞も悪いでしょう」
「しかし」
「エクセター卿、わたくしを誰と思うているのです」
声音に有無を言わさぬ響きを宿した奥方さまに、黒髪の騎士は出過ぎたことをと一礼しました。
「さ、クロエ。早うなさい」
「よろしいのですか、おばさま」
銀髪の麗人が心配そうに問うたのは、長椅子からがばりと身を起こし、あわあわと逃げだそうとしている娘さんを思いやってのことでした。
「ダウフト殿。取って食らわれるわけではないのですから、すこし落ち着きなさい」
「で、でも奥方さま」
ほんとうにいいのかしらと呟く補佐官によって重石と籠が取り払われ、敷物に縄がはらはらと落ちゆく間もなく、
「さらば縛めの刻、来たれ愛と自由の日々ッ」
元気いっぱいな声を轟かせ、ふたたび暑苦しい姿を披露した虹色の男のまなざしが娘さんへひたと注がれました。
「嗚呼聖なる乙女よ、我が身と心は貴女の縛めこそを受けたいと焦がれておりますものを」
「こ、焦げなくてもいいです」
娘さんのかぼそい呟きは、嵐に舞い散る花びらのごとくはかないものでした。あっもう言ったそばからと悔しがる補佐官の制止を振り切って、ランスの極彩色は娘さんがいる長椅子のほうへとにじり寄ってきました。
「ダウフト殿。傷つきうち折れた我が愛の翼を、癒すこと能うは貴女のやわらかなぬくみのみ」
「ひい」
幼いころ、おばあちゃんから聞かされた幽霊ばなしよりも怖ろしい虹色の悪夢。
それが勢いを増して突進してくるさまに、娘さんは心底おののきました。聖剣といっしょに腰へ吊してある、小さなイワカボチャを取り出そうとする手も滑ります。このままでは乙女の恥じらいも名誉も、ねっとりと暑苦しい何かにからめとられてさらわれてしまいかねません。
いやー助けてーと、オードの女としての気概を叩きこんでくれたおかあさんとおばあちゃんに救いを求めかけた娘さんを、ふいに力強い腕が支えました。
「ギルバート」
萌え出づる春のごとき緑の瞳が映したものは、左腕で彼女を抱きとめ、右手で抜き身の剣を手にした黒髪の騎士でした。迫り来るランスの災厄を漆黒のまなざしでひたと見すえ、北の古語で<かあさん>の加護を願うことばがその唇からこぼれるさまを、娘さんが彼にしがみつきながら間近で見あげたときです。
虹色の市長の足元に、闇がぽっかりと口を開けました。
「おおおおおおおおおッ」
驚愕の叫びもろとも深い闇の底へと飲みこまれていくランスの長を、呆然と眺めやる三人の若人に、案ずることはないと申したでしょうと笑い声を上げたのは奥方さまでした。
「わたくしの坐す椅子にあるしかけを動かせば、たちまち床が開くしくみになっていたのですから」
「……奥方……」
「いったいいつ、そんなものを作りましたの。おばさま」
黒髪の騎士と銀髪の補佐官の問いに、砦の母君はあら心外なとちょっぴりすねたような顔を見せました。
「仮にもここは軍事拠点ですよ。代々の砦の長が築き上げ秘密裏に伝えられてきた、すてきなしかけや抜け道の数々には事欠きませんの。エクセター卿はご存じなかったかしら」
「寡聞にして存じてはおりません、奥方」
一介の騎士ごときが知っていては秘密も何もあったものではと突っこんだ砦の息子へ、そういうものかしらと奥方さまは笑ってごまかしました。
「それよりも、さっきの落とし穴はどこにつながっていますの。おばさま」
「わたくしが長老がたから聞いたはなしでは、迫力満点な傾斜を滑るように下り大きく三回転して、最終的には養魚池へ豪快に飛びこむとか。それとも西の絶壁から飛び出して、そのまま<帰らずの森>へ真っ逆さまだったかしら」
歳を取るともの忘れが激しくなってと優雅に溜息をついてみせた砦の母君に、思い出してくださいと黒髪の騎士は訴えました。
「養魚池で鱒やかますと戯れるならばともかく、神聖なる森へあのような危険物を野放しにしては」
「ましろき女王の怒りを買いかねませんわ、エクセター卿」
わが市は是が非でも森の恵みを得ねばなりませんのと使命に燃える補佐官へ、ならばと応じた黒髪の騎士は、扉の向こうで震えていた従者を呼ばわりました。
「<帰らずの森>へ向かったリキテンスタイン卿に伝言。虹色の服を纏った不審人物を発見しだいただちに捕縛、砦へ連行しろ。絶対に歌わせるなと警告を添えておけ」
「は、はい」
「ランスの者へ養魚池の捜索を命じてください。万が一の場合は被害額を算出のうえ、砦に賠償をしなくてはなりませんから。わたくしもただちに参ります」
互いに似たものどうしな立場ゆえか、息もぴったりにてきぱきとものごとを進めてゆく若人ふたりを、奥方さまはたいそう満足そうに眺めやっておりました。
「では皆さま、お暇させていただきます」
駆けつけた部下に促され、部屋を出て行きかけたうるわしい補佐官の瞳がいたずらっぽく輝きました。
「そろそろ、乙女を解放してさしあげてはいかがですの。エクセター卿」
からかうように放たれたことばに、自分がいまだに娘さんを抱きしめたままであることに気づいた騎士は、慌てて彼女を引き剥がすなり長椅子へと座らせました。そんなふたりの姿を見て、
「うらやましいこと」
くすりと笑ったランスの麗人が、まなざしによぎらせた切なさを娘さんはしっかりととらえておりました。
「クロエさん」
「またお会いしましょう、ダウフト殿。市長の捜索が済んだら、ゆっくりとお茶をご一緒できると嬉しいのですけれど」
先ほど見せた憂いはどこへやら。快活なランスの補佐官は、彼女のもとへ群がった部下たちが次々と差し出す報告書や案件に次々と的確な指示を飛ばしながら歩み去っていきました。
「市長さん、見つかるでしょうか」
問いかけた娘さんに、案ずることはあるまいと黒髪の騎士は肩をすくめました。
「市庁舎になだれこんだ魔物どもに、袋叩きにされてなお生きていた奴だからな。生命力はあり余っている」
いつにも増して感情をのぞかせる騎士に、違和感を覚えた娘さんが問いかけるよりも早く、奥方さまが彼を呼ばわりました。
「エクセター卿、こちらへ」
今度は何ごとかと、市長が落ちていったあたりの床を無意識のうちに避けつつ奥方さまの前に参じた騎士へ、
『そなたに、これを差しあげましょう』
北方教国リャザンのことばで語りかけてきた奥方さまが、一枚の図面を彼に示しました。それが娘さんには内密のはなしであることを察した騎士は、よどみのないリャザンの言葉で応じます。
『砦の見取り図……ですか?』
『ええ。先ほどわたくしが申した、砦の長にのみ伝えられてきたしかけや抜け道の、ほんの一部です』
すべて明かすわけにはまいりませんからねと告げた奥方さまが指し示した先を眺めやり、黒髪の騎士は思わず目を剥きました。
『なぜ私に、婦人部屋への抜け道を示す必要があるのです』
しかも何だこの無駄に気合いの入った仕様はと、偉大なる先達が愛ゆえに積み重ねた努力の痕跡を呆れ顔で眺めやった若い騎士に、砦の母君は真剣なまなざしを向けました。
『あら。ここまで示したのですから、言わずともお察しなさいな』
『<聖女の騎士>としての務めならば、身命に代えても』
『いいえ。今回は、エクセターのギルバートそのひととして動くのですよ』
『……は?』
思わず間の抜けた声を発した黒髪の騎士に、
『神出鬼没のベルナール殿のこと、あの調子ではダウフト殿の行く先々に姿を表すことでしょう。万が一にも乙女の名誉に傷がつくようなことがあっては』
そのようなことはわたくしの名にかけて許しませんよと拳を握りしめた奥方さまに、若い騎士はかの君が城主夫人兼城主代行としての権限を、いかんなく発揮する意向であることを察しました。乙女たちの園へ忍びこんだ努力を、熱烈なる<かぼちゃの接吻>で報われた小間物売りへ、後の世までも語り草となるであろうほどの恥ずかしいおしおきを命じた人だけはあります。
『御意』
果たして、我らが砦の母君を止めることができる者などいるのかと心で呟きながら、黒髪の騎士は図面をたたみ懐へと収めました。
『任務終了後、即刻焼却処分に』
『まあ。自分のために取っておいてもよろしいのに』
『ここは砦です。図示された通路が、到底安全と言いがたいことは自明の理かと』
夫や肉親たちとともに最前線にとどまり、外で飛びかう魔物たちの雄叫びをよそにほほほと笑いさざめいていたであろう剛毅な淑女がたのことです。
とこしえの愛を誓った伴侶や、想い想われの間柄である殿方ならばともかく、一方的に押しかけてくる招かれざる輩への対策として、何かしらのしかけくらいは施していたはずです。そんなものに引っかかって果てては、黄金の巨大羊と相討ちになっても嫁とりのためにと執念でその毛を持ち帰った父祖以上の恥さらしです。
それに。
「ギルバート、秘密のお話は終わったんですか」
奥方さまの御前を辞し、長椅子のほうへと戻ってきた彼に問いかけた娘さんの笑顔と、その腰に聖剣と一緒に下げられた橙色のかわいいイワカボチャを眺めやり。
よしんばしかけをくぐり抜ける僥倖にめぐまれたとて、<かぼちゃの接吻>を鼻っ柱に食らってとどめを刺されるのが俺の星回りだろうがと、黒髪の騎士はさらにやるせなさが増してゆくのを覚えるのでした。
さて、それからいくばくもしないうちのことです。
魔物との腕力勝負をこよなく愛する部下たちとともにすばらしい戦果を上げ、砦へと堂々の凱旋を果たした<熊>どのが、客人がおりましたぞと肩に担いでいたものをどさりと地に降ろしました。
人騒がせな男の捜索に当たっていた人々が集ってみれば、そこには虹色の衣装のいたるところにたくさんの木の枝や蔓を巻きつけ、伝承にうたわれる<みどりの男>もかくやという姿になった市長が白目を剥いて失神しておりました。
「どこに潜んでおりましたの、リキテンスタインのウルリック殿」
「いやご令嬢、それが樹上から猿よろしく奇声を上げて我が愛馬の前に落ちてまいりましてな」
おかげで繊細なる我がテュルパン号がたいそう怯えてと、堂々たる体格を誇る青毛の鼻面を撫でる<熊>どのの愚痴を美しき補佐官が聞かされている周囲では、事後処理に奔走する人々と興味津々に騒動を見物に来た人々とが慌ただしく行き交っておりました。
そんな騒ぎを不思議な色合いの瞳でじっと眺めやり、あらやだほんとによく当たるねえあたしったらと、にんまりほくそ笑んだ小柄な老婆がいたとかいなかったとか。
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