第18話・そして嵐はながれを運び・1
雪と氷が去りゆき、野に緑と花が満ちつつある日のこと。
「お出ましだぜ」
ふもとの町の市場で、何気なく空を見上げた果物売りが傍らの相棒をつつきました。ああもう売り上げの勘定をしてたってのにとぼやきながら面を上げた相棒もまた、穏やかな春空にはらはらと舞い散るものに思わず歓声を上げます。
「おお、<春の乙女>か」
小鳥の歌とぬくみに凍えたこころを揺るがせて、涙を春の慈雨と変え去りゆく冬の騎士に代わってアーケヴを訪れる豊穣の娘は、先触れとしてどこからともなく白い花びらをやさしい風に舞わせます。
「ことしはきっと豊作だな」
花びらの数が多いほどに、善きこともまた多いとされる言い伝えを思いだしたのか、もと商売がたきのいかつい面もなごみます。
「ってことは、エクセターの林檎も秋までおあずけか」
そう呟いた果物売りが抱え上げた籠を彩るのは、海を臨むまちシシリーから届けられた薫り高いオレンジたちでした。先日店を訪れるなり、選りすぐったものを砦へと届けるよう命じたある人物からの注文の品です。
「こないだ来た金髪小僧か」
「ああ、どこのお偉いさんかは知らねえけどな」
金貨三枚ぶんになりますぜと果物売りが飛ばした冗談に、驚きひとつ見せずにうなずいた少年が放ってよこしたのは、なんと金貨が十枚入った財布でした。足りなければ砦に使いを寄こせと告げて立ち去った若君が、その後耳にした噂で、<狼と牝鹿亭>のエリサ姐さんへと思いきり抱きついた大胆不敵な輩であったことを知りました。
な、なんてうらやましい――いやとんでもねえ小僧だと、ふたりの果物売りは意見を同じくしました。しかも彼らが聞いたはなしによると、少年がオレンジを求める理由は砦に住まうさる乙女へ贈るためだというではありませんか。
「エクセターの旦那も、あれぐらい積極的にならねえもんかなあ」
ぼそりと口にした果物売りに、それができりゃ苦労しねえだろうがと応じたのは相棒でした。
「あの嬢ちゃん、たしかオードの生まれだろ。あのへんの娘っ子へ迂闊に近づいた野郎は、たいてい血まみれの末路を辿るっていうからな」
「<かぼちゃの接吻>か、親族の男衆総出で袋叩きだったか」
「死んだ親父のはなしじゃ、ある娘っ子にちょっかいを出した旅人がそれっきり消息を絶ったっていうぜ」
そいつに熱を上げた娘っ子の涙で、七人の兄貴と親族の男どもに白昼堂々さらわれたあげく婿にされ、しばらく泣き暮らしたってはなしだぞと語る相棒に、善良なる果物売りはつとめて思い描くまいとしました。
砦の長老さまから授かったというありがたい護符で、自分たちを魔物から救ってくださった若い騎士さまが、簀巻きにされて娘さんのもとへと担がれていくさまなど。
「だ……旦那の場合、ありえねえと言い切れないところがどうにも」
「むしろそうなっちまったほうが、まあるく収まる気がするのは俺だけか」
そう嘆息しあった果物売りたちの耳に、突如として飛び込んできたのは、何とも表現しがたいものでした。
皆の目を楽しませていた花や緑がくたくたとしおれゆき、屋根や街路樹で羽根を休めていた小鳥たちが一斉に飛び去り、ばかばかしくも禍々しい何かを察したらしい犬や猫、鶏や豚、牛や馬や羊、果ては小鬼たちまでもがけたたましい声を上げて逃げ去ってゆきます。
市が開かれている広場に隣接した家々からは、鼠の群れが大挙して走り去っていきました。何が起きたのかとうろたえる母親の腕に抱かれた赤ん坊は火がついたように泣きだし、子供たちはこわいようと怯え、お年寄りたちに至っては腰を抜かしてへたりこむありさまです。
「あああああ相棒」
「おおおおお俺に聞くな」
この場から全速力で逃げたしたくとも、かくかくと足が震えるばかりでどうにもなりません。
いちおう歌らしき体裁は取っているものの、いかなる混沌と深淵からずるりべたりと這いあがってきたともしれぬ、この名状しがたき不協和音はいったい何なのかと、ふたりの果物売りが通りの向こうへと目を向けたときです。
「うるわしきかな
情熱をすでに通り越し、暑苦しくも濃厚な何かをぽろりんとリュートの調べに乗せて、感極まった様子でひとりの若者がうたいあげました。
よくよく見れば、白金の髪と氷青の双眸が見目よい面差しを引き立てているといいますのに。
裕福な殿方の間で流行っている大きな羽根つき帽子、それに負けず劣らずといった感のある虹色の衣装という奇妙奇天烈な格好をした男に、世界が音を立てて崩れゆくような恐怖を覚えた果物売りたちは互いにひしと抱きあいました。
砦を戴くこの町に生まれ育ち、聞き分けのない魔物には拳で愛を語りつつ生き抜いてきた猛者たちです。大抵のことには肝が据わっている自信だってあります。
だというのに、道化さえ恥じ入るようなおめでたい格好をした若い男から感じる、そこはかとないやるせなさと言葉にならぬ恐怖はいったい何だというのでしょう。
「嗚呼、しばしお待ちを<髪あかきダウフト>。愛の虜囚となりし我が身は、よろこびとともに貴女の御許へ
みずからが巻き起こす動揺と恐慌には目もくれず、虹色の男はふたたびリュートをかき鳴らし、聖女さまに捧げた愛の賛歌を口ずさみながら悠然と歩み出します。
数歩も行かぬうちに、彼を狙おうと物陰に潜んでいた小鬼が口から泡を吹いてばたりと斃れました。
あのぼんくら野郎を路地裏に連れこんで、身ぐるみ剥いでやろうぜとよからぬたくらみごとをしていたごろつきたちが歌を耳にするなり、いやあぁやめてええぇと悶絶し転げ回るさまを相棒と眺めていた果物売りでしたが、
「と、砦に」
エクセターの旦那に知らせなきゃと目を泳がせながら告げた果物売りを、いかつい顔の相棒は慌てて引き留めました。
「な、なに寝ぼけたこと言ってやがる。あんな人外、騎士さまがたでもどうにかなる相手じゃ」
「聖女さまだッ」
悲鳴のように発せられたことばに、相棒がぽかんとするのもかまわずに、果物売りは一気にまくし立てました。
「あのすっ飛んだ兄ちゃん、愛のりょしゅうがどうたらって寝言ぬかしてただろうが。早く旦那にお知らせしねぇと、聖女さまがあぶねえッ」
◆ ◆ ◆
「見つかりましたか、ウィリアムさん」
ひょっこりと顔を出した娘さんに、堀の淵にたたずみ指揮をとっていたのっぽの学僧は、うわあと驚きの声を上げました。
「お、おどかさないでくださいダウフト殿」
落っこちるかと思いましたよと、軽く抗議したバスカヴィル生まれの学僧にごめんなさいと謝りつつ、
「でも、卵がどうなったのか気になって」
そう告げた娘さんの瞳が、あちこちで大きな網を手に堀をさらっている人々の姿をとらえました。
日々学究にいそしむ三人の長老が、怪しげな行商人から手に入れたものの、うっかり堀に落とした<深淵に棲むもの>の卵のはなしは、あっという間に砦じゅうに広まりました。
「太古より仄暗き水底に潜み、近寄るものは人であれ魔物であれ貪欲に食らいつくすいわくつきの異形での」
明るくさわやかに釈明をこころみた長老たちへ、責任は取っていただきますぞと静かに告げた騎士団長の言葉どおり、三人の長老と弟子たちは総出で堀をさらうことになりました。
なんで俺たちが尻拭いをと口々に不平を訴える弟子たちを、ほれほれ文句を言わんで手を動かさんかいと、ことの元凶となった長老たちが叱咤激励して捜索を続けさせているというわけです。
「正門前と、北の堀からは見つかりませんでした。残るは南と西の堀、それから養魚池なんですが」
「池を荒らしたら、アルトワさんに怒られますものね」
砦の水源と淡水魚を確保するために、しまり屋の家令が大切に管理している池は「釣り禁止」「遊泳禁止」「洗濯禁止」「焚火禁止」「戦闘禁止」と、ありとあらゆるだめ出しが並べられた場所でした。
数年前のある夏の晩、暑くて寝苦しいからと池で泳いだ若い騎士たちがひき起こした騒ぎがもとで、こうした決まりができあがったのだと、繕いものそっちのけで盛り上がったおしゃべりで娘さんは聞いたことがありました。
「養魚池のほうへ流れていたらどうするんですかと、さんざん説明したんですけれどねえ」
異形の卵の捜索にすら応じようとせぬ、家令殿の頑迷ぶりをぼやいたのっぽの学僧は、そういえばダウフト殿はどちらにいらしたんですかと問いかけました。
「エクセター卿に、ご本を読み聞かせていただくのでしょう」
「ええ、きょうはエイレネさまの詩です」
詩聖として後世に名を残す、はるか北の国の教母さまの詩を黒髪の騎士が好んで読むことは娘さんも知っていました。それがどれほどすばらしいものであるのかを娘さんが知るには、今はまだ、騎士の口から紡ぎ出されるよどみないことばで辿ってゆくしかありませんでしたけれども、
「ギルバートのお兄さまも、エイレネさまの詩を好んでいらしたそうです」
「それをどこから、ダウフト殿」
思わず問うたのっぽの学僧に、ギルバートからですと娘さんはたいへん素直に答えました。
「羊が大好きというところは、ちょっと違うみたいですけれど」
「エクセター卿がですか」
かの騎士が亡きひとの思い出を語ることなど滅多にないと知るだけに、のっぽの学僧は驚きを禁じえません。数多の姫君や貴婦人がたが為し遂げたいと望みながら、けしてかなわなかったことを為す何かが、この素朴な村娘にはあるというのでしょうか。
「ウィリアムさんも一緒にいかがですか。りんごのパイを焼いてみたんですけれど」
さっくりとした食感とあまく煮詰めたりんごの味わいがたまらない、オードのパイには大いに食欲を刺激されるところではありましたが、のっぽの学僧はいえわたしはと首を横に振りました。
「せっかくですから、お二人で静かなひとときを過ごされてはいかかですか。レオ殿も療養中ですし」
「さっきお見舞いに行ったら、レオはまだうなされていました」
おいたわしやと泣き崩れる爺やをなぐさめ、悪夢と高熱にふらふらになったわがまま侯子にどうにか薬湯を飲んでもらい、熱が引いたら何かお腹にやさしいものをもってきますねと約束をした時のことを思い出し。溜息をつきつつも娘さんがぞくりと身を震わせたのは、わがまま侯子が耳にした代物にでした。
「あのやかまし――いえ、快活なレオ殿を一撃で沈めるほどの威力ですからねえ」
「……そういえば、そろそろお手紙が届くころですね」
呟いた娘さんがたいそう複雑な顔をするさまに、無理もないよなあとのっぽの学僧は同情を禁じえません。
一月に一度が半月に一度、週に一度が一日に一度に。
次第に間隔が狭まってきたランスからの手紙が、ついに半日に一度の割合で砦へ届けられるようになったのは先日のことでした。
きゃーやめてーと悲鳴を上げる娘さんを壁際へと追い詰め、潔く腹をくくれと無情の宣告を下した黒髪の騎士が、仏頂面でしゃれた手紙を読み聞かせている姿を思い出したのですが。のっぽの学僧はどうも個人的に、かの騎士がまいど娘さんに披露する内容が不思議でなりません。
「多忙につき寝不足」「げんきですか。ぼくもげんきです」はもとより、いったいどこをどうしたら「瞼に浮かべしうるわしき貴女の姿は、さながら天上より降り注ぎし甘露」が「胸焼けで食欲不振」などと要約されるというのでしょう。
あやつの感性が永久凍土並みなんだろうよと、砦いちのお調子者は呆れていたものですが、はたしてそれだけの問題なのかとのっぽの学僧が考えこんだときでした。
「ひ」
調子っぱずれな娘さんの声に、のっぽの学僧は思索の森から現実へと連れ戻されました。
「どうなさったのですか、ダウフト殿」
聖なる剣を抱いた乙女は、そのこころに何を感じ取り、その瞳に何を映したというのでしょうか。
「きた」
ひとこと呟いたきり、こわばった笑みを砦の正門、そこを越えたふもとの町へと向けたまま硬直した娘さんに、どこかお加減でもと問いかけたのっぽの学僧でしたが、
「いやぁあああああっ」
絹を裂くよな悲鳴を轟かせ、娘さんは砦の奥へ――救いを求めてその腕に飛びこんでゆくべき人物のもとへと全力で走り去ってしまいました。
「い、いったい何が」
首を傾げたのっぽの学僧の肩に、ぽんと手が置かれました。
「師匠」
「第一級警戒態勢発令じゃ、我が弟子よ」
かつて騎士であったころの面影をのぞかせて、人騒がせな長老のひとりは重々しく告げました。
「養魚池のかますや鱒が、さっきから水面で跳ねておるでな」
娘っ子の勘の良さは魚並みじゃなと評する師匠に、のっぽの学僧が養魚池を見やれば、水面を叩かんばかりの勢いで魚たちが暴れています。堀をさらっていた弟子たちもただならぬものを感じ取ったのか、そら引き上げだと、めいめいに声をかけあって堀から上がってきています。
「し、師匠」
「ついに来おったわ」
じつに重々しく―ただし、これから巻き起こるであろう騒動にわくわくした気持ちを抑えることができない表情で―砦の重鎮たる老人は告げました。
「ランスからの嵐が」
◆ ◆ ◆
不吉な。
ふと歩みを止めて回廊を見まわすと、聖エイレネの詩集を手にした黒髪の騎士は予感めいたものを首筋に感じました。
「……あの婆のたわごとが当たるとも思えんが」
そう彼がぼやいたのは、娘さんにどうしてもとせがまれて、新しいリボンを見に小間物通りへ出かけたときのことを思い出したからでした。
「おまえさん、厄日だよ」
物売りの呼び声や人々のにぎわいに満ちた通りを歩んでいたとき、どこか面白そうに告げてきた小柄な占い婆に、言われた当の本人――黒髪の騎士は思わずそちらを見やりました。
「災厄は北東から。幸運のお守りはリボンと仔羊の接吻。せいぜい奮闘するこったね」
「あ、あの、おばあさんそれって」
問いかけた娘さんを遮って、黒髪の騎士は占い婆の小さな卓に近づくと銀貨を一枚置きました。
「何だい、あたしの占いなんて信じなさそうな面をしてるくせに」
「無論だ」
俺はエクセターの出だからと、黒髪の騎士は冷然と答えました。
「だが
この世で最も古い血筋を伝える女たちに礼を失したばかりに、おぞましい報復に遭ったものたちの言い伝えもまた、アーケヴの各地にさまざまなかたちでちりばめられておりました。あてにならぬ占いなぞ信じる気はさらさらないが、気まぐれな老巫女が発した警告には相応の礼をすると騎士は示してみせたのです。
「ほう。おまえさん、エクセターの男かい」
たしかにあそこにゃ、赤髪のエイリイに黄金羊の毛を捧げたコルマク以来、さだめは自らの手で掴みとる気風があるからねえとうなずいた老婆でしたが、
「まあ、あたしの占いがいかさまかどうか身をもって体験してみるといいさ」
ついでに嫁探しもしてやるよとからかってきた老婆に、いらんと断って立ち去ろうとしたものの。わたしもおばあさんに占ってほしいですと言い出した娘さんに根負けして、結局その日は占い三昧で過ぎてしまったのですが。
占い婆のことばを裏付けるかのように、今朝から若い騎士の周囲には不吉な暗示ばかりが満ちています。
寝返りを打ちそこねて寝台から転がり落ちたのを皮切りに、身だしなみを整えようとすれば鏡にひびが入る、靴紐を結べばぶちりと切れる。あげくに外を歩けば鴉がぐるりと空を舞い、黒い仔羊がめえと鳴きながら目の前を通りすぎてゆくありさまです。
「まさかな」
ゆかいな長老たちとどこか似通った雰囲気がしなくもない、占い婆が楽しそうに告げた内容をつとめて頭から追い払った黒髪の騎士が、書庫へ向かおうと再び歩みはじめたときでした。
「旦那ーっ」
回廊の先から、聞き覚えのある声とともにふたりの男がこちらへと駆けてくるのが見えました。それがふもとの町で、いつも果物を買っている店の親爺たちだと気づいたとき、当の果物売りが足をもつれさせて石畳へ転びました。
「大丈夫か」
近づいて助け起こそうとしたところ、がばと顔を上げた果物売りの地獄の底でも見てきたような顔つきに黒髪の騎士はちょっぴり退きました。
ふもとの町から砦までは、長い坂道を上がってくる必要があります。まして八百屋通りから砦までは相当に距離があったはずです。
それなのに、善良なる町の人々がこうも必死の形相で砦まで駆け上がってこなければならぬような、不測の事態でも起きたとでもいうのでしょうか。
「魔物か。それとも俺が何か支払いを忘れて」
「そんなんじゃありませんよ旦那ッ。虹が」
「虹?」
怪訝そうな顔をした騎士の背後で、不吉に飛び回っていた鴉がぎゃあと一声鳴くなり、地面へぼとりと落ちました。
「で、出たんですよ。この世のものとは思えねえ奴が」
いかつい顔の相棒がいくぶん落ちついた口調で告げると、果物売りは騎士の服を掴んで必死に訴えました。
「に、虹色が羽根をぼうぼうに生やして愛のりょしゅうがどうたらって、歌とも呪文ともつかねえ声を上げてここに向かってたんでさあ」
あいつの狙いは聖女さまですぜ旦那と、果物売りが続けようとしたときでした。
「いやぁあああああっ」
背後から聞こえた乙女の叫びに、騎士はためらうことなく地を蹴り駆け出していました。何ごとかと目を丸くする果物売りに本を押しつけると、鞘から抜刀し悲鳴がしたほうへと向かいます。
つねづね、うるわしき叡智よりも気まぐれな災厄の寵愛を受ける我が身を呪わしく思ったものですが。今回はどうやら、そんなことを嘆いている暇はなさそうだと彼の中で何かが告げていました。
何しろ、相手が相手です。
「ああ、いかなる天の采配か。長旅の疲れすらたちどころに癒す、うるわしき姿をいやしき我が目に映すことがかなおうとは」
「ど、どこから入ってきたんですかっ」
正面突破だ、と黒髪の騎士は心で突っこみを入れました。
あの禍歌を耳にして、なおも彼奴の侵攻を止められる猛者がいるはずがなかろうと、柄を握る手に力が入りました。
「愛に不可能はないのです、聖なる乙女よ。貴女を思えばこそ、魔物やならず者がひそむ怖ろしき街道の旅も心安く過ごすことができたというもの」
本能的に危険を察して近寄らなかったに決まっているだろうがと、騎士はぼやきました。おそらく街道ぞいには、彼を狙ったものたちが白目を剥いたままあちこちに転がっているはずです。
「さあ、もっと花のかんばせを我が目に。そして甘く熱い口づけを我が唇に」
「誰かーっ」
救いを求める娘さんの叫びを耳にしたとき、人々をして鉄壁と言わしめた騎士の仏頂面にひびが入りました。
回廊を曲がるなり、逃げ場を失い涙目になっている娘さんへ今にも覆い被さらんとしていた怪しい虹色めがけて斬りかかりました。砦の騎士による一の太刀を奇跡的にかわした虹色の男が、彼を見るなりああっ貴様はと声を上げました。
「出たな、敵とみれば見境なく殴り倒すしか能のないエクセターの田夫野人がッ」
「やかましい、ランスの深淵から這い出た極彩色の悪夢めが」
剣の錆にされなかっただけでもありがたく思えと、虹色の男を冷ややかにねめつけた黒髪の騎士へ、やわらかいものがぎゅうとすがりつきました。
よほど怖ろしかったらしい。
安心させようと、娘さんの顔を覗きこんだのですが――何かを訴えようとするものの言葉にならず、魚のごとくぱくぱくと口を動かしている世にも情けない乙女の泣き顔に、騎士はふうと眩暈を覚えました。
いやそれよりも、このおめでたい極彩色が何の酔狂で砦までやってきたのかと、黒髪の騎士が問い質そうとしたときです。
「こんなところにいらしたのですか、ベルナール」
間抜けた場には似つかわしくない、涼やかな声としなやかな指とが虹色の男の右耳をつねりあげました。
「いいい痛い、痛い。痛いから放してくれたまえクロエ」
「放しません」
あれほど単独行動は慎むようにと申し上げたはずですと、美しい声音に底知れぬ怒りをこめて、商業都市ランスの象徴たる濃青のお仕着せに身を包んだ麗人は、短く切りそろえた銀髪を春の陽光に照り映えさせながら答えます。
「わ、わたしは自由を愛する詩人の魂こそを大切にしたいのだよクロエ。ダウフト殿への偽らざる愛を証だてるために、こうして乙女のもとへと馳せ参じて」
「その結果、<聖女の騎士>殿に危うく首と胴を泣き別れにされるところでしたわね。傍から見れば、あなたの行いがいかに不審かつ危険かというよい証左です」
学生時代に、フォル・カルキエ家の姫君に同じことをして血祭りに上げられたことを、よもや忘れておいでとは言わせませんことよと、ランスの奇人変人とうたわれる男を麗人は冷徹な言葉でずばずばと突いてゆきます。
「……すごい」
市長さんを止められるなんてと驚く娘さんに、当の麗人は迷惑千万な男の耳をつねりあげたまま、ふたりに向かって微笑みかけました。
「我があるじがとんだ失礼をいたしました、オードのダウフト殿、エクセターのギルバート殿。わたくしはアルキュシアのクロエ、ランス市長ベルナールのもとで補佐官を務めております」
「クロエさまですか」
「どうかクロエとだけ。貴女にお会いできてとても嬉しく思いますわ、ダウフト殿」
「わたしはダウフトといいます。こちらこそよろしくお願いします、クロエさん」
先刻の恐怖はどこへやら。にこにこ顔でランスの淑女と挨拶を交わす乙女に、騎士は漆黒の双眸をかすかな驚きに満たしました。どうにか取り戻した仏頂面のおかげで、とてもわかりにくいものでしたけれども。
砦の聖女が<髪あかきダウフト>と呼ばれることを好かぬと知り、わざとその呼称を避け。儀礼的なものではなく、平凡な村娘にも分かりやすいことばで接することで距離を縮めてゆこうとする。ランスにも侮れぬご婦人がいたものだなと黒髪の騎士は素直に感嘆し、剣を鞘に収めました。
「こうなったら、こちらの騎士団長との会見が無事に終わるまで見張りを厳重にしなくてはなりませんわね。街道でも一度逃げ出しましたの」
「それで、そのまま砦に?」
おそるおそる訪ねた娘さんに、ランスの麗人はいいえと首を横に振りました。
「生け捕りにして、後ろ手に縛って引っ立てていきました。ですが、ふとした隙に縄を切ってリュートもろとも消えて」
簀巻きにして檻に押しこめなくてはだめかしらと溜息まじりに告げた銀髪の麗人に、わたしは咎人かと隣でわめく極彩色の悪夢が当面砦に居すわる気であることを遠回しに示されて。
ついでに砦のあちこちから上がりはじめた、悲鳴と怒号と騒乱に満ちたものものしい足音を耳にしながら。
だからあたしが言ったとおりだろと、にんまりと人の悪い笑みを浮かべる占い婆の声を聞いたような気がした黒髪の騎士は、きりきりと締めあげられつつある胃の腑を思わず押さえるのでした。
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