第16話・Coeur・1
曇天からこぼれ落ちた冬の陽が、淡い光を地上へと投げかけてくるある日のこと。
「あ」
大股で回廊を歩みゆくレオの後から、のんびりとついてきていたダウフトが声を上げた。
「どうした」
振り返ったわがまま侯子の姿ときたら、埃だらけの傷だらけ。きょうも<狼>の名を戴く騎士たちに、さんざん砂埃の味を噛みしめさせられたからだ。
ぶざまな敗北を、修練場へ届け物にやってきたダウフトにはしっかりと見られてしまった。行き場のない悔しさを抱えたまま、傷の手当てをと引きとめる守り姫を振り切って、自室まで戻ってゆくところだったのだけれども。
こんな顔を見せてたまるかと意地を通そうとしたはずが、いつの間にか春の緑をたたえたまなざしに見つめられていることに気づき、レオは当惑を隠しきれずに目をそらす。
「じろじろ見るな」
仮にもデュフレーヌ侯の世継ぎたる自分を、手加減なしに地べたへと叩きのめした無愛想な男を思い出し、むかむかと怒りがこみ上げてきたレオの額に、そっとやさしい手が触れた。
「ああ、やっぱり」
いったい何をという、少年の困惑などおかまいなし。自分とレオとの額に手を交互にかざし、人々から聖女さまと呼ばれる村娘は花がほころぶような笑みを見せた。
「レオ、背が伸びたんですね」
思わぬ言葉に、鋼玉の双眸を丸くするわがまま侯子をよそに、
「砦に来たばかりのころは、わたしと同じくらいだったのに。男の子って、気づかないうちに伸びるんですね」
もうライム一個ぶんは違いますとはしゃぐダウフトの声には、気のせいではなかったのだという嬉しさと、いつの間にか追い抜かれていたことを驚くような響きがある。
「そうか?」
騎士見習いの中では一番の実力を誇りながら、同時に一番のちびであることをひそかに気にしていたものだから。
気のせいだろうと応じかけたところで、以前はほぼ同じくらいの位置にあったダウフトの目線が、ほんの少しだけ低くなっていることにレオは気づく。
そういえば最近、東の砦へ赴く際にとねりこ館から携えてきた服の丈が合わなくなった気がする。面差しがロラン殿やユーグ殿によう似てまいられてと、奥方と古参の侍女がなつかしそうに目を細めるさまを、妙に照れくさい心地で聞いていたのはつい昨日のことだ。
「きっと、レオはもっと背が伸びますね。手も大きくなっているし、声だって」
わたしのほうが置いていかれそうと、笑いながらダウフトはレオの手を取る。
かつて迷いこんだ深い森で、はぜる炎に面差しを照り映えさせながら、この世のものならざる力に憑かれたさだめを淡々と語っていた乙女の手は、こんなにも小さかっただろうか。
気づけば、ダウフトからはほのかな香りが漂ってくる。南では、洗濯物の香りづけから女たちの身だしなみに至るまで、幅広く親しまれている
「なんだ、僕を誰だと思っている」
しだいに火照ってきた頬をごまかそうと、尊大に胸を張ってみせる。
「デュフレーヌ家は<円卓のアルトリウス>が直系、とねりこ館に拠って代々南の守りを務めてきた名門だぞ。僕が見習いで一番に<狼>の修練に加わったのも、背丈が伸びるのも当然のことだろう」
堂々と屁理屈とこじつけを並べたてる少年に、レオらしいですねと砦の守り姫は屈託なく笑う。
「でも未来の騎士さまが、いつまでも鼻の頭にすり傷をこしらえたままではいけません」
いたずらっぽい笑みを浮かべたダウフトに、いつの間にか彼女の調子に乗せられていたと知った時には後の祭り。さあ手当をしましょうと、彼の手を握ったまま歩き出したダウフトを、ちょっと待てったらとレオが慌てて引きとめたときだ。
「ギルバート」
回廊の反対側からやってきた人物の姿をみとめ、嬉しそうに呼びかけた村娘とは裏腹に、わがまま侯子の機嫌はたちまち急転直下。
名門の矜持をことごとく埃まみれにしてくれたうえに、身体じゅうを彩る打ち身や痣やすり傷の元凶となった若い騎士を、何でおまえがここにいると睨みつけたのだが、当の本人ときたら腹立たしいくらいに涼しい顔ときたものだ。
「体術の稽古は、もう終わったんですか」
にこにこと問いかけるダウフトにも、砦いちの無愛想と囁かれる男の表情がやわらぐことはなかった。
「大口を叩いた割には、あっさり沈んだ奴のおかげで」
淡々としたことばに痛いところを突かれ、たちまち顔を真っ赤に染め上げたレオは黒髪の騎士へと詰め寄った。
「よく言うな。のらりくらりかわしてばかりで、一向に攻めてもこない腰抜けが」
「挑発だったのか。俺はてっきり、新手の遊びとばかり」
「なッ」
「俺を蹴飛ばすつもりなら、自分の背丈も考慮しておけ」
修練場でレオが放とうとした渾身の一撃は、それよりも早く鋭く繰り出された騎士の蹴りに阻まれ届きもしなかった忌々しい現実がよみがえる。子供たちから熊のおじちゃんと呼ばれるリキテンスタインのウルリックならともかく、この男にだけは言われたくないというのに!
「ひとをちびだと思って、このかぼちゃ頭」
「おぬしの背丈が近頃上方修正に転じたのは知っているが、ちびとは一言も」
「いま言ったッ」
背なんて高ければいいってものじゃないぞと、持てる限りの語彙を駆使した罵倒の文句を並べたてる南の侯子と、冷然と聞き流しつつ少ない言葉でずばりと急所を突いてはさらに少年を激昂させる北の騎士と。炎と氷のいがみあいのようなふたりのやり取りを、仲裁に入るでもなく聞いていたダウフトが、何を思ったのかいきなりぽんと手を打った。
「ふたりとも、そろそろ書庫でお茶にしませんか」
唐突な申し出に、少年と騎士は舌戦を止めて村娘のほうを眺めやる。いまのこの状況を分かっているのかと、問いかけたレオを遮るかのように言葉を発したのはギルバートだった。
「
「大丈夫です。ウィリアムさんからハーブをいただいて、多めに作っておきましたから」
この間はお気に入りがなくてがっかりしていましたものねと笑う村娘に、いらんことを言うなとギルバートは憮然とした表情を見せる。
「レオは何にしますか。この間ウィリアムさんから、めずらしい南の花のお茶を教えていただいて」
「
他のやつなんか出したって飲まないからなと、<とねりこ館のわがまま侯子>と綽名される所以を遺憾なく発揮する少年に、ダウフトはまあと目を丸くする。どうやらオードの小村で、母から娘へと代々受け継がれてきたとっておきは、若い師匠と弟子との共通のお気に入りだったらしい。
「でも、まずはレオの手当が先ですね」
ウィリアムさんにいいお薬を見つくろってもらいましょうと、砦の守り姫は書庫のほうへと歩みだそうとしたのだが、
「ギルバート」
数歩先に距離を置いて、黒髪の騎士が回廊を行き始める。待ってくださいと後を追いかけようとするダウフトの呼びかけにも振り返ろうとはしない。
「レオ」
唐突に飛んできた声に、わがまま侯子は弾かれたように面を上げる。
「
背を向けたまま放たれた騎士の言葉に、たとえ明るく開けた回廊であろうとも、聖女を狙う魔物や人間が身を潜めているやもしれぬ事実を突きつけられて、
「言われなくても分かってる」
そのことにまるで思い至りもしなかった自分に憤りつつ応じたレオに、ギルバートが一時だけ足を止めて振り返った。
「そうか」
漆黒の双眸と同様に、ゆらぎひとつ悟らせぬいらえを返すと騎士は少年に背を向けた。この万年無愛想がと、先ゆく男に向かって思いきり舌を出してみせると、レオはさあ行くぞとダウフトへ声をかける。
「お茶というからには、当然何かつまむものはあるんだろうな」
「ええ。朝のうちにオレンジのガレットを焼いておきました」
守り姫の言葉に、わがまま侯子は思わず飛び上がる。おぼろな思い出の向こうでやさしく笑う母の手料理が、厨房の料理長とダウフトによってよみがえったのは先日のことだったからだ。
あとは<紺碧のスープ・ベランジェール風>さえできれば完璧なのにと、ひとりうなずいたレオの耳に飛び込んできたのは、まったく他意のないダウフトの声だった。
「それから、ローズマリーのパンです。同じ花の蜂蜜をちょっと添えて」
甘味を抑えたエクセターの焼菓子の名を聞いて、そうだ余分なおまけがいたんだと辛い現実にちょっぴり肩を落としたものの、
「卵の代わりに、ふくらし粉を入れたあれか」
たまには田舎の味わいもいいかもなと、負けん気いっぱいに言い放ったレオに、
「木いちごのジャムもどうだ」
何なら壺一つぶんでもと振り返ったギルバートに、ただでさえ貴重な甘味をひとりじめしたことがばれて、憤激したじゃじゃ馬娘によって血祭りに上げられた思い出がよみがえる。
「ふん、自分だってどさくさに紛れて食べていたくせに」
「どこかのいやしんぼよろしく、壺までは食らわんぞ」
「こ、この僕をいやしんぼ扱いするのか無礼者ッ」
またもや始まった師弟の舌戦を、間にはさまれた格好となったダウフトは、止めるでもなくきょとんとした顔で眺めやっていたのだが、
「ふたりとも、まるで兄弟みたい」
鷹揚に笑った守り姫が放った恐るべき言葉に、若い騎士と少年はそろって凍りつく。
「ほら、喧嘩するほど仲がいいっていいますし。ギルバートもレオも、根っこのところでちょっと似て」
聖剣の一閃で忌まわしき魔を祓う乙女の言葉は、猛然とわき起こったふたりの抗議にあえなくかき消されることとなった。
「斧でもかち割れない、筋金入りのイワカボチャと一緒にするな」
「デュフレーヌの太平楽と同類か。心外な」
「誰が太平楽だ、羊と林檎に振り回されるがちがちの凍土育ちがッ」
「オレンジとレモンが手に手を取って舞い踊る、南国仕様のおめでたさよりははるかにましだ」
どこか食べ物争いのてんまつにも似た応酬を続けながら、こんなやつのどこに似ているんだと、わがまま侯子が口にしようとしたときだ。
「エクセター卿」
回廊の反対側からやってきた年配の男が、騎士の姿を見とめるなりこちらへと近づいてきた。
「何事だ」
「ソーヌの司教より、使いが」
従者が口にしたことばに、それまでにこにこしていたダウフトが不安げな面持ちでギルバートを見やったことにレオは気づく。
ソーヌといえば、首府エーグモルトから北東へ二日ほどの距離にある司教座都市だ。たしか当代の司教とやらは、エノー伯だかモンマス伯だかの従弟の姉にあたるマリーセレステ・ド・ボンボヤージュ某なる貴婦人の嫁ぎ先のそのまた遠い親戚だと聞いたことがある。
バルノーやノーサンバランド、ナルボンヌやベランジェールといった名だかき権門や、<狼>たちのよき理解者たるシャロンのアモーリ司教ならばともかく、大公家の腰巾着よろしくエーグモルト周辺に散らばる有象無象など、デュフレーヌ侯家の世継ぎがわざわざ気に留めるようなものではない。そういえばそんなのがいたっけかと、従者からソーヌの名を聞くまでまったく思い出せなかったほどだ。
ただ。
仮にも身分いやしき従者でありながら、高貴な聖職者に対するものとは思えぬ男の言動や表情から、ソーヌの司教がどのような為人であるかはたやすく知れようというもの。よく見ればダウフトでさえも、その名から漂う不快感を隠そうとはしていないのだから相当なものだろう。
それだというのに。
「十分ほど後にと、使者殿へ」
みごとなまでに感情をそぎ落とした声で、エクセターのギルバートは従者に命じる。
「<髪あかきダウフト>を然るべき所に預けたのちに、疾く」
「かしこまりました」
若い騎士に静かに頭を下げると、従者は村娘に向きなおり、申し訳ございませぬと心からの謝意を述べ、来たときと同じく静かな足取りで書庫とは逆の方角へと去ってゆく。
「ギルバート」
おずおずと話しかけたダウフトに答えることなく、黒髪の騎士はふたたび書庫へと歩みを進めてゆく。先ほどとは打って変わった重苦しさに違和感を覚え、レオは先を行く男を追いかけようとしたのだが、
「……なんなんだ、いったい」
一切の問いを拒むかのような空気が、そこにはあるだけだ。
「いつもそうなんです」
ぽつりと呟いた村娘のまなざしが追うのは、その昔、アスタナの美姫を迎え入れた北の騎士家に伝わる黒髪と、マントに包まれた広い背だ。
「都やソーヌから使いのかたが見えたときには、いつも。何のお話なのかたずねても、わたしには教えてくれません」
きっとすごい秘密なんですねと、明るく笑う表情と声音が、かえってこころに押し隠したさみしさをにじませていることに、レオよりも年上であるはずの村娘は気づいていない。
「単にひねくれているだけだろ、エクセター卿は」
肩をすくめたものの、都びとからは不調法な田舎者として嗤われているエクセターの者が、なぜにソーヌの司教、ひいてはエーグモルトなどと関わりを持っているのか、レオには不思議でならない。
それに。
ダウフトに、こんな顔をさせるなんて。
双の鋼玉に映した騎士の背は、たちのぼる強い輝きにゆらりと揺れた。
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