第15話・聖女と騎士と竜にまつわるてんまつ・12


 まるでいくさ場だ。


 石壁や床に穿たれた爪痕と、尻尾か角の一撃にあえなく粉砕されたらしい木箱や樫の樽。自分たちのかしらを守ろうと、なけなしの忠誠をふりしぼった魔物たちも、翡翠の暴風には為すすべもなかったようだ。

 回廊のあちこちでのびている彼らの姿から、どうやら仔竜の行く手を阻もうとして、逆にあの巨体にはね飛ばされたのだろうとギルバートには察しがついた。

 もっとも、そのおかげでエフィルの行き先は容易に知れた。僅差で災厄をまぬがれた兵士や従者が壁にぴたりと身を寄せ、ひきつった表情を浮かべてある方向を見つめていたからだ。

「上か」

 足を止め、蒼穹に灰白色の偉容を誇る南の城壁塔を見上げたギルバートの背に、ふいに何かがぽすりとぶつかって小さく悲鳴を上げた。

「もう、急に立ち止まるなんて」

 振り返ると、手で鼻を押えたダウフトがこちらを睨んでいる。ついてきたのかと内心呆れながらも、城壁塔の屋上につながる石段へ向かいかけた騎士の服を、村娘が掴んで引きとめた。

「待ってください」

 少し休ませてと訴えるダウフトにわずかばかりの違和感を覚え、ギルバートは口を開く。

「<ヒルデブランド>は」

 いかなる時も、聖女の傍らにありつづける神の剣。それを持たぬダウフトなど、どこにでもいるただの娘にしかすぎないというのに。

「置いてきました」

 走るのに邪魔でしたからと、けろりとして応じたダウフトに、騎士は思わず目を剥く。いったいこやつは、<母>のよみしたもうた奇跡を何だと思っているのか!

 いくら寄り代さえろくに守ることのできぬなまくらとはいえ、鋏や包丁とはわけが違うのだぞと言いかけたギルバートに、

「<ヒルデブランド>が必要ならば、呼びます」

 かすかに笑ったダウフトから、騎士はそっと目をそらす。分かちがたく結びあう聖剣と乙女に覚える昏い苛立ちが、己の姿としてやわらかな緑の瞳に映るさまを見たくはなかったからだ。

「でも、今はいりません」

 心にかかった影を吹き飛ばすかのように、告げられたのは春を謳う小鳥の声だ。

「ギルバートがいてくれるから」

 城や宮廷で笑いさざめく淑女たちのように、みやびなもの言いのひとつも知らぬ率直そのものの村娘に、言いたいことは山ほど湧いてきたのだが、

「城壁塔だ」

 ぶっきらぼうに応じて、ギルバートはダウフトの手を取った。思わぬできごとに目を丸くする娘に背を向け、ふたたび歩みを進める。

 仔竜の突進を避けることがやっとだったのだろう。崩れかけた入口の脇で腰を抜かし、涙目で何かを懸命に訴えようとするふたりの兵士にうなずいてみせると、騎士は村娘の手を引いたまま石段を登り始めた。あちこちが欠け落ちた石に、ダウフトがつまずかないように歩調をゆるめたとき、

「ギルバート」

「何だ」

「泣かないでくださいね」

 武骨な革手袋を通して、ダウフトがそっと手を握りかえしてきたことがわかった。

「なぜ俺が泣く」

 訳の分からないことをと応じかけたとき、かすかに頬を揺らした初夏の風と、聞き覚えのある唸り声が耳に届く。思わず階上を見やったギルバートを、行きましょうと村娘が静かに促した。

「エフィルが待っています」

 うなずく代わりに、騎士は黙ったままきざはしを登り続ける。春をことほぐ女神の気まぐれとしか思えぬ騒ぎのなかで、いつしか心の片隅で怖れるようになっていたことが間近に迫っていると悟って。

 ゆるやかな大河のごとき竜と、塵よりもはかなき人と。偶然にも重なり合ったふたつの刻が、いま離れゆこうとしている。

 それをとどめる術は誰にもない。たとえ<母>でさえもだ。


 陽光と蒼穹、そして風の音が目や耳に満ちる。辺りのまばゆさに刹那目を細めたギルバートの耳に、ダウフトの声が届いた。

「エフィル」

 駆け出そうとした娘を遮り、ギルバートは屋上を取り巻く石壁の一点――平時には砦の周囲を監視し、戦時には矢を射かけ石や油、そして火を投げ落とすための狭間へと目を向けた。

 威嚇とも悔しさともつかぬ唸りを上げるエフィルの先で、狭間に立った小鬼が嗤っていた。枯枝のような手では、きじ虎のティグルがみいみいと声を上げている。思わず短剣を鞘ばしらせかけて、ギルバートは手を止めた。

 たとえ刃を放ったとしても、魔物がこちら側へ落ちてくる保証はない。身をのけぞらせ、仔猫を道連れにはるか下の地面に叩きつけられることもありうるのだ。

 小鬼はそれを知っている。知ったうえでこちらを嗤っている。

 時折腕を伸ばしては、もがく仔猫を下へ落とそうとするそぶりを見せてはひょいと戻す。そのつど、ダウフトが声にならない悲鳴を上げるさまを面白がっている小鬼を、まなざしで射ることができたならばどんなによかったことか。迂闊に手を出すこともかなわぬ状況に、騎士が歯噛みしたときだ。


 調子づいて、狭間の上で飛び跳ねた小鬼がつるりと足を滑らせた。


 慌てて均衡を保とうとしたものの、頭でっかちな矮躯が災いしたか。狭間めがけて走り、腕か足を掴もうとしたギルバートの手も間に合わず、間抜けな小鬼は情けない声を上げながら、真っ逆さまに落ちてゆく。

「ティグルっ」

 騒ぎに気づいたらしい人々が城壁塔を見上げる姿と、絶望に満ちたダウフトの叫びをギルバートがとらえたとき、まるでもろい細工物であるかのようにすぐ側の石壁が打ち壊された。

 飛んでくる石つぶてや埃をよけながら、黒髪の騎士が目を向けた先には、崩れた壁を前にしなやかな尻尾を一振りしてみせた仔竜がいた。不思議な色をたたえた瞳を騎士に向け、みぎゃあと一声上げると、あっという間に宙へ身を躍らせる。

「エフィル」

 雄牛ほどもある巨体が、ぐんぐんと小さくなってゆく。たちまち小鬼に追いつき、その身体をぱくりとくわえたまではよかったが――そこでふと、我に返ってしまったらしい。たちまちじたばたともがきだし、翼をばたつかせはじめる。

 あぶないお春坊、掘に突っ込む、鍛冶場の屋根に突き刺さっちまうぞと人々の悲鳴と怒号が交錯する中、鳥ならぬ我が身を故郷の古語で呪おうとしたギルバートの横で、崩れた壁に近づいたダウフトがそこから身を乗り出した。

 考える間もなく、娘の腕を掴んで引き戻す。落ちる気かと言いかけた騎士に答えることもなく、ダウフトは真摯なまなざしをはるか下へと向けたままことばを紡いだ。

「地に満ちし生命の息吹、緑うたう春のいと

 それがエフィルだ。

 伝承の聖獣にふさわしくと、候補として挙げられたいくつもの名前を退けて、見たままそのままにつけられた仔竜の名前。

「血と乳につらねられずとも、<母>のもとに紡ぎし絆は同じ」

 続けられたことばに愕然として、ギルバートは腕に抱えた娘を見やる。能天気な面影をぬぐい去り、彼がまったく知らぬ女の表情を見せるオードの娘に、言いしれぬ畏れを感じながら。

 ダウフトが呼ぼうとしている名前は、「エフィル」ではない。

 すべてが灰と骨に還った小村で、母から母へと引き継がれてきたいのちの綴りを娘が口にしようとしていると察し、そこでギルバートはあることに思い至る。

吾子わこよ往け。みずから歩み、憩い、やがてねむるべき道を」

「ダウフト」

 オードの隠し名が、<真名>が、女たちだけに許された秘密だというならば。

 それならば――エフィルは。


 困惑のままに騎士が問いを口に乗せ、村娘がいとおしげにひとつの名を呟き、そうしてそれらを力強い羽音が遮ったのは、ほぼ同時のこと。


 巻き起こった風に面を上げた騎士と村娘の前に現れたのは、失神した小鬼をくわえたエフィルだった。

 大きく翼を広げて悠々と空を舞うその姿には、石壁をへこませてべそをかき、ただのとかげじゃないのかと言われてしょげていた幼子の姿はない。為すすべもなく、落ちてゆく仔竜を見ていることしかできなかった人々が、砦の上空をゆるやかにめぐっている若い聖獣の、どこか優美さすら感じさせる姿を呆気にとられながら見つめている。

 そんな人々に向かって、少しばかりくぐもった声で鳴いたエフィルが、地上めがけてふいに高度を下げた。こら落ちるなこっちに来るなと、慌てふためく人々すれすれにまで近づくと、口にくわえていたものをぽいと放り出す。

 小鬼の身体を受け止め、その忌々しい手から取り戻したことを周りに知らしめんばかりに、仔猫を高々と掲げてみせた見覚えのある金髪に、ダウフトがまあと声を上げる。

 どうやらデュフレーヌのレオは、魔物相手に存分に暴れてもまだ気が済まなかったらしい。地に放り出されて正気を取り戻し、こそこそと逃げ出そうとした小鬼を容赦なく靴で踏みつけると、網や麻袋を手に駆けつける従者たちにさっさと来いとえらそうに促している。

 執念か、と呆れ半分に呟いたギルバートの視界を、鮮やかな翡翠がよぎる。

 見れば、城壁塔すれすれに飛翔を続けているエフィルの姿があった。騎士と村娘へ頭を向け、みどりの幼子は得意げに鳴いてみせる。


 ほら、ちゃんとできたでしょ。


 そう言いたげな瞳から、涙が一粒ころりと落ちた。名を呼ぼうとして、ギルバートはそっと腕に添えられた手に気づく。赤みがかった栗色の髪を、仔竜が巻き起こす風に遊ばせながらダウフトが微笑んでいる。

 がんばったんですから、ちゃんとほめてあげてくださいね。

 日頃から、村娘に言われ続けていたことばがよみがえり、黒髪の騎士は仔竜へとまなざしを戻す。

「エフィル」

 どんなに世界がうつろいゆき、自分たちの面影さえはかなくなったとしても。千尋の闇にあってなお、かそけき光を灯しつづける望みのように、どうか心に留めていてほしい。

 誰が何と言おうとも、これだけは自分とダウフトがよく知っていることなのだから。

「いい子だ」

 ギルバートの声を受け止めた若い聖獣が、歓喜に満ちた咆哮を轟かせた。

 城壁塔からゆるりと離れ、自分の姿を覚えておいてと願うかのように東の砦を三度めぐると、やがて意を決したかのように、風と雲に誘われるまま青のなかの青へと飛び出してゆき――たちまち小さくなっていった。

「ギルバート?」

 潤んだ瞳を手で懸命にぬぐいながら、ダウフトが見上げてくる。それには答えずに、黒髪の騎士ははるか彼方にまで広がる空を見やる。


 幸運を。


 去りゆく「子」へのはなむけに、不器用な「父」がそっと呟いた北の古語を、気まぐれな風がはたして届けてくれたのか。

 それは、誰にもわからない。



                ◆ ◆ ◆



「まるで、祭りの後だな」

 みどりの幼子が、蒼穹のかなたに消え去って三日後のこと。

 <狼>たちの詰所から表を眺めやり、慌ただしく行き交う人々の顔がどことなく悄然としているさまにリシャールは呟く。

「きっと、エフィルがおうちに帰っちゃったからだよ」

 てんやわんやの末に救い出されたティグルと、彼の身代わりにされたぶちの仔猫へ温めた乳を舐めさせていたアネットが面を上げた。傍らでは白銀の狼姫が、興味津々といった様子で仔猫たちを眺めている。

「ボーフォールのおばちゃんも、しょんぼりしてたもの」

 奥方づきの侍女の名を口にしたアネットに、あの厳格な方までもかと琥珀の騎士は驚く。春の息吹とともにやってきて、夏の風に乗って去っていったみどりの幼子は、思った以上に人々の心を捉えていたらしい。

 牛の丸焼きを食わせてやるって言ったじゃねえかと、山と積まれた武器や防具を前にしょげ返る鍛冶衆。刺しかけの刺繍から顔を上げ、つま弾いていたリュートをふと止めて、そっと溜息をつきあう淑女たち。もっと遊びたかったのにと、突然の別れに驚いたり涙ぐんだりした子供たち。

 その一方で、仔竜になけなしの平和をかき乱されたものたちは、ほっと胸をなで下ろしたようだ。

 いやはやまれに見る悪夢であったと、何も見なかったことを主張する常識の鑑どの。このままでは怪物に砦を食い潰されると、算盤を手に青ざめていた家令どの。仔竜の無礼に憤慨し、お尻に蹄の跡をつけた軍馬たちに至っては、せいせいしたとばかりに鼻を鳴らし、今日も馬丁見習いの少年を藁の山に放り込んでいる。

「さみしいか、アネット」

 たずねた琥珀の騎士にうなずいてみせたところで、未来の戦乙女は自分が仔竜よりおねえさんであることを思い出したらしい。

「でもエフィル、父ちゃんと母ちゃんといっしょだもん。さみしくないよ」

 無邪気なことばに隠された、幼子自身の願いにそっと胸を痛めながらも、リシャールがそうかと呟いたとき、

「ギルバートさま、泣いてないかな」

 思わぬ言葉に、琥珀の双眸が丸くなる。

「ギルバートが?」

 問い返したリシャールに、そうだよとアネットは大きくうなずく。

「泣き虫だって言ってたもん――あ」

 他言無用という黒髪の騎士との約束を思い出し、慌てて両手で口を塞いだアネットに、いいんだと笑ってリシャールは風まかせな金髪を撫でた。

 ガキ大将に突き飛ばされ、応戦かなわず泥まみれになり。嫌いな剣術の稽古で、なまくらとはおぬしのことかと酷評されて、ともに学んでいた少年たちの笑いものになりながら。

 唇を噛みしめ、にじむ涙を服の袖で懸命にぬぐっていた黒髪の子供を思い出しながら。

「本当のことだからな」

 遠い記憶をたゆたわせた双の琥珀がふと見上げたのは、南の城壁塔だ。



「ギルバート」

 初夏の風が吹き渡る、南の城壁塔。修理中の石段を用心しながら登りきり、屋上へと歩み出たダウフトの目に、こちらに背を向けて崩れた石壁の前に立つギルバートの姿が映った。

「火急の用件以外は、誰も通すなと」

 じろりと向けられた漆黒の双眸と、無愛想に放たれる言葉などいつものこと。

「わたしが勝手に来たんです」

 兵隊さんにはちゃんと断わりましたと応じると、ダウフトはすたすたと騎士の隣へと歩み寄った。

「ギルバートは、何をしているんですか」

 騒動の元凶たる小鬼は、黒髪の騎士に委ねられたのち、彼が公言した通りのおしおきをたっぷりと食らったあげくに砦から放り出されたはず。何かが燃え尽きてしまった足取りで、ふらふらと昏い森へ消えていった小鬼の姿に、ありゃ百年くらいは立ち直れそうもないなと、世にも怖ろしい詩の朗読を間近で聞かされた兵士がげんなりとした顔でこぼしたほどだ。

 ついでながら、事実を隠し続けることに良心がとがめたのっぽの学僧から、仔竜がほんとうに「娘」であったことをダウフトともども知らされて。

 あの古狸どもめ、と低く呟いた黒髪の騎士が施療室に向かったのを最後に、ここ数日人騒がせな長老たちの姿を見た者はない。

「見張りだ」

 ぶっきらぼうに応じるギルバートの傍らで、あるじを失った小屋がさみしそうにたたずんでいる。お尻がつかえてもがくエフィルを見て、そろそろ建て替えなくちゃだめかしらと、アネットやレネと相談をしていたのは、ついこの間のことだったのに。

「あら。今日の当番は、サイモンさまとウルリックさまでしょう」

 <狼>たちの当直も、しっかり把握しているという事実を披露してみせたダウフトに、口を真一文字に結んだ騎士ははるか下に広がる景色へと向き直る。天気と運さえ良ければ、この季節はシシリーの白い町並みと、陽光に輝く大海原を臨むことができるはずなのだけれど。

「さみしいんですね、ギルバート」

「誰がさみしがって」

「べそかきは空を見上げる。そう言ったのは誰でしょう」

 どうやら精一杯の虚勢も、曇りなきまなざしの前には何の役にも立たなかったらしい。

「エフィルなら大丈夫です」

 面差しに笑みを浮かべて、ダウフトはギルバートの顔を覗きこんだ。おとうさんは案外さみしがりやねと、いまはどこかの空を駆けているであろう「娘」に、こころでそっと呟きながら。

「ギルバートが教えてくれたエイリイの心根と、わたしがつけた<真名>があるんですもの」

 北の騎士と、南東の村娘が託した<おもい>を、エフィルなら受け継いでくれる。広い世界をめぐり、さまざまな人々やものごとと出逢いながら、向かい風に遭ってもなお、胸を張って自らの道を歩いていくことだろう。

「だから、怖れることなんてありません」

 荒野にも力強く咲く花のように、凛とした表情で言い切ったダウフトを、しばし見つめていたギルバートが、ゆっくりとうなずきかけたときだ。


「うむ」

 間近で自分たちを凝視する髭面の巨漢の姿に、乙女と騎士はぎょっとして後ずさる。

「ここでエクセターが、ダウフト殿をひしと抱きしめるに葡萄酒を一杯」

 真顔で断言したウルリックに、そりゃ無理だなとひらひらと手を振ったのは砦いちのお調子者だ。

「妖精ちゃんにまたも逃げられた間抜けが、地団駄を踏んだあげくに魔物へ八つ当たりに麦酒三杯ってところか」

 陽気に後ろを振り返り、なあと同意を求めたサイモンに、

「いつも同じじゃ芸がないから、ここはひとつ大穴狙いでどうだ?」

「何だ、その大穴ってのは」

「予習はばっちり、つぎはぜひ実践と行こうじゃないかと娘さんの手を握って囁く展開にウシュク・ベーハを一瓶」

「その前に、たまげたダウフト殿に<ヒルデブランド>でぶちのめされるに大樽ひとつ」

 さあどう出るエクセターと、どこからか湧いて出た<狼>たちが、わくわくしながらふたりを眺めやっているではないか!

「……おぬしら」

 遠雷を轟かせるがごとき形相のギルバートと、耳まで真っ赤に染めあげたまま言葉の続かぬダウフトの前に、照れている場合かと現れたのはリシャールだ。

「おぬしにとっては、かなり由々しき事態になっているぞ。ギルバート」

「由々しき?」

 どういうことだと問い返した幼馴染に、リシャールは我らが砦の母君だと嘆息する。

「エフィルが空に帰ってからというもの、すっかり意気消沈してしまわれてな」

 このような日が来ることは、分かっておりましたけれど。

 仔竜のいなくなった中庭を眺めては涙し、おもちゃを手にとってはまた涙する奥方に、これまた抜け殻のようになった騎士団長が同意するようにうなずいていたのだが。

「何を血迷われたのか、そうだならばエフィルの弟か妹をもうければよいではないかと団長が」

 腐れ縁の突拍子もない提案に、昼間から妄言をほざくなたわけがと雷を落としかけた副団長を遮るかのように、それは妙案ですわと奥方が目を輝かせたのだという。

「まあ、そういうわけだから覚悟しておけ」

 心から楽しそうに、琥珀の騎士は表情をこわばらせたまま立ちつくす幼馴染の肩を叩く。

「近々おぬしを呼び出して、一日も早く孫の顔を見せるように話をするとの仰せだったぞ」

「堅物も年貢の納め時か」

 サイモンとどっちが先に、嫁に首根っこを掴まれるか賭けていたのになとぼやく者に笑う者、やかましいわとわめく者。

「たしかエクセターじゃ、赤ん坊に樫の剣を贈るならわしだったな」

「一人一本として、このさい二本ぐらいそろえておくか?」

 真顔でうなずきあう仲間たちを、まあ待てととどめたのはリシャールだ。

「それよりまず、相手のご婦人に是とうなずいていただかなければどうにもならんだろう」

 表向きは軽口をたたきながらも、やけに真剣なまなざしを向けてきたリシャールへうなずいてみせて、

「双子もいいかもしれませんね、ギルバート」

 黒髪の騎士の手を取り、笑顔で告げたダウフトだったが。


「なかなか、冗談に磨きがかかってきましたね。ダウフト殿」

「リシャールさまに比べたら、まだまだです」

 仲の良い兄と妹のように、にこにこと笑いあう琥珀の騎士と村娘。ふたりの周囲を、生きながら塩の柱と化したレグニツァの都びとのごとく、あんぐりと口を開けたまま立ちつくす騎士たちの群れが取り巻いている。

「ギルバートは、どこに行っちゃったのかしら」

 いつの間にやら、目の前から忽然と姿を消した黒髪の騎士を探すダウフトに、階ですよと琥珀の騎士はそちらを指し示す。

「貴女のことばを耳にしたとたん、猛然と逃げ出し――」

 リシャールのことばが終わらないうちに、下へと続く階から何かが転げ落ちる大きな音がした。しばらくして、ああっエクセター卿が、施療室へ人をやれ、馬用の軟膏を持ってこいと、たまげた兵士たちが大騒ぎを始める声が響いてくる。

「たいへん」

 冗談がきつかったかしらと、慌てて階下へ駆け下りようとする村娘に、先が思いやられますと堅物男の幼馴染はこぼす。

「あの冗談が、どうにか現実のものになれば万々歳なのですが」

「考えてみます」

 さらりと告げられたダウフトのことばに、彼らしくもなく不意打ちを食らった琥珀の騎士。

 いやその本気ですかそれはと問おうとした時には既に遅し、階を降りてゆく娘の軽やかな足音が残されただけ。これは一本取られたかと苦笑して、

「さて、<南瓜の淑女>に報告申し上げるべきかな」

 まあ、なんて大きなたんこぶと呆れるダウフトの声と、右往左往する人々の騒ぎを耳にして。どうやら世話の焼ける幼馴染にも可能性がないわけではないと知って、リシャールはおかしげに呟く。

「さぞ、たくましく育つだろうさ」

 昔から、この親にしてこの子ありと言うことだしなとうなずいて。琥珀の騎士は、さっきから微動だにしない男たちに、どうやって正気を取り戻させようかと考えをめぐらせはじめるのだった。


 吹き渡る風が夏の薫りを連れてくる、そんな砦のある一日。


(Fin)

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