第16話・Coeur・2



「なかなかのものですよ、ダウフト殿」

 エクセターに伝わる、素朴な菓子を手に微笑んだのはジェフレのリシャールだった。

「子供のころ、ギルバートと一緒によく食べたものです。皿の中でパンが泳ぐくらいに蜂蜜をかけて」

 そろってマティルダ殿にしぼられましたと、ギルバートの姉の名を挙げた琥珀の騎士に、茶器を手にしたダウフトがくすくすと笑う。

「まるで、蜂蜜好きの子熊みたい」

「子熊どころか、いたずらがばれるたびにこの子猿どもがと追い回されていましたよ」

 秀麗な面差しからは想像もつかぬ、やんちゃ小僧の片鱗をのぞかせる琥珀の騎士に、もう一杯お茶をどうぞとダウフトがすすめる。

「お忙しいのに、急にお引き留めてしまって」

「なに、日頃の行いがちょっとした幸運を招くものです。守り姫の手になる、故郷の味を堪能する栄誉に預かるという」

「リシャールさまったら」

 なにが日頃の行いだ。

 ぬけぬけと言ってのける騎士に、オレンジのガレットを頬張りながらレオは内心でぼやく。行いどおりの結末がやってくるならば、今頃リシャールのもとへはねたみそねみに身を焦がした男たちが大挙して押し寄せるだろうに。


 剣抱く聖女を書庫へ送り届けるなり、使者の待つ広間に向かったギルバートを、中に入るぞというレオの呼びかけにも応じることなく見送っていたダウフトが軽く声を上げた。そんなに驚かれずともよいでしょうと、微笑をたたえてあらわれたのがジェフレのリシャールだったというわけだ。

 調べものにきたという彼に、でしたらお茶をいかがですかと、さみしげな表情をぬぐいさるかのようにダウフトが問うた。

 いや待て、田舎のパンなら僕がぜんぶ食べてやってもいいんだぞというレオの主張は、それを遮るかのように表れたのっぽの学僧による盛大な歓迎にかき消されてしまった。

 乙女と騎士の、数えるほどしかないひとときを邪魔するなと鼻息を荒くするじゃじゃ馬はいないし、何より最大の障壁たる朴念仁もいない。これなら菓子をひとりじめできそうだと踏んだのだが、悲しいかな人生とはそこまで甘くはないらしい。

 こうして書庫の窓辺、日当たりのよい席でダウフトやリシャールとともに焼菓子と茶を味わってはいるのだが、少年はどうにも釈然としない。

「そういえば、リシャールさまの調べものって何ですか」

「大したことではありませんよ。イワカボチャの育てかたについて、ウィリアム殿に助言を求めに」

「かぼちゃ?」

「おや、ダウフト殿には話していませんでしたか。かぼちゃと羊にかけて、我がジェフレ家の右に出る者は」

 どうにも胡散臭い騎士のはなしを、ダウフトは大まじめに受け止めている。まるで、いたずら好きの兄に微笑ましい嘘を吹き込まれ、すっかり信じこんでいる妹の顔だ。

「かぼちゃだったら、父さんと兄さんがうんと詳しかったんですけれど」

「ということは、ダウフト殿の父上と兄上も<かぼちゃの接吻>を食らいましたか」

「リシャールさま、オードのならわしをご存じなんですか?」

「じつは騎士になりたてのころ、目の覚めるような一撃を鼻っ柱に」

 オードの乙女は聞きしに勝る手強さでしたと嘆息する騎士に、リシャールさまをふる人がいたなんてと驚きを隠せぬ村娘。たしかに彼に熱を上げる砦や町の乙女たちが聞いたならば、それこそ泣くわ怒るわの大騒ぎになるだろう。

 思えばダウフトとて、レネやマリーたちとともにリシャールの一挙一動にはしゃいでもおかしくはないはずなのに。

 愛想の欠片もないあの男よりははるかにましだろうとレオは思うのだが、ダウフトの様子を見る限り、そんな雰囲気は微塵も伝わってこない。それはリシャールも同じであるらしく、村娘の話に笑いながらうなずく騎士の双眸は、年の離れた妹を見守る兄のようなあたたかさに満ちている。

 ならばアンリやギュスターヴはと、とねりこ館に伺候する若い騎士たちを思い浮かべたのだが――眉目すぐれ、武勇にも才覚にも恵まれた彼らの誰であろうとも、乙女の傍らにいると想像しただけでなんだか面白くない。そこへ、黒髪の騎士の姿がよぎったものだからなおさらだ。

「どうしたんですか、レオ」

 不思議そうにたずねてくるダウフトに心裡をのぞかれたような気がして、わがまま侯子は慌てて空っぽの皿を差し出してみせた。

「べ、別に。ガレットをもらおうと思っただけだ」

「レオはほんとうに、このお菓子が好きですね」

 今度はノリスさんからもう少し大きめの型を借りなくちゃと笑いながら、オレンジの香りがただよう焼菓子を少年の好む大きさに切り分けて饗してくる素朴な村娘と。

 ごらんなさい。ベランジェールのヨランド伯母さまが届けてくださったのよと、南国の太陽を燦々と浴びた香り高い果実を手に微笑んでいたやさしい母と。

 少しも似たところなどないというのに、ちょっとした仕草のたびにほのかにたちのぼる花の香は同じで――

「しかし、よく食べるな坊やは。伸び盛りか」

 ぼんやりとおもいを馳せていたレオを現実に引き戻したのは、おかしげなリシャールの声だった。

「誰が坊やだ」

 砦にやってきたときから、幾度となく抗議しているにもかかわらず、どういうわけか琥珀の騎士はレオを坊や呼ばわりすることをやめようとしない。

「おや。姫君の御前で、厳然たる事実を突きつけられるのは矜持が許さないか」

「違うッ」

 この夏から、騎士見習いたちの誰よりも先に、ヴァルターともども副団長の修練を受けるようになった。

 仔狼たちの猛りなぞそよ風のごとく一蹴する老いぼれ狼の牙に、エクセターの若い狼に噛みしめさせられる砂埃のほうがまだ甘いことを知った。向こう見ずって、まさにあんたのためにあることばよねと呆れながら、飛び上がるほどにしみる膏薬をつけてくる金髪娘の酷評もなんのそのだ。

 それだというのに、<狼>の名を冠する男たちはいまだにレオを坊主だの小僧だのと呼ばわるときたものだ。おむつも取れない赤ん坊ではあるまいし、いい加減名前で呼べと主張したくなってくる。

「もう十五だぞ。次の春が来れば、騎士の叙任だってあるかもしれないんだからな。それを」

「おや、もうそんな時期か」

 わがまま侯子の騒々しい抗議をあっさりとかわして、リシャールは指を折りながら何やら数えていたのだが、

「ということは、坊やが砦に来てそろそろ一年か」

 すっかり忘れていたなと思いやりあふれる言葉を口にする騎士に、そうですねとダウフトが同意する。

「レオが砦に来てから、毎日がとてもにぎやかですから」

「傲慢にして不遜なる黄金のとねりこを、にぎやかの一言で評する貴女の器の広さを見習いたいものですよ、ダウフト殿」

 エーグモルトの諸侯司教が南の支配者たる侯家へと奉ったいやみを口にしながらも、リシャールは村娘に感嘆してみせる。

「獅子の心を宿せしアルトリウス、その裔たるデュフレーヌ侯家の激甚と矜持は代々有名でしてね。坊やはまさに、とねりこの申し子というわけです」

 もっともこの砦で多少の謙虚さを学ぶようになったようですがと、金髪娘による鉄拳制裁にあえなく屈服する少年の現実をほのめかしたリシャールに、

「じゃあレオが騎士さまになったら、デュフレーヌじゅうの人たちが喜びますね」

 にこやかに応じたダウフトに、当然だとレオは胸を張ってみせた。

「とねりこ館はもとより、デュフレーヌやベランジェール、南の諸侯領あげての祝いごとになるぞ」

 早世したロラン侯子とエルヴィラ妃が遺した一粒種の成長は、南の地では何にも勝る関心事だ。成人のあかつきにはデュフレーヌ侯たる祖父と、ベランジェール女伯たる伯母の世継ぎとして立つレオを、人々はきらびやかな祝典をもって盛大に迎えることだろう。

「モンマスの馬上試合や、ランスの歓迎式典よりもすごいんですか」

「並ていどの伯家や、成金趣味丸出しの催しなんか比べものになるものか」

 ダウフトにとって大きな祝典とは、潔癖な司祭を「無礼講のきわみ」と落涙させる砦の莫迦騒ぎや、聖女としてモンマスやランスで参列したいくつかの式典が、思い浮かべることのできる精一杯であるらしい。誰それの誕生日に祝宴にと、贅の限りをつくした催しものなぞ飽きるほどに見てきたレオと違い、家族や村人たちとささやかな祝いごとを楽しむ暮らしをしていたのだから仕方がなかろう。

 そういえばモンマスでは、名もしれぬいずこかの騎士が乙女に勝利と忠誠を捧げたとか。どこの田舎者かは知らないが、砦の聖女にあかしを求めようとは、<母>をも怖れぬ大胆不敵な輩もいたものだ。

 いずれはそいつの正体を暴いてやろうと心に誓いつつ、緑の瞳をくるめかせている村娘に、デュフレーヌでとりおこなわれる騎士の叙任がいかに盛大かつ壮麗なものであるかをレオは語る。

「父上が騎士に叙せられたときのことを、爺やから聞いたことがあるぞ。まず聖堂で一晩じゅう祈りを捧げるんだ」

 <母なる御方>に誓いを立て、沐浴で身を清めた若者の前に用意されるのは、騎士たる者にふさわしき装いだ。

「麻の長衣に緋の外套、白い帯に茶の靴下。それから拍車と剣をまとうんだ」

「鎧兜や馬は?」

 騎士さまには大切なものでしょうと首をかしげるダウフトに、装いそのものに意味があるのですよとリシャールがそっとつけ足す。

「白い衣はけがれなき身を、緋の外套は流すべき血潮を、白い帯は身に潜む欲望を抑え、茶の靴下はやがて瞑る大地を思うために。拍車は馬と同じように疾く参じることを」

「じゃあ、剣は」

「騎士たる者の誓いそのものです」

 恐るることなかれ。誠実であれ。真実を語れ。守るべきものを思え。

 若者を騎士に叙した者が授ける首打ちの儀礼コレ、肩に残った痛みは、腰に佩いた鋼の重みとともに、かの者が騎士たることの意味を生あるかぎり問い続けてくるのだから。

「鎧兜や馬、盾や旗指物のお披露目はそれからだ。父上のときは、叙任式のあとで半月も祝宴が続いたというぞ」

「すてきでしょうね、騎士さまになったレオは」

 輝く鎧兜に身をよろい、鮮やかな緋の外套をまとい、金の拍車も高らかに。剣と同じ白銀に輝く狼姫を従えた凛々しい若武者が、人々の歓呼に堂々と応える姿を思い描いたのだろう。村娘の唇がほころんだ。

「できるなら、遠くからでも見てみたいです」

「遠くからなんてとんでもない。ダウフトにはいい場所を用意しておくから」

 些細な序列にやかましい連中が何を騒ぎたてようとも、断固そうするつもりだ。何なら砦の奥方に、ダウフトを縁者として列席させるように頼んでもいいだろう。たとえ厳かで盛大な式典を前に柄にもなく緊張したとしても、春の緑をたたえたまなざしがそばで見守っていてくれると思えば、安心して臨むことができるだろうから。

「衣装なら、お祖母さまやヨランド伯母さまにデュフレーヌの装いを用意していただくからな。何なら式典のあいだ、とねりこ館に滞在したっていいぞ」

 幼き日の幸福な思い出が詰まった中庭、今では庭師のほかは何人たりとも近づかぬよう命じてある場所を、ダウフトにならば見せてもかまわない。

 薔薇にすいかずら、百合やすみれやえにしだ、数多の果樹やとりどりの香草に。父と母がこよなく愛した庭園の住人たちは、あふれる彩りを楽しむ村娘をあたたかく迎えてくれることだろう。

「ああ、エクセター卿なら心配しなくてもいいぞ。水ぐらいは出すように取りはからっておくから」

「ずいぶんな待遇の差だな」

 呆れ顔のリシャールに、本人の強い希望だからなとレオはやりかえす。

 以前、同じ話題が<狼>たちの詰所でのぼったとき、水なら出してやってもいいぞと傲然と言い放ったレオに、それは結構と黒髪の騎士は冷徹に応じたものだ。

「オーヴェルニュの湧水といえば、天上の甘露にもなぞらえられる美味と聞く。へたな林檎酒を出されるよりはるかにましだ」

 数代前の祖父がみごと失敗した林檎酒作りを、デュフレーヌが誇る名水の産地とからめて切り返してきた男に、とねりこ館最大の禁忌に触れるのかと騒ぎかけ、やかましいわねこの莫迦殿がとレネに無理やり口をつぐまされたことなぞ思い出したくもなかったのに。

 金髪娘の迫力に満ちた面をできる限り記憶のかなたに追いやって、レオはつとめて平静に問いかけることにした。

「そういえば、ジェフレ卿のときはどんな叙任式だったんだ?」

 デュフレーヌとは比べるべくもない家柄とはいえ、騎士として立ったからには祝典のひとつくらいはあっただろう。裏返せばそれは、エクセターの無愛想がどんな顔で式典に臨んだか知りたかったからだが、本人に直接聞くのはレオの矜持が許さない。

「あっ、わたしにも教えてください」

 リシャールさまなら、きっと姫さまがたがうっとりしたでしょうねと、ダウフトまでもが無邪気な笑顔をのぞかせたのだが、

「ありませんでした」

 琥珀の騎士のこたえは、じつにあっけないものだった。

「どういうことだ?」

 思わず聞き返したレオに、言ったとおりさとリシャールは至極穏やかに返す。

「俺たちが来たのは、魔族の猛攻に耐え抜いていたこの砦だ。首打ちの儀礼の代わりに頬を打たれ剣を授かって、後はいくさ、いくさ、いくさの日々」

「……ごめんなさい、リシャールさま」

「そんな顔をなさらないでください、ダウフト殿。まるで俺が悲しませたかのようだ」

 これではレネ殿に怒られてしまうなと、悄然とした村娘をやさしくなだめる琥珀の騎士が、乙女の前だからこそ淡々と述べるだけにとどめた事実。

 幼さをとどめる頬に食らった痛みも消えやらぬうちに、斃れた騎士の剣を握らされ、迫り来る異形であふれかえるいくさ場に立つように言い渡される。

 砦に来た二十人のうち、四人だけが生き延びた六年目の騎士たちが晒された凄惨がそこにはあった。

「エクセター卿は?」

 問いかけたレオに、琥珀の双眸が向けられた。<森>のシルヴィア、樹海の女王をどこか彷彿とさせる騎士のまなざしに、何なんだと一瞬ひるみかけたのだが、

「さ、おつかいの時間だぞ。坊や」

 清潔なリネンに、ダウフト手製のパンをふたつみっつ包むと、リシャールはそれを唐突にレオへ押しつけてきた。

「朴念仁に、ダウフト殿からの心づくしだと」

 招かれざる客に出くわして、苛立っているうえに腹が減っているだろうからなとのたまった騎士に、なんで僕がとレオは思いきりふくれたのだが、

「いまこの場で、使い走りに立つべき者は誰だ?」

 たとえとねりこの侯子といえども、騎士見習いの身分では正統なる騎士の命令に従わなくてはならない。そのことを思い出させてきたリシャールに、ああ分かったと少年はふてくされながら立ち上がる。

「さすが坊やだ、聞き分けがいいな」

「だから坊やじゃないと言ってるだろうがッ」

 憤然と書庫を出ていこうとしたレオを、待って下さいと引きとめたのはダウフトだった。

「あの、これも」

 パンを包んだリネンに村娘がそっと添えたのは、大きくつややかな赤い果実だった。

「果物売りのおじさんからいただいた、エクセターの林檎です」

 ギルバートに渡してくださいねと微笑む村娘に、あんな奴にそこまでしなくたってという言葉が口を突いて出かかったのだが、言ってしまえばダウフトが、黒髪の騎士を見送っていたときと同じ目をするのが分かりきっていたものだから。

「わかった」

 あえて短く応じるだけにとどめて書庫を後にすると、レオは砦のある一画へと足を向けた。


 かぼちゃ頭の部屋は、たしかこの先だったな。


 戦時や当直をのぞいて、首脳陣や騎士たちが起居するそれぞれの私室は、砦でも天守閣ドンジョンに近い場所に位置している。

 騎士見習いであるレオが、デュフレーヌの侯子という身分に応じて与えられた私室もそのひとつなのだが、今はもっぱらトマス爺やが、幼いあるじが一日も早く騎士として正式に部屋を使う許しを得られるようにと願いながら、毎日せっせと磨き上げている。

 トマスさんの苦労はいつ報われるのやらと、ヴァルターなぞはよけいな心配をしてくれたものだが、そんな彼のあるじの部屋は、そこからだいぶ離れたところにあったはずだ。

「だいたい、何で僕がエクセター卿に届け物なんか」

 明るく開放的な自分の私室とは違い、あるじとそっくりで暗くて殺風景きわまりない部屋に違いないぞとあれこれ思い描いて憂さを晴らしつつも、いつのまにかレオはギルバートの私室の前にやってきていた。

 入り口を閉ざす樫の扉を睨みつけ、一呼吸おいてから、レオは取り次ぎ役もつとめているはずのヴァルターを呼ばわった。

「いるのか、ヴァルター」

 届け物にきてやったんだぞ感謝しろと、やたらと偉そうなおつかい役に応じる声はなかった。

「まったく、僕がわざわざ足を運んでやったのに」

 ふてくされながらも、さらに声を張り上げようとしたとき、重たげな扉がわずかばかり開いていることに気がついた。取っ手に触れると、かすかなきしみともにレオ一人がすり抜けられるくらいの隙間ができた。

「ずいぶん、のんきなものだな」

 こんな時勢だ。錠もかけずに部屋を空けるなど、さあ何もかも好きなように持ってゆけと喧伝しているようなものだ。いかな田舎騎士とはいえ、盗られては困るもののひとつやふたつくらいはあるだろうに。

「いるのか、ヴァルター。エクセター卿」

 どういうことだとぼやきつつ、部屋に入ったレオの双眸が見開かれる。

 南向きに開け放たれた窓からは、砦の内陣はおろかふもとの町や周辺の森がよく見渡せた。天気と運が良ければ、デュフレーヌのなだらかな丘陵や肥沃な土地、彼方にかすむダウフトの故郷、南東のオードも見えることだろう。

 思っていたよりも明るい室内は、あるじの人となりをあらわすかのように整然と片づけられている。質実剛健を良しとするエクセターの調度は、デュフレーヌの瀟洒と洗練を見なれた少年にはずいぶん武骨なものに映ったのだが、それもまたあの騎士を思えば納得がいくというもの。本やチェス盤、クッションなどがあちこちに散らかった少年の部屋とはまるで異なる、落ち着いた雰囲気がただよう大人の部屋だ。

「ふ、ふん。飾り気がひとつもないことは当たったな」

 負け惜しみを口にしつつ、窓辺に置かれたものを見たとたんレオは口をへの字に曲げる。のっぽの学僧ご自慢の薬草園の片隅で、ダウフトがアネットといっしょに育てているオードの花があったからだ。

 違う、今はこんなことをしている場合じゃないと気を取り直し、レオはあるじが不在の部屋からさっさと退出することに決めた。

 林檎はともかく、ローズマリーのパンは後でダウフトに事実を告げてから自分がもらうことにしよう。届け物をしたくとも、当の本人がいないのだから仕方がない。

 そうだそうしようと、ひとり納得して扉の方へと歩みかけたレオだったが――ふと、文机の上に置かれたものに目がとまった。

「手紙か」

 レオが訪れる直前までしたためていたのだろう、書き損じて上から幾重にも線を引いて消した痕跡がある。急いでいたのか、ふだん見なれた騎士の字とは思えぬほどに乱れた筆跡だ。

 まるで身の裡に抑えた感情をつとめて表すまいとしながらも、それに苦心しているかのような――

「ソーヌ司教猊下へ」

 何の気なしに口に出した、手紙の宛名にこころが凍てつくのを感じる。回廊で従者が告げた名に、ダウフトと黒髪の騎士がそれぞれに見せた表情を思い出したからだ。

「<髪あかきダウフト>の動向を」

 呟くように続きを読み上げる声はかすれ、インクで汚れるのにもかまわず文字を追っていた右手が、やがて騎士がしたためた報告書をぐしゃりと握りつぶしてゆく。


(道化がけして思い上がることのなきように)

(いくさが終われば、もはや用済みの)


 ほのかにあたたかいダウフトからの預かりものを、頼みの綱であるかのように左手でかたく抱きしめながら、光さす室内でしばし立ちつくしていたレオが、やがて面を上げることなく呼ばわった。

「エクセターのギルバート」

 漆黒の双眸を自分に向けたまま、無言でたたずむ部屋のあるじを。


 鋼玉の双眸に閃いた、苛烈そのままに。

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