第15話・聖女と騎士と竜にまつわるてんまつ・10


「どういうことだ?」

 琥珀の双眸を眇めたリシャールに、報告に駆けつけた兵士が困惑の表情をうかべる。あのそれがと、しどろもどろになった若者に代わるかのように、彼が抱えているものがにゃあと鳴いた。

「おぬしの知る限りのことでいい、話せ」

 いくぶん口調をやわらげた騎士に、叱責を食らうとばかり思っていたらしい兵士は、ほっとしたように緊張を解く。

「猫を掴んだ魔物を追いかけて、エクセター卿とレオ殿が厨房に乗り込まれたのですが」

 神聖なる厨房に土足で踏み込んだかの異形を、卓の端で優雅にくつろいでいた雌猫ヘンルーダと、料理といういくさに臨む猛者たちがおいそれと見逃すはずもなかった。

 黒髪の騎士とわがまま侯子、成りゆきでついてこいと命じられた若い兵士の眼前で、<厨房の貴婦人>による一撃を皮切りに、包丁に焼き串、めん棒にのし台、鍋にやかんにバクダンイモにイワカボチャと、料理人たちによる下ごしらえもとい総攻撃を食らった魔物が、仕上げとばかりに料理長ノリスがふるった鉄鍋に、みごと沈められていったのだとか。

「小鬼が床に叩きつけられたとき、こいつがぽろりと離れたのです」

 魔手から解き放たれ、おののいて物陰に身を潜めようとした小さなけものを抱き上げる手があった。そらダウフトのところに帰るぞと、ほっとした様子で仔猫をのぞきこんだレオが、たちまち表情を驚きに満たしたのだという。

「違う、こいつじゃないと仰せになられて」

 困惑した様子で話し続ける兵士の手にじゃれつく仔は、四つ足に白い模様をあしらったきじ虎と白のぶちだ。どう見ても、魔物に連れ去られたティグルではない。

「囮か」

 声を低めた琥珀の騎士に、エクセター卿もそう仰せでしたと兵士はうなずく。

「リシャールさま、では」案ずるようなレネの声に、

「どうやら、まんまと乗せられたようです」

 うらみとにくしみに凝り固まった、あのねじれた異形が考えたならば大したものだ。

 魔物の出現に砦じゅうが騒然としている今、剣や槍を取るべき者たちは副団長の号令一下、ほとんどが城壁や塔といった持ち場についている。ふもとの町にも、警戒を促すべく伝令たちが馬を走らせていることだろう。

 外の防備を固めれば、どうしても内側の守りが手薄になりがちになることは否めない。ちっぽけな復讐心を満たさんがために仔猫をさらったにせよ、小鬼の行動はエフィルをおびき出すには十分だ。そうしてみどりの幼子がひとりで動くことを、その「母」たる娘が放っておくはずもなく――


「おう、遅れてすまんな」

 何とも陽気な声とともに現れたのは、槍を携えた砦いちのお調子者だ。後には、堂々たる巨躯を鎖かたびらに包んだ<熊>どのが、戦斧を手にたたずんでいる。

「ずいぶんと優雅な到着だな、ウォリック卿」

 皮肉るリシャールに、無茶言うなってとサイモンは反論する。

「こっちに来る途中で、施療室の連中に捕まったんだ。ギルバートが窓を蹴破ったとか何とか」

 そう告げるサイモンの向こうから、エクセター卿はいたか、見つけ次第簀巻きにして連れ戻せッと、殺気だった看護人たちの声が聞こえてくる。

「何をやらかしたんだ、あいつ」

「なに。宵闇に忍びゆき、暁に別れでも惜しみたくなったんだろう」

 さらりと口にした冗談に、仔猫を抱いた兵士がぎょっとしたことにもかまわず、リシャールはふたりの戦友に向かって口を開いた。

「頼みたいのは他でもない、ダウフト殿だ」

 珍しく、面目なさそうな表情をみせた琥珀の騎士に、

「して、乙女御はどちらに」

 部屋中を見まわして問うたウルリックに返ってきたのは、逃げられたというたいへん正直ないらえだった。

「ダウフト殿がダウフト殿たる所以を、どうも俺は失念していたらしい」

 囚われの仔猫を救わんと、飛び出していったやんちゃな仔竜の後を追いかけようとした村娘を、つかまえるだけでも一苦労だった。

「でも、ティグルとエフィルが」

 魔物にいじめられているかもしれないのにと、懇願する瞳に揺らぎかけた決意を何とか立て直し、

「なりません」

 あえて心を鬼にして、放ったことばにダウフトがうなだれるさまに、まるで小さな妹を悲しませたような罪悪感にさいなまれたものだ。魔物たちのいまひとつの標的が聖女だと分かった以上、みすみす彼女を危険に晒すわけにはいかなかったのだから。

「ギルバートさまがお戻りになるまで、ここで待ちましょう」

 きっと良い知らせをもたらしてくださいますわとレネに諭され、おとなしくうなずいているダウフトの姿に、ついほっとしたことが油断につながったらしい。

 あたたかい飲み物でもお持ちしましょうねと金髪娘がそばを離れ、リシャール自身が部屋を訪れた兵士や従者の報告を聞き、次の指示を与えるために目を離したほんのわずかのこと。

「だ、ダウフトさまっ?」

 たまげたレネの声に振り返ってみれば――あろうことか、もたもたと窓枠によじ登り、よいしょと乗り越えていこうとする守り姫の姿があるではないか!

 とっさに窓辺へ駆け寄り、捕らえようとしたリシャールの手を春風のようにすり抜けて。外の石畳に尻もちをつく格好で降りた村娘は、あいたたと顔をしかめながらも立ち上がり、騎士のほうを振り返った。

「ごめんなさい」

 アネットたちをお願いします、後でいっぱい怒られますからと早口で告げると、村娘を引き留めようとした兵士や従者たちを振り切って、たちまち回廊の向こうに駆け去ってしまったのだとか。貴女もエイリイに勝るとも劣らぬおはね娘か、とぼやいたところで後の祭り。


「何人かにすぐさま後を追わせたが、とうてい追いつかんだろう」

 嘆息したリシャールに、何ともダウフト殿らしいことよと髭面の巨漢はうなずいてみせる。

「エクセターの苦労が、わずかながら偲ばれようというものだ」

「まったくだ」

 当のギルバートは、追っていた魔物が囮だと分かった時点で即座に厨房を出て、ほんもののティグルを連れた小鬼を追い始めたはずだ。

 もともとうるわしくない幼馴染の機嫌が、今や雷鳴すら轟かせているさまが目に浮かぶようだ。そうしてその後を、こら僕を置いていくなとわめきながら追いかけているであろう、わがまま侯子の姿さえも。

「ギルバートにばれたら、えらい目に遭わされるぞ」

 呟くサイモンに、それを言わんでくれとリシャールはたちまち苦い顔をする。

「あやつのことだ。おぬしの頭は空っぽ瓜かだの、目玉の代わりに石ころでも嵌めていたのかだの、さぞや胸を抉るような言葉で責めさいなんでくれるだろうさ」

 坊やに大声で罵倒されるほうがまだましだと、冗談めかして答えてみせたものの、実際はかなり洒落にならぬ事態になりかねない。いかなリシャールといえども、いにしえの戦乙女を同じ祖に戴く黒髪の友と、王の裔たるあかしをとねりこの名にとどめる少年の憤怒と復讐から逃れることはたやすくはあるまい。

「つまり俺たちにここを任せて、おぬしがダウフト殿を連れ戻しにゆく算段か」

「いや、逆だ」

 怪訝そうな顔をしたサイモンとウルリックに、琥珀の騎士はレネと、彼女に寄り添っている子供たちのほうを振り返る。

「守りを務めると、名乗りを上げたのは俺だ」

 だから、ここを離れるわけにはいかんなと告げた琥珀の騎士を、薔薇の吐息とともにレネが見やる。

「リシャールさま」

 だまされるんじゃない娘さんという、サイモンの忠告などうわの空。琥珀の騎士をうっとりと見つめる金髪娘に、黙って首を横に振ったウルリックが戦斧を構えなおした。

「して、人騒がせな竜の仔と守り姫はいずこに」

 <熊>の問いに、リシャールは回廊のかなた、南の城壁塔へと続く方角を指し示した。では参ろうかと、表に出て行きかけたウルリックの泣く子も黙る強面が、若い兵士が抱えたぶちの仔猫を見るやいなやたちまちとろけるような笑顔に変わったのは、この際見なかったことにしておいた。

「借りは高くつくからな、リシャール」

 仕方なさそうに言い放ちながらも、表へと出て行くサイモンを見送りながら、琥珀の騎士は秀麗な笑みを返す。

「何なりと。エクセターの林檎酒でも、ボウモアの蒸留酒ウシュク・ベーハでも」

 つけはギルバートに回しておくぞと、ようやくいつもの調子を取り戻した琥珀の騎士に、ついでにかわいい子の酌があればなおよしだと、お調子者は注文をつけ加える。

「そうか、ならばロザリー殿を砦にお招きしておくか」

「な、何であいつを」

 自分の手綱を握りしめている、パン屋の跡取り娘の名を聞いてうろたえるサイモンに、ああそうかととぼけてみせる。

「この間、おぬしが肘鉄を食らった花売り娘の件について、まだ存じあげていなかったはずだが」

「ロザリーにしてくれ」

 即答するサイモンに、水入らずで過ごせる機会ができてよかったじゃないかとリシャールは笑う。

「おぬしの率直さを、どこかの朴念仁にも見習ってほしいものだ」

「やかましい」

 この策士がとリシャールを睨むと、砦いちのお調子者はウルリックを促して、仔竜と乙女が駆け去った方角へと歩き出す。遠くからはまだ、血眼になってギルバートを捜しているらしい看護人たちの声が聞こえてくる。

「さて、吉と出るか凶と出るか」

 呟いた琥珀の騎士に、あのうと遠慮がちにかけられた声があった。振り返れば、先ほどの若い兵士が、仔猫を抱えたまま当惑した表情を浮かべている。

「そろそろ俺、持ち場に戻りませんと」

 こいつをどうしましょうと、革手袋に包まれた若者の手を甘噛みしているぶちの仔に、気に入られたようじゃないかとリシャールは笑ってみせる。

「とりあえず、ここの守りに就け。その子にも、温めた乳くらい舐めさせてやらないとな」

 長いつき合いになるぞと笑う騎士に、猫よりは女の子とお近づきになりたいですと複雑な顔を見せる兵士。人間たちの騒ぎなどどこ吹く風とばかりに、危うくティグルの身代わりにされかけたぶちの仔猫は、気のない欠伸をするのだった。



              ◆ ◆ ◆



 あいつ、どこにいったんだろう。


 だれもいない砦の片隅で、はるか遠くに人々の騒ぎを聞きながら、幼い竜は首をかしげる。確かこのあたりに逃げ込んだはずなのにと、狭い隙間や無造作に置かれた樽の後ろをのぞきこんでみても、小鬼どころか鼠一匹見あたりはしない。

 おとうさんと大きな子供が出かけた後、部屋の入り口に陣取って帰りを待っていたのだが。

 幼いとはいえ、万象を見抜く聖獣の双眸は、ものものしくあちこちを行き来する人間たちに気づかれないようにと、物陰に身を潜めている小鬼の姿をとらえていた。

 枯枝のような手に握りしめられ、救いを求めてもがいている小さなけものは、魔物に襲われることにすらかまわずにおかあさんが取り返そうとしていた仔、はじめて砦にやって来たときに怖がらせてしまったきじ虎だ。

 こそこそと行こうとする小鬼を見ているうちに、幼い竜の頭にふと浮かんだのは、あいつをつかまえてやるんだというおもいだった。

 仔猫が帰ってくれば、おかあさんはきっと喜んでくれる。おとうさんと喧嘩をしたときのように涙をこぼさなくて済む。

 ほんとうの話、おとうさんがいちばん嫌いなものは、鋭い剣やいやな魔物よりも、おかあさんの悲しむ顔だということを仔竜はちゃんと知っているのだから。

「エフィル」

 両手を腰に当てて立ち、こっちを睨んでいるおかあさんが、積んであった藁の山にいたずらで火を吹いたときに怒ったおとうさんと同じくらいにこわいことも。

「ひとりで出て行っちゃだめでしょう」

 めっと睨むおかあさんに、ごめんなさいと長い首をうなだれさせる。どうしてばれちゃったのかなと思ったが、ふと見れば、おかあさんが腰に下げている、やたらと古ぼけた剣が目に入った。

 <ヒルデブランド>。どんなときもおかあさんにくっついているそれが、不可思議の力をもって仔竜がここにいることを知らせたのだろうか。

「でもいまは、<ヒルデブランド>にお礼を言わなくちゃいけないわね」

 安堵の表情で、やさしく抱きしめてくれたおかあさんに甘えながら、思っていたことが当たったことを仔竜は知る。

「ティグルを探しにきてくれたのね」

 こんなところまでと、あたりを見まわしておかあさんがちょっぴり呆れた顔を見せた。どうやらここは、さっきの部屋からずいぶんと離れた所であるらしい。

「きっと、リシャールさまやレネは怒っているわね」

 危ないってさんざん言われたのに、アネットたちの面倒をちゃんと見るって約束したのに、ひとりで勝手に飛び出してしまったのだから当たり前ねと呟いたおかあさんだったけれども、

「それからええと、ギルバートも」

 おとうさんの名前を挙げたとたんに、芋と玉ねぎときゃべつと蕪で済むかしらと、おかあさんはにわかに悲壮な面持ちになる。

「麻糸を三月ぶんつむげだとか、リャザンの教母さまの詩を百遍書き取れだとか言われそう」

 どうやらおかあさんにとっても、怒ったおとうさんはとても怖いものであるらしい。いっしょに怒られる前に、早くティグルを見つけようよと、おかあさんの服の裾をくわえてかるく引っ張った仔竜だったが。


 首筋をざわりと撫でられるような、忌まわしい気配。こわばった面持ちになったおかあさんが、怖がらないでと仔竜の背をそっと叩きながらあたりに頭をめぐらせたときだ。

「ティグル」

 みいみいと声を上げているきじ虎の仔猫に、おかあさんが驚いた顔を見せた。

 小さな身体を掴んだまま、こんな単純な囮にひっかかったのかと言わんばかりに、嘲るような笑いを投げつけてきた小鬼の周りには、かの者が呼ばわったらしい同胞たちが群れている。前にも、後ろにも、もちろん左右にも。


「ギルバート」

 珊瑚の唇からこぼれた呟きは、けたたましい叫びとむらがる影、そうしてそれを貫いた一筋の光のなかにかき消されることとなる。

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