第15話・聖女と騎士と竜にまつわるてんまつ・7
南の城壁塔で起こった、ささやかな騒ぎから二日のちのこと。
「で、そのざまというわけか」
端に薄紅のリボンを結わえた籠を手にしながら、秀麗な面差しに呆れの色を浮かべたリシャールに、うなるような答えが返ってきた。砦の医師をつとめるイドリス老から安静を命ぜられたギルバートが、憮然として寝台の上に身を起こしている。
「何度言っても、人参嫌いと俺に突進する癖だけは直らん」
額や頬に膏薬を貼りつけ、麻のシャツからのぞく二の腕に包帯を巻きつけた姿ときたら、なんとも情けないことこの上ない。
「子育てというのは、なかなか生命がけだな」
参考にさせてもらうかと揶揄したリシャールを、おぬしは見舞いに来たのか、単に俺をからかいに来たのかどっちだとギルバートは睨みつける。もちろん幼馴染のことだ、両方に決まっているだろうと悪びれもせずに答えることは分かっていたけれども。
思うように羽ばたくことがかなわず、落ち込むエフィルをなぐさめたまではよかったが。
嬉しさのあまり力加減を忘れた仔竜に突進され、哀れ巨体の下敷きになったギルバートは、兵士たちに担がれて城壁塔から降ろされるはめになった。その際、詰所と私室のどちらにお連れいたしましょうと壮年の兵士に問われたダウフトを遮って、
「エクセター卿には、当分施療室で休んでいただくように取りはからえ」
天の御使いもかくやという笑みを浮かべたわがまま侯子が、たいそううるわしい師弟愛を披露したとかしなかったとか。
「俺がここにいる理由は、後でレオを問い詰めてやるとしてもだ」
問題は、どうやってここから抜け出すかだというギルバートのぼやきを遮るかのように、恐怖に満ちた男の叫びが奥の室から聞こえてきた。あっいけませんコンデ卿が、そら気つけ薬をお持ちしろと、イドリス老の弟子たちが慌ただしく走り回る物音が後に続く。
「クロードか」
しばしの間をおき、静かに問うたリシャールに、ギルバートは沈鬱な面持ちでうなき返す。魔物との小競り合いで、腕に軽い傷を負っただけの仲間が、手当てと称してどんな実験につきあわされているのか知りたくもないらしい。
どうやら黒髪の騎士が施療室に留めおかれているわけも、クロードに続く格好の生贄を逃してなるものかという、長老たちの迷惑な熱意ゆえとリシャールは察する。寝台の傍らにある小さな卓に置かれたままの薬湯の杯や、一切手をつけられていない怪しげな粥の皿がそれを物語っている。
「まあ、腹が減ってはいくさはできんと言うだろう」
のちのち見舞う災厄の大きさより、目先の小さな得を優先させたか坊やとそっと呟くと、琥珀の騎士は手にした籠をギルバートへと差し出した。
「そら、ダウフト殿からの差し入れだぞ。羊飼いのパイだ」
籠を覆っていたリネンを外したとたん、中に収められていた深皿からふわりとたちのぼってきたなつかしい匂いは、遠く離れた故郷へのおもいをそっとかきたてたのだが。
どうしてオード生まれのダウフトが、この料理の作り方を知っているのかと思いかけ、ギルバートは慌ててそれを打ち消した。少しくらい嬉しそうな顔をしたらどうだと言わんばかりの、幼馴染のからかうようなまなざしに気がついたからだ。
「エフィルは?」
淡々と発せられた問いに、聞きたいことはそれだけかと言いたげな顔をしたリシャールだったが、
「午前中いっぱい猛特訓をつづけて、いまは子供たちと昼寝中だ。むずかっていたところを、ダウフト殿がようやく寝かしつけてな」
おとうさんのところに行くんだと、石壁や柱を粉砕しかねない勢いでだだをこねる仔竜へ、ギルバートが元気になったらまた遊んでもらいましょうねとやさしく言い聞かせていたのだとか。
「そうか」
遊ぶ云々はともかく、少なくともダウフトの判断は正しかったとギルバートは胸をなで下ろす。翡翠の鱗に覆われた巨体の突進を阻むことができるほど、施療室の扉は頑丈ではないからだ。ついでに壁も。
「何なら、今のうちにダウフト殿に来てもらうか? かわいい我が子のことをじっくりと話し合うのも悪くなかろう」
「いらん」
昼寝から目覚めてダウフトの不在を知れば、さみしがりやのエフィルは砦じゅうをおろおろと探しまわるだろう。行き先がここと分かれば、後の騒ぎが容易に思い浮かぼうというものだ。
難攻不落をうたわれながら、些細なきっかけから砂のごとく崩れ去ったという古都の城壁ではあるまいし。
もうもうと立ちこめる埃と床一面に散らばる瓦礫を前に、あんぐりと口を開けたまま身動きの取れぬ患者や看護人たちを前にして。みずから突き破った石壁から顔を出し、みぎゃと明るく声を上げてみせる仔竜の姿をうっかり思い描き、ギルバートが眩暈を覚えたときだ。
やや離れた室から響いてきた、けたたましくも忌まわしい叫び。
何かが倒され壊される物音と、ついで起こった誰かの悲鳴と子供たちの泣き声に、考えるよりも先に寝台の端に立てかけていた剣を手に取っていた。
「独り寝のわびしさをかこつ暇もなさそうだな、親父殿」
「……うるわしき
己にことのほか寵愛を授けているらしい、<母>の数多ある相のひとつへ、北の古語でありったけの感謝と罵倒を捧げながら。
エクセターの堅物騎士は、ここを蹴破るぞと友が笑って指さした大きな窓へと向きなおるのだった。
◆ ◆ ◆
施療室のできごとよりも、ほんのすこしだけ前のこと。
「やっと寝つきましたね、ダウフトさま」
涼しい風が吹き抜ける一室。大きな寝台の上で、思い思いの寝姿を披露する砦のわんぱくたちを見渡して、ふうと息をついたレネにダウフトが笑みをこぼした。
「お昼寝なんていやだって言われたときには、わたしもどうしようと思いましたけれど」
白銀の仔狼を傍らに従え、大の字になって眠りこけるアネットへ毛布をかけてやりながら、規則正しい寝息とともに翡翠の鱗に覆われた背が上下しているさまに村娘は新緑の瞳をなごませる。子供たちが休んでいる寝台のそばで、エフィルがくるりと身を丸めていたからだ。時折むにゃむにゃと呟いては尻尾を動かしているあたり、どうやら夢でも見ているらしい。
「ギルバートの夢かしら」
施療室のほうを見つめては、みゃあと切ない声を上げていた仔竜の姿を思い出して。エフィルはお父さん子かもしれないわと呟いたダウフトへ、今のうちにギルバートさまの所に行かれてはいかがですと、レネがそっと耳打ちをしてくる。
「ダウフトさまだって、心配ではありませんこと?」
「……ええ」
これはまた格好の獲物が――あ、いやいや大事を取って安静にと、ギルバートを診た長老のやたらと嬉しそうな顔を思いだし、ダウフトは妙な不安を覚える。怖れを知らぬ砦の猛者たちが施療室の名を耳にしたとたん、苦い薬を前にした幼子よろしく必死に抵抗するさまを何度も見てきたからだ。
「でも、この子たちを放ったらかしにはできません」
子供たちの面倒をしっかりみるようにと、砦に来たときに奥方さまとお約束しましたと告げたあるじに、
「もう、変なところでまじめなんですから」
たまには、お二人でゆっくりと過ごせばいいのにと溜息をついたレネに、リシャールさまがお見舞いから戻られたら、ギルバートの様子を聞けますからと村娘は言葉を続ける。
「それに、わたしが行ってもきっとこう言われます。エフィルのそばについていろって」
堅物騎士の声音と、しかめつらしい表情をまねてみせたダウフトに、いやだちっとも似ていませんわとたちまち吹き出すレネ。ううんと声をあげて寝返りをうったアネットに、娘たちが慌てて笑いを収めようとしたときだ。
「ダウフトさま」
鳶色の瞳を丸くしたレネが、仔竜のほうを指し示す。
「まあ、ティグル」
大きな翡翠の背へ誇らしげに乗っているきじ虎の仔猫に、今までどこに行っていたのかしらとダウフトは目を見張る。
エフィルが砦にやってくる、ほんのすこし前のこと。
しのつく雨の中、かぼそい声で母親を呼んでいた仔猫は、<狼>たちの詰所で飢えと寒さから解放されるなり、無遠慮につまみあげようとしたレオに向かって毛を逆立ててみせた。そのさまを見た少年が、まるで
「それなら、この子の名前もティグルにしましょう」
優美なけものとは似ても似つかぬ仔猫を抱き上げたダウフトへ、おぬしの名づけかたは何がもとだと異を唱えた男がいたものの、結局それを押し切っていまに至っている。
名はいのちの本質をあらわすもの、とは言うけれど。
エフィルの出現に、はじめこそ警戒心をあらわにしていた仔猫は、虎の名にふさわしい豪胆さも持ち合わせていたようだ。
幼い聖獣の背でめいいっぱいに身体を伸ばし、翡翠の鱗でぱりぱりと爪を研ぐ姿に、どちらからともなく顔を見合わせたふたりの娘が互いに笑みをこぼしあう。
「あのままにしておきましょうか、ダウフトさま」
「そうですね。エフィルも気持ちよさそうですし」
背に感じた気配にふと目を覚まし、わずかに頭をもたげたものの。
自分の頭や尾が届きにくいところを掻いてくれる仔猫に、まんざらでもない表情をうかべてまどろむ仔竜を見て、そろそろ厨房に行ってきますねとダウフトは側づきの娘へ告げる。昼寝から覚めた後で、お腹がすいたとにぎやかに主張するであろう、わんぱくたちのおやつを用意するためだ。
「ダウフトさまも、すっかりおかあさんですこと」
くすくすと笑うレネに、あんまりからかわないでくださいと恥ずかしそうに答えると、村娘は部屋から歩み出た。
「出かけるのか、ダウフト」
魔物たちの襲撃に備え、扉の横で見張りに当たっていたレオが問いかけてくる。
「ええ、厨房まで」
守り姫のいらえに、それなら僕も行くぞとレオは応じる。ギルバートが不在の間、自ら聖女の護りを買って出ようとした騎士見習いは、戯言は髯が生えそろってからにしろと副団長に一蹴され、リシャールの下であれこれと雑用をこなすはめになったのだ。
「だいじょうぶです。ここからそんなに遠くありませんし」
「だめだ」
魔物が襲ってきたらどうするんだと譲らない少年の表情は、ふしぎと若い師匠に似通ったところがある。おそらく口にすれば、こんな奴と一緒にするなとふたりそろって嫌がったことだろうけれど。
「じゃあ、レオも一緒におやつの支度を手伝ってください」
きょうは人参のお菓子ですと明るく告げたダウフトに、少年はたちまち言葉につまる。好き嫌いの多い仔竜のとばっちりを受けて、ダウフトが取りそろえた人参づくしの料理を前に涙したのは最近のことだったからだ。
「ノリスさんの新作なんです。レモンの風味をつけた焼菓子だそうですから、きっとレオもエフィルもおいしく食べられます」
とねりこ館ならば、いやだの一言でたちまち嫌いなものが目の前から運び去られたというのに。
けれども、人参という難敵にべそをかきつつ立ち向かっている仔竜に比べて後れを取っていること、人参のスープを前にうなっていた自分の正面で、黒髪の騎士が平然と同じものを食していた姿を思いだし、生来の負けず嫌いが頭をもたげたらしい。
「ダウフトがそう言うなら、食べてやってもいいぞ」
僕の口に合うんだろうなと、あくまでも意地を張りとおそうとするわがまま侯子に、ノリスさんのお料理はいつもほっぺたが落ちそうなくらいにおいしいでしょうとダウフトが笑ったときだ。
「誰か来てッ」
レネの叫びに、忌まわしい魔性の声が重なった。次いで何かが倒され壊れる物音、子供たちの悲鳴と泣き声がふたりの耳を打つ。
「レネっ」
部屋のほうへと振り返ったダウフトの前を、ふいに大きな影が遮った。骨と皮からなる醜悪な翼を広げた魔物が、まなざしに底知れぬうらみとにくしみをたたえて飛びかかってくるところだった。
「ダウフト」
村娘の腕を掴んで後ろに下がらせ、抜刀したレオが鋼玉の双眸に閃いた苛烈そのままに魔性へ一太刀を浴びせかける。
「ちッ」
けたけたと嗤いながら剣先をかわした魔物を、レオが睨みつける。更に踏み込んで仕留めようとしたところを、レオ、と短く彼を呼んだダウフトの表情に今はそれどころではないと察したらしい。先に行けとダウフトを促しながら、こちらの様子をうかがっている魔物を見すえ、自らもレネや子供たちのいる部屋へと駆けてゆく。
「みんな」
震える手で扉を開け、部屋に飛び込んだダウフトが、のどかな昼下がりを突如襲った魔物たちの爪痕に息を呑む。
詰め物が飛び出した枕、ぼろぼろになった毛布にシーツ。床のあちこちには割れた水差しの欠片が散らばり、子供たちが摘んできた野の花が無惨にも踏みつぶされている。ひどいと呟いて、その場に立ちつくしたダウフトに飛びついてきたものがあった。
「母ちゃ――ダウフト姉ちゃん」
必死にすがりついてくるアネットをしっかりと抱きしめて、もう大丈夫と何度もあやすようにダウフトはくり返す。故郷を失い親きょうだいと引き離された子供たちが、夜が連れてくる悪夢に怯えて飛び起きたとき、そうしてやるととても落ち着いたからだ。
「ダウフトさま」
泣きじゃくる男の子を抱えたレネが、あるじの姿を見とめて安堵の表情を浮かべる。
「レネ、大丈夫ですか」
アネットを抱いたまま問いかけたダウフトに、もちろんですわと勝ち気な娘は気丈に微笑んでみせた。
「わたしに飛びかかろうとした不届き者がいましたけれど、椅子で殴り飛ばしてやりましたから」
レネの指し示した方を見やり、ダウフトはまあと声を上げる。娘の奮闘を物語るかのように、転がった椅子の傍らでのびている二、三匹の魔物がいたからだ。
「さすがじゃじゃ馬」
呆れ顔で評したレオに、誰かさんのなまくら剣よりは役に立つわよと金髪娘は鼻息を荒くする。
「エフィルだって、この子たちを守ろうとがんばってくれたんだから」
レネのことばを裏づけるかのように、みぎゃと誇らしげな声がした。見ればみどりの幼子が、やったよおかあさんとばかりに尻尾を振っているではないか。
その巨体の影から、白銀の狼姫を抱いた男の子と女の子が顔を出し、ダウフトに笑ってみせた。すぐ側でぴくぴくと身体を痙攣させている小鬼は、どうやらふたりに襲いかかろうとしてエフィルから容赦のない一撃を食らったらしい。
「よかった、だれも怪我は」
ほっとしかけたダウフトのことばを遮るかのように、勝ち誇ったような魔物の叫びが響きわたった。剣を構えたレオが鋭いまなざしをあたりにめぐらせ、怯えた子供たちがふたたびダウフトやレネにしがみつく。
「あいつ、この間の」
窓辺で人間たちの騒ぎをせせら笑っている一匹の小鬼に、レネが表情を険しくする。たちの悪いいたずらをしでかそうと婦人部屋に入りこんだものの、エフィルの尻尾にはたき落とされたうえ、自分が窓から外に放りだした魔物だったからだ。
その小鬼が、残酷な笑みをうかべながら得意げに突きだしてみせたものに、居合わせた者たちから悲鳴とも叫びともつかない声が上がった。
「ティグル」
鋭い爪が並んだ、醜悪な手に掴まれて。助けを求めて必死にもがくきじ虎の仔猫にダウフトが愕然とする。
そのさまを、いたぶるようにじっくりと眺めやると、小鬼はすばやく窓の向こうに消えていった。彼の姿を見た兵士たちが、各自配置につけ、副団長に伝令ッと騒然としはじめたことにもおかまいなしだ。
「返してっ」
たとえ聖剣に選ばれたとはいえ、所詮はひとの身のかなしさ。
兵士のひとりが繰り出した矛先を軽々とかわし、仔猫をさらったまま屋根へと駆けのぼっていった小鬼を追うすべを持たぬ村娘のすがるような叫びを、部屋に飛び込んできたふたりの騎士はそろって耳にすることになる。
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