第15話・聖女と騎士と竜にまつわるてんまつ・6


 青空に無邪気な笑い声が響く、ある日のこと。


 何か重たいものがぶつかった音と、ついで起こった人々の騒ぎに、城壁の上で思い思いに休息を取っていた兵士たちが身構えた。

「おいでなすったか」

 そんな呟きが、剣や槍を手に取った男たちから上がる。春の女神の寿ぎが、人と魔物とがうらみとにくしみをぶつけ合ういくさの風をもたらすようになって久しかったからだ。

 ただ、そこで兵士たちはあることに気がついて、互いに顔を見合わせる。

 魔物の襲撃にしては、同胞たちの騒ぎには緊迫したものがない。むしろ呆れているような、それでいて何やら励ましているような響きさえあるではないか。

 おそるおそる下を覗きこみ――東の砦のもののふたちは、そろって胸壁に唖然とした顔を並べるはめになった。

「お春坊だよな、あれ」

「どう見ても、羽の生えたとかげじゃないことは確かだ」

 石壁の前で、みぎゃあと声を上げているのは竜の仔だ。痛そうに顔をしかめている様子からして、どうやら頭をしたたかにぶつけたらしい。

 いったい何をやっているのかと訝しんだ人々の眼に、姉ちゃん早く早くと子供たちに手を引かれながら仔竜のもとへ駆けてゆくダウフトと、その後を歩んでゆくギルバートの姿が映る。そうして、彼らとは逆の方向――弓の的場から駆けてくるレオの姿を見とめて。

 こいつは何かひと騒動ありそうだぞと、男たちは互いに囁きあうのだった。



              ◆ ◆ ◆



「大丈夫、エフィル」

 まるでやわらかいパンのように、みしりとへこんだ石壁の前で。痛いようとべそをかく仔竜を抱きしめてやりながら、ダウフトは真っ赤になった鼻先をそっと撫でる。

「もうちょっとだったのにね、姉ちゃん」

 母親に教えてもらったという、痛みを取るおまじないを唱えながら、アネットが村娘を見上げる。

「走っているときはよかったのにな」

 ブリューナクにだって負けてなかったぜと、好敵手の名を上げてぼやくモリスに、変なとこで止まろうとするからだよなとハリーがうなずく。

「エフィルの奴、きっと途中で怖くなったんだぜ」

 雄牛ほどもある巨体からは想像もできない軽やかさで、草地を駆けていたというのに。へたに減速したばかりに、舞い上がるきっかけを失って、そのまま石壁めがけて突っ込んだというわけだ。


 いつか空に帰るためにと、エフィルの飛行訓練が始まって数日経った。

 世にも珍しい、竜の飛翔をひとめ見ようと人々が一斉に押しかけたところを何とかとどめて。今やすっかり、仔竜からは親だと思われている村娘と騎士、書庫の長老とのっぽの学僧、それに子供たちが中心になってことに当たるようにと、騎士団長の名において通達がなされたのだが。

 砦に住まうのは、おもに人間ばかりだ。当然ながら、鳥のように羽ばたくことができる者などいようはずもない。ましてや伝承の聖獣に飛びかたを教えたという記録なぞ、どこを探してもあるはずもなく。

「ここはひとつ、親父として手本を見せるべきじゃないのか」

 そうからかったサイモンが、自分めがけて勢いよく飛んできた篭手に、同じ手を食らうかと笑いながらかわしたとたん、彼が避ける方向を読んで投げられていた兜に顔面を直撃されるという騒ぎも持ちあがったものの。

 まずはやってみようというわけで、ひとと仔竜との大いなる挑戦が始まったのだが――

 初日。覚悟を決めて、えいやと羽ばたいた城壁からみごとに転がり落ちた。

 幸い怪我人はなかったものの、エフィルが着地した厨房の天井が大いにゆらぎ――舞い落ちたすすや埃が、三日かけてようやく完成しようとしていた、白鳥をかたどった砂糖菓子に降り注ぐさまを目の当たりにした料理長が卒倒した。

 二日目。同じ場所からもう一度挑戦したものの、あえなく補修中の石壁に激突しこれを粉砕。筋骨たくましい石工衆に人も竜もさんざん絞られて、壊した石壁の修理を手伝うはめになった。

 ならばもっと広い場所で試してみようと、砦の外に出たものの。ありえない現実からようやく立ち直り、少しは身体を動かさねばと的場へやってきたボース卿と出くわした。

 不器用に翼をばたつかせ、必死に走り回るエフィルを前にしばし呆然と立ちつくし、俺はまだ夢を見ているのかいやそうだそうに違いないと虚ろに呟いた壮年の騎士が、よろよろと自室へ戻っていったのが三日目。

 こんな調子で、仔竜の挑戦はさんざんな結果が続いている。

 そのうち、とねりこの坊主がエクセター卿相手に飾った黒星に追いつくんじゃないかという兵士たちの噂話を耳にして。でかぶつと一緒にするなと騒ぎ立てたどこぞの騎士見習いが、鼻息の荒い金髪娘に無理やり沈黙させられたというはなしも伝えられている。


「何だ、魔物じゃなかったのか」

 物音を聞きつけて、魔物だとうろたえる仲間の少年たちをさっさと置いてきたのだろうか。剣を手に的場から駆けつけたものの、慌てた様子もないダウフトと子供たち、べそをかく仔竜、ついでにギルバートの姿をみとめたレオがつまらなそうな顔をする。

「またこいつか」

 おとなたちから、大きなちびすけと同列に扱われることが面白くないためか。それとも、弟か妹にやきもちを焼く坊やそのものだと琥珀の騎士が評したとおりか。エフィルを見るレオのまなざしは少しばかり辛辣だ。

「よくやるな、石壁をへこませてばかりいるくせに」

 少年の言いように、いじわる言わないでと諭したのはアネットだった。

「エフィルだって、いっしょうけんめい練習しているんだから」

 兄ちゃんが剣のおけいこをするのと一緒でしょと、妙におねえさんぶった口調になるあたり、どうやら未来の戦乙女はみどりの幼子を弟か妹のようなものと思っているらしい。

「いくら練習したって、結果が出なければ同じだろう」

「よく分かっているじゃないか」

 つっけんどんに放った言葉に、さらりと突っ込まれて。余計なことを言うなとばかりに、わがまま侯子は涼しい顔で立つ黒髪の騎士を睨みつける。

「結果よりも、今はエフィルの怖がりなところをどうするかなんです」

 どうしたらいいのかしらと悩むダウフトに、いっそ練習のしかたを変えてみたらどうだとレオは提案する。

「人参とか、嫌いなものを尻尾にくくりつけて走らせたらどうだ?」

 そうしたら、いやでも飛ぶんじゃないのかという少年の言葉を耳にして。いやいやと首を横に振る仔竜をなだめながら、ダウフトは眉を寄せる。

「無理強いをしても、エフィルがいやな思いばかりをしてしまって、ますます飛べなくなります」

「じゃあ、どうするんだ」

 わがまま侯子のこころねには裏表がない。悪気もない。けれどもそれゆえに、時として残酷なこともあっさりと口にする。

「飛べない竜なんて、ただのとかげと同じだろう」

「レオ」

 あんまりですとダウフトが言いかけたとき、みゃあと力のない声が上がった。

「エフィル」

 ましろき角を戴いた頭をうなだれさせて、仔竜が皆に背を向けた。翡翠の鱗に覆われた大きな身体と尻尾を引きずるかのように、悄然と去ってゆくエフィルの姿に、なんだ意気地なしめと言い放ったレオだったが、

「アネット?」

 すたすたと近づいてきて、真一文字に口を結んだまま自分を睨む幼子の瞳に気圧されたレオが問いかけたときだ。

「兄ちゃんの空っぽ瓜」

 たいへん率直なことばを、とねりこの侯子にすっぱりと投げつけて。金髪のアネットは、エフィル待ってと大きな友達を追いかけ始める。その後を、待てよアネットと、モリスとハリーが慌てて追いかけてゆく。

「な、なんだよ」

 僕は事実を言ったまでだぞと、アネットのことばに納得のいかないレオだったが、

「おぬしが無理やり人参をくくりつけられたら、どうだ?」

 ギルバートの言葉が、自らのふるまいを省みるきっかけになったらしい。

「……言い過ぎた」

 ぼそりと呟かれた言葉に、それがわがまま侯子なりの謝罪であると察したのだろうに。

「俺に言うな」

 淡々としたいらえに、反発しかけたレオをそっととどめる手があった。ダウフトだ。

「ごめんなさいは、エフィルに言ってあげてください」

 やわらかなことばに、ギルバートの意図を察したものの。だったら最初からそう言えばいいだろうと、わがまま侯子は憮然とする。

「どうして、あんなことを言ったんですか」

 レオらしくもありませんと口にしたダウフトを、深く青いまなざしで見つめて、

「あいつは竜なんだろう」

 離れたところにたたずむ黒髪の騎士にも聞こえるように、レオは言葉を続ける。

「その気になれば、何だってできるじゃないか」

 <母>の初子として、ひとには望み得ぬさまざまな恩寵を与えられたはずの古きものたち。もしエフィルがその気になれば、かなわぬ望みなど何ひとつありはしないだろう。

 だというのに、偉大なる一族にふさわしい力の片鱗すらろくに見せようともしない仔竜が、わがまま侯子には何とも歯がゆく映るらしい。

「力があるなら、存分にふるえばいいだろう」

「<力ふるうものよ、為しえたことを見よ>」

 聞いたことくらいはあるだろうと、ギルバートはレオを見やる。かつて地上に栄華をきわめながらも、過ぎたる力ゆえに滅びの道をたどったいにしえ人が残したことばだ。

「竜なら、尚更それを知っておく必要がある」

 騎士の言葉に、城壁を焦がした炎の軌跡と、影なき都を一夜で灰にした嘆きの竜にまつわる言い伝えを思い出したのか。あっと声を上げるわがまま侯子へ、

「大きいなりをしていても、エフィルはまだ子供だ」

 おぬしと同じようにふるまうにはまだ早かろうと言い置いて、ギルバートは城門へと歩みを進めていく。どこへ行くんですかと問いかけたダウフトに返ってきたのは、レオについていろという言葉だけ。

「べそかきは空を見上げるか」

 呟きとともに、騎士が黒い双眸に映したのは南の城壁塔だ。



              ◆ ◆ ◆



 すこしつめたい風が吹く、南の城壁塔の上。


「だいじょうぶ、エフィル」

 元気出してね、という友達の声がした。励ますかのように、小さな手が小屋からはみ出た尻尾を撫でてくれているのは分かったが、それでもみどりの幼子は暗がりに頭を潜り込ませたまま。返事をする元気もない。

「兄ちゃんは、アネットが怒っておいたから」

 その兄ちゃんとやらの顔を思い浮かべて、仔竜はさらにうなだれる。なんだかこわい顔ばかりするものだから、苦手だなと思っていた大きい子供だ。

 けれども今回ばかりは、大きな子供の言うことが当たっているだけに、なんとも悔しくて情けない。

 翼の勢いも、不思議な森でおかあさんと会ったときに比べたら、ずいぶんと強くなってきたことは自分でも分かる。ひとには見ることあたわざるものたちが、ほうらそろそろ空へお戻りよ、こんな狭苦しい石の塊になんか閉じこもっていないで、風の歌と星の囁きを聴きにいこうよと誘ってもくれている。

 けれども、そのあと一歩にどうしても踏みこむことができないのだ。

 草地を蹴って駆けてゆき、大きく翼を広げて風たちに身をゆだねれば、あとは自然と空へと舞い上がってゆく――身の裡に流れる、古き一族の血がそう伝えてきているのに。

 目の前に迫った石壁を見るなり、急に怖くなって翼をたたんでしまった。駆ける勢いをとどめてしまった。大きな子供に意気地なしと笑われても仕方がないだろう。

 とはいえ、これでもいちおう竜なのだ。いくら姿かたちが似ているからといって、とかげと一緒にされてはたまらない。やわらかい心をひっかいた、大きな子供の言葉を思い出し、仔竜がくすんと鼻をすすり上げたときだ。

「頭隠して尻隠さずか、エフィル」

 聞き慣れた声に、仔竜は思わず頭を上げる。どうにかこうにか後ろ向きに小屋から這い出てみれば――そこにいたのはおとうさんではないか。

 いつも嬉しさのあまりに思いきり飛びついて、みしりと下敷きにしてしまうものだから。小さく声を上げて、おそるおそる大きな頭をすり寄せるだけにしてみたのだが、

「何だ、その情けない顔は」

 口ではそう言いながらも、おとうさんがしっかりと抱きしめてくれたではないか。

 ふだんはおかあさんのように、わたしのかぼちゃさんと微笑みかけてくれたり、額におやすみの口づけをしてくれたり、おいしいおやつを作ってくれたり、歌ってくれることなんてなかったけれども。

 こうしておとうさんが、ときどき不器用に頭を撫でてくれるのが仔竜はとても好きだった。今だってとても嬉しいのに。

「……泣き虫は誰に似たのやら」

 ぽたぽたと、石畳に落ちた涙をしばし見やって。俺かと、おとうさんは意外な言葉を口にした。

「ギルバートさま、泣き虫だったの」

 どうやらおとうさんは、水色の目をまん丸くする幼子がいることを失念していたらしい。ダウフトやレオには絶対にしゃべらないようにと言い置いて、

「エクセター家の次男坊といえば、泣き虫の代名詞だったからな」

 羊に蹴り倒されては泣いて、喧嘩に負けては泣いて、剣の稽古が嫌だと言ってはまた泣いて。

「剣を振り回すくらいなら、本を読んだり、父上と兄上がいい林檎を育てる方法を話しているのを聞くほうが好きだった」

「レオ兄ちゃんとはさかさまだね」

 素直にうなずいた友達に、どうだろうなとおとうさんは肩をすくめる。

「騎士になるよりも、やりたいことは色々あった。もっといい林檎を育てる方法を思いつくとか、不思議なくにや町へ旅してみたいとも」

 淡々と語られることばに、おとうさんがほんとうにしたかったこと、見たかったものが伝わってきて。

「エフィル。おまえなら行くことができる」

 ふいに名前を呼ばれて、顔を上げた仔竜が見たものは、いつになく穏やかなおとうさんの顔だ。

「色々なものを見てこい。草原を駆ける天馬も、シエナ・カリーンのはなやぎも、アスタナの高い山々も」

 おまえが怖れるよりも、世界はもっと豊かだからとことばを続けるおとうさんに、仔竜は問いかけるように声を上げた。

 たくさんの願いを抱きながら、どうしておとうさんが嫌いな剣を手に取り、狭苦しい石の塊に居続けなくてはならないのか。泣いてばかりいたというおとうさんが、いつから凍える風と冷たい灰色の海へと涙を押しこめたのか。

 けれども、いくらおとうさんの顔を眺めてみても、何一つこたえを見つけることはできなくて。

「エフィルはいい子だ」

 たとえ、本当にこいつは竜かと言われようとも。小鬼に尻尾をひっ掻かれても、てんで気づかぬのんびり屋と言われようとも。

「俺には、それで十分だ」

 ひとが聞いたならば、何とまあ言葉足らずなことだと感じたには違いなかったけれども。めったに聞くことのない言葉が、こころをあたたかく満たしていって。

 おとうさーんと、こみ上げる嬉しさを全身でめいいっぱいに表した仔竜だったが――



 しばらく後。

 やっぱりやめておく、いいえちゃんとエフィルのところに行きましょうとダウフトに背中を押されながらも。仔竜に謝るべく南の城壁塔までやって来たレオが、転がり落ちそうな勢いで石段を降りてきたアネットと出くわした。

「ギルバートさまがつぶれちゃった」

 泣きじゃくる幼子の訴えに驚いて、石段を駆け上がっていった村娘と少年が見たものは。おとうさんごめんなさいと、これまた泣きながら謝っているみどりの幼子と、その下敷きとなった男のぴくりとも動かぬ右手だけ。

 たいへん人を呼ばなくちゃと、慌てて階下に控えている兵士たちに救いを求めたダウフトと、馬のお薬じゃ効かないようと更に泣くアネットをしばし見やり、

「……何をやっているんだ、エクセター卿は」

 心底呆れた顔をしたわがまま侯子が、師匠を見舞った災厄を前に呟いていたとかいなかったとか。

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