第10話 からからまわる



 耳に届いた歌声に、リシャールは足を止めた。


 それが紡ぎ歌だと気づき、回る糸車に合わせて口ずさんでいる者の姿を確かめようと、歌が聞こえた部屋の戸口から覗きこんだ琥珀の双眸が驚きに見開かれる。

「ダウフト殿?」

 騎士の呟きに、歌声が止んだ。

「リシャールさま」

 笑いかけたのは砦の聖女だ。いかなる時もともにある<ヒルデブランド>を外して傍らへ置き、低い台座にしつらえられた糸車と向かい合うようにして腰かけている。

「こんな所へどうなさったのですか?」

 尋ねる娘の動きに合わせて、赤みを帯びた栗色の髪が冬の陽光に照り映える。身に纏う服と同じやわらかな双の常緑は、いくさの日々に忘れがちになりかけた木々芽吹く日の歓びを感じさせるかのようだ。

「側を通りかかったら、歌が聞こえましてね。いかなる乙女が口ずさんでおられるのか、大いに気になったというわけです」

「ベアトリスさまではなくて、がっかりしました?」

 茶目っ気たっぷりに問いかけてくるダウフトに、これは参ったなとリシャールは笑う。奥方づきの若い侍女のひとりが、彼好みの佳人であることを揶揄されたからだ。

「ダウフト殿も人が悪い。一体いつ、哀れな男をからかうことなど覚えられたのです?」

「さあ、いつでしょう」

 くすくすと笑いながらも慣れた手つきで糸を紡ぐさまは、娘がかつて穏やかに暮らしていた日々をしのばせる。

 紡いだ糸を織子おりこのもとに持ち寄ったり、自らはたに向かったり。いつか家庭を築いたときに必要となる布を揃えることは、娘たちの大切な仕事であり楽しみのひとつだ。多少の習慣の違いはあっても、そうした点はエクセターでもオードでも変わりはしない。

 のどかな故郷と、素朴であたたかい家族――いくさのためにダウフトが喪った数多くのものには、幸せな未来に胸を膨らませながら紡いだ糸玉も含まれていたのだろう。

「友達とは、よく近所の男の子をからかっていました。誰がすてきとか間抜けとか、そういう話だって」

 年頃の娘たちが繰り広げたであろう、にぎやかなおしゃべりの中にちらりとのぞく本音。もしかすると、ダウフトにも少しは気になる若者がいたのかもしれない。

 ギルバートが知ったら、心中穏やかならざることは確実だな。この場におらぬ幼馴染の無愛想な顔をリシャールは思い浮かべる。

 もちろん、あの臍曲がりのことだ。妬けるかと尋ねたところで素直に認めるはずもなかろうが。


「糸車と乙女か。運命フォルトゥナもかくやという姿ですね」

 <母なる御方>の数多い相の一、永劫に回り続ける車からさだめの糸を紡ぎ出す女の名を口にしたリシャールに、

「そういう冗談は、お城の姫さまがたにしてください」

 おかしそうに返したダウフトの瞳に落ちた憂いの欠片を、見逃そうはずもなかった。

「おや、砦にも姫がおられたはずですが」

 絹や天鵞絨びろうどの代わりに鎖帷子と革を身に纏い、すみれの砂糖菓子や瑪瑙でできたチェスの代わりに輝く剣を手に取った守り姫が。

「<髪あかきダウフト>殿」

 いささか大仰な仕草とともに、リシャールは貴婦人や姫君に捧げる礼をしてみせた。

「やさしきかんばせを曇らせる憂い、ぜひとも取り除いてご覧にいれましょう」

 とはいえ、とそこで悪戯めいた表情をうかべ、

「エクセターのギルバートでなければ、かなわぬ所存でしょうか?」

 やんわりと本音を突いてみせたリシャールに、ダウフトの頬に鮮やかな紅がはしる。

「その様子では、どうやら当たっているようですね」

「リシャールさま」

 慌てて否定しようとすればするほどに、ダウフトの顔が暁のように染まっていくさまを琥珀の騎士は微笑とともに眺めやる。

 妹というのは、こんな感じなのかもしれんな。

 それが、アーケヴの野に咲く花のような娘に対するリシャールの思いだ。砦や市井に咲き誇る大輪の花々に感じるような熱情ではなく、やわらかな陽光にも似た暖かさが心を満たしていく。

 むかし、ギルバートに末妹キャスリンが生まれたとき――六人の兄と七人の姉よりも、無心に笑う赤ん坊をあやす幼馴染がうらやましくて、家に駆け戻るなり僕も妹が欲しいと言って両親を驚かせたものだ。そんなたわいもないことさえも懐かしく思い出させる不思議が、砦の聖女には宿っているらしい。

「シロスの殿さまがぜひにと招いて下さったんですから、ギルバートだって断わるわけにはいきませんし」

 いっそ壊れないことが不思議なくらいの勢いで、ダウフトは糸車を回し続ける。

「やかまし屋がいない分、わたしはめいいっぱい羽を伸ばせて大助かりです」

 その割には、いつもの精彩を欠いているのはどういうことやら。

(ダウフトさまがつまみ食いに現れないのは何だその、やっぱりエクセター卿かね)

 騎士見習いや聖女との飽くなき戦いを繰り広げている料理長が、何とはなしに肩すかしを食らったような表情で話しかけてきたものだ。少しはお気持ちが晴れればと思ったんだがと、香ばしいチーズの焼菓子が手もつけられずにいることに溜息をつくあたり、料理長も物思いに沈む娘にどう接したらよいものか悩んでいるらしかった。

 そもそも、騎士団長があんなことを言い出さなければな。

 事の発端となった老騎士の顔を思い浮かべてリシャールは嘆息する。


 朋友どうしの酒の席、甥御がすぐれた弓の使い手だと自慢したシロス伯に、我が砦にもけものの顎を射抜いた男がいるぞと騎士団長が応じたことがはじまりだった。

 うらみとにくしみを身に纏い、鋭き牙に死をたずさえやってくる黒い獣は、人々の間では恐怖の二つ名とともに語られている。その魔性を、仕留めるまでには至らずとも射たと聞けば、伯が興味を覚えぬはずがない。

 ならばぜひその腕前を、いやあれはたいそうな堅物でと言いながら杯を重ねてゆくうちに、なぜかシロス伯の所有する森で狩りを催す話にまでなっていたのだとか。

 いや、アロルドの奴に乗せられてなと笑い飛ばそうとしたものの、不審げに漆黒の双眸を向けたギルバートや、おぬしのたわけたふるまいに巻き込むなと一喝した副団長の形相に、それどころではないと察したらしい。

 もっとも、老騎士がいちばん応えたのは奥方の怒りだろう。

 夫君がギルバートを狩りに参加させると聞き知って、いつになく灰青の双眸を険しくした貴婦人は、直ちに従者へと命じて伝言を届けさせた。

『狩りの後、随行の者たちを早急に砦へ戻していただければよろしゅうございます。後はどうぞそのまま、お好きなだけシロスに滞在なさいませ』

 戸惑いつつも従者が読み上げた妻の言葉に、ものの弾みだったのだと騎士団長が頭を抱えて机に突っ伏したという噂が、<狼>たちの間でまことしやかに囁かれたほどだ。

 とはいえ、一度口にした約束を簡単に違える訳にもいかず――結局、ギルバートは数名の騎士とともに騎士団長の随員として、東の砦から馬で三日ほどの距離にあるシロスへと赴くことになった。

 つくづく、俺は厄介事に好かれる性分らしいとぼやきはしたものの、森の様子が比較的穏やかな今、久しぶりに催される狩りにはそれなりに心が弾むらしい。


「シロスの森はとても冷え込むって、レネが教えてくれました。ギルバートはしっかりしていそうで割とうっかり者だから、狩りに夢中になってマントを忘れたりしていそうで」

 ダウフトの言葉に、リシャールは思わず吹き出してしまう。我らが砦の姫君は、何とよく堅物騎士の本質を見ぬいておられることか!

「そう簡単に、風邪をひくような男ではありませんからご安心を。シロス程度の寒さで音を上げていては、到底エクセターの冬を越すことなどできはしない」

 笑い交じりの言葉に、ダウフトの瞳が見たことのない土地への興味に輝く。

「そんなに寒いんですか。わたしの村では、雪なんてめったに降らなかったのに」

「この程度は、まだ少ないほうですよ」

 中庭を覆う雪を戸口から眺めやりながら、リシャールは遠い故郷へと思いを馳せる。

 銀灰色の海の彼方に、至聖の御座みくらに居ます教母を戴く国リャザンを望むアーケヴ最北の地。さらりとしたオリーブ油よりはこくのあるバターが、葡萄酒よりは林檎酒や蒸留酒が好まれる土地柄だ。

「でも、春はとてもきれいなのでしょう。林檎の白い花が風に舞って青空に小鳥が歌う、どんなに得難い宝物さえもかなわない季節だって聞きました」

 鉛色の空と白い大地の下に息づく生命が、一斉に歓びを謳いだすエクセターの春――ダウフトが口にした言葉が、<母>の祝福を讃える時に故郷の者がよく使う言い回しであることにリシャールは気づく。

「それは、ヴァルターから?」

 訪ねた騎士に、軽やかな糸車の音とともに返ってきたのは思わぬ返答だった。

「いいえ、ギルバートです」

 ああ少なくとも、おぬしにしてはよくやったと褒めてやるぞ。

 あんな堅物男へも、ひそかに心を寄せるご婦人がたはいるものだ。彼女たちがいくら尋ねても、はぐらかすばかりで語ろうとしなかった故郷の話をダウフトに聞かせただけでも、かたつむりの進みにも似た変化が見られているらしい。どうして普通に話をするだけで、こうも回りくどい道をたどるのかとリシャールが内心ぼやいていると、

「と言っても、わたしが何度もせがんだから話してくれたんです」

 知ってどうするって呆れられましたと告げたダウフトの表情が、わずかに翳りを帯びた。

「ギルバートは、自分のことを聞かれるのが好きではないんですね」

 前言撤回。兎や猪なぞ追っている暇があったら、少しはダウフト殿の心裡を推し量る努力でもしてみろというのに。

 およそ知りうる限りの言葉の中で、どれがあのかぼちゃ頭を表すに一番ふさわしいかと煮えくりかえるような思いを抱きつつも、リシャールはつとめてにこやかな笑顔を保つ。

「単なる口下手ですよ。無愛想も相まって、ご婦人がたはたいそう近寄りがたいらしい」

「わたしも、初めて会ったときはそうでした。兄さんにしかけたいたずらにギルバートがひっかかって、父さんと母さんが大慌てで謝って」

 出先から砦へと戻る途中、水を分けてもらおうと立ち寄った村で降りかかった小さな災厄に、呆然とするばかりだった若い騎士の顔を思い出したのか、ダウフトの口元がかすかにほころぶ。

「でも、怖いひとじゃないことがすぐに分かって、何だか嬉しかったんです」

 琥珀の騎士に笑ってみせると、ダウフトはまなざしを冬の日射しが降り注ぐ外へと――シロスの森の方角へと向けた。

「どこかの姫さまも、ギルバートのいい所に気づいてくださるでしょうか」

 思わぬ言葉に耳を疑う。はて、ダウフト殿は今何と言った?

「どういうことです?」

 問いかけたリシャールに、いえ何もと口ごもりながらダウフトはうつむいてしまう。その様子に、何かいらぬことを吹き込んだ輩がいると察したものの、リシャールはつとめて穏やかに問いかける。

「ダウフト殿」

 からからと回り続けていた糸車が止んだ。

「冬の狩りは、若い騎士さまにとってはお見合いの場になる。レオから聞きました」

 知らぬ間に、険しい表情でも見せていたのだろうか。ダウフトが慌てて言葉を継いだ。

「わたしが聞いたんです。冬の狩りってどんなものかって」

 レオは教えてくれただけですと言い張る娘の姿に、リシャールは複雑な思いを琥珀の双眸にのぼらせる。


 騎士や諸侯が催す宴や狩りは、時によって家どうしのつながりを求める意味合いを帯びることがある。

 侯家の跡取りとして幼い頃からそうしたことを教えられ、実際目の当たりにしてきたレオは、ダウフトの問いに何の悪気もなく答えたのだろう。それを聞いた娘の、澄んだ双眸に揺らめいたさざ波を察するには、とねりこの若君はまだまだ修行が足りぬらしい。

 シロス伯が今回の催しを開いたのも、ひとつには友が推す若い騎士の腕前を己が目で確かめてやろうという狙いがあったのだろう。だが一方で、狩りとそれに続く華やかな宴へと招いた姫君や貴婦人の中から、甥御にふさわしい花嫁を見つけてやろうという伯父としての願いもこめていたに違いない。

 当然のことながら、騎士団長の随員として城を訪れた若い騎士たちに対しても、せっかくの機会だからと伯が声をかけるであろうことは自明の理で。

「ギルバートが騎士さまだということを、わたしは時々忘れてしまうから」

 思い出せてよかったのかもしれませんと、笑おうとした娘の顔にのぞいた脆さがリシャールの胸を突く。

 うっかり者の夫君に、奥方がたいそう憤ったのも無理からぬことだ。未だどっちつかずな様子とはいえ、互いの間に漂う雰囲気を知りながら何故そのような場に騎士を引っ張り出すのか。そうしたことを敏感に察した娘が、ひそかに心を痛めるであろうことを知らぬはずではないだろうにと。

「このいくさが終われば、ギルバートもお役目から解放されます」

 騎士としてめざましい武勲をたてる機会にも恵まれず、怪しげな剣を携えた田舎娘のお守りなどという、うんざりするような任務からは。

「<かあさん>に<ヒルデブランド>をお返ししたら――そうしたら」

 糸車を見つめたまま、ダウフトが視線を落とした。

「そうしたらわたしも、ギルバートさまと呼ばなくては」

「ダウフト殿ッ」

 思わず口をついて出た強い言葉に、娘が怯えたように身をすくめたのが映った。

 自分のことでもないというのに、なぜこんなに熱くなっているのか。自らへと問いを投げかけながらも、琥珀の騎士は言葉を続けずにはいられない。

「リシャールさま?」

「それだけは、ギルバートの前で口にしないでください」

 互いを隔てるような言葉を、剣や槍よりも深く癒えにくい一撃を、他ならぬあなたの唇から放つことだけは。

「ダウフト殿は、あれが側にいることが嫌になったのですか」

 つかみどころのない男が見せた思わぬ表情に、驚くばかりだったダウフトが顔を上げる。

「ならば騎士団長の帰還を待って、正式に申し出られるといい」

 琥珀の双眸を眇めて、いったん言葉を切って。

「エクセターのギルバートは<聖女の騎士>にふさわしからぬ臆病者、誰ぞ他の者を側付きにするように」

「ギルバートは、臆病者なんかではありません」

 椅子から立ち上がり、琥珀の騎士を見すえたダウフトの瞳に閃いたのは激しさだった。

「本当にそんな人なら、わたしのことなんか放って逃げていました」

 名もなき村を襲った惨劇の中、血路を開き逃れようとしていた騎士の足を止めたのは、魔物にのしかかられ喉をかき切られようとしていたダウフトの叫びだった。

 怯えて泣きわめく娘など、足手まといにしかならなかったはず。たとえ連れて逃げたとしても、獲物を奪われた魔性がしつこく後を追ってくることなど、明日の見えぬ戦いの中で嫌というほど分かっていたはずだ。

「でも、ギルバートはわたしを助けてくれました」

 魔物より、ダウフトを連れてくるほうが厄介だったと話していたギルバートの表情を思い出す。

(村に残ると言い張って動こうとしない、立てない歩けないと泣く。埒が明かないから担いでいけば、わたしは麦袋じゃないと怒り出す。挙句の果てには人さらい呼ばわりだ)

 だったらどうすればよかったんだ。憮然としていた横顔は、いつ果てるともしれないいくさの日々に喪われてしまった昔の彼を思い出させるかのようで。

「<ヒルデブランド>をお預かりして、司教さまから側づきの騎士さまをと言われたとき、本当はとても嫌でした」

 一見、寛大そうな態度で魔族に対する旗じるしとなるよう諭しながら、卑しき村娘ふぜいが奇跡をもたらしたことに対する老司教の饐えた感情が、身や心にべっとりと貼りついていくような不快さを、場に居合わせたリシャールとて覚えたものだ。

 抗うことも許されず、救国の聖女という道化を演じろと告げられた時のダウフト――腕に抱えた<ヒルデブランド>の他に、頼るものとてない怖ろしさと悲しみをたたえたまなざしを忘れたことはない。

「でもそれがギルバートだと分かったとき、初めて会ったときよりもずっと嬉しかった」

(今からおぬしの側づきだ。手間をかけさせるな)

 共に血と炎の地獄を逃げ延び、再会した娘にかける言葉というにはあまりにもそっけないものであったとしても。たとえ任務とはいえ、わずかでも自分を知る者が側にいることに、独りぼっちの娘が感じた安堵はいかばかりだったか――

「ギルバートの代わりなんて」

 誰も、と続けようとしたダウフトの瞳が大きく潤んだときだった。



「誰もいない。そう言いたいのでしょう?」

 打って変わって穏やかなリシャールの声音に、ぽかんとした表情が向けられた。

「あの堅物に、ぜひ聞かせてやりたいものです」

 笑って見せた琥珀の騎士に、乗せられたと知った娘の顔がさっと赤くなる。

「リシャールさま、わたしを試したんですか」

 恥ずかしさと憤りのあまり、まなじりに涙を浮かべて抗議しようとするダウフトに、非礼は承知の上ですよとやんわりと返す。

「こうでもしないと、オードの乙女は本心を聞かせてはくださらない。あれが見捨てられたわけではないと分かっただけでも、正直ほっとしましたよ」

 騎士の言葉に、ダウフトが泣いているとも笑っているともつかない表情を見せた。人々が求める聖女の面影などまるで見いだせぬ姿に、リシャールは痛ましさすら覚える。

 もしギルバートが娘を救おうとしなければ、<髪あかきダウフト>という望みが人にもたらされることはなかった。

 けれども、もし砦にさえ来なければ、聖女という偶像にダウフトが束縛されることもなかったかもしれない。

 花を持つほうがふさわしい手に剣を握らせ、芽吹く緑の代わりに屍横たわる凄惨な光景ばかりを目の当たりにさせるくらいなら――いっそ、いくさと縁のない遠くの町か村にでも逃したほうがよかったのだろうなと呟いたギルバートの双眸によぎった悔いがよみがえる。


 紡車を回してさだめを紡ぎ、頃合いを見て断ち切る女――処女と母と老婆の相を持ちあわせ、なべてに等しく、それゆえ慈悲を与えることもない運命。

 誰も、彼女が紡ぎだす糸を見ることはできない。

 もつれた糸が絡み合い、いかなる紋様を織り上げていくのかさえも知ることはない。

 それでも、ただあるがままに生きることができたならば。


「ダウフト殿。俺が望むのは、あなたがギルバートと共にいてくださることだ」

 リシャールの言葉に、冗談はやめてくださいと応じようとしたダウフトだが――いつもとは異なる騎士の様子に、からかい半分に口にしているわけではないことを察して、双の緑にあえかな怖れをのぞかせる。

「あれの心は、頑なによろった鋼と同じです。何ものにも揺るがぬように見えながら、その実もろい」

 冷たい冬の海を望む崖の上で、<母>の御許へと還った三人の名を刻んだ墓標を前に涙をこぼしていた子供――いまは騎士となって砦にある男の奥底に深く埋もれた姿を、ダウフトならば受け止めることができる。

「どうして、わたしなのですか?」

 娘の問いに、大した理由はありませんよと笑ってみせた。

 いかなる姫君や貴婦人さえも能わぬ何かを、確かにやさしい目をした村娘に感じ取ってはいた。それを自分が口にすることが、たやすいことだとも知ってはいた。

 だがダウフトには、自ら知ってほしかった。少しずつでもかまわない、あの不器用者が鋼の下に押し込めたものを解きほぐしてほしかったのだ。

「我らが守り姫ならば、哀れな男にも奇跡をもたらしてくださる。そう信じているからです」

 まあ、そのためにはあれが多少振り回されようとも一向にかまいませんがと笑ってみせると、唖然としていたダウフトの顔に次第に明るさが戻ってくる。

「ありがとうございます、リシャールさま」

 先ほどまでの憂いをぬぐい去るかのような表情に、どうやらいつものダウフト殿に戻られたようだなとリシャールは察する。ノリスがこしらえた焼き菓子がひとつ、またひとつとなくなるのもそう先のことではなさそうだ。

「このくらいはたやすきこと」

 いつでも、仰せに応じて参上つかまつりますればと貴婦人への礼を捧げてみせた。

「涙にくれるよりも、笑っていたほうがずっとあなたらしいですよ。ダウフト殿」

「ギルバートも、リシャールさまのこういう所を見習えばいいのに」

 そう言いながらも、あまりのそぐわなさを思い浮かべたのだろう。笑い出すダウフトの表情を視界に留めて、邪魔をしましたねと謝ってリシャールは部屋を出た。そのまま戯れ歌など口ずさみながら歩んでいるうちに、ふと前に向けた琥珀の双眸がおかしげな光をたたえる。


「戻っていたのか」

 回廊の向こうには、ギルバートの丈高い姿があった。旅装も解かず、黒髪に降った雪を払うこともそこそこにやってきたらしい。

「どこぞの美姫を相手に、鼻の下を伸ばしていたのではなかったか?」

 あからさまな友の嫌みにも、堅物騎士は肩をすくめてみせるだけだ。

「狩りは中止だ。森で屍食らいに出くわしてな」

 よく肥った猪や、雪の中を跳ねまわる兎などどこへやら。

 突如として現れた魔物たちに、随行したご婦人がたが悲鳴を上げ、己の腕前をたいそう自慢していたはずの貴公子たちがうろたえて――結局、東の砦の<狼>たちにとっては、毎度おなじみの成り行きとなったわけだ。

「砦を出てもまたいくさかと、ウルリックはえらく不満そうだったが」

「<熊>はともかくおぬしはどうした。うるわしきご婦人がたの前で、少しは良いところを見せることができたのか」

「騎士団長の面目を潰さん程度にはな」

 無愛想ないらえに、<帰らずの森>でけものを射抜いた時ほどに難事ではなかったのだとリシャールは悟る。

 あの時は、魔狼からさして離れぬ所にとレオとダウフトがいた。わずかでも手元が狂えば、鋭い矢は二人のうちどちらかを貫いていたはずだ。狙いが定まらず、知らぬ間に<母>への聖句を呟いていた友の姿を思い出したところで、リシャールはあることに気づく。

「ギルバート、奥方への挨拶はどうした?」

 本来ならば身なりを整えてから、城主代行を務める奥方や副団長をはじめ、砦の首脳陣が待つ広間に向かうのが筋だろう。それすらせずにいるとはどういう了見かと訝しんだリシャールの耳に、意外な言葉が飛び込んできた。

「内郭で奥方と副団長が待っておられた。挨拶は後回しに、まずダウフトの所へ向かえとの仰せだったが」

 あのはねっ返りがまた何かやったのかと真顔で問うギルバートに、いや何もとこみあげる笑いに肩を揺らしながら応じる。


 さても賢き砦の奥方は、堅物騎士の心裡などとうに見抜いておられたご様子。

 ブリューナクを馬丁に預けたとき、無意識のうちに誰かを探すように内郭を見渡したギルバートの姿に、どうやらシロス滞在中にもいるべき者が側にいないことで妙な落ち着きのなさを彼が感じていたらしいと察したからこそ、そのような言葉をかけたのだろう。

 言い換えればそれは、今回の騒ぎを引き起こした張本人としてうなだれつつ戻ってきた夫君への当てつけでもあるわけで。いずれ執務室で、奥方への赦しを請う手紙を涙とともに書きつづる騎士団長の姿が見かけられることだろう。


「さっさと姫君の許へと馳せ参じろ。どこぞの誰かの薄情に、涙にくれ溜息をついておられたぞ」

 またいつもの戯言かとばかりに睨む友に、リシャールはたった今まで自分が歩いてきた方角を指さした。

「次は、林檎の古老のはなしでも聞かせて差し上げたらどうだ?」

 すれちがいざまに放った言葉に、ギルバートが歩みを止めた。

「エクセターの春を話したなら、次は夏、秋、冬そして春と続かないとな。どの話でも、ダウフト殿は喜んで聞いてくださるぞ」

「あまりせがむから教えただけだ」

 そう話す騎士の黒い双眸に、複雑なひかりがよぎる。

「エクセターのことを話せば、ダウフトとて故郷を思い出すだろう。思い出せばまた泣く」

 だから話さないようにしていたと告げる幼馴染に、リシャールは内心驚く。

 故郷や家族を喪った娘が寂しい思いをしないようにと、彼なりに気遣っていたらしいが――それがそっけない態度となって、乙女の顔を曇らせていてはどうにもなるまいに。

 ああまったく、こやつほどの不器用は見たこともない!

「いいから話して差し上げろ。林檎の古老でも、おぬしの妹たちの話でも」

 そういう所はとねりこの坊やのほうがよほど上手だろうにと、もどかしい思いとともにリシャールはまくし立てる。

「まずは、シロスの森での顛末からだな。おぬしの身の潔白を証明するいい機会だぞ」

「潔白も何も、俺はやましいことなど何も」

「ほう、言うからにはそれなりに意識していたということだな?」

 いつになく厳しい友の追及に、そんなものじゃないとかろうじて告げると、黒髪の騎士は再び歩み出そうとする。


「エクセターのギルバート」

 その背に向かって、琥珀の双眸に真摯な光を浮かべてリシャールは言葉を放った。

「ダウフト殿から逃げたら、俺はおぬしを臆病者とみなすぞ」


 無言のまま、しばしその場に佇んでいたギルバートからかすかな呟きを聞いたような気がした。

 問い返そうとした自分を振りきるように、足早に立ち去っていく幼馴染の背を見送ると、リシャールは複雑な思いとともに友が口にしたこたえを呟く。

「春をうたう声こそが、いかなるものよりも怖ろしい」

 アーケヴの冬を席巻する白い騎士の、凍えた心に響くのは春を呼ぶ小鳥の歌だ。

 涙のぬくみを覚えたときにはかなく消えゆくさだめであるだけに、彼の者は小鳥を怖れて遠ざけようとするのだが。

「……されど我は、緑謳う春を」

 ぬくみを恐れ、怯えながら、誰よりも焦がれずにはいられない者もまた冬の騎士だというのに。

 先の見えない戦の中にあってさえ、心から笑うことのできるダウフトのしなやかな強さが、へたな矜持など通用しない率直さこそがギルバートには怖ろしいのだ。

 凍てついた風吹く崖の墓所で、心の底に封じこめた全てのものが再び息づこうとしていることが。頑なな心さえ解きほぐさずにはいられないぬくみを、あの娘が持っていることが。

 怖れながらも、拒みきることができない。

 なぜならそれは、彼自身がずっと望みつづけていたものであったのだから――


 何ものにも代えがたい春を、友が娘に見せてやる日は来るのだろうか。

 春だけではない。緑まばゆき夏も、紅と黄金に彩られし秋も、静かな白が覆いし冬も――移ろいゆく季節が見せるさまざまな表情を、聖女でも騎士でもないただのふたりとしてともに見つめることはかなうのだろうか。

「……天にまします、うるわしき<母>よ」

 不肖の息子の祈りなど、聞き届けたくもなかろうが。

 滅多に口にしない聖句を、リシャールは胸に迫る不安とともに呟かずにはいられない。

「御身の愛し子に微笑みを」

 どうしようもなく不器用で――それゆえに、自らの幸福すら手放してしまいそうなふたりに。


 その手に握ったさだめの糸が、どうか彼らにとって枷となることのないように。



                ◆ ◆ ◆



「本当に、リシャールさまったら」

 琥珀の騎士が立ち去った後、ふたたび椅子に座り直しながらダウフトは恥ずかしそうに呟く。

 ギルバートがシロスから戻ってきたら、どういう顔をして会えばいいのやら。

 いつもの通りにふるまえばいいことだと頭では分かってはいても、リシャールの言葉を思い出すたびに心が落ち着かなくなりそうで困る。あんまりぎごちなくしていると、またしょうのないいたずらでも企んでいるのかと逆に怪しまれそうだ。

「わたしだって、そんなに子供っぽいことばかりしているわけじゃ」

 ひとり呟いて、また顔が熱くなってくるのを覚える。

 深く息を吸って吐き、糸車に向かった。紡ぎかけていた糸玉を仕上げているうちに、自然と気持ちも落ち着いてくることだろう。

 今はいない母や祖母が、初めて糸紡ぎをしたときに聞かせてくれた歌――故郷の女たちの間でしか知られていない古い言葉を口ずさみ、回る糸車に合わせて再び手を動かし始めたダウフトだったが、いくらもしないうちに小さく声を上げた。


 からりと回る、糸車。

 その端にからまった、切れた糸をしばし眺めていた娘の視線が、傍らに置かれていた<ヒルデブランド>へと向けられた。

 身を縛める枷のように、決して解けぬ呪いのように、ただそこにある古ぼけた剣。


「……ひとつだけでもだめですか。<ヒルデブランド>」

 唇に乗せようとした紡ぎ歌は、続くことなく消えてゆく。まだたいした大きさにもなっていない糸玉を手に取って呟いた娘の頬を透明な雫が静かに伝い、手や糸玉の上に落ちて広がった。

 いつかは布に仕立てようと、紡いでいった糸。故郷とともに灰になった穏やかな日々の名残をわずかでも側にとどめておきたいという願いすら、許されはしないのか。

 縦糸には長すぎる、横糸には短すぎる糸玉は、慈悲なき女神が紡いださだめなのか――


「また泣いているのか」

 呆れたような響きを装った声に振り返る。

 どうしてと、小さく唇が震えた。いま砦にいるはずのない騎士が戸口に立っていることに、涙に縁取られていた緑の瞳が驚きに満たされていく。

「シロスに、行っていたのでしょう?」

「帰ってこないほうがよかったのか?」

 無愛想に言葉を返してくるギルバートが身に纏ったマント、それが溶けた雪を吸って随分と重くなっていることに気づく。

 仮にもうら若き乙女の許を訪ねようという時に、旅装のままでは失礼にあたるという騎士のたしなみを知らぬ男ではあるまい。第一、そのまま内郭からここまでやってきたというのならば、さぞ寒かったことだろうに。

「いいえ、そんなことありません」

 笑ってみせると、騎士に暖炉の側へ行くようにと促したのだが、

「何を泣いていた」

 漆黒の双眸は、納得のいく答えを返さぬ限り見逃してはくれそうにもない。

「嬉しかったからです」

 訝しげなギルバートに向かって、ほんとうですと付け足した。

「こんなに――早く帰ってきてくれるなんて思わなかったから」

 輝きが強ければ強いほど、落とされる影もまた濃くなることを、わずかの間でも忘れることができたならば。

 背負った荷の重さを、共に分かち合ってくれる者がいるならば、もう怖れることなど何もありはしないから――


 からりと回るは、女神の車。

 紡がれる糸の行く末を、織り上げられる紋様を、断ち切る刃の先を知るものは、誰もいない。


(Fin)

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