第9話 わたしのおうじさま
いちめんの白が砦も森も平原も覆い尽くした、ある日のこと。
しんしんと冷えこむ回廊で、南の城壁塔への入り口を守っていた壮年の兵士が、こんな日にゃとっておきの
「おじちゃん、おつかれさま」
すぐ側で聞こえた声に表情をやわらげ、ようおつかいかと返そうとした兵士の顔がぽかんとしたものになる。
目の前でよたよたと進む布地の山、そこからのぞく小さな手足と、櫛泣かせと評判のふわふわした金髪に、
「……その、何だ。アネットか?」
おそるおそる問う兵士に、布地の山が返事をした。
「うん、そうだよ」
満面の笑みを見せたのは、冬の訪れとともに六つになった幼子だ。口元からのぞく前歯が一本だけ欠けているのは、そろそろ大人の歯に生え替わろうとする証だろう。
くにに残してきた子供たち、一番下のちびすけもちょうどこの子ぐらいだなと、あたたかくもふとよぎる望郷の思いが男の胸を切なくする。そんな彼の心を知ってか知らずか、アネットはずり落ちそうになった布地の端っこをよいしょと持ち上げた。
「よく働くな、アネットは。うちのちびたちにも見習わせたいぐらいだ」
「アネット、兄ちゃんのお供をしてるんだ」
「……おとも?」
妙な言葉に首をかしげた男がふと先を見れば、そこには騎士見習いとして砦に詰めているとねりこ館の若君の姿がある。種々の武芸や礼儀作法を学ぶ一方で、雑用をもこなさなくてはならない立場にある少年は、大きな櫃を抱えながら仲間の少年たちと何やら話しあっていた。
「兄ちゃんたちはお仕事なの。だからアネットも手伝ってるんだよ」
誰よりも春に焦がれる思いを、氷の鎧に覆い隠した冬の騎士。その白き軍勢が大地を駆けめぐる最中にあっては、人も魔族も互いにいくさどころではない。
どんなに数で人が勝ろうと、いにしえの叡智で魔族が優れていようと、所詮は数多の生命を産みたもうた<母>のたなごころの上。荒れ狂う吹雪の中を無理に行軍して人馬もろとも遭難したり、凍りついた鎧兜が脱げず衆目に恥をさらしてもかまわぬという酔狂な輩は、さすがにどちらにもおらぬらしい。
その間、アーケヴの宮廷では連日催される華やかな宴や狩りの場で、雲上人が腹のさぐり合いにいそしみ、東の砦に住まう者たちはつかの間の休息に大いに羽を伸ばすというわけだ。
今は白い騎士の冷たく哀しい鬨の声が支配しようとも、いずれは軍馬の蹄がぬかるんだ大地を蹴り、やわらかな陽光を鎧兜や剣のぎらついた輝きが跳ね返す時が来る。誰もがそれを知るだけに、多少の小競り合いは残るにせよ、せめて冬の間くらいはめいいっぱい楽しんでしまえという気分が砦じゅうに満ちていた。
そういえば、もうすぐ無礼講の宴だったな。いま人々が総出で準備に当たっている催しを思い出して、兵士はそっと口元をほころばせる。
「これをテーブルに敷くの。落っことさないように持って行くんだぞって、兄ちゃんが」
どうやらアネットが抱えた厚手の布地は、テーブルクロスであるらしい。
名家の跡取りという育ちゆえ、雑用などまるでしたことのないレオが悪戦苦闘する姿を放っておけないと思ったのか。手伝うと言って聞かない幼子に、とねりこの若君は無理のない程度に自分の仕事を任せたらしい。確かにテーブルクロスなら、うっかり落として汚れはしても、高価な皿や飾り物のように壊れる心配はないだろう。
「つぎは広間の飾りつけをするんだよ。ほんとは厨房が良かったけど、つまみ食いなんかしたら料理長にパイにされるぞってギルバートさまが言うんだもん」
さもありなん、とうなずきたくなる兵士。
<狼>たちが剣や槍をふるうのと同様に、宴の支度にとりかかっている厨房はまさしく戦場の名にふさわしいはず。忍び込む食いしん坊どもに対する迎撃体制は万全、猫の子一匹入り込む余地すらないはずで――こいつは、つまみに何か分けてもらうのはちょいと難しそうだなと、壮年の男がひとりごちたときだ。
「アネット、行くぞ」
大きな櫃を抱えて、幼子を呼んだのはデュフレーヌのレオだった。
「はあい」
元気よく答えると、おじちゃんまたねと兵士に笑いかけて、アネットは急いで少年の後を追いかけ始める。頼むから転ぶなよと、見ている方が冷や冷やさせられるような足取りではあったが、何とか均衡を保ちながらも布地の山を抱えていく。
「どうしたんです、おやじさん?」
交替の時間ですよとやって来た、そばかす顔の若い兵士が不思議そうな顔をする。
いや何でもないと答えつつも、まあうちの砦らしいなと納得して、壮年の兵士は詰所の棚で自分を待ちわびているであろう酒瓶に思いを馳せるのだった。
「気が合うな、あの二人は」
<狼>たちの詰所から、回廊をゆくレオとアネットの姿を見とめて面白そうに呟いたのはリシャールだった。
「ああして見ると、まるで兄妹だ。同じ金髪というせいもあるのかな」
わがまま侯子の後を、懸命についていく小さな女の子――ここ最近、砦でよく見かけられるようになった光景だ。
かたやアーケヴが王を戴いていたころより続く名家の跡取り、かたやいくさのために親きょうだいとはぐれた子供。髪の色以外、お互いに共通するところなど少しもなさそうなものだが、どういうわけかレオとアネットは一緒にいることが多かった。
修練場でへたりこんでいたところ、お薬だよとアネットが得意げに差し出した膏薬の瓶―馬用―に周囲が腹を抱えて笑い転げる中、たいそう困惑した表情をうかべたり。
そうかと思えば、料理長ノリスの厳重な監視をかいくぐり、厨房からこっそり失敬してきた菓子や果物といった戦利品を互いに見せ合っては仲良く分け合ったり。
町へ使いに出かけた折には、勝手についてきたアネットを少し叱りはしたものの。歩き疲れた幼子が通りの真ん中に座り込んでしまうと、槍でも降るんじゃないのかと薄気味悪そうな顔をするヴァルターに荷物をすべて押しつけて、アネットをおぶって砦へ戻ってきたりしている。
激しい気性と素直でない物言いが災いしてか、同じ年頃のレネやマリーからはかなり辛辣な評価を得ているレオだが、幼子には少し違う面も見せているらしい。
「アネットは、王子さまを見つけたんですね」
リシャールに、こぼれんばかりの笑みで応じたのはダウフトだった。
「王子、ですか?」
聞き慣れぬ言葉にぽかんとする琥珀の騎士に、砦の乙女はうなずいてみせる。
「リシャールさまも聞いたことがありませんか。いばらの城に囚われたお姫さまのはなし」
悪い魔物を打ち倒し、美しい姫君を救い出す凛々しい王子――母親が夜ごと枕元で聞かせてくれた昔ばなしを、アネットはことのほか気に入っているのだという。
「なるほど。とねりこのレオこそが、あの子にはそう見えるというわけですか」
怖れを知らぬおとぎ話の英雄と、へらず口だけは一丁前の坊やがな。あまりの落差に、吹き出しそうになるのをかろうじてこらえた琥珀の騎士だったが、
「一緒に寝るとき、必ずこのはなしをせがまれるんです。何回も話したから、わたしもお姫さまと王子さまの台詞を覚えてしまいました」
ダウフトの言葉に、ついやわらかな笑みを誘われて。リシャールはそれはいいことだとうなずいてみせた。
「覚えていれば、いつかあなたの子に聞かせてあげられる日も来ますからね。なあ、ギルバート?」
「……どうして、そこで俺に話を振る」
にこやかなリシャールに声音を低めて応じたのは、それまで砦の乙女と琥珀の騎士の傍らで、黙々と剣の手入れをしていた堅物男だ。
「別に深い意味はないぞ? おぬしもずいぶんと疑い深いな」
「あることないことを吹聴して回る、どこぞのほら吹きとはつき合いが長いからな。素直な心根もねじ曲がろうというものだ」
「何を言う。思いのたけすら口にできぬ臍曲がりの幸せを願えばこその、友としての涙ぐましい努力だというのに」
よよと嘆いてみせるリシャールに、ギルバートはわざとらしいとばかりに冷めた一瞥を投げる。のんきな娘のことになると、このろくでもない幼馴染ときたら何かにつけてからかいの種にしてくるのだから。
「ギルバート、そんな言い方をしなくても」
友の肩を持つダウフトに、原因の一端はおぬしにもあるだろうがと喉元まで出かかったことばをかろうじてこらえ、ギルバートは漆黒の双眸を眇めた。
「ダウフト。口を動かしている暇があったら手を動かせ」
ぐっとつまった娘の周りをとりかこむのは、これまたたくさんの野菜の山だ。
厨房に忍び込もうとしたところを、あっさりと見つかって。そんなにパイになりたいんですかと料理長にしぼられた砦の乙女は、罰として野菜の皮むきを命じられることになった。
隙をみて逃げだしたものの、回廊でぶつかった相手にごめんなさいと謝れば、そこに立っていたのはこめかみに青筋を浮かべたギルバートだ。知らせを受けて厨房へ向かうところだったらしいと察して、慌てて背を向けたダウフトの襟首がしっかと掴まれたのはいうまでもないことで。
さんざん雷を落とされた挙句に詰所まで引きずって来られると、本を読んだり剣の手入れをする堅物騎士の傍らで、芋や玉ねぎの軍勢にナイフ一本で立ち向かうはめになったというわけだ。
巷で語られている、神々しき聖女などとこへやら。情けないことこの上ないありさまだが、どうやら剣抱く乙女は口で負ける気はないらしい。
「この間、アネットが男の子を泣かせていましたけれど。あれはギルバートでしょう」
春の緑を思わせる双眸を咎めるように向けてきた娘に、黒髪の騎士はばつの悪そうな顔をする。
「仕方ないだろう。ハリーに勝つと言って聞かなかったんだぞ」
砦に保護された子供たちの中で、いちばん幼いうえに新参者のアネット。ガキ大将で、九つになるハリーには日頃から泣かされてばかりいた。夏の騒ぎののちにレオが砦に留まると、たいそう喜んだ幼子はいつも少年の後をついて回るようになったが、それがハリーには面白くなかったらしい。
度重なるちょっかいに耐えかねたアネットは、ついに現状の打開を臨むべくアーケヴの<狼>――ギルバートへと救いを求めた。つまり、ハリーをぎゃふんといわせてやる方法を教えてくれるまで、マントを掴んで放さないという実力行使に及んだのだ。
「そんなことくらいレオに聞けばいいものを、あやつには絶対に内緒だと言い張る」
渋い顔をするギルバートの横で、リシャールがやれやれと首を横に振った。
「断わったら、えらい大声で泣かれてな。ウィリアム殿にまた睨まれる始末だ」
ダウフト殿ばかりか、こんな小さな子まで悲しませるなんて。エクセター卿、それでも騎士ですか。
若い学僧のどこかずれた非難に、いったい俺の星回りはどうなっていると天なる<母>へと悪態をつくと、堅物騎士は仕方なくアネットのお願いを聞き入れることになった。
「それがあの騒ぎですか」
何て呆れたひとかしら、と言わんばかりにダウフトは騎士を見やる。
アネットが放った渾身の一撃は、ハリーの鼻っ柱にみごと命中。石畳に尻もちをつき、しばし呆然としていたガキ大将がわっと泣き出したことで、子供たちの間でアネットに対する評価は大いに変わったようだ。
まあ結局は、仲良くしたい気持ちの裏返し。通りかかったリシャールとダウフトの仲裁で、ふたりとも晴れて遊び友達となれたわけだから、結果としては喜ばしかったのだが。いったい、誰に喧嘩のしかたなんて教わったのと尋ねたダウフトに、アネットは元気いっぱいにギルバートさまだよと答えたのだという。
「女の子に喧嘩のこつを教える騎士さまなんて、聞いたことがありません」
そっぽを向くダウフトに、だから仕方なくだと言っているだろうがとギルバートは憮然とする。
「こんな時世だ、女の子とて腕に覚えがあった方がましだろう」
「ギルバート。それって、いつもわたしに言っていることと違いませんか」
たいそう不満げなまなざしで、ダウフトはエクセターの騎士を見やる。
「わたしには、黙って座っていろってお説教するくせに。アネットならいいんですか」
聖女のふくれっ面に、たまらず吹き出したリシャールや他の騎士たちが、いや失礼と慌てて謝ったり咳払いをしてごまかそうとしたものの、結局こらえきれずに肩を揺らす。それとは逆に、眩暈を覚えたらしいギルバートが額に手を当てた。
「ダウフト、おぬしは今いくつだ」
「十七です」
「十七の娘が騒々しく回廊を走り回ったり、つまみ食いをして説教を食らうのか普通」
「アネットだって、いつかは十七になるでしょう。ギルバートのやり方を通したら、あの子はとんでもないおはねになります」
「向き不向きがあるだろう。おぬしとアネットではだいぶ違うぞ」
「違いません。どうしてアネットならよくてわたしはだめなんですか」
何やら妙な方向に話が行っているが、止めたほうがいいんじゃないかと他の<狼>たちにせっつかれて、琥珀の騎士は友をなだめるべく口を開いた。
「まあ何だ、子育てをめぐる意見の違いはもう少しよく話し合った方が」
「誰が子育ての話をしている」
睨むギルバートに、なんだ違うのかと心底残念そうな顔をするリシャール。止めるというよりは、逆に煽っているような気もするのだが。
「どうせおぬしのことだ。男だろうと女だろうと、子供に剣を教えるのはまず間違いないからな」
「女の子に剣ですか」
なんだかものものしいですね、と呟いたのはダウフトだ。望むと望まざるとに関わらず、<ヒルデブランド>の寄代として祀りあげられた我が身を顧みたのか。やさしげな眉をすこし曇らせた娘に、
「そうか、オードではあまり馴染みがないかもしれませんね」
これは失念していました、とリシャールは頭をかく。
「エクセターではさして珍しいことではありませんよ。マティルダ殿――ギルバートの姉上のように、兵を率いて荘園の守りにあたられる方もいるくらいですから」
諸侯の権限がものをいう首府エーグモルトや南部とは異なり、独立不羈の気風が強い北部では、婦人が男たちとともに剣を取ることも少なくないという。
「いにしえの王に、剣の誓いを立てた乙女の言い伝えもあるせいでしょう。彼女の裔であるエクセターのご婦人は、剣が己が身を助けうることを知っているわけです」
戦乙女の忠誠に心動かされた王が託したものは、エクセターの民の自由と誇り。
アーケヴから王の一族が消え去っても、ふたりの名において交わされた誓約はいまだ生き続けているのだが、どうやらくにを治める大公閣下は時折そのことを忘れたくなるらしい。
エーグモルトで積まれる小麦の山も、エクセターで上がるは反乱の狼煙。
かの地において、新たな税を課そうとしたがために起きた騒ぎに手を焼いた先人のことばからも、大公家が北部の自治権に口出しをしようとしては、そのつど火傷を負った手をひっこめるはめになった背景がうかがえる。こうした諸々の事情もあって、エクセターの子供たちは理不尽には毅然と臨む姿勢を、力を振るうことの意味を幼い頃から厳しく教えこまれるのだという。
「まあ、それでこやつもアネットに喧嘩のしかたなぞ教えてしまったわけですが」
仏頂面の幼馴染をちらりと眺めやった琥珀の双眸を、リシャールはおかしげに娘へと戻す。
「どうです、いっそダウフト殿もエクセターにいらしては。やんちゃな子供たちに悩まされる生き方というのも、そう悪くはないものですよ」
「あの、リシャールさま。わたしまだ子供は」
「なに、ものの例えです。もちろん、ダウフト殿がお望みとあらばいつでも叶えてごらんにいれますが」
「つまらんことを吹き込んでいる暇があったら、こやつに芋のひと山でも片づける時間をやれ」
ふたりの話を遮るように言い放ったギルバートに、つまらんことであるものかとリシャールは反論してみせる。
「何事もよく話し合っておいたほうがいいぞ? エクセターの娘は鋼の誓いゆえに手強いが、オードのやさしき乙女も、秘されたことばゆえになかなか是とはうなずいてはくれぬものだ」
下手をしたら、揺りかごをはさんでさっきの二の舞だぞと笑う琥珀の騎士。肝が据わっているというべきか、はたまた単なる生命知らずか。
「……リシャール。おぬしいつからそんなに寿命を縮めたくなった」
手入れの終わった剣を静かに置き、ゆらりと立ち上がったギルバートの形相に、周りにいた<狼>たちがおい待て早まるなと慌てて堅物騎士を取り押さえる。照れるということは図星かと余裕綽々のリシャールを、いいから煽るなッとこれまた幾人かの<狼>たちが引きはなす。じつに心あたたまる男たちの友情に、耳まで真っ赤になったダウフトがどうしたらよいかとおろおろしはじめたときだ。
「ダウフト、いるのか」
勢いよく詰所に駆け込んできたのは、輝く髪をしたとねりこの若君だった。
「広間に行こう、とねりこ舘からリャザンの花が届いたんだ」
この辺りじゃちょっと見かけないぞと自慢げに話すレオの双眸が、玉ねぎと芋の山のあいだで顔を赤らめているダウフトと、一騒動持ち上がっているらしい<狼>たちへと向けられる。
「何をしているんだ?」
怪訝そうな顔をするレオへ、騒ぎの中心にいる二人の騎士が振り返った。
「おぬしには関わりのないことだ」
「後学のためにどうだ? 王子さまにはあと十年ばかり早いはなしだが」
とりつくしまもない黒髪の騎士に、からかってくる琥珀の騎士。それぞれのいらえにどうやら若君はむっときたらしい。
「子供扱いするな、これでも夏が来れば十五だぞ」
むきになるレオに聞こえないよう、そういう所が子供だろうにと呟いたのはギルバートだ。もし少年の耳に入ったならば、更に騒々しいことになっていたのは間違いない。
「それにジェフレ卿。僕は侯家の生まれには違いないが、王子ではないぞ」
あくまでも侯家と王家の違いを主張しようとするレオに、まあ細かいことは気にするなとリシャールは軽く受け流す。
「小さな姫君の期待を一身に背負っているんだ。今は砂埃にまみれようとも、人間辛抱が必要だぞ」
ますますもって何のことか分からないという顔をするレオに、おとぎ話のたとえですとダウフトが慌ててつけたした。
「アネットは、いばらのお姫さまのはなしが大好きでしょう。それでレオのことを、王子さまみたいに思っているって話していたところなんです」
「ああ、あれか」
僕にも話してくれたからなと応じたレオの表情が、少し照れくさそうなものになる。
「でも王子は大袈裟だ。僕はただ、アネットが転んでいたのを起こしてやっただけだぞ」
砦に来たばかりのころ、聖女がただの村娘であるという事実を受け入れがたく、周囲に八つ当たりをしていた時のことだ。
もやもやした気持ちが晴れぬまま、とねりこ舘から付き従ってきた従者のひとりと中庭を歩いていたとき、水たまりの中に座りこんでいたアネットと出くわした。
ひとりで転んだのか、それとも誰かに突き飛ばされたのか。髪も服も泥だらけにして泣いていた幼子へと、なぜか自然と足が向いていた。
「いくさで親を失った、どこぞのみなしごでございましょう」
お召し物が汚れますと引きとめる従者に、ならば替えを用意しておけと言い放ち。泣くことも忘れて、水色の瞳で自分を見上げているアネットをレオは助け起こした。侯家の若君にふさわしくしつらえられた高価な服のあちこちに泥がこびりついていくさまに、何ということをと従者は悲鳴に近い声を上げる。
デュフレーヌ家には遠く及ばぬとはいえ、貴族の子弟として生まれ育った彼にとってはあるじの身こそが何よりも優先すべき事柄だ。それ以外の生き方を知らずにきたと言ってもいい。だから詮なきこととは分かっていても、泥だらけの幼子に汚いものでも見るような目を向けた従者の鈍感さに、レオは言いようのない苛立ちを覚えていた。
いいからおまえは爺を呼んでこいと、半ば追い払うように従者を部屋に向かわせてたレオの服の裾が遠慮がちに引っ張られた。
「ごめんなさい」
小さな手に触れた生地の感触と従者の騒ぎように、自分を助け起こした少年が高貴な身分と察したのか。ひどく怒られると思ったらしいアネットの目に、またじわりと涙が浮かぶ。
「こんなもの、別に大したことじゃない」
普段は風まかせに違いない、泥のこびりついた金髪を撫でると、レオは肩をすくめてみせた。
「ちょうどいいじゃないか、いっしょだから」
泣いた鴉がもう笑う。泥だらけの若君の言葉に、アネットの泣き顔が満面の笑顔に変わったのは、従者に手を引かれたトマスがやってきたのと同じ頃で――
「それだけのことだぞ。べつに大したことなんか」
「その後、<帰らずの森>の件があっただろう。あれが決定打だな」
屍食らいに囲まれて、怯えるアネットを逃すためにとどまったレオ。その彼を救ってくれと、誰よりも雄弁に訴えかけていた幼子の泣き顔を思い出したのか。先ほどまでの騒ぎをひととき忘れて、ギルバートが少年を見やる。
「嫌か、アネットになつかれるのは」
「そんなことはない。じゃじゃ馬レネなんかよりはずっとましだからな」
よく言うぜ、と<狼>たちの間から声が上がる。何かと騒々しいこの若君が、鼻息が荒いと評判の金髪娘に頭が上がらないことは誰もが知るところだったからだ。
「ただ、同じだったから」
呟いたレオの表情に、顔を見合わせる<狼>たち。何かを思い出したらしいダウフトが、案ずるように少年の名を呼ぼうとしたところをギルバートがそっと押しとどめる。
「どういうことだ、坊や」
リシャールの坊や呼ばわりにも、いつもならば顔を真っ赤にして反論するというのに。
「水たまりで泣いていたとき、アネットは母親を呼んでいたんだ」
答えたレオの表情は、取り残された子供そのもので。とねりこ舘を襲った災厄で、幼かった彼が母を喪ったのも、アネットとそう変わらぬ年頃だったことを騎士たちは思い出す。
もちろん侯家の孫君である以上、身寄りのない幼子とは比べものにもならぬ扱いを受けていたことだろう。
壮麗な舘で大勢の家臣や召使いに囲まれて、忌まわしい出来事を一日も早く忘れさせようとした祖父母や父、叔母たちのありあまる愛情を受け、何もかもを浴びるように与えられて。砦の子供たちのように焼け跡をさまよったり、着のみ着のままで寒さに震えたり、空腹のあまり草の根をかじったりしたことなど一度もなかったはずだ。
それでも舘や町のあちこちで、まろやかな腕に抱きとめられ、前掛けにしがみついて甘えている子供を見るたびに、泡沫のように生まれてくる悲しみだけはどうすることもできなくて。
「同じだったんだ。母上がいなくなったことが、理解できなくて泣いてばかりだった時と」
来ることのない母親を懸命に呼んでいたアネットは、かあさまに会わせてとだだをこねては父やトマス爺を困らせていた、幼い頃の自分そのもの。
だから、水たまりに足を向けたのかもしれない。いっしょだと口にしたのかもしれない。
「ただの同情だと思われても、仕方ないだろうけれど」
「それでも、アネットはレオが大好きです」
穏やかに微笑むダウフトに、鋼玉の双眸が丸くなる。
「おぬしの手こそが、あの子には何ものにも代えがたいということだ」
理屈などなしになと、ギルバートが静かに呟く。
あたたかなぬくもりを奪われて、帰るべき故郷も失って。ひとり震えていた子供に差し伸べられた手の主は、ふてくされた顔をした金髪の少年。どこか尊大でありながら、あちこちに泥をくっつけたままちょうどいいじゃないかとうそぶいた時の青い双眸が、意外にもやさしいものであったから。
「小さな姫君にとって、おぬしこそがまさしく王子さまというわけだな」
リシャールの笑みと、こいつがねえと呆れながらも男たちが向けたまなざしに、妙に照れくさくなったレオが何だよと反論しようとしたとき、
「兄ちゃん」
明るい声とともに、詰所に駆け込んできたのはアネットだった。
「ヴァルター兄ちゃんが怒ってるよ。仕事さぼってどこをほっつき歩いてるって」
早く広間の飾りつけに行こうと、少年の服を引っ張るアネットの頭に手が置かれた。
「あ、リシャールさま」
「武勇伝以来だな、姫君」
笑いながら、リシャールは幼子のふわふわとした金髪を撫でる。
「勇ましいのは結構だが、男を泣かせるなら拳より肘鉄のほうがずっとこたえるぞ?」
六つの子供に言うことかと呆れるギルバートにはお構いなしに、何なら肘鉄の食らわせ方でも伝授するかと、琥珀の騎士が話しかけたときだ。
「アネット、お姫さまになんてならないよ」
真顔で答えた幼子に、二人の騎士が顔を見合わせる。
「……どういうことだ?」
ひしひしと迫る、嫌な予感を首筋に感じながらもギルバートが問うと、金髪の幼子はたいそう無邪気な笑顔とともに口を開いた。
「だってアネット、大きくなったら騎士さまになるんだから」
艱難辛苦をかいくぐり、たおやかな姫君のもとへと馳せ参じるは勇ましき英雄。
砦の幼子が憧れに目を輝かせていたのは、確かに王子さまには違いないのだが――どうやら、何かが微妙に違っていたようで。
「団長さまはおじいちゃんだから、アネットがおとなになる頃にはもうご隠居さまでしょ。だからレオ兄ちゃんのけらいにしてもらうんだ」
なんとまあ、先を見すえた人生設計であることか。騎士団長が耳にしたら相当に落ち込みそうなことをあっけらかんと口にして、アネットは唖然とする<狼>たちと若君と砦の乙女を前にえへんと胸を張った。
「いいでしょ、兄ちゃん」
否と言われることなど、微塵も考えてはいない笑顔を向けられて。さすがのレオもただうなずくしかないようだ。
「……黄金のとねりこにかけて、考えておく」
若君の言葉に、やったあと小さな身体で精一杯喜びを表してみせると、アネットは先に広間に行ってるねという声だけを残して元気よく詰所を飛び出していく。
「……おい」
一斉に向けられる、仲間たちの視線。どうしてそこで俺を見るとうなるギルバートに、喧嘩なんて教えるからですとダウフトが追い打ちをかける。
「アネットのおてんばぶりに火をつけてしまって。どうするつもりなんですか」
「だから言っているだろう。女の子だろうと腕に覚えがあったほうが」
「そうかそうか。なら、おぬしの娘への祝いは樫の剣で決まりだな」
五本か、それとも十本か?と楽しそうに混ぜ返したリシャールと、娘どころかまだ独り身だッとつかみかかろうとしたギルバートを、<狼>たちが再び抑えて引き離す。
まあ落ち着けと、暴れ馬でも扱うような調子で黒髪の騎士をなだめるかと思えば、おういいぞ派手にやっちまえと煽ったり。なにぶん娯楽の少ない冬のこと、彼らも事の次第を大いに面白がっているようだ。
「何なんだ、いったい」
きょとんとするレオの袖を、そっと引いたのはダウフトだった。肝心のお守りが手薄になっていることに、まるで気が付いていないギルバートから逃げ出す好機ととらえたらしい。
慌てる少年に、いいから広間に行きましょうと耳打ちすると、砦の乙女は抜き足差し足で戸口へと向かう。それに気づいた<狼>たちの幾人かが、笑いをこらえながらもそっと道を空けたりするから大したものだ。
こっそり詰所を抜け出して、回廊の突き当たりまで小走りにやってくると、ダウフトとレオはそろって安堵の息をついた。耳をすませば、遠くからまだもめている男たちの声が聞こえてくる。
「何で、あんなに騒いでいるんだ?」
自分が詰所に来るまでのやり取りをまったく知らないレオの問いに、ダウフトはいいんですと頬を膨らませた。
その頬が林檎のように赤く上気してゆくさまに、どうやら堅物騎士が絡んだことだと気づいてちょっぴり面白くはなかったものの。まあ、今日はエクセター卿を出し抜けたからよしとするかなと、デュフレーヌの若君はあくまでも前向きだ。
「レオこそ、いいんですか。簡単に約束をしてしまって」
騎士たるもの、いちど口にした誓約は破ってはならない。
たとえ周囲には、子供どうしのたわいもない口約束にしか聞こえぬようなものであったとしても。デュフレーヌ家を象徴する黄金のとねりこを持ち出したことで、騎士見習いの少年は幼いアネットに対して誓約をしたことになるのだから。
「べつに。アネットが本気ならかまわないさ」
肩をすくめるレオ。とねりこ舘の生まれにふさわしい鷹揚さとみるべきか、それともあまり深く考えていないのか。
「もしかしたら、なるかもしれませんね。きれいな金髪を風になびかせた騎士さまに」
「それは、<髪あかきダウフト>の予言か?」
驚いて問いかけるレオに、そんな大袈裟なものではとダウフトは笑う。
「何となく感じただけです。ほんとうにそうなるかはアネット次第ですから」
<狼>たちのもとで日々育ちゆく幼子が、おのずと樫の剣を手に取るであろうことも。
いにしえの王のごとく、次代のデュフレーヌ侯がうるわしい戦乙女に剣を捧げられるであろうことも、限りない未来のひとつなのだから。
「でも、ちょっと困りました」
「何が?」
鋼玉の双眸を丸くして問いかけるレオに、溜息をついてみせながら、
「今度アネットに、いばらのお姫さまのはなしをせがまれたらどう話せばいいんでしょう」
悩むダウフトに、そんな深刻に考えなくたっていいじゃないかとレオは答える。
「勇ましい騎士のはなしなら、爺がたくさん知っているぞ。何ならダウフトも、今度アネットと一緒に聴きにこないか」
まるで悪気のない様子で笑うレオに、あのそれはと困惑するしかないダウフトだった。
さて、その後。
砦じゅうが一致団結したかいあって、無礼講の宴は今までにない盛り上がりをみせ――誰もがにぎやかな音楽に合わせて踊り騒ぎ、杯を傾けて大いに浮かれ楽しんだ。ことに腕によりをかけた料理の数々や、みごとな
それからもうひとつ。
騎士になると宣言して何かが吹っ切れたのか。金髪のアネットは砦のあちこちでたいそうなおてんばぶりを発揮するようになり――こりゃダウフトさまに続いて、アーケヴの<狼>は戦乙女を戴くのがならわしになるかねえと人々が噂するたびに、どこかの堅物男が頭を抱えるようになったということだ。
俺が悪かったとぼやく彼を、娘のときにはしくじるなよだとか、まあこやつが父親では虫を見ただけで泣く子には育たんだろうとか、仲間たちがさんざんからかい倒したのは言うまでもない。
ついでに騎士の隣で、どこぞの聖女が更に多くの芋と玉ねぎに埋もれて半べそをかいている姿を見かけたという噂もあったのだが。
その件については、<狼>たちはみな一様に沈黙を守り通している。
(Fin)
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