第8話 その背中



「三回は死んだな」


 砂地に座り込むレオを見下ろして、静かに告げたのはギルバートだった。

 いくら刃をつぶした練習用とはいえ、頬すれすれに突きつけられた鋼の冷たさは皮膚を粟立たせるのに十分だ。

「まだだっ」

 立ち上がろうとしたものの、ぶざまによろめき尻もちをつく。それを見て、口の端にわずかな笑みを刻んだギルバートに、とねりこ館の若君はたちまち顔に朱の色をたちのぼらせる。

 打ち身と擦り傷と埃で散々な姿の自分に比べて、汗一つ浮かべずにいる騎士の何とも忌々しいことときたら!

「少し休め。冷静さを欠くようでは、いくら修練を重ねたところで無駄だ」

「何を」

 鋼玉の双眸を閃かせなおも挑もうとするレオに、はて聞き分けがないとばかりに漆黒の双眸を眇めると、ギルバートは得物を軽く一閃させた。

 衝撃と、それに続いた痺れに思わず右手を押さえた少年の眼前で、からりと砂地に転がったのは己が剣。

「四回」

 淡々と告げると、騎士はレオの横を通り過ぎていった。修練の様子をはらはらとしながら見ていた者たちの一人に剣を預けると、そのまま詰所の方へと歩み去っていく。

 残されたのは砂の上に転がる剣と、悔しさに身を震わせる少年がひとり。

「……あの、無愛想めッ」

 思わず、悪態がレオの口をついて出る。しかも、それがエクセターのギルバートを言い現わすときに誰もが使う、月並みな言葉であることにさえはらわたが煮えくり返る。

 ご婦人をうっとりさせることにかけては砦で右に出る者はなし、と評されるジェフレ卿のごとき闊達な舌でも備わっていれば、あの騎士をこきおろす多彩な言い回しも浮かんでこようものを。


「おい、生きてるか?」

 ひょっこりと、いくつもの顔がのぞきこむ。レオと同じく修練に参加していた少年たちだ。

 手を貸そうとする者に結構だと断わって、あちこち悲鳴を上げる身体を心で叱咤しながらレオはよろよろと立ち上がる。仮にもとねりこ館に生まれた誇り高き身、そう簡単にひとの手を取ったり、弱みなど見せたりはしないものだ。

「いつ見ても無謀というか、何というか」

「エクセター卿に挑もうっていうその度胸は、どこから出てくるんだ?」

 口々に言う仲間たちに、レオはふんと顎をそらす。無意識とはいえ、こうした仕草の中に大貴族の跡取りらしい矜持と尊大さが垣間見える。

「ただの修練じゃ面白くないからな。ちょうどいいじゃないか」

「へえ。その割には、一度もギルバートさまに勝てた試しがないけどな」

 いじわるそうに告げた、鳶色の髪と眼をした少年――ヴァルターを、青い双眸で睨み返す。

「そう言うおまえは、勝てるっていうのか」

「まさか、俺は自分の実力くらいちゃんとわきまえているよ。どこかの誰かと違って」

「わきまえる? 単なる腰ぬけふぬけの間違いだろう」

「何だと」

 たちまち起こったつかみ合いに、そらこいつらを引き離せと仲間たちが集まりだす。砦の長老ヴィダス師が錬金術で使う怪しげな触媒どうしではあるまいに、とねりこ舘の侯子とエクセターの少年ときたら、寄ればいつもこの騒ぎときたものだから。


「何を騒いでるのよ、あんたたち」

 籠を左の腕に抱え、右手を腰に当ててたたずむレネを、騎士見習いたちはある種の尊敬をもって見やらずにはいられない。それまで周囲の制止も聞かずにいたレオとヴァルターの騒ぎが、ぴたりと止んだからだ。

「や、やあレネ。いつもきれいだね」

「何だ、じゃじゃ馬か」

 異なる応じ方をした少年たちに近寄ると、蜜のような金髪を丁寧に編み込んだ娘はそれぞれにふさわしい返答をしてみせた。ヴァルターにはほころぶ花のような笑顔を、レオには靴のかかとで右足を思い切り踏みつけるという行動で。

「その、どうして君がここに?」

 声も出せずに悶え苦しむレオをよそに、ヴァルターはぎこちなくレネに問いかける。少なくとも、こういう点においては主人のギルバートよりも積極的であるらしい。

「奥方さまと、ダウフトさまから差し入れ。これから休憩でしょう?」

 そう言って、レネが籠を覆っていた布を取ってみせると、集まっていた少年たちから歓声が上がる。

 ふんわりと香ばしい匂いを放つのは、軽くつまむにはちょうどいい菓子の数々だ。触れただけでほろほろと崩れてしまいそうなほどにさっくりと焼き上がったパイに、蜂蜜とエッセンスの甘い香りがまたとない調和をみせるこがね色のビスケット。どれもが、伸び盛りかつ食べ盛りな少年たちの食欲を大いに刺激する。

「お茶はこれからマリーたちが持ってくるわよ。って、気が早いのは誰?」

 ひょいと籠に伸ばされた、食いしん坊な誰かの手をぺちりとはたき。ほら、お茶にしたかったらさっさと動きなさいとレネは采配をふるいはじめる。その貫禄ときたら、かかあ天下の素質は十分とつわもの揃いの<狼>たちをもうなずかせるだけのことはある。

「レオ、あんたも手伝ってちょうだい。お腹が減ってるでしょう?」

「いるもんか」

 そっぽを向いたレオに、何よその態度はと柳眉を逆立てる娘。いやレネ、こいつは今ちょっとさと、さっきまでの喧嘩はどこへやら助けを出そうとしたヴァルターだったが、

「ああ、分かった」

 ぽんと手を叩き、レネはじつに明るい表情でうなずく。

「ギルバートさまに挑んだけれど、まるで歯が立たず。みっともなく地べたに転がったってわけね。いつものことじゃない」

 ころころと笑う娘に、何もそこまでとヴァルターや他の少年たちが青ざめる中、

「おまえが嫌なのは、そういうところだッ」

 無神経めとレネを睨むと、とねりこ舘のわがまま侯子は仲間たちに背を向けた。

「おい、レオっ」

「ほっとけばいいのよ。どうせ拗ねてるだけなんだから」

 事実を言い当てられたことは悔しかったが、言い返す術もなく。デュフレーヌのレオは足音も荒く修練場を後にするのだった。



 ああもう、何だっていうんだ。


 やり場のない腹立たしさとともに、回廊を歩みゆくレオ。

 南の城壁塔への入り口を守る兵士たちが、驚きと好奇心の入り交じった表情を互いに見合わせている。おい、とねりこの坊主がまた負けたらしいぞと口々に囁いているのは、この際聞かなかったことにした。

「もう少しだったんだ」

 ぐい、と手を握りしめる。晴天が続く限りは毎日のように行われる修練のために、手のひらにいくつもできた肉刺まめがじくりと痛んだ。

「あと一歩踏み込めば、そこで」

 エクセターのギルバート、<聖女の騎士>と称される男から剣をたたき落とせる筈だったのに。

 ところが、現実ときたら甘くはない。あっさりと剣先をかわされて、逆に懐に飛び込まれた挙句に手痛い一撃を食らう羽目になった。

「遊びに来たのか」

 怒るでもなく呆れるでもなく、淡々と放たれた騎士の言葉――つまり、あれは挑発だったのだと今になって思い知る。莫迦にするなと逆上して挑んだ結果が、さっきの四連敗というわけで。まんまと乗せられた自分にこそいちばん腹が立つ。

 一人になれる場所を探して、ようやくたどり着いた中庭はうまい具合に人気がない。四阿あずまやにしつらえられた長椅子に腰を下ろし、レオは咲き初めたばかりの白椿へと目を向けた。

 遠い島国から取り寄せられたというめずらかな花木は、中庭に数ある草花や緑の中でも奥方いちばんのお気に入りで――そういえばとねりこ舘でも、お祖父さまがこの花をずいぶん大切にしていたっけかと遠く離れた家族を思い出す。


 東の砦を大いに揺るがせた、夏の騒ぎののち。客人ではなく、正式な騎士見習いとしてレオが砦で過ごすようになって半年近くが経とうとしている。

 アーケヴの各地から集まってきた同じ年頃の少年たちと大部屋に寝起きして、朝から晩まで働きずくめ。厳格なるユーグ老侯の孫君、デュフレーヌ家ただひとりの跡継ぎとして大勢の者にかしずかれていた実家の暮らしとはほど遠い。

 少年の決断に肝を潰し、大いに嘆いた祖母や美しい叔母たちが、どうか戻ってきておくれと切々と手紙に書きつづってくる中で、祖父だけがひとり沈黙を守り通している。

 勝手な行動を取った自分に怒っているのか、無関心を装っているのかは分からない。だが、トマスや数人の従者とともに館を出立した日、慌てふためく家臣たちをよそに黙って自分を見送っていた祖父の口元は、わずかにほころんでいたようにも思えてならない。

 もしかして、お祖父さまはこうなると分かっておられたのかなと、白椿の清楚な花と冬すら色あせぬつややかな緑とを眺めやる。


 剣をはじめ弓に槍、戦斧といった武器の扱いから、馬を乗りこなす術に世話のしかた、果ては水泳に体術まで。あらゆる戦いの技と、いかなる窮乏にも耐えぬく術を叩き込まれる日が続く。

 故郷ではしもじもの護身用と聞いていた棒術までもが、砦では当たり前のように修練に組み込まれている。驚きを口にしたところ、生き延びたければものにすることだと琥珀の騎士は笑ったものだ。

「<帰らずの森>に迷い込んで無事でいられたような幸運が、そう転がっているわけではないからな。現に六年前、砦へ共に来た二十人のうち残るのは俺とギルバート、サイモンにウルリックの四人だけだ」

 さらりと告げられた過酷な現実に、レオは思わずリシャールを見やる。


 二十分の四。五人に一人。

 自分がつらなるのは四人の死者か、それとも一人の生者か。


「臆したか、とねりこの坊や」

 からかうようなリシャールの表情に、莫迦にするなと猛然と抗議する。

 デュフレーヌのレオが選び取るのは、もちろん生者の道だ。それ以外に何があるというのか。

「その意気だ。おぬしのような奴ほど、案外しぶとく生き残るかもしれんぞ」

 せいぜい精進することだなと笑った、琥珀の騎士の双眸が何やらおかしげに細められる。

「それと、可愛らしい乙女へ声をかけることも忘れずにな。どこぞの堅物のように、書物の女神とばかり夜を過ごすようでは困りものだ」

 真面目なのか、ふざけているのか。つかみ所のない男とエクセターの騎士が、何故に馬が合うのか不思議で仕方がない。ついでに、何で夜に本を読んだらいけないんだと首を傾げたあたり、レオがリシャールの冗談を理解するにはもう少し歳月が必要であるらしい。


 もちろん、騎士見習いが学ぶものは戦いの技ばかりではない。

 騎士団長や奥方といった、目上の人物が食卓に着くときに給仕を務めたり、外出の際には従者として付き添ったり、用聞きとして砦のあちこちを駆け回ることも務めに含まれる。こうした役割を通して、騎士にふさわしい礼儀や品格、いかなる場合においても忍耐強く高潔にふるまう心を身につけていく必要があるからだ。

 とはいえ、あれこれと申しつけられる用事の中には、少年を辟易させるものもあるわけで。

 こんな雑用なんか使用人にさせればいいのにと愚痴ったところ、おぬしはご婦人がたを相手にリュートをかき鳴らし、ディジョン風の小夜曲を吟じるしか能のない親衛隊にでもなりにきたのかと副団長に雷を落とされる始末だ。

「騎士さまといっても、いくさ場では色々なことを自分でしなくてはいけないんですよ」

 落ち込むレオをなぐさめようと、そっと教えてくれたのはダウフトだった。

「糧食の煮炊きとか、鎧の装備とか、服がほつれたら縫い直すのも。それが高じて刺繍好きになってしまった、ウルリックさまみたいな方もいますけれど」

 わたしのスカーフも飾ってくれましたと、砦の乙女はほっそりとした首を彩る空色の布をレオに見せた。<熊>の異名を取る髭面の巨漢からは想像もつかぬ、繊細かつ瀟洒な世界樹の枝葉模様に、ひとは見かけによらないもんだと妙に感心したレオだったが、

「ギルバートが作るスープもおいしいんですよ。干し肉とスパイスと岩塩を使った簡単なものですけれど、わたしが同じように作っても塩辛くなるだけで」

 ダウフトの口から、件の騎士の名が上がったことを思い出し、デュフレーヌの若君は口元をへの字に曲げる。


 そう、エクセターのギルバートだ。

 アーケヴ北部の地名と同じ姓を持つ家に生まれた男、<狼>いちの堅物と呼ばれる若い騎士こそが、少年にとって目下最大の障壁に他ならない。


 騎士見習いの中では一、二を争う腕前だと、大人たちがレオを評しているのを幾度となく耳にしてきた。正直なところ、先日騎士の叙任を受けたばかりのジョフロワより、自分のほうがずっと腕は上だという自負さえある。

 ところがだ。

 剣抱く乙女の傍らに控える男は、そんなレオの自尊心など塵ほどの価値もないとばかりに次々と打ち砕いてくれる。

「あやつらの中でかなう者がおらぬとすれば、おぬしが妥当か。エクセター」

 いつだったか、修練の様子を見に来た副団長が珍しく笑いながら告げたとき、

「次は子守りを?」

 実に嫌そうな顔で応じたギルバートにかちんときて、何だ僕の相手が怖いかだの、首を縦に振るまで後をくっついて回るぞだのと盛んに主張した挙句――うんざりした騎士から武術の修練を受ける約束を勝ち取ったのだが。

「威勢の良さは一人前か、小僧。とねりこの生まれだけのことはある」

 右頬から顎にかけてはしる古傷が、凄味すらのぞかせる副団長の笑いの意味。五人に一人という、生者の道をたどった騎士の腕がいかほどのものであるかを、砂埃の味とともにレオは知ることになった。

 挑んだ数はとうに忘れた。一本取るなど夢のまた夢。打ち身や痣をこしらえて、修練場に転がって空を仰ぐ羽目になったことは両の指では数え切れないほどだ。

 まるで怖いもの知らずの子犬が、悠然と寝そべる若い狼に向かって吠え猛っているようなもの。鬱陶しそうに眼を開けた狼に軽くあしらわれ、ころころとどこかへ転がっていったものの、懲りもせずにまたやってくる。

 息を切らしながら立ち上がるレオに、じゃれてるのか坊主、おまえの牙はどこにあると<狼>たちが笑いながら飛ばす野次にも慣れた。

 ただ、悔しいのは――


「こんな所にいたの?」

 呆れたような声に振り返った。デュフレーヌ家の跡取りである自分を、ヴァルターとひとくくりにして顎で使う者といえば、砦には一人しかいない。

「何か用か、じゃじゃ馬」

「本当にひねくれてるわよね、あんたって」

 今度は左足を踏まれたいのと睨んだものの、レオの顔を彩る砂埃とふてくされた表情にレネはたちまち吹き出した。

「いやだ、何て顔してるのよ」

 決まり悪そうな顔になった少年にかまわず、レネは中庭に湧き出ている人口の泉まで歩いていくと、手にした布をひたして絞る。

「ほら、拭きなさいよ。かわいい顔が台なしじゃないの」

 何がかわいいだ。

 やや乱暴にレネの手から布を取り、埃をぬぐい取りながら少年は金髪娘をじろりと睨む。まだ髭すら出ておらぬ、乙女と見間違えられやすい容貌をひそかに気にしているというのに。

「睨まなくてもいいでしょう。本当のことだもの」

 汚れた布を少年から受け取って、さっきよりはましになったわねとうなずくレネ。勝ち気な性格を伺わせるその口元が、ふとなつかしそうな笑みを刻んだ。

「あんたを見ていると、弟たちを思い出すわ。ふてくされ方とか、変に意地を張るところとかそっくりだもの」

 ああ、だから。さっき自分が修練場を出て行ったときも、別に大したことではないという素振りをみせたわけか。

「おまえの弟なんかに生まれて、そいつらは気の毒だな」

「何とでも言えば。あいつらがわたしに逆らおうなんて、百年早いんだから」

 胸を張るレネに、会ったこともない彼女の弟たちに同情すら覚える。自分とヴァルターに対してさえこの横暴ぶりだ、身内ならばどうなることか。考えたくはない。

「今日はまた、ずいぶん拗ねていたわね」

「わざわざ、そんなことを言うために追いかけてきたのか?」

「だって、この間のことをまだ気にしているのかと思って」

 レネの言うことに思い当たり、少年はたちまち渋面をつくる。どうしてこのじゃじゃ馬は、次から次へと嫌なことを思い出させてくれるのだろう!


 先日、砦を襲った魔族の一団と<アーケヴの狼>たちが衝突したときのことだ。

 <ヒルデブランド>を解き放ったものの、強大な負荷と反動に耐えきれず倒れかかったダウフトを、すぐ側にいたレオが咄嗟に支えようとした。

 だが、いくら羽根のように軽い金属で編まれた鎖かたびらを纏ってはいても、ぐったりとした娘の身体は少年の腕からずり落ちていくばかり。均衡を崩し、二人そろって石の床に倒れそうになったときだ。

 ふいに、自分に覆い被さっていた重みが消える。何とか体勢を立て直したレオの目に映ったのは、左腕だけでダウフトを支えたギルバートの姿だった。右手で鎧の留め金を外し、<狼>の旗じるしと同じ深緑のマントを引き抜くと、それで娘の身体をふわりと覆う。

 何か言おうと唇を動かしたダウフトを静かにとどめ、駆けつけてきたヴァルターに砦の医師とレネを呼ぶように命じると、ギルバートは何の重みも感じていないかのように娘を抱え上げた。

 一見荒っぽい動作でありながら、彼ができうる限りの注意をはらってダウフトを扱っているのはレオにすらわかることで――ぼんやりしている暇があったら動けとリシャールに促されるまで、ただ見ていることしかできなかった。


「ほら、図星」

 すっぱりと一刀両断。思わずむっとしたレオだったが、そこにあるのはいつになくやさしい、どこか愁いすらたたえたレネの顔。

「誰も、ギルバートさまに代わることなんてできない。ダウフトさまを狙う魔族や、人間を相手取るなんて――少なくともレオ、あんたの役目じゃないわ」

 思わぬ言葉に目を見張る。いま、レネは何と言った?

「人間に、ダウフトを邪魔に思う奴がいるのか?」

「ダウフトさまを好きな人たちと、同じくらい。<山の長老>を砦に送り込んでくるほどに」

 世に名高い暗殺教団の異名を耳にして、レオは愕然とする。

 頼りなさそうに見えながら、思わぬところで<髪あかきダウフト>の名にふさわしい輝きを示してみせる娘。アーケヴに生きる人間たちにとっては希望であるはずの、魔族の脅威から自分たちを守るはずの乙女。

 そんなダウフトの存在を疎んじ、この世から消し去りたいと願う輩がいる。そのこと自体が若君には信じがたい。

「……ダウフトは、それを?」

「ご存じないわ。決して教えないようにと、ギルバートさまはわたしに仰ったから」

 レネは口にこそしなかったが、ひそかに追いつめ、正体を現わした刺客を屠った者が誰であるのか少年には察しがついた。

 何のゆらぎも見せず、酷薄よ無情よと陰口をたたかれながら。ただ双の漆黒に底知れぬ感情を押し隠したまま、騎士は刃を朱に染めたのか。

「<聖女の騎士>と呼ばれても、ギルバートさまだって人の子だわ。力及ばないことだってあるし、ましてや四六時中ダウフトさまについているわけにもいかない。なのに」

 金髪につつまれた勝ち気な顔が、悲しそうにうつむいた。

「<山の長老>を、ダウフトさまに近づけるような落度を招いたのは自分だって。とても悔しそうに仰ったのよ」

「――」

「だから、ギルバートさまに言ったの。わたしもダウフトさまについていますからって」

 砦の聖女を疎んじる者と同じくらい、彼女を慕う者もまた大勢いるのだと。

 あのやさしい目をした娘を魔族の爪はおろか、ひとの勝手な思惑に翻弄させるつもりなどありはしない、騎士ひとりにすべてを負わせたりはしないと。

「貴女とて怖ろしいだろうにって言われたけど、平気ですって答えたわ。こんなことで怯えていたら砦では暮らせないし、ダウフトさまのお側にだっていられないもの」

 でも本当を言うと、すこし怖いのよと呟いたレネ。その笑みに、ただ盲目的に聖女を崇め側にはべるだけの娘ではないのだとレオは察する。

 同じ年頃の娘どうし、たわいもないことにはしゃいだり騒いだり。一方で、聖女という名のもとに自らを押し殺すことを強いられる村娘の悲しみへと寄り添っている。

 それは何よりも、ダウフトの大きな支えであるはずで。だからこそ、こんな奴には分不相応だとレオには思えるような敬意を、砦の騎士たちはレネに払ってみせるのだ。

 もし、自分が<山の長老>と渡り合う羽目になったとしたら――

 ダウフトに気取られることなくことを進め、刺客とはいえ同胞を屠らなければならぬ非情さに耐えることができるだろうか?

 怖ろしさに震えながらも気丈な態度を見せたレネを、果たして気遣うことなどできるだろうか?

 おそらく、今のレオにはできない。それどころか、自分の生命を守ることさえも。

「……どうして」

 少年の形のよい唇から漏れた言葉に、レネが鳶色の瞳を向ける。

「どうして、僕はいつも力及ばないんだ」

 いくら悔しがっても、あがいても、決して埋めることのできない騎士との差。

 生きた歳月も、戦いの技量も、冷静かつ的確な判断も、そっけない物言いに隠された真意も――何もかもがレオの先を行き、決して距離を縮めることはない。

 ダウフトがどちらを頼りに思うかなど、言葉にせずとも明らかで。


 かなわない。

 あの背中に追いつきたくて、走り続けているのに追いつかない。

 常にダウフトの傍らにある、広い背中に。


「こっちを向きなさいよ、レオ」

 どこか、おかしさをこらえたレネの声。ひとが真剣に考えているのにと振り向いた若君の口を何かが塞ぐ。

「何だ、これ」

 まろやかな甘みとバターの香り、さくさくとした歯触りに眼を白黒させるレオに、

「ダウフトさまからの差し入れ。あんたが食べ損ねたらかわいそうと思って、取っておいてあげたのよ。一枚しかないけれど」

 レネの言葉に、子供じゃないぞと反発しかけたものの。小さなビスケットの甘みは、思うようにことが進まぬ苛立ちを、ほんの少し鎮めてくれるような気がした。

 放っておけば、食料貯蔵庫ひとつ食い尽くしかねない騎士見習いたちだ。これ一枚だけでも守り抜くのはさぞ大変だったろうと思いつつ、こいつにかなう奴なんかいるわけがないしなと肩をすくめたのだが、

「デュフレーヌのレオ、あんたの役目はいったい何?」

 投げかけられた問いに、思わずレネを見やる。

「目先の勝ち負けにふてくされて、いじけているだけなの?」

 いつもならば、面と向かってそんな言葉を投げつけられた途端にかっとなる筈なのに。違うでしょうと訴えるかのような、勝ち気な金髪娘の瞳はそれを許さない。

「……僕の役目って、何だよ」

「ばかねえ。そんなこと、わたしに聞いてどうするのよ」

 自分で見つけるものでしょうと呆れてみせると、レネは少年が腰かけている長椅子から離れた。厨房のほうへと歩き出そうとして、足を止めて振り返る。

「さっきのこと、話したのはあんただけよ。レオ」

「どうして?」

「どうしてかしら。あんたにだけは、知っておいて欲しい気がしたの」

 少し恥ずかしそうに告げ、他の子には絶対にしゃべらないでよと釘を刺すと、レネは四阿から去っていく。

 深刻な話をしたかと思えば、とたんにからかってきたり。流行りの歌を口ずさむ金髪娘の後姿を見送りながら、分からない奴だなとひとりごちたレオだったが、

「僕の役目、か」

 呟いて、長椅子から立ち上がる。まだあちこちが痛むものの、身体の調子はさっきよりもだいぶましになっている。

 憤りにまかせるままに歩いていた回廊を戻ってゆく。

 おう、まだやるのか坊主と揶揄してくる兵士たちに当たり前だと応じると、レオは修練場へと続く回廊を駆け出した。

 角を曲がり、城壁の側を行き過ぎ――やがて見えたのは、思い思いの場所に座り、休憩をとっている騎士見習いや砦の<狼>たち。

 その中には、大仰な身振りとともに与太話を繰り広げる琥珀の騎士と、笑い転げる幾人かの騎士と、茶の入った素焼きの杯を手に黙って耳を傾けている黒髪の騎士の姿もある。


 <髪あかきダウフト>にも、エクセターのギルバートにもない、デュフレーヌのレオだけにしかできないことはいったい何か。

 今はまだ、朧気なかたちすら見ることはできないけれど。それを探して、つかみ取るために、レオは東の砦に留まることを決めたのだ。

 ならば尚更、ここで退くわけにはいかない。


「あ、レオ」

 他の娘たちと一緒に、騎士見習いたちに差し入れを手渡しながら、誰よりも早く少年の姿に気づいたのはダウフトだった。

 やさしげな微笑みに、夏の明け方に<帰らずの森>で彼女自身から聞かされたことばとレネの話が刹那胸をよぎったのだが、

「エクセター卿、もう一回だッ」

 先ほどまでのしおれようはどこへやら、元気いっぱいに叫ぶレオ。そら、とねりこの坊やがお戻りだぞとリシャールに軽く肩を叩かれて、エクセターの騎士は騒々しい奴だとばかりに少年を見やる。

「菓子ならもうないぞ。それとも、砂でも食べにきたのか」

「あれはたまたまだッ」

 息巻く少年に、周囲からは笑い半分、呆れ半分の声が上がる。子犬のくせによくやるよという、嘲りめいた声も聞かれたのだが、

「いつまでも子犬では困る」

 レオに向けられた嗤いを遮るかのように、放たれたギルバートの言葉。

「そろそろ、<狼>の牙を見せてもらってもいいころだ」

 その意志があるかと問いかける黒い双眸に、当然だと応じる鋼玉の双眸。

「何度だって挑んでやるさ。負けた時になって吠え面かくなよ」

「あっ、わたしも修練を見せてもらっていいですか?」

 護身術の参考にしたいんですと話すダウフトに、いやそれはとレオはしどろもどろになる。何もこんな時に、見に来なくても良さそうなものじゃないか!

「守り姫の御前で真剣勝負ときたか。これはますます負けるわけにはいかないな、坊や」

「ジェフレ卿、その坊やというのは止めろとこの間から何度も」

「挑発に乗りやすい、後先考えずに突っ走る、度胸だけは一丁前、砂地にへたり込む回数はそれ以上。単純明快だな」

「何だとーッ」

 ここぞとばかりにからかうリシャールと、更に突っ込むギルバートと、顔を真っ赤にしてむきになるレオ。どうやら武術の技量よりも何よりも、まずは激しやすいこの気性こそを何とかする必要があるようで。



 ひんやりとした冬空のもと、いくつもの笑い声がわきおこる中。

 いいからさっさと勝負しろ、という若君の叫びを耳にして、まあ何てことでしょうと呆れる侍女たちをよそに、彼を砦に迎え入れた張本人である奥方がたいそう満足げな笑みとともにうなずいたのは、ここだけのはなしだ。


 負けん気いっぱいの<狼>の仔に、鋭き牙が閃くのはいつなのか。

 みずから往くべき道を、歩み出す日はいつなのか。


 それはまだ、誰にも分からない。


(Fin)

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