第7話 Appelez mon nom.


 遠く高い秋の空、吹き渡る風に冬の欠片がほんの少し混じり始めた、ある昼下がり。


「お帰りなさい、エクセター卿」

 東の砦で、回廊のもっとも静かな一角に位置する場所、それが書庫だ。石畳にこつりと響いた靴音を耳にするかしないうちに、書庫に務める学僧ウィリアムが人の良い笑顔とともに話しかけてきた。

「すまん、邪魔するぞ」

 あるかなしかの微笑とともに、ギルバートはひんやりとした空気が漂う書庫へと足を踏み入れた。つい先日まで、荒々しいいくさの喧噪とそれに引き続く同胞たちのお騒がせな事態に身を置いていただけに、この静寂は何よりもありがたい。

「そうだ、シエナ・カリーンからの最新刊が届いているんですよ。エクセター卿がお戻りになったら、ぜひご覧いただこうと思っていたのです」

 開けたばかりの木箱から、バスカヴィル生まれの学僧はしっかりとした装丁が施された書物を取り出してみせる。学術と交易の都にその人ありといわれる、新進気鋭の学者が著わした内容に興味を覚え、ギルバートはすすんでそれを受け取った。

「髪は野を駆け下る山羊のごとく、瞳は愛らしい鳩のごとく……<雅歌>の乙女に隠された寓意についての考察か」

 頁を繰るたびにたちのぼる、真新しい紙とインクの匂いに安堵を覚える。冷雨やまぬいくさ場で否が応でもかがねばならぬ血や泥の臭いよりは、彼にとってはるかになじみ深いものだったから。

「ガスパール師がぜひ、これについて卿のお考えを聞きたいと申しておりました。わたしもご一緒してよろしいですか?」

「俺など、師やウィリアム殿の問答についてゆくのがやっとだ。何の足しにもならんだろう」

「そんなことはありません。己の考えに固執してしまうのが、とかく学問をなりわいとする者の陥りやすい癖ですが、エクセター卿は違ったものの見方を示してくださいます」

 おかげで、わたしもずいぶんと助けられましたと若い学僧は笑う。

「正直、ウィリアム殿がうらやましい。こうして何ものにもかき乱されず、書物に向き合う日々を送ることができるのだから」

 手にした書物を見つめるギルバートの呟きに、そうでしょうかと学僧は肩をすくめる。

「しがない田舎神父の息子ゆえ、この道を選ばざるを得なかったというのが実状です。これでも子供のころは、いくさ場で華々しく活躍する騎士に憧れていたんですよ」

「では、俺と逆だな」

 騎士の横顔にひらめいた苦笑に、多少の事情を耳にしていたウィリアムの表情が翳る。父上と兄上が健在であられたならば、いずれリャザンなりシエナ・カリーンなりで知られたであろうにのと、溜息とともに呟いた己が師の皺深い横顔を思い出して。

「そうだ、他のものもお見せしましょう」

 つとめて笑顔で答えると、ウィリアムは書物の山を探り始める。

「イブン・ハサン師の旅行記に、教母エイレネの詩集はいかかです。水晶が触れ合うような繊細なことばの響きが何とも」

 数冊の書物を手に振り返った学僧が見たものは、これまた何とも言えぬ騎士のしかめっ面。はて、何か卿のお気に障ることでも首をかしげたウィリアムの耳に飛び込んできたのは、じつに軽やかな足音だ。

 おや、どうやらエクセター卿と書物の女神との逢瀬は、またの機会になりそうだ。

 何とも微笑ましい気持ちになった学僧とは対照的に鉛空よりも重い息をつき、ギルバートは書庫に駆け込もうとした者に背を向けたまま言い放つ。

「ダウフト。回廊を走るなとあれほど言っておいただろう」

 騎士の言葉に、ぴたりと足音が止んだ。

「どうして、わたしだって分かったんですか」

 澄んだ声に振り返れば、そこに立つのは緑の瞳を不思議そうにしばたたかせている砦の乙女。

 動きやすさを優先させながらも、娘らしいはなやぎを留めた仕立ての服は、たしか奥方ひさびさの自信作であったはず。黙って窓辺に座っていれば風にそよぐ花の風情も出ようものを、そうはいかないのが困ったところだ。

「服の裾をひるがえして走る娘など、砦広しといえどもおぬしぐらいだ」

「でも、ダウフト殿と気づかれたのはわたしよりも早かったのですよ。いつも側におられるだけのことはありますね、エクセター卿」

 にこにことしながらのたまうウィリアム。悪気がないだけに、彼の言葉はギルバートにとって何よりもありがたくない。

「本を読もうとしていたところだったんですね」

 ギルバートが手にした書物に目を留めて、ダウフトはすまなそうな顔をする。数少ない憩いのひとときを妨げられることを、騎士が嫌うと知っていたからだ。

「やっぱりいいです、お邪魔しました」

 背を向けて書庫を出て行こうとしたダウフトの襟首を、咄嗟にかるく掴んで押しとどめる。

「用があるならはっきり言え」

 急いで駆けてきた様子からして、何かあるなとはふんでいた。いつもならばすぐさま聞いてくるというのに、今日に限っておとなしく引き下がるとはどういう風の吹き回しか。

「いえその、ほんとうに大したことじゃ」

 ごまかそうとしたものの、嘘をつくときに目が泳いでいるぞと静かに指摘してみせると、ダウフトは観念したかのように騎士のほうへと頭をめぐらせた。

「聞いても笑わないって、誓ってくれますか?」

 ずいぶん大袈裟なことだと思ったが、自分を見上げる緑の瞳は意外なほどに真剣だ。

「わかった。笑わないから言ってみろ」

 経験からして、こういうときは大抵ろくな事にならないのは分かりきっている。それでもつい、娘の話を聞こうとしてしまうのは悲しき習慣か。

 襟から手を離すと、ダウフトはくるりと騎士の方へと向き直り、おもむろに口を開いた。

「字を教えて下さい」



 ……どうやら、疲れがたまっているらしい。

 砦の医師に診てもらうかと即決し、立ち去りかけたギルバートの袖がしっかと掴まれる。

「訳は聞かんから手を離せ、破ける」

「わたし、寝ぼけている訳じゃありません」

 何が何でも離すものかとばかりに、ダウフトは袖を引っ張る手に力を込める。

「どうしても知りたいことがあるんです。でもその、ちょっと聞きづらいことで」

 だからギルバートに聞いてみようと思ってと、そこまで言ったところでダウフトは急にもじもじとしてしまう。

「レネ殿か、ブランシュ殿に聞けば早かろう」

 同じ年頃の娘たちのほうがずっと相談もしやすかろうし、役立つ知恵を出してくれるはず。だというのに彼女たちの名前を出したとたん、ダウフトは慌てて首を横に振る。

「だめです、他の人には内緒にしておかなくちゃ意味がないんです」

「なら、俺に聞いても意味など」

 あるものかと続けようとしたところで、ダウフトは袖から手を離してしょげかえってしまう。何もそこまで落ち込むことはなかろうにと口を開きかけたとき、書物を抱えたままふたりのやり取りを聞いていたウィリアムに気が付いた。

「エクセター卿。騎士たるもの、ご婦人を悲しませてはいけませんよ」

 灰色の双眸に非難の色をにじませて、自分を見つめる若い学僧の表情は真剣そのもの、完全にダウフトの肩を持っている。

「だめですか、ギルバート」

 ぜったいによそ見も居眠りもしませんからと訴えるのは、秋が深まってもなお緑をとどめる乙女のまなざし。


 果たして<母なる御方>は、まことに慈愛深き御方なのやら。


 雲居の果てで微笑むかの存在の思し召しを、ひそかに恨みたくなるギルバートだった。



                ◆ ◆ ◆



 結局はこうなるわけだ。


 どうぞお使いくださいと、にこやかにウィリアムが用意した椅子が二つ。ほどよい日射しが降り注ぐ窓辺の机をはさんでダウフトと向かい合う形で座りながら、ギルバートはかすかに溜息をついた。

 机の上に並べられたのはペンとインク、広げられた紙が数枚とずいぶんと使い込まれた本が一冊――六つの誕生日に、兄から贈られた書き取りの教本だ。

 実家を離れるときに、どうしても手放しがたいばかりに携えてきてしまったものを、まさかこんなかたちで使うことになろうとは。

 遠い記憶の向こうで、しっかり学ぶんだぞとあたたかく笑っていた面影を無理矢理振り払い、ギルバートはダウフトを見たのだが、

「少し力を抜いたらどうだ?」

 瞳に緊張の色を浮かべ、さながら一騎打ちに挑まんとするもののふのごとき面持ちで座っていた娘は、ギルバートのことばに表情をやわらげる。

「こういうものは、面白いと思えなければ苦行以外の何ものでもないぞ」

「お茶でも淹れてきましょう。エクセター卿の仰るとおり、気楽に学ぶのがいちばんですよ」

 いそいそと支度を始めるウィリアムを、どうかお構いなくと留めようとしたダウフトだったが、

「こういうことなら大歓迎です。師匠がお留守の時は、わたしひとりが書庫の管理を任されますからどうにも退屈で」

 レオ殿が来たら、それとなくあしらっておきますからねと付けたした人の好い学僧に、だからこの娘の前で余計なことを言わんでくれとギルバートはげんなりとする。

「大丈夫です。勉強と聞くとレオは一目散に逃げ出しますから」

 にっこりと応じたダウフトと、確かにその通りですねと笑ったウィリアムとのどこかずれたやり取りに脱力感すら覚えそうになる。


「始めるぞ」

 何とか気を取り直し、ギルバートは紙に大小とりまぜ四十二の表音文字を書き記す。

「基本はこれだ。この中からいくつかを組み合わせれば、意味のあることばができる。たとえば」

 綴った表音文字をダウフトに指し示し、その下にひとつことばを記す。

「avisと記してアウィス――つまり鳥の意味になる。こうしたことばを、いくつかつらねていったものが文だ」

「全部覚えれば、ギルバートみたいに本を読むこともできますか?」

 無邪気に問う娘に、それはおぬし次第だなと騎士はそっけなく応じる。

「簡単なものから、徐々に難しいものを覚えていくんだ。地道に続けなければ何の意味もないぞ」

「レオやヴァルターがやっている、剣の稽古みたいなものですね」

 書も武芸も、根底では相通じるものがあるといにしえ人は言ったもの。知らずとそれを口にするダウフトの直感は、ときどき怖ろしくすら感じられる。

「まず書いてみろ。そこに書いた『鳥』でも……そうだな、いちばん覚えやすいのは名前か」

 騎士のことばに、緑の瞳が興味に輝く。

「レネって、どう綴るんですか」

 ダウフトの問いに、やたらと元気な金髪娘の名を記す。それをまねて、何ともたどだどしい筆跡で娘が綴って見せたのは『レネ』の名前。

「リシャールさまは?」

「こう」

「マリーは? レオにヴァルター、ウルリックさまは? アネットにノリスさん、それと騎士団長に奥方さまは?」

 砦にいる者たちの名を次々と挙げてゆくダウフトに応じるかのように、騎士は紙面に文字をつらねていったのだが、

「じゃあ、ギルバートは?」

 思わずペンを止めてダウフトのほうを見やったが、彼がことばを綴ってみせるのをわくわくした様子で待っている娘の表情に、

「こうだ」

 かすかな溜息とともに、騎士は己の名前を書き記す。インクも乾かぬうちに紙を手に取りしげしげと眺めるダウフトに、手が汚れるぞと注意しようとしたものの、

「ギルバートって、こう書くんですね」

 紙面に綴られたことばを指先でなぞり、とても大切そうにダウフトが何度も呟くものだから、

「俺の名前など、覚えても仕方ないだろう」

 半ば照れ隠しのように紙を取り上げる。もっとよく見せて下さいと頼む娘に、ひとの名前より自分の名前を覚えるほうが先だと言うと、ギルバートは自分を含めて幾人もの名前が綴られた紙面の空白に娘の名前を書きとめる。

「おぬしの名だ。手本にもならんが、これを写してみろ」

「これが、わたしの名前ですか?」

「そうだ。<髪あかきダウフト>、不思議のダウフトと呼ばれているおぬしの名前だ」

「わたしの呼び名」

 綴られた短いことばに、ダウフトはしばし見入っていたのだが、

「父さんと母さんがつけてくれた、でも<ヒルデブランド>に捧げてしまった、なまえ」

 ぽつりと呟いた横顔に、それが乙女の望んでいた答えではないことを騎士は悟る。

「なら、別にあるのか?」

 やたらと長い名前を縮めて呼び名にしたり、二番目の名前をつけたりすることなどよくある話。ダウフトの故郷でも、おそらくそうしたならわしがあったのだろうと、単純にギルバートは思った。

 思ったからこそ、何の気なしに口にした。

「その名前を言ってみろ。書きとめてやるから」


「ギルバート」

 がたりという物音に面を上げた騎士が見たものは、椅子から立ち上がり、耳まで暁の色をたちのぼらせたダウフトの姿。

「それ、本気で言っているんですか」

 懸命に驚きを抑えているようにも、不躾な問いに怒っているようにも見える娘の表情に、不思議に思ったギルバートはつい聞き返す。

「なにも睨むことはないだろう、名前を聞いただけだぞ?」

 騎士のいらえを耳にしたとたん、ダウフトの顔に浮かんだものは呆れとも失望ともつかない表情。あなたというひとは、本当に何も知らないのねと言いたげなまなざしに妙な居心地の悪さを感じ、いったい何のことかとギルバートが問い返そうとしたときだ。


「エクセターのギルバート」

 どうしてこの娘は、思いもしないところで暁の輝きを自分の前に現わしてみせるのか。

 穏やかな晩秋の陽光に輝く髪も、上気したすべらかな頬も、みずみずしい唇も、襟からのぞく首筋の意外なほどの優雅さも、いくさ姿からは決して分からぬ柔らかなからだつきも――えもいわれぬ快さと底知れぬ怖れを騎士に抱かせる。

「……ダウフト?」

 子鹿のように砦じゅうを駆け回る姿を、他の娘たちとおしゃべりに興じる姿を見ていたほうがまだ心安いというものだ。

 そのほうがまだ、惑わせるかのような甘い双の緑を自分から逸らしてくれと願わずに済む。ともすれば手を伸ばし、目の前に立つ娘に触れたい、引き寄せたいという欲求と、それを恐れるおもいとの狭間で揺れ動かずに済む。

 これがダウフト、自分の知るのんきな村娘などであるものか。

 照る月のようにやさしく、輝く太陽のようにまばゆく、旗を掲げた軍勢のように怖ろしいこの乙女が。


「わたしの名を知るものは、ただひとりです」

 小さく、だがはっきりと聞き取れる声がギルバートの耳に届く。もう一度挑むように若い騎士を見ると、ダウフトは火照った顔もそのままに書庫から駆け出していってしまう。


 どういうことだ?


 置き去りにされたのは、いくつものことばを綴った紙とペン、そして戸惑う心。

 しばし呆然としたまま、騎士は乙女が去っていった方を見やるしかなかった。



               ◆ ◆ ◆



「また本の虫か、ギルバート」

 からかうような口調に、ぼんやりとペンを弄んでいた騎士は面を上げた。

「リシャール?」

「何がリシャールだ。俺が来たことにも気づかぬくせに」

 呆れたように応じると、琥珀の髪をした騎士は机に広げられたままの書物に目を留める。

「よく飽きないな。独り寝のわびしさを、書物の女神が温めてくれるわけでもあるまいに」

 俺なら、柔らかなぬくみこそを選ぶがなとのたまう幼馴染に放っておけとやり返し、ギルバートは窓の外に目を向ける。俺好みのうるわしいご婦人でも通ったかと、つられて外を覗いたリシャールの双眸が、何ともおかしげに細められた。

「このごろ巷で流行るもの。いくさの狼煙と恋のまじないだな」

「何だ、それは」

 怪訝そうな顔をしたギルバートに、リシャールは中庭の四阿ではしゃいでいる娘たちの一団を見てみろと示す。言われるままに目を向けてみれば、彼女たちの足元に何やらふわふわとしたものが渦巻いていることに気がついた。

 雪白、金糸雀カナリヤ、薄紅。リラに萌黄に土耳古トルコ石。

 色とりどりのリボンでできた山を築き上げ、笑いさざめきながら何やら懸命に手を動かしている娘たちに、はじめは刺繍でもしているのかと思ったギルバートだが、

「さる姫君が始めたところ、あっという間に広まったらしい。とかくご婦人というのはああいったものがお好きだな」

 用意いたしまするは、できるだけ長いリボン。それに自分と想いを寄せる相手の名を交互に書きつらねていく。もちろん、間違えたらそこでやり直し。

 できるだけ長く綴った後は、それをくるくると巻いて枕の下に――恋しいひとを想いながら眠りに就けば、どんなに冷たく心をよろった相手であろうとも、夢で逢瀬がかなうのだとか。

「町の小間物屋からは、それこそリボンが影も形もなくなったそうだ。まあひとときのお遊びだからと、おかみは至って冷静だが――どうした?」

 不思議そうに問いかけるリシャールに、何でもないと答えようとした黒髪の騎士だったが、

「あれ、ダウフト殿はどうなさったのですか?」

 何とも絶妙な間の悪さ。茶器を乗せた盆を手に戻ってきたウィリアムが、リシャールの姿に目を丸くする。何もこんな時にと机に突っ伏しかけたギルバートに、

「どういうことだ?」

 興味津々といった様子で、詳しく話を聞こうじゃないかと身を乗り出すリシャール。にこやかな笑みのむこうに尖った角が見えないことが不思議なくらいだ。

「書庫で逢瀬とは、おぬしにしてはよく考えたじゃないか。確かにここなら、邪魔も入らず心ゆくまで語り合えるな」

「何が逢瀬だ。ダウフトが急に字を教えろと言ってきただけのことだ」

「ほう。ということは、ダウフト殿もあのまじないをするつもりだったのか」

 何ともかわいらしい方じゃないかと笑うリシャールに、どこがだとギルバートは憮然とする。

 いくら聞いてもはぐらかすばかりだった、ダウフトの態度の理由がこれで分かったというもの。何とも幼く、たわいもない遊びのためだけに、あの娘は自分をだしにしたというわけか。

 腹立たしさとともに結論づけたものの、そこで騎士はある事実に行き当たる。

 ダウフトが書いてくれとねだった名前の中に、おそらく願いをかけたい誰かがいるのだろうが――知らずに字を教えたことよりも、そっちの方がはるかに面白くないのはどういうわけなのか。

「で、ダウフト殿はご自分の名はどう書くのかとおぬしに聞いてこられたわけか」

「そうだ、綴りを教えたのになぜか不本意そうにしていたがな。だったら別の名を教えろと言ったんだ…が……」

 最後のほうがとぎれとぎれになったのは、それまでにやにやとしながら話を聞いていた幼馴染と学僧が、次第に信じがたいものを見るような顔つきに変ってきたことに気づいたからだった。

「エクセター卿。あの、ほんとうにダウフト殿へそう聞かれたのですか」

 おそるおそる尋ねてきたウィリアムに、

「ああ。そうしたら、なぜかは知らんが急に怒り出して」

「エクセターのギルバート」

 騎士の言葉を遮ったのは、地の底から響くような友の声。

「おぬしのような救いがたいかぼちゃ頭を俺は見たことがないし、この先も見ることはないだろうよ」

 琥珀色の髪をかきむしるリシャールの言いぐさに、少し機嫌を損ねたギルバートはだから何なんだと問う。

「俺にはまるで訳が分からんのだぞ。名前を聞いただけでどうしてああも」

「ただの名前なら、ダウフト殿とて腹も立てんだろうさ」

 いいから、これから俺の言うことをよく聞けよと黒髪の友を諭し、リシャールは問いかける。

「ダウフト殿のお生まれは、南東のオードだったな?」

「そうだが、どうかしたのか」

 いくさの炎に焼き払われ、灰と骨だけが残された土地。いまはもうどこにもない、小さくも穏やかな村で砦の乙女は育ったのだ。

「あの地方には、真名まなの風習が残っていたのを知らなかったか?」

 耳に入ったリシャールの言葉が頭に届き、それの意味するところを悟ったギルバートの手からぽろりとペンが落ちた。


 真名。

 呼び名とはまた別に、母親が最初の乳とともに我が子へ与える隠された名前だ。

 名は魂の本質をあらわすもの、みだりに知られることは生命を握られるにも等しいもの。ましてや、いとけない赤子の魂はそれを好むものにとっては何よりの馳走なのだ。

 だから、母となった女は我が子を抱き小さな耳に秘密の名を囁く。黄泉に連れ去られることのないように、母だけが知る<おもい>を子に与える。

 魂と深く結びついた秘密の名は、いにしえの時代には神聖なる誓約に、揺るがぬ忠誠を誓う際に使われた風習とは聞いていた。だがこのアーケヴでは、時のながれとともに次第にすたれていってしまったはず。

「エクセターではとうに失われたが、オードではいまだ母から子へ伝えられていると聞くぞ。ことにご婦人の場合はな」

 生まれた子が女児の場合、真名は幾重にも隠されるべき秘密となる。世に在るあまたの子らを産みたもうた<母>と同じく、身にいのちの満ち欠けを宿す女は、無限のちからを持つものと信じられていたから――

「つまり、何だ。その」

(その名前を言ってみろ。書きとめてやるから)

「俺がダウフトに、何の気なしに聞いたのは」

(それ、本気で言っているんですか)

 呆然と呟くギルバートに、顔を赤らめたウィリアムの言葉がとどめとばかりに放たれる。

「<雅歌>にある、乙女のもとを訪れた若者のごときふるまいです。エクセター卿」


 夜露に濡れながらも臥所ふしどにたどり着いた若者は、ぬくみを求めて乙女を呼ぶ。

 まことの恋人にすら、めったにその姿を現すことはない乙女。時折小さな窓を開けて、ほんの一瞬だけ姿を現し――すぐに隠れてしまうのだ。

 よこしまな者が、力ずくで乙女を手に入れようと図っても無駄なこと。彼女が是としたただひとりにしか、臥所の扉は決して開かれることはないのだから。


 さあ、わたしを探して。思い描いて。


 乙女の呼びかけに応じるように、若者は思い描く。

 澄んだ池のように美しい目を、紅の糸にも似た唇と柘榴の頬を、野を駆け下る山羊のごとく豊かな髪を、千の盾をかかげた塔にも似た象牙の首筋を、かおり草をはむ双子のかもしかのような柔らかなふくらみを、百合に囲まれた小麦の山にも似た腹を、匠の手に磨きぬかれた彫り物のごとき四肢を。

 乙女を思い描くことで、求める者の全身全霊はすべて彼女に引きよせられる。

 それができたものだけが、閉ざされた美しい庭へ、生命の水をたたえた秘めたる泉へ至る道を見いだすことができる。

 いのちの名という、臥所の鍵を託されたただひとりだけが。



「こうなったら腹を決めろ」

 言葉も出ないギルバートの肩に、じつに重々しいうなずきとともにリシャールは手を置いた。

「今すぐダウフト殿を抱え上げて司祭のもとに駆け込め。くにの母上には俺から伝えてやる」

 お望みなら仲人でも名付け親でも何でもするがと揶揄する友にもかまわず、椅子を倒さんばかりの勢いで騎士は立ち上がる。

「違う、俺が聞いたのはそういう」

 肩を震わせて、赤くなったり青くなったりと傍から見ても案じたくなるほどの表情を見せていたかと思うと、

「こんな不意打ちがあるかッ」

 叫びとともに、慌てて書庫から駆け出していく堅物騎士。後に残されたのは、おろおろとする学僧と、やれやれと息をついた琥珀の騎士のふたりだけ。

「あの、ジェフレ卿」

「まったく、呆れた奴だ」

 周りのことには聡いくせに、どうして自分のことになるとああも鈍くなるのだろう。

「ダウフト殿を追いかけるのはいいとして、ことの始末をどうつけるつもりなのやら」

 うっかり者が発したことばに戸惑っている乙女が、いまエクセターとの風習の違いを聞かされたところで受け入れられようはずもない。かといって真名を聞くつもりなどなかったと言えば、それならどうして尋ねたのと逆に怒りをあおるだけ。

「ということは、しばらくはお二人ともあの調子ですか」

 心配そうに眉を寄せるウィリアムに、案ずることはないさとリシャールは笑いかける。

 ダウフトへは、頃合いをみはからってそれとなく話をしておくつもりだ。いつまでも乙女を驚かせたままにしておくのは、彼の主義ではないからだ。

 逆にギルバート、迂闊な幼馴染のほうは当分そのうろたえぶりを見て楽しむことに決めた。

 砦の聖女には、決して綴れぬ願いのリボン。

 たとえ騎士の綴りを知ったとて、己がいのちの綴りを知らぬ。さりとて告げてしまえば、まじないの意味はもはやなく。

 それでも願をかけてみたいという、乙女のいじらしい思いも知らずにいた男にはいい薬だと、本人が知ったらそれこそ締め上げられかねないようなことを思いつつ、リシャールはにやりとする。

「まあ、あやつにとって救いがあるとすれば、ダウフト殿がどう答えられたかだな」

 真名を求めんとする者が現れた時、それが意に添わぬ男であれば乙女はこう答える。わたしの母にお聞きなさい、と。

 もちろん、我が子を守るための秘密を母がおいそれと明かすはずもない。そこで彼女の心を得る資格がないことを、男はあきらめとともに知ることになる。

 わたしの名前を知るものは、ただひとり。

 それならば、まだ堅物騎士には見込みがあろうというものだ。母から母へと受け継がれてきた、いずれはダウフトも我が子の小さな耳へと囁くであろう謎を、解く資格が彼にはあると示されたことになるのだから。


「果たして、エクセター卿に解くことがかなうでしょうか?」

 乙女がもたらした試練は、母たちがしかけた遠大な謎そのもの。

 挑むか、それとも退くか。

「男子たるもの、最大の試練に応じずして何とする。そんなところだな」

 わたしの名を知る者は、あなただけ。

 乙女の唇からこぼれる甘い微笑みと妙なる名が耳をくすぐるかどうかは、エクセターの騎士しだいというわけだ。

「愛を知らぬ者が、いかにして神を愛することができようか――まこと、先人のことばとは奥深いものです」

「まったく同感だ、ウィリアム殿」

「ですがジェフレ卿、どうして真名のことをご存じだったのです?」

「さて、どうしてかな?」

 誰しも秘密の一つや二つはあるものだと謎めいた笑みをひらめかせ、リシャールはこれから起こるであろう騒ぎに備え、いろいろと対策を話し合おうじゃないかとウィリアムを誘うのだった。



 さてこの後、黒髪の騎士が怒れる乙女にどんな顔で会ったのか。

 続いて起こった愉快な騒ぎの影で、琥珀の騎士と若い学僧がどう暗躍したのか。


 それは、言わぬが花かもしれない。


(Fin)

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