第5話 千のことば



「不思議ですね。どうしたら、そんなふうに書けるんですか」


 背後から聞こえた声に、ギルバートは紙面に走らせていたペンを止めて振り返った。彼が綴っていた文を、緑の瞳をくるめかせながらダウフトがじっと見つめている。

「……ダウフト、部屋に入るときはきちんと断ってからに」

「あら、わたしちゃんと言いました。ヴァルターに」

 ダウフトの言葉に戸口のほうを見やれば、従者の少年が慌てて身振りで訴えている。これでも懸命にお止めしたのですと言わんばかりの仕草に、止めたところで聞くような娘でもなかったことを改めて思い知る。

「これって、手紙ですよね?」

 にこにことしながら、ダウフトは問いかけてくる。のどかな田園地帯で生まれ育った娘にとって、読み書きというものは何とも奇妙な、だが良さそうなものに映るらしい。

「そうだ」

 短く答えるだけに留めて、ギルバートはたった今綴ったばかりの手紙の上に、書き損じた紙を覆い隠すように乗せる。

「何か用か。急ぎでなければ聞くぞ」

「レネと一緒に、市に出かけてこようと思って」

 ふもとの町では、週に数回の間隔で市が立てられる。通りを行く人々のにぎわいを目の当たりにし、あちこちの屋台を覗き、辻楽師や芸人たちが繰り広げる技を観ることが、砦の乙女にとってささやかな楽しみのひとつでもあった。

「レネ殿と二人でか?」

 <狼>たちのお膝元ゆえ、他に比べて比較的治安はよいものの、人が集まるぶん騒ぎが起こりやすいのも町ならではのこと。いくら聖剣とともにあったり、家令をやりこめる勝ち気さを誇ってはいても、この物騒なご時世だ。たとえ昼間でも、娘ふたりだけのそぞろ歩きというのはあまり勧められたものではなかった。

「大丈夫です。レオが一緒に行ってくれることになりましたから」

 ギルバートにはちゃんと言っておこうと思ってと、ダウフトの言葉にはまるで他意がない。

 ただそこへ、やたらと厄介事に首を突っ込みたがるわがまま侯子の名が挙がったことに、騎士は一抹の不安を抱かずにはいられない。ついでに、何とはなしに面白くない気持ちも。

「それならレオに伝えておけ。今度騒ぎを起こしたら謹慎十五回目だぞ」

 何かと血の気が多い年頃の騎士見習いたち。中でもデュフレーヌの若君は、砦における過去の謹慎処分最多記録に単独で迫る勢いだ。ここだけの話、年明け早々にも首位の座を占めるのではないかとの下馬評が、騎士たちの間には広まっている。

「そうですか? レオは十六回目だって言ってましたけれど」

 あっけらかんとしたダウフトのいらえに、いいから出かけてこいと力なく手を振る。

 暗くならないうちに戻りますねと告げて部屋を出て行こうとしたダウフトだったが、騎士のほうへと振り返り、じっとその顔を見つめている。

「俺の顔に、何か付いているのか」

「いいえ、何でもありません」

 かすかに首を横に振ると、ダウフトは行ってきますと騎士と従者の少年に告げて部屋を出て行く。


「ギルバートさま」

 主の事情を察するヴァルターが、案ずるように声をかける。それには答えずに、エクセターの騎士は書き損じた紙の下に覆い隠していた手紙を引き出した。

「ヴァルター」

 名を呼ばれて、従者の少年が返事とともに居ずまいをただす。

「封をして広間へ届けろ。ソーヌの司教猊下へ、エクセターのギルバートからだと」

 手紙を受けとり、しばし戸惑ったように主を見ていたヴァルターだったが、

「どうしてダウフトさまのことを、悪く書かなくてはならないのですか」

 いつの間に、手紙の内容を覗きこんでいたのだろう。主に似てか、真面目な少年には納得がいかないようだった。

「おぬしが知る必要などない」

「ですが」

「使者殿を待たせるな。痛くもない腹を探られるのはごめん蒙るぞ」

 一切の感情を交えぬギルバートの言葉に傷ついたような、悲しげなまなざしを向けて。出過ぎたことを申しましたとよそよそしく告げると、ヴァルターは部屋を出て行く。

 少年の足音が遠ざかるのを確かめて、ギルバートは机の上に散らばる書き損じの紙へと振り返った。


 ダウフトが文字を知らぬことを――いま自分が綴っていた内容を理解する術がないことを、これほどありがたく思ったことはない。

『無知にして愚昧、<母なる御方>より授かりし御力の意味すら分からぬ小娘』

 こんなものを自分が記していたと知ったならば、ダウフトはどんな顔をするだろう。

 たとえそれが、聖女の動向について司教たちから求められた報告書であったとしてもだ。


 ダウフトの活躍を伝え聞き、諸手をあげて喜ぶ人間ばかりがアーケヴにいるわけではない。

 娘の側づきとなるよう、ギルバートに大公の命を携えてきた司教や諸侯――特権の上に胡座をかいていた者にとって、取るに足らぬはずの百姓娘の存在は今や魔族にも勝る脅威となっているのだ。

 疑い深く、妬み深い輩には、おっとりした娘の言動も行動もすべてが何かしらの意図を含んだものとしか映りはしない。そんな連中が、一度でもダウフトに叛意ありとみなしたらどうなることか。

 砦において、ダウフトの存在など微々たるものであること。所詮は彼女を聖女として祀り上げたものたちの、単なる手駒にしか過ぎないこと。

 慎重に選んだ言葉と、胸の悪くなるような美辞麗句に織り交ぜて書きつらねた心にもない言葉の数々に、無性に腹立たしさがこみ上げてきて。それらを掴むと、ギルバートは汚らわしいものでも祓うかのように一気に破り捨てた。

 はらはらと舞い散る、幾つもの紙片。こんな術でしか、剣で切り裂くことの能わぬものから守ることができぬのが現実かと騎士が歯噛みしたときだ。


 ふと、机の片隅に置かれた一通の手紙に目がとまる。遠くエクセターの館にある母から送られてきたものだ。

 そういえば、故郷から久々に届いた便りを読もうとした矢先に、務めを果たせという使者の伝言を携えてヴァルターがやってきたのだ。先刻の不愉快きわまりない文面を無理矢理に頭から振り払って、ギルバートは母の手紙を手に取った。

『遠い東の砦で、貴方はどのように過ごしていることでしょう』

 今年もエクセターは<おかあさま>の恵みで、戦とは無縁の豊かな実りを約束されるであろうこと。姉や二人の妹たちをはじめ、館の者も皆つつがなく過ごしていること。

 病に伏せりがちだというのに、母の筆跡はそれを微塵も感じさせはしないほどに流暢だ。離れた我が子の身体を気遣い、リシャールやヴァルターと共に一日も早く無事に戻ってきて欲しいと綴られた切なる願いに、騎士の表情が自然とやわらいでいく。

 ただ。

『貴方がお守り申し上げている乙女御について、イザベルとキャスリンが大層興味を持ったようです。<髪あかきダウフト>殿について何か知ることができたならば、貴方を案ずるあまりにエクセターの冬空のごとく沈みがちなわたくしの心も、少しは晴れることでしょう』

 妹たちを引き合いに出してはいるものの、実は母自身が興味津々であるらしい事実を目にするまでは。


 深い溜息とともに、ギルバートは再び机に向かう。

 これが妹たちならば、砦の乙女について興味本位で記すことはできないと書き送ることもできただろうが、相手が母ではそうもいかない。幼かった頃と同じように、自分が適当に思いついた嘘やごまかしなど、母は北海の深みをたたえた灰青のまなざしでたちまち見破ってしまうであろうから。

 真新しい紙の上にペンを滑らせる。

 ダウフトが来てからの砦の様子を記しては、そのまとまりのなさにうんざりして上から線を引いて消し、余白へ新たに書き直し始めてはまた消すことを繰り返す。


 どうしたら母に、姉や妹たちに伝えることができるだろう。

 人を見つめるときの緑の瞳が、いかなる湖よりも澄み渡っていることか。

 軽く首をかしげたとき、振り返ったとき、ひとつひとつの仕草がいかにやさしげであることか。

 暁の光がその髪に射し込んだとき、いかに炎に照り映えるあかがねのごとく輝くことか。

 アルマ・マーテル。アディタ・エヴァ。ハッワー。

 幾千の名を捧げたとて、まことの姿を知ること能わぬ<母>のように、いかに美しい文字を使おうとも、星の数ほどもあろう妙なる言葉をつらねようとも。

 ダウフトを、ただひとりの乙女を現わすことなどできるはずもない――



「やっぱり、すごいですね。すらすらと言葉が書けるなんて」

「なッ」

 ふいに側で聞こえた声に、ギルバートは椅子から飛び上がらんばかりに驚く。いつの間にか、自分の真横で手紙を記すさまをのぞき込んでいるのはダウフト本人ではないか。

「どうしておぬしがここにいるッ」

 懸命に心を鎮めようとしながら問う騎士に、そんなに驚かなくてもとダウフトは笑う。

「だって、ギルバートが何だか苛々していて、それに困っているようでしたから」

 雪でも吹き込んできたような室内のありさまに、こんなに散らかしてと呆れながら乙女が差し出したのはひとつの杯だった。

「厨房でもらってきました。息抜きにいいものはないかって、ノリスさんに聞いたんです」

 葡萄酒を湯で割って香辛料と蜂蜜を加えた飲料が、騎士の目の前であたたかな湯気をたちのぼらせている。

 杯を受け取り、一口傾ける。まろやかな甘みと適度な芳香が、やや高ぶっていた心を穏やかに静めていくかのようで、そのまま続けて一口、また一口と杯を開けていく。

「ギルバート?」

「……すまん、もう大丈夫だ」

 一息つくと、ギルバートは空になった杯を机に置いた。心配そうな表情を見せているダウフトに、いつもの調子で口を開く。

「俺のことはいいから、市へ行って来い。レネ殿を待たせているのだろう?」

 うなずくダウフトだったが、緑の瞳には本当かと問いかけるような光がある。

 このままでは、何か理由でもつけない限り彼女は決して動こうとはしないだろう。自分のために、せっかくの息抜きの機会を潰すことなどありはしないのに。

「そうだな――ならばひとつ頼みがある。ヴァルターに、林檎の焼き菓子を買ってきてやって欲しい」

 お菓子ですか?と問い返すダウフトに、あやつの好物だとギルバートは付け足した。先刻、冷たい言い方をしてしまったことを詫びようという気持ちもあったのかもしれないが。

「それと俺にも、何か適当に見つくろって来てくれ」

 果たして動くかと内心思ったが、ダウフトは満面の笑みとともにうなずいてみせた。そうして先ほどと同じように、また騎士の顔をじっと見つめる。

「……どうした?」

「さっきは嫌そうだったけれど、今は嬉しそうな顔をしていますから」

 何気ない言葉の中にも、彼女がいかに多くのものを見て、ありのままに感じ取っているかが伺える。

 今度こそ行ってきますねと告げると、ダウフトは先に待たせてしまっている二人の許へと急ぐべく部屋を飛び出していく。軽やかな足音が遠ざかるのを聞き届けると、ギルバートは机の上に放ってあった手紙へと向き直った。


 ダウフトが文字を知らぬことを――いま自分が綴っていた内容を理解する術がないことを、今ほどありがたく思ったことはない。

 勢いのままに綴った言葉をよくよく読み返してみれば、何でこんなものを書いたのかと思わず身悶えしたくなってくる。リシャールあたりに見られた日には、それこそ是が非でもダウフト殿の前で小夜曲さながらに叙情豊かに読み上げてやるぞと言われかねないような代物だ。

 唸りながら、書き損じた手紙を丸めて後ろに放り投げ、エクセターのギルバートはそれこそ攻城戦に臨むがごとき深刻な面持ちで真新しい紙へと向き直った。

 ダウフトが戻るよりも前に、さっさと手紙を書いてしまえば済むことだと分かり切っていながらも、果たしてどう書き出したものかと頭を悩ませながら。


 騎士と紙との一騎打ちは、まだしばらく続きそうだ。


(Fin)

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