第4話 空にひるがえるもの
東の砦を守護する騎士たちが掲げるしるしは、緑の地を駆ける灰色狼だ。
昔むかし、アーケヴが強大な王国の一部であったころ。国じゅうを恐怖のどん底に陥れた魔狼を討ち果たした功績を讃え、時の女王が討伐に参加した騎士たちへ賜った誇りあるあかしこそ、この旗印であったという。
以来、時のうつろいとともに<アーケヴの狼>は、己が下に集いし騎士たちの武勲も敗北も、喜びも悲しみも、すべてを見つめ続けてきたのだが……
「わたしに、旗じるしですか?」
緑の瞳を驚きで満たすダウフトに、婉然と微笑みうなずいたのは奥方イズーだ。
「留守を預かるわたくしたちは、そなたやシヴィル殿のように剣をふるい矢をつがえることはできませぬ。ですが、何かお役に立てることはないかと思い皆で話し合ったのです」
そんな中、侍女たちの間からダウフトさまに旗をお作りしましょう、という声があがったのだという。
「そなたたちがランスに赴いている間に、砦に残った者たちで布を裁ち、縫い取りや刺繍をほどこしたのです。少し手間取りましたけれど、先日ようやくできあがりました」
言われてみればと、奥方の命で大広間にダウフトと共に集まった数名の騎士たちは顔を見合わせる。
常に彼らとともにあり、いくさ場を駆けぬけるアーケヴの守り姫に旗じるしがないというのも妙な話。そこに気づかなんだとは、我らも愚鈍なることこの上ないと面目なさそうな顔をする者もいたくらいだ。
「わたしにはもったいないお話です。奥方さま」
旗じるしを掲げるは、もののふの名誉。一介の村娘には過ぎたことですと話すダウフトの困惑を吹き飛ばすかのように、貴婦人は明るい笑いで応じた。
「もったいないことなどありましょうか。城や館に隠れ潜んだきり、アーケヴを守りまいらせる務めを何ひとつ果たそうともせぬ諸侯がたや司祭がたなどより、そなたはずっと勇敢だというのに」
それは、砦にいる者ならば誰でも知っていること。だからこそ、人々はダウフトの名を、髪あかき乙女の姿を心に刻むのだ。
「年若いそなたに、つらい務めばかりを負わせてしまう償いもあるのかもしれません。ですが、せめて心は共にというわたくしたちの<おもい>を、受け取ってはもらえませぬか」
穏やかな貴婦人の言葉に、困惑を浮かべていたダウフトの表情が次第にゆるやかな微笑みへと変わってゆき、
「はい、喜んで」
はにかみながらうなずいてみせた乙女に、騎士たちはほっと胸をなで下ろす。
自分たちの至らぬ点を補ってくれた、奥方をはじめ砦の者たちの心づくしが嬉しかったし、何よりも―あのギルバートでさえ―ダウフトにしるしができたことを誇らしく思わずにはいられなかったのだ。
「では、ささやかにお披露目をいたしましょう。包みをお持ちなさい」
奥方が呼ばわると、広間の入り口に白い大きな包みを抱えた小間使いがあらわれる。
「リア、それをこちらの卓に置きなさい。皆によく見えるように」
「はい、奥方さま」
誇らしげにうなずくと、娘は大きな卓の上へ白い布に包まれたものをそっと置き、得がたい宝でも扱うかのように丁寧に広げてゆく。
「どんな意匠だろう。我がデュフレーヌ家は、緋色の地に黄金のとねりこだけれど」
興味津々といった表情で、包みを眺めやるのはレオだ。名家の跡取りたる少年らしい矜持が、青い鋼玉のような双眸にちらりとのぞく。
「ダウフトを見れば、おのずと分かる」
そう断言したのはギルバートだ。ほう、たとえば?と問うたリシャールに、生真面目な表情を崩すことなくきっぱりと答える。
「そうだな、さしずめ眠たげな目をした子羊だろう。あるいはのんきな顔をした雌牛か」
「旅人をうたた寝に誘うという、ネムリの木も捨てがたいな」
どれも戦場にひるがえろうものなら、敵味方を問わずに思い切り脱力しそうな代物ばかり。
「もう、ギルバートもリシャールさまもっ」
周りからわき起こる笑いの中、頬をふくらませるダウフトに、いや冗談が過ぎましたかと素直に詫びたのは琥珀の騎士だ。
黒髪の騎士はといえば、本当のことを言ったまでとあくまで譲らなかったが…そういうギルバートなんてやかまし屋の狼ですとダウフトに突っこまれ、黒曜石の双眸を乙女の新緑の双眸とぶつかり合わせ、見えない火花を散らしていたのだが。
「ダウフト殿も、エクセター卿もそのあたりになさい。仲がよいのは結構なことですけれど」
やんわりとした言葉に、あわてて居住まいを正す乙女と騎士を微笑ましく見つめると、奥方はいそいそと白い包みをほどこうとする小間使いの娘をそっととどめる。
「どんな意匠か当ててごらんなさい。<アーケヴの狼>と並んでも遜色ない、それは見事なものができあがりましたから」
<狼>が悪いというわけではないけれど、立ちはだかる敵を噛み砕かんと顎広げるけものでは、ダウフト殿には勇ましすぎるでしょう。
微笑ましい悪戯を思いついた乙女のごとき奥方の表情に、若者たちのそれぞれに色の異なるまなざしが交差する。
(<アーケヴの狼>に劣らぬ意匠って、何だ?)
(狼でも、獅子や鷲でもない……となると)
(やっぱり、のんきな雌牛とかネムリの木でしょうか。だったらわたし、猫でもいいです)
(……いやダウフト、猫はさすがに)
「まあ、そんなに難しく考えなくともよいのに」
若者たちがそろって降参ですと告げるのを聞き、奥方は実に楽しげな笑い声を上げる。
「では、じっくりととご覧なさいな。リア、包みを」
奥方の言葉に、小間使いの娘が待っていましたと言わんばかりの勢いで白い布を取り外し――
そこにあらわれたものに、居合わせた者たちはしばしことばを失うこととなる。
地を揺るがす音と共に、雪崩を打って敗走しはじめたのは魔族の一軍だった。
「ダウフトだ」
「ダウフトが来た、剣を掲げるアーケヴの魔女が来たぞ」
抗いがたい恐怖の前に、浮き足立った魔性のものたちは、武器も仲間もかなぐり捨てて我先にと戦場から逃げ出してゆく。
アーケヴの魔女、無垢なる笑みの女、死をもたらす髪あかき女。災禍を宿した緑の瞳に魅入られた者は、誰一人として生きて戻ることはかなわないという。
そんな女が、よりによってこの場に現れようなどと予想だにしていなかった魔族たちは、完全に虚をつかれ次々と戦場から離れて――あるいは人間たちに討ち取られてゆく。
数を頼みにするよりほかに生きる術を持たぬ人間ども、その屍で塚山を築いてやるわと豪語していたはずのある魔族は、押し寄せる<アーケヴの狼>の旗印をかかげた人馬の波に、ただ肝をつぶすばかり。
魔族の優勢で始まったはずの戦いは、今や人間の勝利で幕を引きつつあるようだった。
「形勢逆転、といったところか」
栗毛にまたがって戦場を見やるダウフトからすこし下がった―ただし、いつ何時であろうと飛び出すことのできる位置にいるギルバートに、声をかけたのはリシャールだ。鹿毛の馬をゆっくりと進め、友の乗る黒鹿毛の横に並べて止める。
「まったく、奥方には驚かされる。旗じるしひとつで、ここまで敵味方に及ぼすものを考えておられたのかとな」
そう言って、やや高い位置を仰ぎ見る友につられて、リシャールも琥珀の双眸を向けた。
聖なる剣を腰に佩いた乙女が左手にする長い竿の上、風にひるがえるのは
やわらかな青い地に躍るのは、緑の小枝をくわえ翼を広げる白い鳥。
「ストラフィリか」
忘れられた伝承にのみ記されし名を、黒髪の騎士は静かに口の端に乗せる。
「何だ、それは」
「最果ての地にある、世界樹に住まう鳥の名だ」
すべての鳥たちの祖、白き世界を翼の下に保ち、世界のために<母>へと祈るという伝承の鳥は、旗じるしの中で黒くやさしいまなざしを蒼穹のかなたへと向けている。
「魔族にとっては忌むべき名だが、我らの祖先は<母>の御使いとして崇めていたそうだ」
「よくそんなものを知っているな。おぬしが愛してやまぬ書物からか」
俺などは子供の頃、兄上や姉上たちと書庫でかくれんぼをしたばかりに、揃って父上に雷を落とされたものだがなあ、とリシャールは頭をかく。
「昔、兄上に見せていただいた本の挿絵にあった。尾の長い美しい鳥で――だから、子供心によく覚えていたのかもしれん」
淡々とした声の中、わずかに落とされたかなしみを琥珀の騎士はとらえる。学者を夢見ていた幼なじみが、騎士となり戦場に立たねばならなかった理由を思い出して。
「辛いか、あの旗じるしを見るのは」
「いや、逆だ」
「どういうことだ、それは」
不思議そうな顔をするリシャールに、黒曜石の双眸が向けられた。
兄のことを口にのぼせたとき、そこに映し出されたゆらぐ水面のような心はすでに跡形もなく、ふだんから仏頂面だの何だのと、砦の者たちに評される生真面目な表情だけがある。
「伝承の鳥がアーケヴの空に舞う姿を見るのは、悪くない」
そう言うと、黒髪の騎士は己が馬をダウフトの左隣へと進めていく。次いで彼が取った行動に、リシャールは琥珀の双眸を見張る。
ずっと左手だけで掲げていたせいで疲れたか、不安定に揺れ始めた旗じるしを懸命に押さえようとするダウフトの前に伸びたのは、篭手に包まれた大きな手。見上げた先に、旗じるしを支えたまま黙って戦場の動向を見つめているギルバートの姿があることに、はじめはきょとんとしていた乙女の顔がたちまち笑顔に彩られる。
そこで、何か気の利いたことでも言えばよかろうに。
二人の後姿を眺めやり、何とももどかしく思うリシャールだったが、ことに女性の心もように関して壊滅的な不器用さを誇る男ではそれを望むべくもない。当面は進展なしと見るべきかと、巷のご婦人がたの溜息を誘う秀麗な顔立ちには、つい苦笑さえ立ちのぼる。
「どうされた、ジェフレ卿」
傍らに馬を進めてきた他の騎士にそう問われ、リシャールは表情を人好きのする笑みにあらためた。
「悪くないと思っていたところだ。アーケヴの空に舞う<母>の御使いとやらも」
琥珀の騎士のいらえに、先ほどのやりとりを知らぬ髭面の騎士は、空にひるがえる新しい旗じるしのことだと率直に受け取ったのだろう。まったく、奥方の仰るとおりだなと心からうなずいてみせた。
まあ、これもいいのではないだろうか。
狼たちを率いるのは、やさしい目をした白い鳥。重くたれ込めた戦雲を裂き、いつか現れる青空を指し示すかのごとく風に舞うその姿は、これからもダウフト―剣抱く乙女ともにアーケヴにありつづける。
その日を信じて、明日をも知れぬ戦場に命をかける者たちとともに。
その日を見届けたいと願う、人々の<おもい>とともに。
(Fin)
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