第3話 微笑みのゆくえは・3


 どこかで、自分を呼ぶ声がした。


 けれどもあたりへ頭をめぐらせてみても、広がるのは射干玉の闇ばかりだ。

 前、後、右、左。迫りくる漆黒に押しつぶされそうな恐怖を覚え、たまらず走りだす。

(静かにしていなさいって、ここから出ちゃだめだって)

 思わずこぼれた声に耳を疑う。聞きなれたものではない、幼くもたどたどしい響き。両手を見やれば、そこにあるのはふっくらとみずみずしい幼子の――

(いやだ)

 叫んで、何もかもを振り切りたいかのように走り続ける。

 同じだ。何もできず、ただ震えているしかなかったあの時と。

(どこだ。どこにある)

 薄れゆく意識の底でひらめいた、やさしい輝きは――


「気がつきましたか、レオさま」

 耳に届いたのは、思いもよらぬ声だった。

 ゆっくりと目を開くと、頭上には幾重にも絡んだ木の根と土が、傍らにはぱちぱちと燃える焚火が見えた。遠く梢をざわめかせる暗い森の声に耳を傾けていると、ほっとした表情でのぞきこんでいるダウフトの姿が視界に入った。

「おまえ」

 口を開きかけたとたん、額に鈍い痛みがはしった。呻くレオの額にひやりとしたものが触れ、それが冷水に浸した布であることを知る。

「倒れたとき、木の根にぶつけたのです」

 傷になってしまいましたねと案ずるダウフトの右頬にも、うっすらと赤い筋がはしっている。

「アネットは」

 そうだ、あの子はどうしたのだろう。

 身体にかけられていた外套を払いのけて、レオは起きあがる。

 屍食らいたちを自分へ引きつけている間に、砦の方へ駆けてゆく小さな背を見送って、それから。

「アネットは大丈夫です」

 ざわつく少年の心を鎮めるかのように、ダウフトは微笑む。

「あの子が懸命にレオさまのことを教えてくれました。トマスさまには、砦へ知らせて下さるようにお願いしたのです」

 レオの姿が見あたらないことを案じた老人が、ともに探してはくれまいかと兵士たちに頼みこんでいるところに出くわした。どこから探すかと皆で決めあぐねていた矢先、<帰らずの森>から幼子が走ってきたのだという。

「それで、どうしておまえがここにいるんだ」

 アネットが無事と知り、ほっと胸をなで下ろしたものの。この娘がいったいどういうつもりであるのか、レオには不可解で仕方がない。

 人々の前で、あれだけ貶め罵ったのだ。そんな輩のそばにいようなどと、危難に手をさしのべようなどと誰が思うだろう。

「レオさまをお助けしたくて」

 思いがけない言葉に、ただ呆気にとられるしかないレオだったが、

「でも、やっと魔物を追い払ったところで日が暮れてしまいました」

 情けなさそうなダウフトの言葉につられてあたりを見やると、いま自分たちのいる場所が巨木の根と土とが自然に絡みあってできた浅い洞だということが、火の明るさに見て取れた。朦朧とした少年をかばって森を出ようとしたものの、娘ひとりの力ではここまで来るのが精一杯だったのだろう。

 夜の森をやみくもに歩き回るなど、闇に蠢くものたちに向かってさあ食らえと大声で呼ばわるのと同じこと。ならばせめて、魔物が忌み嫌う火を焚き暖を取り、夜明けまでここに留まろうと決めたらしい。

「お腹はすきませんか、レオさま。干し杏なら少しありますけれど」

「人のことより、自分の身を顧みたらどうだ」

 つっけんどんに返してしまい、たちまちそのことを悔やむレオだったが、ダウフトが気にした様子はなかった。これですかと右頬の傷に触れ、恥ずかしそうに笑う。

「屍食らいの爪がかすったんです。つい油断してしまって」

 ギルバートがいたら、きっとお説教です。そう言って生真面目な騎士の口調をまねてみせるものの、少しも似た所などありはしない。

「剣の力で、傷を癒すとか何とか思いつかなかったのか。聖女なんだろう」

「……その呼ばれ方は、嫌いです」

 翳りを帯びたダウフトの声と表情に、レオは鋼玉の双眸を向ける。

 側仕えのトマスや、館の聖堂に仕える司祭から聞いた昔語りの中でさえ、英雄よ聖女よと呼ばれることを厭った者の話など聞いたこともない。

「どういうことだ」

 胡げな問いに、ダウフトは黙って傍らに置いてあった一振りの剣――<ヒルデブランド>を手に取った。かすかに鞘ばしらせると、輝きが洞を満たしていく。


 その一閃で、魔を滅する強大な力を持つ剣だと聞いていた。

 だが乙女の手中で、せいあるものの鼓動のごとく明滅をくりかえす<ヒルデブランド>からは、すべてをあるがままにさらけ出そうとする烈しさも、相容れぬ者を容赦なく断罪し焼き尽くす灼熱も感じられはしない。

 包み込むような、柔らかなひかりとぬくみだけがそこにある。


「<ヒルデブランド>をお預かりしてから、沢山の人がわたしを色々な名前で呼びます」

 光に横顔を照り映えさせながら、ダウフトは呟く。

 <髪あかきダウフト>、剣抱く乙女、救国の聖女。どれもが、いまレオの隣で聖剣の輝きを見つめている娘を指すことばだ。

「でも、どれもわたしのほんとうの名前ではありません」

 剣が鞘に戻される。急に暗くなったように感じられる洞の中、焚火に照らし出されているのはどこにでもいるような娘だった。

「<ヒルデブランド>は力のかたち、かたちを取った力。わたしはその一端をふるうことを許された器でしかない」

 剣の鞘と柄を握ったままの、ダウフトの両手。城の姫君のように絹の手袋も洒落た指輪のひとつも持たぬ、働き者の村娘らしくしっかりとした、けれどどこかやさしい手だ。

「もし<ヒルデブランド>を思いのままに操ることができるなら、わたしはいくさ場に立つことよりも、今すぐに焼かれたふるさとを元に戻してと頼みます。父さんや母さん、兄さんたちや村のみんなを生き返らせてと願います」

 けれども、器は器。

 それ以上のことなど、できようはずもない。

「ただのダウフトは、この手にある力しか持ってはいないのです」

 戦乱に倦んだ人々が<髪あかきダウフト>へと向ける願いは、時としてひとりの娘を押しつぶしかねないほどに大きく、重く、そして強い。

 ダウフトとて悩み傷つき迷うことを、もろくはかない魂を持った人間であることを、<ヒルデブランド>の輝きはたちまちのうちにかき消してしまうのだ。

 ダウフトが、ただ人々の望むがままに救いをもたらす都合の良い存在などではありはしないこと。それにすがり、もたれかかろうとばかりしていたレオ自身の弱さを見抜いたからこそ、エクセターの騎士はあの言葉を放ったのではなかったか。

(おぬしが望むような聖女など、いはしない)

 頑是ない幼子と向かい合ってすら同じであろう、真摯なまなざしで。


「やっぱり、おまえは聖女じゃない」

 凪いだような響きの声が、自身の口から出たものだということに驚きはなかった。不思議そうな顔をするダウフトに、レオは胸元から繊細な銀の鎖を――常に肌身離さず身につけている小さなメダルを取り出してみせた。

「この間、レオさまが落とされたものですね」

 微笑む乙女と聖句をかたどったそれは、侯家の若君が持つにしてはずいぶんと質素なものにも見えるのだが。

「あたたかい<おもい>が、伝わってきますね」

「分かるのか?」

 驚く少年に、ダウフトはゆっくりとうなずいてみせた。

「レオさまのことを、とても大切に思う気持ちが」


 健やかであるように。思いやり深くあるように。皆に愛されるように。

 まだ見えぬあしたを、まっすぐに見つめて歩いてゆけるように。


「母上が、僕に下さったものだ」

 メダルを見つめるレオの表情に落ちた影。その様子に、何かを悟ったらしいダウフトが緑のまなざしを翳らせる。

「聞いては、もらえないか」

 メダルと、乙女と。

 双方を見比べて、デュフレーヌのレオは口を開いた。

「僕の弱さを」


 長い間、抜け出すことのできなかった暗闇を。



                 ◆ ◆ ◆



「すべては、十年前のこと」

 三人の騎士と、ようやく落ち着きを取り戻したアネットを前にして、トマス老人は重い口を開き始める。


 デュフレーヌの老侯夫妻が、跡取りとして望みを託した先の侯子。

 文芸を愛し武勇にもすぐれ、うるわしい妃とも周りがうらやむほどの仲むつまじさ。一粒種の若君もすくすくと育ち、さらなる幸せが若い夫妻を包み込もうとしているかに見えた矢先のこと。

「魔族が、あの忌々しきものどもがとねりこ館を襲ったのでございます」

 老侯と侯子は領地の視察へ、婦人たちは湯治に。若い妃ひとりが、わずかな家臣とともに留守を預かっていた時のことだった。

「あまりに突然の出来事に、応戦できる者などほとんどありませなんだ。ご家来衆も侍女たちも、下働きの者もみな次々と奴らの手にかかり」

 使者がもたらした凶報に、急ぎ館へ取って返した人々が見たものは、目を覆わんばかりの地獄絵図。至る場所に足を向け、奥方と若君の名を呼び必死に探し回る侯子の耳にふと飛び込んできたのは、今にも途切れてしまいそうなほどにかすかな泣き声だった。

「隠し部屋か」

 アラン卿の呟きに、トマス老人はうなずいてみせた。

 城や館には、不測の事態に備えて領主の一族しか知らぬ隠し部屋や通路が作られている。幸福な日々の間、夫から密かに教えられた小さな場所へ、若い妃は何ものにも代えがたい宝を隠したのだ。

「レオさまを見いだし、抱き上げられたときの若旦那さまの喜びようを忘れることができませぬ。そうして、共におられるはずの若奥さまのお姿がないことに気づかれたときのお顔も」

「では、奥方は」

 短く問うたリシャールに、老人の顔が痛ましげにゆがめられた。

「若奥さまは、隠し部屋から遠く離れた聖堂で。枕を布でくるみ子供に見立てたものが、お側に転がっておりました」

 居合わせた者たちの誰からともなく、重苦しい息が漏れる。

「今でも、昨日のことのように覚えております」

 墓所に向かう棺を、懸命に追いかけようとして大人たちに止められていたレオの姿を。葬列を見送る女たちのすすり泣きの間に、母を呼ぶ幼子の悲しい声がいつまでも響いていたことを語るトマス老人の姿に、騎士たちの表情が揺らぐ。

 弔いに男だけが参列し、女や子供には最期の別れすら許さなかった。その事実だけでも、佳人であったという若い奥方のありさまが、とうてい人目に触れさせることなどできなかったのだと察せられて。

「若旦那さまが討ち死になされたのは、それから一年のちのこと」

 大公の命により赴いたある戦場で、侯子は家臣たちが引き留めたにもかかわらず、逃げる魔族を追い――潜んでいた別働隊に襲われた。

「若奥さまを手にかけた者と、相まみえたと聞いております」

 救援を求める角笛の響きに応じた援軍が、二刻の後にたどり着き見たものは、自ら斬り伏せた魔族の骸を足下に、岩にもたれかかるようにして息絶えた侯子の姿だった。

 その身には、岩に縫い止めようとするかのごとく幾本もの槍が深々と突き立っていたという。

「黄金のとねりこは、何者かに呪われたのではあるまいか。そんな噂が人の口にのぼったほどでございました」

 弔いの日、身も世もあらずに泣き叫ぶ祖母と叔母たち、肩を震わせる祖父の傍らで、物言わぬ父の前に立ったレオの目に映ったものは。

「魔族どものしるしでございました。若旦那さまが、最後のお力を振り絞ってもぎ取ったであろうしるし」

 やり場のない怒りと嘆きをぶつけるかのように、祖父が亡骸から引き離し地面に叩きつけ踏みにじってしまっても。父の手に握られていたそれ、己が身を絡ませ無限の環を作った蛇のしるしを、涙をこぼしていることも忘れてじっと見つめていたのだという。


「仇討ちか、父御と母御の」沈痛な表情を向けたアラン卿に、

「お館さまも奥方さまも、ひたすら忘れることを願っておいでです」

 戦に荒れる現世から目をそらし、耳をふさぎ、我が子を喪った悲しみを思い出すまいとして。

「……だが、レオはそうではなかった」

 ギルバートの呟きに、トマスは涙とともにうなだれる。

「危険なことはさせまいと、あらゆる武器を遠ざけた奥方さまの目を盗んで剣を習われました。お館さまのお叱りを受けることもご承知で、さまざまなふるまいにも及ばれました」

 希少な果実をねだったのは、森に向かわせた傭兵たちに魔物を狩らせるため。

 旅芸人を帰そうとしなかったのは、街道の治安が落ち着くまで居場所を与えるため。

 勝つまで戦ごっこを続けさせたのは、守るべきもののために起たねばならぬことを知らしめるため。

「力無きことは、我が罪。そう仰せになって」

 トマスの言葉に、リシャールが黒髪の友へと双眸を向けた。一見何の揺らぎも感じられぬ、だが何かを思い起こしているかのような騎士の横顔に、ある姿が重なって。

(弱いままじゃ、いられないんだ)

 遠い北の地、牙を剥き天を呪う灰色の海を見下ろす険しい崖。凍てつく風が黒髪をなぶるままにまかせ、真新しい墓標に刻まれた三人の名前を、涙も枯れ果てた目で見つめていた子供の姿に。


 静かに立ち上ったギルバートの視線が、ふと横に向けられる。小さな手でマントの端を掴んでいるアネットに気がついたからだ。

 魔物に遭遇した恐ろしさを、泣きはらした水色の目にまだ留めているというのに、自分を救った少年の安否を気遣い、声にならぬ声で懸命に騎士へと訴えている。

 かすかに息をつくと、騎士はアネットの小さな頭を撫でた。何とも不器用な仕草だというのに、幼子の顔がくすぐったそうな笑みに変わり、マントから手を離す。

「エクセター卿」

 戸口に向かったギルバートの背を、すがるような老人の声が追いかける。一度は足を止めたものの、黒髪の騎士は振り返ることもなくそのまま外へと歩み去っていく。

「何と無情な。危険な目に遭っておられるのは、聖女さまとて同じだというのに」

 声を震わせるトマスを、まあ落ち着かれよとなだめたのはリシャールだった。

「あやつの無愛想はご容赦あれ。それではご婦人がたも近づきがたいだろうにと、常日頃から言い聞かせてはいるのですが」

 騎士たちがそれぞれの業物を立てかける台、そこから友の剣だけがいつの間にか失せていることに気づいたリシャールの双眸が、面白そうな光を立ちのぼらせる。

 詰所を出て、何事もなかったかのようにしばらく歩み。彼の姿を見とめて姿勢を正す兵士にうなずいてみせ――突き当たりを曲がったところで、騎士はおもむろに歩調を早めだすことだろう。

 馬に鞍を置き、弓矢をそろえ、剣や槍の先を研ぎすませるように。夜襲に長けた者たちを急ぎ集め、森へと向かわせるように。

 そうした諸々のことを、団長に代わり執務室にある副団長へと進言するために――

「理屈をこねようと、突き放すそぶりをしようと、寄るべなき者を見捨てることなどできはしない。エクセターのギルバートはそういう男だから」

 実にわかりにくい奴ですがと笑うリシャールに、まったくだと同意したのはアラン卿だ。

「さて、その臍曲がりと共に森へ赴くのは誰であるのかな――各々がた?」

 アラン卿の言葉に、ギルバートが出て行ったものとは別の扉の向こうから何やらぶつかりあう音がした。静かにせんかこら誰だ俺の足を踏むのはと言い争う声に、慌てて制止する声がかぶったのだが。

「聞き耳を立てていたのであろう? 騎士たるもの、野暮なことをするものではないぞ」

 にやりとする壮年の騎士に、やがて観念したかのように扉が開かれた。

 きまり悪そうに頭をかく者から、埃が入ったとうそぶきながら涙をぬぐっている者、気の早いことにいくさ姿に身を包んだ者。居並ぶ<アーケヴの狼>たちの姿に、老人はただ驚嘆するばかりだ。

「何だ、ならば話は早い。一刻も早くダウフト殿を森からお救いするぞ。ついでにとねりこの坊やも拾ってくれば万々歳だ」

 そう言いながらも真っ先に出撃の意志を示したリシャールに、我もと続いた騎士たちの視線が何故か一斉にアラン卿へと向けられた。

「……ということは、またわたしは留守役か」

 憮然とする壮年の騎士を、砦を空にするわけにもいきますまいとリシャールは笑う。

「必ずや、二人を無事に連れ戻して見せますよ。臍曲がりばかりに華を持たせるのは、少々癪ですから」

 立ちはだかる敵をあぎとで噛み砕く、<狼>の名に恥じぬいさおしを。

 琥珀の騎士の秀麗な顔に浮かぶのは、不敵な笑みだ。



                 ◆ ◆ ◆



「……レオさま」

 宵闇が退き、あたりを薄明が包み始めた洞の中。

 揺らぐ声とともにダウフトがすすり上げ、目のあたりをぬぐっている。何もおまえが泣くことなんかないだろうと思いながらも、胸の裡を娘が聞いてくれていることに、レオは不思議な安堵を覚えていた。

「とねりこ館にいれば、確かに何不自由なく暮らすことはできた。お祖父さまもお祖母さまもお優しいし、僕の望みなら何でも聞いて下さったから」

 力を得たい、強くなりたいということだけを除いては。

 ようやく取り戻した平穏が乱されることを厭うたのか。妃を想うあまり、生命を捨てるかのように魔族に挑んだ子息と同じ轍を、たった一人の孫が踏むことを恐れたのか。

 どんなに頼んでも、だだをこねても、樫の剣はおろか棒きれひとつ触れることも許されなかった。

「それでも、諦めるわけにはいかなかった」

 レオの右手が、白くなるほどに握られる。

「司祭さまの所へ勉強に行くふりをして、兵士たちに無理に頼んで剣の相手をさせた。村の連中と一緒に戦ごっこもした。トマスには散々泣かれたけれど」

 <とねりこ館のわがまま侯子>。

 美しい館で、領地のあちこちで、アーケヴじゅうの村や町で。いつしかそんな綽名で呼ばれていることを知ろうとも、影で嘲られ笑われようとも、退くわけにはゆかなかった。

「おまえの話を聞いたのは、そうした時だった」

 館に招かれた、旅の一座が謳った東の砦の噂話。それは本当のことなのかと、楽師たちが戸惑うのにも構わずに何度も同じ話をせがんだ。

 いくら足掻いても決して得られることのない力と、喪われたあたたかな面影をどこかに見いだすことができるかもしれない存在。

 凛々しい戦乙女なのか、それともたおやかな聖母であるのか。いつしかレオの中で、<髪あかきダウフト>とよばれる乙女の姿が期待とともに膨らんでいったのだ。

 暗闇の中、ようやく射し込んだか細い光に手をさしのべようとする幼子のように。

「でも違った。砦にいたのはただのおまえ」

 どこにでもいる、ふつうの。

「そんなことは、とっくに分かっていたはずなのに」

 震える声で、レオが膝を抱えて顔をうずめかけたときだった。


「何だ――これは」

 不吉にざわめきだした木々と、うなじを粟立たせるおぞましい気配に身を震わせたレオをそっと制したのはダウフトだった。

「ゆっくりと、静かに息をして。姿を見ても決して声を上げないで」

 乙女の囁きに、息を潜めつつ薄明に目を凝らしたレオの前に、やがてひとつの影が現れる。

 見たところは、狼にも似た獣のようだった。

 だが本物の狼と異なるのは、魔物の体格がその数倍もあろうかと思われること。唸り声にも、鋭い牙や爪にも、黒い毛皮に覆われた身体の隅々にも、この世のありとあらゆるものへの限りないうらみとにくしみに満ちあふれた気配を漂わせていることだ。

「けものと呼ばれています。魔族の斥候として動き、村や町を襲うときには尖兵にもなる」

 魔狼の姿を見つめるダウフトの横顔が悲しげに揺れた。家族の誰かが爪にかけられ、牙に裂かれるところを目の当たりにしたのかもしれない。

「……レオさま?」

 ダウフトの問いが、声が、耳元を通り過ぎていく。


 目の前にいるのは、まぎれもない魔族。父と母を奪った、憎んでも余りあるはずの輩だというのに。

 この震えは、怯えは、どこからくるというのだろう。


 傍らのダウフトが動いた。洞の出口近くまで足を進め、いつになく緊張したまなざしを木々の間に向けている。

「どこへ」

「<ヒルデブランド>が囁いている。けものがわたしたちに気づいたようです」

 息を呑む少年に、安心させるかのような笑みを向けると、ダウフトは腰に佩いた剣にそっと手を置いた。

「レオさまはここにいてください。けものは、<ヒルデブランド>の輝きに強く惹きつけられるから」

 抱えたうらみとにくしみの重さに耐えきれず、闇に安息を求めたものたちが忌み嫌う、だが最も欲してならないひかり。

「隠れていろということか」

 非力だと告げられたも同然の言葉に、激しかけたレオの肩にそっと手が置かれた。

「レオさま。お母さまの<おもい>を、無駄にしないでください」

「――」

「けものは、一度狙った獲物は逃さない。洞に身を潜めても、逃げても、人の足ではいずれ追いつかれてしまいます。怪我をしているレオさまと、足の遅いわたしでは尚更に」

 このまま二人揃って餌食になるより、一人でも助かるかもしれない道を。

 わたしとけものが遠くに離れたら、捜索隊への目印として、魔物よけとしてもう一度火をおこしてくださいと告げるダウフトの表情は、魔族に向かって死ぬものかと叫んだときと同じだろうか。

「<アーケヴの狼>たちは、必ず来てくれます」

 どうか最後まで諦めないで。そう呟いて、ダウフトは洞の外へと歩み出していく。

「待て、おまえ――ッ」


「わたしはダウフトです」

 振り返った乙女のまなざしに、微笑みにことばを失い、

「<ヒルデブランド>の器で、そして剣に捧げられた」

 続いたことばに、鋼玉の双眸が見開かれる。


 梢を揺らす風とともに、低木の向こうにダウフトの姿が消えた。

 青い静寂に包まれた、夜明け前の森にたたずむレオの耳に、やがて獲物を見つけたらしいけものの咆哮が響いた。と同時に、それを誘うような<ヒルデブランド>の輝きが木立の間にのぞく。

「――同じだ」

 形の良い唇から、呻きがこぼれる。


(よいこと、レオ)

 あの日。美しいとねりこ館が、悲鳴と血のにおいで満たされた日。

(これは天にまします<おかあさま>の印。どんな時も、きっとあなたを護ってくださるわ)

 隠し部屋の入り口で、かあさまと一緒でなきゃ嫌だと泣きじゃくる幼いレオを懸命になだめていた母が差し出した銀のメダル。

(だからレオ、このメダルにかけてかあさまとお約束して)

 同じだ。ダウフトの微笑みは、まるで同じ――

 我が子を魔物の目から引き離すために、自ら囮となることを決意した母と。

(とうさまや、おじいちゃまがお見えになるまで、決してここから出ないって)

 精一杯、騎士の誓いをしてみせた自分に母が向けた、悲しいまでに澄み切った最後の笑みと。


(そう。強い子ね、レオ)


 剣をつかみ、洞を飛び出す。

 どこにいる。憎むべき敵は、あのどうしようもない村娘はどこに。

 木の根に足を取られまろびつつも、少年は息を切らしながら木々の間に消えた乙女の姿を追う。

「同じじゃない」

 もう決めたのだ。暗闇で怯えているしかなかった、無力な幼子のままであったりはしないと。

 低木をかき分け、顔にかかる枝葉をはらい、木々の間に見え隠れする聖剣の閃きに導かれるようにしてレオは走り続ける。忘れかけていた額の疼きに顔をしかめながらも、間近に感じた気配に足を止めたときだ。

 まばゆい輝きが視界を射る。洞で見たときよりもはるかに強いものでありながら、なおぬくみを失うことのない光。

 <ヒルデブランド>だと気づいたレオの双眸が、今身を潜めている低木の茂みの向こうでけものと対峙している娘の姿をとらえた。輝きを憎みながら、なお焦がれずにはおれぬ魔性の唸りを、わずかでも隙を見せたならばたちまち身を引き裂くに違いない牙や爪を前に、ダウフトは半身ともいうべき聖なる剣を構えている。

 はじめて砦で見た姿とは、何という違いだったことか。

 赤みを帯びた栗色の髪は、暁のごとく鮮烈にやさしげな顔を彩り、素朴な陽気さにあふれていた瞳は、アーケヴに息づく無限の生命と容易に窺い知ること能わぬ太古の深淵とを奥底に閃かせている。

 そして、顔だ。

 おっとりした人のよい村娘などではない、誰もが望むであろうはかなくも清らな乙女の顔と、恋しい男に陶然と身を委ねるかのごとき女の顔とが渾然と浮かび上がって。

 修練場で、黒髪の騎士が<ヒルデブランド>の名を口にしたとき、それと気づかぬうちに双眸にのぞかせていた複雑な光をレオは思い出す。聖剣が閃くたびに、こんな表情を目の当たりにしなければならないとしたら、自分なら即座にダウフトから剣を取り上げ湖へと投げ捨てているだろうから。


 さくりと、草を踏みしめる音がした。

 黒いけものが、腹を満たすにふさわしい血肉を求めてダウフトへ飛びかかろうと身構える。双眸に緊張をみなぎらせ、迎え撃とうとした聖女の表情がふいに苦痛をこらえるようなものに変わる。何をしているんだと焦るレオの目に映ったのは、右足をかばうようにして魔狼との距離を測っている娘の姿だった。

 屍食らいを追い払ったときか、それともけものを振り切ろうとしたときか――時々よろめきさえしながらも、ダウフトは迫ろうとする魔物の動きを目で追っている。

 乙女が剣の寄り代ならば、剣の力もまた乙女の身に左右されるのか。

 手にした剣の輝きが、刹那弱まる。その一瞬を見逃すようなけものではなかった。


 だめだ。


 刃を抜き放ち、低木の茂みを飛び出した。

「――レオさまッ!?」

 娘の驚きにもかまわず、どこか遠くで自分の叫びを耳にしながら少年は己がちからを、鋼の刃を黒いけものに突き立てる。

 刃が肉をつらぬき、骨に当たってこぼつ感触がした。草や葉、むき出しの地に赤黒い染みがいくつもいくつも落ちては広がっていく。やったかと思う間もなく、苦痛と憤怒に満ちた咆哮とともにけものが身を振り払った。

 凄まじい力にはね飛ばされ、ぶざまに地に転がった。口の中に広がる土埃と草にむせ込みながらかろうじて身を起こし、剣はどこかと探ろうとしてけものの身に突き立ったままであることに気づく。

 かすみかけた視界に、黒いけものが自分めがけて跳躍したところが映る。 己が血肉を食い裂くであろう牙と生臭い息づかいを間近に感じ、遠い空にある微笑みをレオが見たように思ったときだ。

 空気を震わせる音と共に、けものの顎を一本の矢が貫いた。

 勢いを失し、地面に叩きつけられてもがくけものとレオとを隔てるかのように、突如として霧の帳を裂いてあらわれたのは騎馬の一団。なおも獲物を求め起きあがるけものを目がけて、次々と剣を振り下ろし、槍を突き立てていく。

 聞くもおぞましい怨嗟の唸りと共に四肢を痙攣させ、やがて動かなくなったけものの骸と、それを仕留めたらしい騎士が、勝利の声を上げているさまを呆然と眺めていた少年を揺さぶる者があった。ダウフトだ。

「なんて無茶を、レオさま」

 泣き出しそうな娘に答えようと口を開きかけたとき、二人の前に立ちはだかったのは大きな影。

 見上げれば、そこには黒鹿毛にまたがったひとりの騎士がいる。深く被られた兜のために顔の見分けはつかなかったが、手にした弓から最初にけものの顎を射抜いた者が彼であることが察せられた。

 味方か、否か。

 もし敵ならば、父上のように最期まで膝を屈してなるものかと睨み返したレオに、馬上の騎士が兜の向こうでかすかに笑う気配がした。何がおかしい、と口を開きかけた少年をよそに、騎士はその傍らにある娘に視線を転じた。


「ダウフト」

 ただ一言。それだけで、娘の表情がみるみるうちに輝きを増してゆく。


「来てくれたんですね、ギルバート」

 喜ぶ娘に、騎士は黙って馬を止め背から降りた。兜を外し面をあらわにすると、ダウフトの前に歩み寄り手足を動かしてみろと促す。

「こうですか?」

 片方ずつ腕を回し、足を元気よく振ってみせる娘に、背や腹の痛みは、創はとあくまでも淡々とたずねる騎士。

「ええと、ありません」

「右足を引きずっているな。イドリス老に診てもらえ」

 砦にいる医師の名を口にしたとき、はじめて黒い双眸で睨んだギルバートに、ダウフトは小さく縮こまる。足をひねったことを隠そうとしたものの、どうやら騎士にはお見通しであったらしい。

「アネットとトマス老が急ぎ知らせてくれたから、こうして間に合ったのだ。けものの朝飯にでもなるつもりだったのか」

「そう言う割には、一番馬を急かせていたのはどこの誰だったかな。エクセター卿?」

 厳しい説教も、リシャールの冷やかしに形無しのようだ。騎士たちがどっと笑い崩れる中、渋面をつくったギルバートは娘を呼ぶ。

「皆に、何か言うことは?」

 騎士の言葉に、ダウフトは居並ぶ男たちを見渡して心配をかけましたと頭を下げる。いやご無事で何よりと慰めたリシャールに、こやつを甘やかすなと一言釘を刺すと、黒髪の男はダウフトに背を向けた。歩み去ろうとした騎士を、慌てた乙女の声が引き留める。

「用件は何だ」

 さっさと言えとばかりに振り返る騎士だったが、

「いじわるなんて言って、ごめんなさい」

 謝るダウフトに再び背を向けたものの、馬のもとへ戻るでもなく、ええいそのと呟いたり天を仰いだり黒髪をかいたりと、エクセター生まれの騎士はしばし苛々したようなそぶりを見せていたのだが。

「……あまり、冷や冷やさせてくれるな」

 じつに聞き取りにくい言葉を耳にした、ダウフトの顔を花のような微笑みが彩るさまを、誰かの手に助け起こされながらレオは見ていた。

「はい、ギルバート」

 微笑みの先にあるものが自分ではないことに、胸の奥がちくりと痛んだのだけれど。


「おいおい、なんてざまだ坊やは」

 ふと気づけば、<狼>たちの何人かがレオのもとへ近づいてきている。頭からすっぽりと外套を被せられ、傷が疼くから気付け酒は飲ませるなだの、適当に薬草でもすり込んでおくかだのと何とも荒っぽい気遣いではあったのだが。

「てっきり、けものの腹の中かと思ったが。度胸だけは一丁前のようだな」

「副団長と奥方のお叱りは覚悟しておけよ。謹慎ですむならまだいい方だろうが」

 口々にそう言いながらも、どこかほっとしたような男たちの姿に、張り詰めていた気持ちが静まっていくのをレオは感じる。

「……申し訳ない」

 ぼそりと呟いたレオに、騎士たちはぎょっとして顔を見合わせる。大貴族の跡取りだけあって、山よりも高い矜持を誇るこの少年が素直に謝るなどと、誰も思いもしなかったからだ。

「なあ、これもダウフト殿の奇跡に入るのか」

「そうに違いない。慢心という名の魔性を追い払ってくださったのかもしれんぞ」

 砦に帰るぞと騎士たちに促されながら、レオはもう一度だけダウフトの方を見やる。

 琥珀の髪をした騎士に手伝ってもらいながら、馬上の人となったギルバートの前へ横坐りになった娘は、きまり悪そうにあたりを見回している。

 そんな彼女に黒髪の騎士が何か言うと、ダウフトは落ちつかなげな仕草をやめ、馬がゆっくりと進み始めるのに身を委ねはじめた。おおかた、ぼんやりしていると落ちるぞとでも注意されたのだろう。

 ふたりを乗せた黒鹿毛が行くのを見送って、レオは懐から取り出したメダルを見やる。


 あれほど、似ていないと思っていたのに。

 母を偲ぶただひとつの品に刻まれた乙女は、自分に洞に残るようにと告げたダウフトの顔にどこか重なる。

 深い暗闇は、たやすく振り払うことなどできはしないけれど。

 それでも今はしるべがある。聖剣からこぼれた輝きにも似た、あたたかな光射す庭へと至る道が。


 そして、少年は思い出す。

 乙女が自分に向かって告げた――おそらくは、彼女の騎士たる男にすら告げていないであろうことばを。


 わたしはダウフト。<ヒルデブランド>の器で、そして剣に捧げられた――



 生贄なのです。



                ◆ ◆ ◆



「やれやれ、一時はどうなることかと思ったぞ」

 騒ぎから四日後の昼下がり。詰所でのんびりと娯楽に興じたり食事をとったりしながら、騎士たちはそれぞれに今回の騒ぎについて語り合っていた。

「まったくだ。ダウフト殿の身に何かあったら、俺たちは砦じゅうの者から八つ裂きにされかねなかっただろうからな」

 そうならずに済んでよかったと笑って杯を手にしたひとりの騎士が、そういえばダウフト殿はどうなさったのだと傍らのリシャールに問う。

「あちらだ」

 困ったように笑う戦友が指差しすほうを向いた騎士は、思わず口にした葡萄酒を噴き出しそうになる。

 大きな卓の上に山ほど積み上げられた芋、芋、芋。

 正面にちょこんと座り、ナイフで皮をむいているのは、何と乙女その人ではないか!

「砦に戻ってから、坊やともども奥方のお叱りを受けてな。皆を心配させた罰として、しばらく町へのお忍びを禁じられてしまったそうだ」

「それが、芋?」

 言葉の続かぬ騎士に、リシャールはギルバートだと溜息をつく。

「子供たちとしかけたいたずらに、うっかり引っかけてしまったのが奴でな。ひとり逃げ遅れたばかりに、そんなに退屈なら料理長の仕事を手伝えと、厨房に引きずられていったというわけさ」

 娘の後ろでは、大きな窓にあわせてしつらえられた壁龕にギルバートがどっかと腰を下ろし、仕事ぶりを見張っている。仮にも砦の守り姫ともあろう方に芋の皮むきをさせるなど、何という男だと問いを発した騎士は呆れるしかなかったが、

「まあ、坊やに比べればはるかにましだろう。あのレネ殿に顎で使われているというからな」

 リシャールの言葉に、それはそれでもっと嫌だと騎士は頬を引きつらせる。魔族も裸足で逃げ出すと評判の、鼻息の荒い娘のもとでこき使われるなどと聞いただけで身がすくむというものだ。

「それは……さすがの若君も、自慢の鼻をへし折られたことだろうな」

「噂によるとだいぶしおらしくなったそうだ。いずれとねりこ館に帰る日も近か…ろ……」

 続きを言おうとしたリシャールの声音が尻すぼみに消えていく。


「ここにいたのか」

 戸口にふんぞり返らんばかりの姿で立っているのは、何と噂の張本人だ。鼻の頭に貼り付けた膏薬や、仕立てのよい服の袖口からのぞく打ち身や痣もめざましく、並みいる人々の唖然と呆然をよそに、ダウフトの座す席へずんずんと近づいていく。

「何だ、芋の皮むきか。邪魔をしたな」

「いいえ、レオさま。わたしに何かご用ですか」

「レオさまはやめろ」

 少しむっとした表情で、レオは形のよい眉をしかめる。きょとんとする娘の前で意を決したかのように息を吸い、

「僕のことはこれからレオと呼べ。その代わり、僕もおまえをダウフトと呼ぶからな」

 青い眼を輝かせ、戦勝宣言でもするかのように高らかに告げられた少年の決意。

 チェスの駒をそこらにばらまき、カードを取り落とし、木匙をくわえたままだったり注がれた葡萄酒が杯からあふれて手や床を濡らしていることにも気づかぬまま。

 居合わせた者たちが、まるで廃都レグニツァにたたずむ都びとの成れの果てだという塩の柱のごとく静まり返る中、まったく変わらないのは目をしばたたかせているダウフトと、表情一つ変えずに少年へと黒い双眸を向けたギルバートのふたりだけだ。

「以前の非礼はこれで侘びるぞ。何か異論はおありか、エクセター卿?」

 レオの言葉に、縛めから解き放たれた人々の視線が、正面きって名指しされた黒髪の騎士へと一斉に向けられる。

 それは大いなる挑戦か、はたまた生意気盛りな子供の戯言か。当人たちよりも緊張した面持ちで、周囲の者たちは騎士の言葉を待っていたのだが。

「異論などない」

 あくまでもあっさりと、ギルバートはレオの言葉を受け流す。

「ダウフトをどう呼ぼうとおぬしの自由、俺ごときが口を差し挟むことではなかろう」

 騎士のいらえに、まるで相手にされていないとでも感じたか。青い双眸に悔しさが閃いたものの、それを抑えてレオは大きくうなずいてみせた。

「わかった。ダウフトは……かまわないか?」

 後半がやや自信なさげな口調になったのは、何よりも当の乙女に否と言われはしまいかという不安からか。

 だが、そんな心配はすぐさま吹き飛ばされたようだった。

「はい、お願いします。レオ」

 蒼穹に座す太陽のようなダウフトの笑みに、膏薬に彩られたレオの顔もつられて明るくなる。

「そうだ、僕にまかせておけば心配ないぞ。剣も馬も、いずれ砦で一番と呼ばれるようになる――ッ!」

 小気味のよい音とともに、少年の頭を直撃したのは木の盆だった。何をする、と振り返ったレオの顔がこれ以上はないほどに青ざめる。

「どこに行ったと思ったら、こんな所で油を売ってたってわけね」

 鳶色の瞳に憤怒の焔を燃え立たせ、盆を片手に仁王立ちになっているのはレネだった。

「さっさといらっしゃい。ノリスさんが、さっき届いた野菜をあんたに運ばせようって探してるのよ。もたもたしてると、それだけダウフトさまのお仕事が遅れるんだから」

 どうして聖女さまが芋の皮むきなんてと嘆きつつ、レネは少年の襟首をひっつかみ、そのまま戸口までひきずっていく。

「こら放せ! 僕を誰だと」

「ただの迷惑で生意気な子供ッ」

 きっぱりと断言したレネに、さすがのわがまま侯子も形無しのようだ。根性入れ替えてあげるから覚悟なさいと息巻く金髪娘と、詰所から引きずり出されていったレオの叫び声がまだ聞こえる中、

「……誰がしおらしいって?」

 リシャールの言葉は、その場にいた者ほとんどの心を代弁していると言ってもよかった。芋の皮むきはそっちのけで、レネと少年が出て行った戸口を見ている乙女と騎士を除いては。

「少しは素直なところもあるようだな」

 呟いた黒髪の騎士に、笑いながら応じたのはダウフトだった。

「レオは優しい人です。でも、それをどう出していいのか分からなかったんだと思います」

 どこかの誰かさんみたい。そっと口の端にのぼった呟きは、幸か不幸か当人に聞こえることはなかったが。

「でも、レオと仲良くなれてよかった。だからギルバートも」

「手加減はせんぞ。生き延びたいと思うなら、腕を上げるより他ないのだからな」

 厳しい物言いだが、そこに少年を砦の一員として認めようという思いがあることにダウフトは気づく。気づいて、尚更うれしくなる。

「レオは、きっと立派な騎士さまになります。そう思いませんか、ギルバート」

「さてな。レネ殿に叩きなおされた根性がどんなものか、試してみるとするか」

 窓の外を見やった騎士の黒髪を、風がさらりと撫でてゆく。いつになく穏やかな横顔を、微笑みとともに見やるダウフトだった。

 周囲で、ことの次第を分かっているのかと身悶えする騎士たちにはまるで気づかずに。


 木陰からこぼれる日差しがまばゆい、ある夏の出来事だ。


(Fin)

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