悪魔のテーゼ

伊島糸雨

悪魔のテーゼ


 しとしとと降りしきる雨が、台所の窓を叩いている。

 ガラスを伝う粒の中で、世界は反転して歪にたわむ。周囲を巻き込み落ちて落ちて、潰れて、そしてまた雫となる。視界から消えた先、どこかでまた壁を這っていく。

 投げ出された包丁が、粘つく光沢を放つ床の上で不気味に輝いている。そこにもまた、歪んだ私たちの切れ端がそっと映り込んでいる。電気をつけておけばよかったと天井を仰ぐけれど、薄暗い灰色が見つめ返すばかりで、明るくなる気配は一向にない。作りかけの食事の匂い、とりわけ味噌汁の香ばしい香りが、鼻腔をくすぐって空腹を助長した。

 床にへたれこみ、肩口に顔を押し付けてさめざめと泣く女の背をさする。柔らかな生地の下で、硬質なホックと柔らかな皮膚の感触が、凹凸をもって指先をなぞる。

 こんな風に泣くことが、女にとっては意味のあることなのだと理解している。これから先を進んでいくのに必要な儀式なのだ。喪失を喪失としてしっかり感じること。人間性を消費して感情に身を任せること。そういうカタルシスなしには生きてゆかれないということを、私もわかるようになってきた。

 愛していた人間が死んだというので、女はこの一年の間に幾度も泣いている。

 愛した人間が決まって死ぬ。どうすればいいかわからない。どうしてこんな目に遭わなければならないのかと、失うたびにこぼしている。

 人は皆いずれ死ぬとか、運が悪かったんだよ、なんて、そんな軽薄な慰めが望まれているわけもなかった。私は口を噤んで、漣のように揺らぐ音の交わりに耳を澄ます。

 女の悲壮な表情はもう飽きるほど目にしてきた。ある時は携帯を両手で握りしめて肩を震わせ、ある時は汗だくで帰ってきたかと思えば玄関まで来た私の服を掴んで嗚咽を漏らし、ある時は傷だらけのままに出来損ないの笑みを浮かべた。

 目を腫らし俯きがちに葬儀場へと向かう女の背を、私はいつも後ろから眺めている。暗く、黒く、小さく、弱々しい、愛らしくも不憫さに満ちたその姿を、これといった感傷もなく見つめてきた。繰り返し繰り返し、口先で芋虫のように伸びた灰が、生ぬるい風に煙ごと攫われていく。そして地面に落とした煙草の燻りを、爪先で踏み躙るのだ。

 今回だって同じだった。女は葬式からずっと暗い表情のままで、隣に立って料理をしていたら急に泣き崩れて、この有様だった。慣れてきたとはいえ、包丁を投げ出すのは少々いただけない。いくら私でも怪我くらいはするし、痛いのが好きだとはとうてい思えない。

「ねぇ、天使様……助けてよ……」

 女は私の肩をぐずぐずに濡らしながら力なく呟くけれど、

「いや、それはちょっと……」

 無理かなぁ、という言葉は、ため息に混じる。

 どうして、と言われても、そういう契約じゃないし、としか言いようがなかった。

 女個人を外敵から守るという義務は果たそう。けれど、私の個人的な意志がない限りは、仕事の範囲を超えてまで女の世話を焼く意味は皆無に等しいのだ。ましてや女の望む形での救済など、私にできるわけがない。

 女のことを、哀れだと思う。

 その弱さは悪意を誘う。女の弱々しさにつけこもうとたかってくる連中の多いことといったらなかった。形を持たない悪霊のようなやつも、肉体ありきの人間も大差はなかった。表面をよそおい近づいては、閉ざされた陰で牙を剥くのだ。

 出会った時も、女は傷ついていた。盆も過ぎた夏の昼間のことだった。

 当時の私は、容赦のない熱気に背を丸めて、人影のまばらな街角を歩いていた。全方位から響く蝉の音に目を回しかけながら、契約を結ぶべく方々の家を訪ね歩いていたのだった。私たちのような存在は、契約なくしては無職とさほど相違ない。ゆえに、どんな炎天下であろうと、自らの足で歩くというのは避けようのないことだった。

 肉体の脆弱性に対する文句も、頭を巡るばかりで言葉にならずに霧散していく。へばりついた前髪を掻き上げると、手のひらの皺が汗で湿った。

 日陰を求めて、通りがかったアパートの軒下に逃げ込むけれど、熱せられた空気は重く淀んで所構わず私を侵し続けた。取り出したペットボトルを呷ると、捉え損ねた水が唇の端を伝って喉を濡らした。

 壁に背を預け、視線を巡らせる。ごくありふれた二階建てアパート、その一階の端。すぐ隣には真っ新な表札と扉があって、無防備に立てかけられた傘がささやかに生活感を漂わせていた。

 そこが女の部屋だった。そして、契約のため、今更選り好みなど、という浅ましさの果てに、私は女と契約を結ぶことになる。女を守る。代わりに衣食住を提供してもらうという、そんな条件で。

 最初、うっすらとドアを開けた女の、怯えた表情をよく覚えている。

 女は何かが来るのをひどく恐れているようだった。訪問者の存在を認識して、それが不安の源と無関係であるとわかると、女は全身の力を抜いて小さく息を吐いた。それからなんてことないふうを装って、

「なにかご用ですか」

 とぎこちなく笑うのだった。

 身体中、所々に見える傷跡、ガーゼや湿布が何を示すかなど、言うまでもなかった。

 助けて、と女は言った。

 そして不条理からの救済を願って、私の手を握ったのだ。無邪気に信じて、疑うことなく。

 それから、もうすぐで一年が経つ。

 いい人だった、と女が言うたびに、私は沈黙して、一切の評価を保留している。

 葬儀場から見えた遠く仄暗い雲の蠢きを不吉の予兆と騙るのは、きっと容易いだろうと思っている。

 女は泣き続けている。味噌汁がグツグツと煮詰まる音がするけれど、諦めが先行して腕を伸ばす気にもなれなかった。止めようにも姿勢的に無理があるし、この調子じゃどうせ、まともに食事もとれないだろう。

 雨音は止まず、女の涙も枯れる気配はない。尻の骨に響く硬さは健在でも、冷えた床は座っているうちに温かみを増した。擦れ合う膝にむず痒さを感じて身じろぎをする。女が腰に手を回してくるのを、諦観とともに受け入れる。

「ぜんぶ、悪魔のせい……?」

 私がいつも口にしている台詞を、女がなぞる。ぜんぶ悪魔のせいなんだ。あれもこれもそれも悪魔のせい。

 あなたの傷も、

 あなたの痛みも、

 あなたの不幸も、

 誰かの苦しみも。

「……まぁ、そうかもしれない」

 曖昧に頷いて、女の肩に顎を乗せる。他の台詞は用意していない。女の言葉──元は私の言葉だが──は、真実の一端を言い当てている。

 人外に人の論理を課すことの愚かさと無意味さは、想像に難くない。

 天使も悪魔も人でなしで、それゆえに人とは離れた秩序の元にその身を置いている。契約という行為一つを取っても、それは変わらない。

 結局、上位者からの押し付けにしかなりえないのだ。天使は対価を求めないがゆえに対象を厳密に選別するし、悪魔の方は対価を求める代わりに相性以外で対象を選ばない。性質の噛み合わせが悪い以上、両者が相入れることは決してないのだが、どちらにせよ身勝手な話だった。

 人の存在など、所詮はその程度なのだ。

「……もしかしたら、悪魔が殺しちゃったのかもね」

 女の耳元で、静かに囁いた。

 人間と関わらなければならない理由は、存在の定義上の使命、義務、仕事という枠の中にきっちりと収まっている。仕事は仕事としてプライベートな事情や思惑とは別のところに存在し、そのためにそれぞれが個人的な選択をする自由を縛ることがない。やることをやっていれば、他は基本的に黙認されるのだった。

 であれば、予防だけでなく根本治療を。お気に入りが傷つくのなら、その報復を。

 契約対象外の人間を煮ようが焼こうが、咎めるものは誰もいない。

 勘違いを放置したところで、糾弾しにくる敵は存在しない。

 私と女の関係に口を出す邪魔者は、どこにもいやしないのだ。

 女は私を天使として疑わず、職務に忠実であると信じている。私もまた、女の言葉を、想いを信じている。私たちは契約という名の下に、互いに互いを捧げ続ける。そういうシステムの元に、関係性を紡いでいる。

 例え、一方が一方を欺いていて、ゆえに信奉そのものが的外れなものであったとしても。

 何を信じ身を捧げたところで、望むものが得られなかったとしても。ギブアンドテイクの破綻など、そう珍しいものでもなく。

 快楽とは、おおよそそのようなものだろう。

「どうして、死んじゃうのかな……」

 女は小さく呟いて、私の身体をいっそう強く抱きしめる。

 私は喉奥で呻きながら、首をもたげて窓の外へと目を向ける。背の伸びた低木の枝葉が、雨に打たれて窓の端でしなっていた。

 生きてるからでしょ、なんて言うのは、いくらなんでも無粋だろうかと、ぼんやり考える。

 女が言っているのは、どうして蜘蛛の糸は降りてこないのか、というようなことで、こんな問いへの最適解など私にはわかりようもなかった。すべてを観測した果てに未来をも導き出せる悪魔であれば、問いの答えを用意できるのかもしれないけれど、そうではない以上、ほとんどの類推は意味をなさず、そんな議論は堂々巡りのいたちごっこににしかなりえない。

 無意味なのだ、最初から。私が天使だろうが悪魔だろうが、その実態がどうだろうが、女を守るために必要な工程は何も変わらない。害あるものを排し、この腕に収め、包み込むのみだ。

 刹那の不幸はより深い痛みを避ける代償で、私のエゴがそれを為す。結果のために過程を顧みず、気取ることなく己が本性のままに。

 どれだけ深い信心も、いかに敬虔な信仰も、ここに至っては価値を失くす。救済の成就は人の手に依らず、その可否さえ当事者とは無縁となる。

 そして、ゆえにこそ、このような詭弁が意味を持つ。

 ぜんぶ、悪魔のせい。

 誰だって、その方が納得できるに違いないのだ。

 目一杯の沈黙を挟んで、私は「さぁね」と呟いた。

 鈍色の空は晴れることなく、陰鬱は高度を選ばずに垂れ込めている。

 雨垂れの音が空虚に響く。

 私は吐息混じりに口にする。


「──信仰が足りないんじゃない?」

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