失明
最初に感じたのは、悲しみや絶望なんかじゃなく、安堵だった。
もう見なくていいんだ、という大きな安心感で、涙が出た。止まらなかった。
それを自覚したのは三年ほど前からだった。
元々、現実から目を背ける癖があった。
だからこそ、見たくないものを無理やり見せられるたびに、目が見えなかったらいいのにと思っていた。
少しづつ、視力が悪くなってぼやけて見えるようになった。少しづつ、分からなくなっていく自分に、不安より喜びを感じていた。
そして、本当に嫌なことがあって、本当に何も見たくないと思って、そう思って目を覚ますと、本当に何も見えなくなった。
真っ暗で、何も見えない。あるのは確かな自分の体と感覚だけ。
それが、嬉しかった。
色んな病院に行って、見てもらったけど心因性ということ以外はわからなかった。
当然だ。僕は自分の気持ちを誰にも話さなかったから。話したくなかったから。
両親も友達も、優しくなった。傷つけないように扱ってくれた。
それがうれしくて、幸せだった。
そんな日々も終わりが来る。最低限学校に通って、普通の人が苦労して稼いだお金の一部をもらって慎ましく生きていこうと思っていたのに。
「俺はお前みたいなやつが大嫌いだ。見たくないから見えなくなった? 逃げてるだけじゃないか。人に気を使ってもらって当然? 傲慢だろう。人の好意に甘えて、自分からは何もしない。優しいから傷つきやすい? それは嘘だ。お前は一つも優しくない。優しいふりをするのがうまいだけだ。お前みたいなやつは、死んだほうがいい」
ある日、正面切ってそう言われた。皆の前で、はっきりとそう言った。
彼は別に人気者でもなんでもなかった。僕より友人も少なかったと思う。
だから、多くの人は彼を非難し、僕を擁護した。
でも、彼は孤独にならなかった。その後も少数の友人と楽しそうに過ごしていた。
そんな事実が、僕の耳にたたきつけられた。
人の笑い声が怖くなった。
人が争う声が怖くなった。
聞きたくなくなった。
だんだん、聞こえづらくなっていって、ついに聞こえなくなった。
嬉しかった。僕にはもう話すことも声を聴くこともできない。
だから、みんな優しくしてくれる。否定の言葉なんて聞こえない。
だから、幸せなんだ。
でも、それは間違っていたみたいだった。
介護してもらいながら病院で生活をしているうちに、家族が来なくなった。友人も、ほとんど来なくなった。
それは手の形で判断できた。文字や点字でのコミュニケーションでも、それが理解できた。
だけど、一人だけずっと通ってくれる人がいた。
その人は医者だといっていた。
でも、普通お医者さんは忙しくて、毎日来れるわけがなかった。
その人が誰なのか解らなかったけど、きっととても素敵で優しい人なんだろうと思ってた。
どんな人か見てみたくなった。声を聴いてみたくなった。
そう思ったのは、間違っていたのかもしれない。
「見えないふりするなよ。聞こえてるんだろ?」
そう言われて、僕は愕然とする。
そこに立っていたのは、彼だった。
僕は口からあぁとかすれた声が漏れる。
「お、本当に聞こえてるのか。ずいぶん早かったな」
一年以上たっていた。その間、彼が毎日欠かさず通っていたことは知っていた。
「勘違いするなよ。俺はお前に罪悪感を感じているわけじゃない。ただ、お前の生き方が気に入らないから、変えたいだけだ。具体的に言えば、その中途半端なのが気に入らない。生きているのか、死んでいるのかはっきりしてほしい。逃げたいなら、徹底的に逃げろ。つまり、死ね。生きたいならちゃんと働いて、自分以外の誰かと自分自身のために生きろ」
その声は、依然聞いた非難の声と同じだった。
いや、それは非難ではなく、ただただ事実と自分の感じたことを述べているだけだということがわかった。
だからこそ、苦しかった。
逃げないで生きるなんて、自分にはできない。逃げてないふりをすることしかできない。
だから、手首を切ることにした。
自殺未遂の常とう手段だというのは知っていた。リストカットで自殺が成功する可能性はおみくじで大凶を引く可能性より低い。
目が見えないふりをして、鋏を持ち出すのは難しくなかった。
少し痛かったが、大したことではなかった。
お医者さんが駆けつけて、僕は難なく助かった。
後遺症も何も残らなかった。
久々にきた家族が、悲しそうにしていたけどそれはどうでもよかった。
今度は友人が一人も来なかったけど、それもどうでもよかった。
だが、これで彼に示せるという、それだけで誇らしかった。
僕はきみとの言う通り、徹底的に逃げようとしたのだ。そういうねつ造された事実が嬉しかった。
でも、そんなに都合がいいわけがない。
「本当に、逃げることしかできないんだな。挙句の果てに、逃げることからも逃げ出した。崖から飛び降りるでもなく、振り返るわけでも前に進むわけでもなく、ただそこで、落ちるふりをした」
「俺はもうどうでもよくなった。お前の演技に騙されて、死んだものだと思うことにしよう。無駄な時間だったな」
彼は去った。そして、誰も来なくなった。
本当は目が見えているとか、耳が聞こえてるとか、そんなことを気にする人がいなくなった。
ただ毎日運ばれてくる病院食を食べ、疲れた表情の看護婦さんに介護してもらう。
色んな愚痴が聞こえてくるけれど、それに何かを感じることもなくなった。
くだらないな、と思った。
自分の人生も、他人の人生も。
でも、彼がどんな風に生きているのか、それだけに興味があって、それだけはくだらなくないことのように思えた。
でも、僕はもう動けない。この何も進まない生活に慣れすぎてしまった。
だから、諦めることにした。そうしたはずだった。
一度決めたことをやり遂げるのは簡単じゃない。諦めようと思っていたのに、諦めきれなかった。
こんな簡単に、心変わりしてしまう自分に嫌気がさしていたけど、その嫌気自体も否定する気になれなかった。それでもいい、と思うようになった。
前に進んでいるのかわからないけど、僕は戻ろうと思った。戻って聞こうと思った。
僕はどうすればいいのか。僕はどう生きればいいのか。彼に尋ねようと思った。
逃げたいとか逃げたくないとか、そういうことは、もうどうでもよかった。
あぁそうだ。僕は今までやりたくもないことを、やらなければならないと思ってたから、逃げてたんだ。
自分がやりたいことに、逃げるも何もないんだ。
やりたくないことをして、逃げて、できなくなって、いつの間にか自分のやりたいことがわからなくなって、できなくなったんだ。
じゃあ、自分のやりたいことだけやればいい。やりたくないことからは、逃げるのではなくやりたくないとはっきり言おう。その結果破滅を迎えたとしても構わない。
どうせ、僕の人生は元から破滅しているんだ。これ以上悪くはならない。
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