「楓ちゃんは優しいんだね。そんな奴にまで気遣って」


 私は優しくなんてない。私の本質は、どうしようもないほど真っ黒な悪だ。


「私は、悪い人の気持ちの方がよくわかるんだ」




 初めて私が自分が他の人と違うと感じ始めたのは五歳の時だ。


 テレビのドキュメンタリーで、戦争の悲惨さを伝える番組を見た。ほとんど内容はわからなかったけれど、あの爆発の中で何万の人がまるで虫けらのように死んでいく姿をありありと想像できた。


 多分、そういった想像力が強い人間は普通悲しむのだろうと思う。感受性の強い子供は泣いたりしてもおかしくない。


 でも私は、想像力と感受性以上に、残虐性の強い子供だったのだろう。私は、その映像から今までで一番の快楽を感じたのだ。その残酷さを美しいと感じた。正確には、気持ちいいと感じたのだ。




 自分以外の誰かが大量に死んで、それを俯瞰して見ている自分に対して「これが正しい姿なのだ」と本能が肯定していた。




 それと同時に、私は自分自身が生きていてはならない存在だと自覚した。今すぐ命を断って、絶対的な悪を終らせるべきだ、と。


 多くの犯罪者も一度は同じことを考えると思う。でもそのほとんどは実行に移さない。私も同じだった。ちっぽけな正義感は、絶対的な悪感情の中では無理やりリング上に挙げられた赤子のようなものだった。すぐに理屈で組み伏せられて終わりだ。




 それでも、私は自分を愛そうとした。自分が愛せる自分であろうとした。多分、私の二つ目の本質だと思う。


 私は他人の目を異常なほど気にするけど、自分自身の目をそれ以上に気にする。


 私の第二の理性は常に私を監視している。クリップボード片手に点数をつけ続けている。




 私は自分が正義であることをあきらめたけれど、悪にだけはならないように努めた。


 私は誰かに悲しんでいてほしいけれど、誰かを悲しませたくはないのだ。その責任が他者であってほしいのだ。私はそういった種の悪であった。





 私は困っている人間、苦しんでいる人間にこのんで手を差し伸べた。それは他者から見たら善と呼べる行為だったのだろう。


 私は彼らの心の深い部分にもっと触れていたかっただけだ。彼らの胸中をさらけ出してほしかったのだ。そして、意図せずに踏みにじりたいのだ。


 彼らの相談に付き合っていて、私は彼らに改善案を一度も提示しない。ただ黙って微笑んでいるだけだ。ときどき相槌を打って、『普通の人ならこう思うよね』と付け加えながら一般論で諭す。


 『君の苦しみは誰にも理解されないんだよ、こんなに優しい私にさえも、ね』私は言わずもがな態度でそれを伝える。


 でもほとんどの場合、そうした人たちは私に感謝して、吐き出せて少し楽になった、ありがとう、なんて言う。


 元々そういう人々の苦しみは大したことがない。せいぜい宝物をトイレの中に落として流してしまった、程度の苦しみだ。私は愁いを帯びた笑顔で、力になれなくてごめんね、と笑う。




 私は共感性と想像力が強い生き物だ。だから、人の感情の深度がよくわかる。一時的なモノなのか、一生のモノなのか、話を聞けばはっきりとわかる。だからこそ、時々遭遇する一生モノの欠陥、もしくは外傷を抱えた人間の話を聞くのに、強い快感を感じる。彼らの絶望は甘美な味がする。ただの優越感なんかじゃない。それは美しくてもっと気持ちのいいことなのだ。


 私は最後に、その人間の苦しみや悲しみを肯定してやる。それで、最後だ。


「でも、君の悩みはきっと君の助けになっているよ。理由や意味のない出来事なんて、一つもないからね。きっとよくなる」


 使い古された言葉だ。無い方がいい悩みも、理由も意味もない出来事なんて、おびただしいほどあるのに、それに必ず意味があるなんて、それほどひどい目にあってこなかった人間の戯言だろう。




 そういう人間に限って、重度の障害を抱えた人間を前にして何も言えなくなる。彼らは例外だという。例外なんかじゃない。彼らは、最大の絶望を背負い続ける一般人だ。


 老いもまた、一つの病だ。老人もまた、深い絶望を背負っていることが多い。




 私はボランティアが好きだ。介護が好きだ。彼らが暴力的になったり、理不尽なことをするたび、彼らの胸の中の黒い部分が現実ににじみ出て、そうではない人の心の堤防を少しづつ削っていく。その有様が私には愉快で仕方ない。




 全て、黒に染まってしまえばいい。悪意に染まって、殺し合えばいい。それこそが他の生物とは違う人間らしい在り方だ。少なくとも、私自身の正しい在り方だ。


 私はそう確信しつつも、何か計画を立てたりはしなかった。だって、私を見ている私がいるから。


一般的に見て悪いことはできない。ただ、表層だけを見続ける客観的な神にとって、善行と言える行為を悪感情から行うだけだ。


だから私を悪人だなんて思う人間は、誰もいない。





 皮肉にも、私は知能的に優れていた。皆がなぜこんなにも頭が悪いのか必死に考えたこともあったが、行きついた結論は思いのほか単純だった。


「皆、知性や理性を強く保つ必要がない。だから生まれ持ったモノを何となくここまで意図的に触れることがなかった」


ということだ。


 私はずっと、賢くあろうとしてきた。それを努力と人は呼ぶが、その言葉はふさわしくない。息をしたり、食べ物を食べたり、睡眠をとることが果たして努力と呼ぶにふさわしい行動だろうか。私はそうは思わない。


 私にとって努力とは、衝動的に行いたくなる悪を押しとどめることだ。それには大変な苦労がある。しかし誰もそれを理解しないし、努力とは呼ばない。




 これも皮肉だが、私は外見的に優れていた。皆がそうじゃない理由は、皆の頭が悪い理由と大した違いはなかった。


 自分の容姿を優れたものにしようという必死さが足りないのだ。


 私は必死だ。常に必死だ。いかに善的な笑みを浮かべられるか研究し、鍛錬し続けた。だから私の微笑みは限りなく人を安心させる。そこには不自然の欠片は一つもない。




 何かが悲しんでいたり苦しんでいるのに見惚れているとき、私は笑う。私はそういうとき、悲しそうに笑うということを癖につけた。だから、もしなんでそんな見たくもないものを見続けているかなんて問われたら、答えるのは簡単だ。


「せめて、私だけでも見ててあげないと、と思って。目をそらし続けるのは、あまりにもかわいそうだから」


「そっか。でもそんな風にしてるのは辛くない? 優しすぎるのも、大変そう」


 私は優しくなんてない。むしろ、こういう風にしているとき以外がつらいのだ。そう言ったところで、誰も理解してくれない。誰かに理解されたいと人並みに思うからこそ、それ自体が苦しいのだ。





 自分の本性が何かの拍子に露見してしまえばいいと思う。そうして、私がありのままの姿になれればいいと思う。でもそんな日は来ない。





 ある日妙な夢を見た。この町で一番大きな建物、40階くらいの高さのマンションを破壊する夢だ。


 私は、それを概念の足で蹴飛ばして、その中にいる人間たちが声もなく死んでいく姿に共感し、快楽を得る。そして、架空の身体でそれを仰ぎ見て、最高だ、と呟く。


 人々の悲鳴と、私のつぶやきがいびつな和音となって心地よい音色を奏でる。


「全て、こうでなくてはならない」


 私は歓喜のあまり叫んだ。





 次の日の朝は忙しかった。夜中に不可視の化け物が現れたと全国放送のニュースで取り上げられていた。


 それを撮影した人間がいて、明らかにこれは実体を伴っている、と誰かが考察していた。


 そして、倒壊していくマンションの中鳴り響く轟音よりも大きな、はっきりとした声が聞こえた。どす黒く、悪意に染まった声だった。


 掠れていて、低い。おそらく男性の声。


「最高だ」


 そして、その声は叫ぶ。


「全て、こうでなくてはならない」





「全て、こうでなくてはならない」


 私は、誰もいない自室で、そうつぶやいた。そして、笑う。あの悲しそうな笑みを浮かべる。それが正しい表情だ。





 爆弾を設置し、特殊なスピーカーで謎のメッセージを残したテロリストを追うための大規模な捜査がこの町で始まった。学校は最初の何日かが休校で、そのあと何とか再開した。二人の同級生が行方不明になっていた。あのマンションに住んでいた二人だ。私は、悲しそうに笑う。喜びをもってして。





 教室も、電車の中も、バスの中も不安で満ちていた。どこにいるかわからない謎のテロリストのことで頭がいっぱいだったようだ。気持ちがよかった。




 某宗教の過激派の仕業であるというのが、世間で最も根拠のある仮説であった。あるいはそうかもしれない。


 でも、それは私の仕業であると、確信していた。あの夢は、私の願いであると、私は信じていた。




 コメディ的ニュース番組では『最高だ。全てこうでなくてはならない』という言葉に込められた犯人の人物像を推理することが流行のようだった。


 もしくは、暗号のようなものをアルファベットだとか古代の別の言葉だとかに分解して並び替えて、こじつけることに夢中のようだった。


 大きなボードにわかりやすいように色付きでまとめられていて、気になるようなところが張り紙で隠されていたり、回転して見せることができるようになっていたりしていた。


 全て、視聴者にチャンネルを変えさせないため。興味をひかせるため。それが当たり前。


 だって死んだのは、たったの数百人程度だから。戦争や餓死や病気で死んだ人間ほど多くないし、それを知ってえる感情は悲しみや苦しみではなく、単純な好奇心と安易な同情。そして偽装された怒り。ただ自分の攻撃性を発散させるためだけの、一時性の怒り。




 『A町の悲劇』として大々的に報じられ、テロリストに対する憎しみや罵倒が世間にあふれた。


 事件とは少しの関係もないテレビの中の司会者が「テロは最低最悪の行為です。これを見ていて、少しでも悔いる気持ちがあるのならすぐに自首しなさい」なんて偉そうに糾弾した。


 また別の人は「逃げられるなんて思わないでください。世間は絶対にあなたを許しません。追い詰めて、必ず罪を償ってもらいます」なんて言って死刑という名の共同的な殺人を予告した。




 私は笑う。そうした愚かな人々の姿が、心地よかった。世界はこうであるべきだ。私は心の中で繰り返す。


 悲しそうな笑顔の中で、私の心は満足感で溢れていた。







 あるとき、私について書かれた小説がネット上で話題になった。テレビのニュースでも取り上げられるようになった。


 正確には「私によく似た存在が主人公の小説」だ。


 善人の振りをして、絶対にそれが見つからない。それが話題になった理由は、その無料公開された小説は有名作家が書き下ろし、その後、この事件に関して社会的に問題のある意見を言ったからだった。


 その発言は私にとってはあまりにも当たり前の言葉だったが、受け入れられない人が多いようで、賛否両論だった。SNSは炎上した。挙句には主人公に共感した、と書き込む人間すら現れた。


 警察はSNSを書き込んだ人間について捜査を始める可能性を示唆した。手がかりが全くなくて行き詰っていたからだ。




 愚かだと思った。この小説の主人公のような人間が本当に犯人なら、間違いなくネット上に証拠が残るようなものは書き込まない。それどころか自分にだけ見える形で何かに残すようなことすらしない。


 そもそもそれがこの小説と、この作家が言いたかったことだろう。自分で自分を監視し続ける絶対悪。それは誰よりも善人に見えるような悪人で、日常に潜んでいる。だが、それが見つかることはない。どんなに観察眼のある人間にも、もっといえば客観的な神でさえもその本性は暴けないのだ。




 本人が、それを望まない限りは。


「この事件は本人が罰を受けることを望まない限り、解決しない。僕は作家としてそう確信しているのです」


 その作家の言葉は、私にとってあまりに普通過ぎる言葉だった。考えるまでもない事柄だった。しかし、多くの人の感情を踏みにじる言葉だった。それもまた、とてもよく理解できた。


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