もっと頭が悪ければ

 私が健司君を好きになったのは、なにか特別な理由があったからではない。


 小学二年生のころ、同級生の女の子に意地悪をされて泣いているところを声かけられたのが最初だった。


 それまではクラスメイトの名前と顔が一致しているかどうかすら怪しかったのに、健司君に話しかけられてからは世界が鮮明に見えるようになった。


 私が最初にはっきりと覚えた友達の顔と名前は健司君のだった。




 私は健司君とできるだけ一緒にいれるようにした。健司君は運動がよくできて気遣いもできて、機転もよく効くからクラスでは男女問わず人気者だった。


 私と同じように健司君を好きになる子も何人かいたけれど、多分私が一番執着していたのだと思う。


 健司君は人と話すよりも体を動かすのが好きで、休み時間や放課後はよく男友達とサッカーやバスケットボールで遊んでいた。


 私は、他の女子たちと違って、そういった女の子が好まないスポーツにも参加した。


 三年生から健司君が入っていたサッカーのスポーツ少年団に入れてもらった。


 やっぱり私は女の子だからうまく身体が動かせなくて、馬鹿にされたり、妙な特別扱いで優しくされたり、それが少し悔しかった。


 私はそれを理由に健司君に色々教えてもらった。


「ボールはこういう風に、つま先だけで蹴るんじゃなくて、色んな蹴り方があるんだ。一つ一つやってみて」


 健司君は丁寧に優しく教えてくれた。


「いつもありがとうね」


 私がそう言うと、健司君は嬉しそうに笑ってくれた。私は健司君が好きだった。


 健司君が喧嘩したときは、私は止めずに一緒になって殴り合ったし、時々は私が健司君に対して怒って殴ったこともあった。


 健司君は二度だけ私を叩いたことがあったけれど、間違いなく手加減してくれていたし、私を男子と同じように扱おうとする一方で、間違いなく女子として意識してくれていた。


 私はそれが嬉しかったのだ。




 小学4年生になると、男子も女子も皆恋というものに興味が出てきて、私たちをからかうようになった。


 私はできるだけ健司君と離れたくなかったし、健司君も拒まないでくれた。


 私はそれくらいのときから、人との上手な付き合い方を知り始めた。うまく嘘を付いたり、流れに合わせたり、時々は皆が共感できる範囲で自分の意見を言った。気づいたら私は女子の中じゃそれなりの発言権を持っていた。


 運動は健司君が教えてくれたかいもあって、クラスの女子じゃ一番だったし、男子と話すのにも慣れていた。


 健司君と同じで、話し方が乱暴というわけでもなかったし、天然というほど抜けていたわけでもなかった。


 ただ私は一人の少しだけマセた少女だった。そのときは。




 運動が元々得意だったわけじゃないから、全力で走ればときどきは転ぶし、男子と殴り合えば怪我をして涙目にもなる。私は元気なおてんば娘だった。


 健司君はそんな私をずっと気遣ってくれた。時々は叱ってくれた。私はそれが嬉しかった。




 小学生までは、私たちはずっと互いに一番の友達だった。暇なときはとりあえず互いの家に電話するか、もしくは直接出向いたりした。お互いの家に何度か泊ったことだってある。両親同士もそれなりによい関係だった。




 私は皆と違っていたけれど、それまでは何の問題もなかった。むしろその違いこそが良い方向に導いてくれた。


 でもそれは小学生の間だけだった。




 中学一年の最初のテストで、私は一番になってしまった。それまで私は運動が得意なおてんば娘だったのに、テストの結果のせいで頭もよくて運動もできる文武両道な完璧人間のような印象を与えてしまった。小学校が違う人たちはもちろん、同じ小学校から上がってきた子たちすら、私を見る目が変わってしまった。


 健司君は平均点よりは高かったけれど、目立つような点数じゃなかった。




 私は恐れた。女は男を立てるものだと、昔の人は言っていた。


 女に負けるということを男が恐れていることくらい、小学生のときの経験上知っている。


 健司君は、変わらず接しようとしてくれたけど、やはりどこか違和感があった。健司君も、きっと自分では処理できない男としての感情と理性の板挟みの中で生きていたのだろう。




 私は次のテストで、平均点より少し高く、健司君より少し低い点数を取った。両親から軽く問い詰められて、遊びすぎちゃった、と言い訳をした。


 最初のテストだって、ほとんど遊んですごしていたのに。




 私はサッカー部のマネージャーになった。健司君と一緒に居たかっただけだった。


 でも私はサッカーがうまかった。健司君ほどじゃなかったけれど、遊び程度でしかやってなかった子たちよりかはボールを扱うのがうまくて、顧問の先生の代わりに教えることも多かった。


 私は健司君と一緒に居たいだけだったのに、多くの人が私を必要とするようになっていた。




 中学校生活に慣れるころには、私が出会ったときの健司君のような状況に、私がなっていた。私はクラスの中心人物で、男子からも女子からも人気だった。


 あのときとの一番の相違点は、健司君がそれほど私に執着していないという点だ。それが、致命的に悲しかった。


 私はあの時と変わらず健司君に執着する。健司君は拒まない。


 数年前なら、普通の女の子がカッコイイ男の子を追いかけている図だった。


 そのときは、優秀な女の子が普通の男の子の世話を焼く図だった。


 それが、途方もなく悲しくて、私はそうならないように必死に策をねった。


 人より良い頭で、どうしたら自分を下げて、健司君を上げられるか考えた。健司君に嫌な思いをさせないように、プライドを傷つけないように。




 健司君は優しかった。決して私に当たったりせず、喧嘩もせず、おとなしいけどスポーツが得意で勉強もそこそこできる素敵な男の子だった。


 私は昔と同じように健司君と一緒に居たかった。昔から、それだけだった。憧れも独占欲も、それほど大きくなかった。ただ一緒に居たかっただけなのに。




「茉理。俺は、茉理がもっと自分の能力を生かしてもいいと思う。俺のくだらないプライドのことなんて、気にしない方がいい。茉理は、もっと自由に生きていいんだ。俺なんかに縛られているのは、勿体ないんだ」


 健司君は中学二年生になったときに、そう言った。


「わ、私は別に」


「ずっと一緒にいたんだ。それくらいはわかる。それにな、小学五年くらいのころからわかってたんだ。茉理は俺よりずっと賢くて立派な人間だって。俺なんかと一緒にいるのは勿体ないんだ。俺は、凡人だから」


 健司君は悲しそうに笑った。


「迷惑ってわけじゃないけれど、俺は多分茉理と一緒にいる資格がないんだ。それが俺を苦しめるんだ。俺がもっと茉理にふさわしい男だったらよかったんだけど、そうじゃなかった。頭も悪いし、サッカーだってめちゃくちゃうまいわけじゃない。人付き合いだって、苦手なわけじゃないけど得意だなんて言いきれない。茉理は、勉強もスポーツも人付き合いも、飛びぬけてるんだ。俺なんかに執着するのは、茉理のためにならない。わかるだろう。茉理は賢いんだ。俺の思ってることくらい、大体はわかってるんだろう?」


 そうだ。私にはわかっていたんだ。ずっと見えないふりをしていたって、やはりずっと見えている。記憶に張り付いている。私は、人より何もかもができすぎていた。


 どこからなのかはわからない。少なくとも小学二年生の時点では、私は普通の女の子だったはずなのに。


「ごめんね。私、ずっと健司君が好きだったんだ。それだけだったんだよ。それだけでよかったのに」


 私は涙をこらえた。私は涙をこらえることができてしまう。悲しいのに、それを隠すことが容易にできてしまう。


 答えは知っている。私という存在が、健司君を苦しめている。その解決方法は、私が健司君に執着するのをやめることだ。私は、健司君にふさわしくなかった。私は、頭がよすぎたのだろう。それが私の、最大の不幸であり失敗だ。





 テストで満点をとっても、全国模試で結果を残しても、途中から入った陸上部でインターハイに出ても、何も満たされない。


 友達が私を褒めても、男子が私に好きだと告白しても、両親が私を誇りだと言っても、先生が私を特別扱いしても、私の中には何も残らなかった。


私は顔に張り付けた笑顔で、皆と正常に付き合って、傷つけないように気を配りながら、傷つかないように距離を取った。




私の人生の失敗の理由、その答えは簡単だ。だから私は嘆く。


「もっと頭が悪ければ」


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