祈里

 私の家は貧乏だ。


 母は消えた恋人の子供を、親族の反対を押し切って出産した。それが私だ。


 母はずっと一人で身を粉にして働いてきた。私に、他の子たちと同じように自由に過ごしてほしい、と母は言った。




 母はいつも笑顔だった。眼の下にいつもクマがあって、年齢のわりにシワが多くて老けて見えた。それでも、いつも人の好い笑顔を浮かべていた。


「つらくても、笑わなくちゃ。そうしないと幸せも逃げていっちゃうからね」


 母は、優しかった。私に対して一度たりとも怒鳴ったりしたことはなく、叱るときも穏やかな口調で諭してくれた。




 母は別に強くなんてなかった。それでも毎日休みなく働いて、私に何かを押し付けたりはしなかった。


 私は母に報いるべく一生懸命勉強をした。アルバイトのできる公立高校に入るしかなかったから、どんな間違いがあっても試験に落ちてはいけなかった。




 貧乏だからという理由で、母の努力不足のせいで、なんて言われたくないから、私は何もかも必死だった。人付き合いだって頑張ったし、部活でも頑張った。私が結果を出すたびに、母は喜んでくれた。いつものとは違う、心からの笑顔を見せてくれた。私はそれだけのために生きていた。




 母の親族は、ひどい人たちだと思う。でも母は一度も恨み言を言わなかった。私がそのことを尋ねても、笑顔で「仕方ないのよ」と自分に言い聞かせるみたいにささやくのだ。


 生活保護という形で国の支援を受けられないのもあの人たちのせいだ。


「身内が社会のお荷物になったなんて知られたら、世間様に顔向けできない。そもそもあんたが一人でどうにかできるって言ったんでしょ」


 私の祖母にあたる人物は無慈悲にもそう言った。子供や孫が多くて、彼らもまた生活に余裕がないから仕方がないのだろう。母は次女だから、それほど大切に想われてもいないのだろう。




 それでも母は、頑張った。時々泣いたけれど、それでもできるだけ笑って、頑張った。頑張ったんだ。




 私の授業料は、最低限の給付金と母のなけなしの収入だけで賄っていた。


 私の中古のスマホの通信料だって、母が頑張ってねん出してくれた。


 バイト代は、できるだけ私の自由に使わせてくれた。でも、ほとんど生活費やこまごまとした学校生活の費用に消えた。


 狭いアパートで二人、壊れかけの家具ばかりの部屋。テレビなんて高いものはなくて、市立図書館で借りてきた本と、音の悪いラジオだけが私の生活だった。




 もちろん不満はあった。でも、母の笑顔を見て、それを言葉にすることなんて絶対にできなかった。母と同じように幸せそうに笑うことしかできなかった。


 つらくても、笑わないとやっていけなかった。そうしないと、不幸に押しつぶされてしまうから。




 勉強だって、得意なわけじゃなかった。必死に勉強して、誰よりも時間をかけて、それでもクラスでよくて五、六番目だった。多分他のみんなと同じくらいの時間しかしなかったら、平均点より下だったと思う。地頭が悪いのだ。


 授業を聞いただけで半分くらいはわかる、と笑う私より点数の低い友人が、羨ましかった。





 母は黙って借金していた。贅沢するためではなく、私たちが最低限生活するためだ。親族に『私が』罵られないため、自分一人で解決するため。


 私はそれを問いただすことはできなかった。つらかった。


 別に借金取りが押しかけてきたわけではない。ただ、母がいつもより苦しそうに笑うだけだ。そして、家計簿を不安げな笑顔で眺める時間が長くなっただけだ。




 何とかしたかった。母が疲労で倒れるように眠った後、家計簿を盗み見た。概ね予想した通りの金額だった。でも私がバイトを少し増やしたくらいで、何とかなる額じゃない。利子の方が多いから、それで楽になったりはしない。




 私は決意をした。正しい選択じゃないのはわかってる。母の想いを裏切ることになるのもわかってる。それでも、私はこの状況に耐えられなかった。できることは、やらなきゃいけなかった。自分を犠牲にするのに、抵抗はなかった。だって最愛の母が、そうだったから。





 十代の女性が、大金を稼ぐ方法なんて一つしかない。私は別に容姿に優れたわけでもないし、身体だってどちらかといえば貧相だ。それでも女子高校生というだけで価値がある。母を楽にさせるためには、こうするしかないのだ。




 緊張はもちろん、恐怖だって並みじゃなかった。今までで一番痛い思いをしたし、理由のない嫌悪感と不快感だってあった。それでも、後悔はなかった。あったばかりの他人に抱かれるのは、想像よりはるかにつらかったけど、母が苦しそうに笑うのを見るよりは、ずっと楽だった。


 手にした額に、私は非現実感を感じる。こんな簡単にお金が手に入るのに、なんで私たちはこれほどまで苦しまなければならないのだろう。




 私は母に金を渡し、用意していた言葉を伝える。


「親切な大人の人に話をしたら、匿名で月に一度支援してくれるって。感謝されたいわけじゃないから、お礼はいらないって。意外と、世の中捨てたもんじゃないね」


 私は最大限の笑顔でそう言った。母は、哀しそうに笑った。




 私はバイトのシフトが入っていない日、インターネットで相手を探して一生懸命に金を稼いだ。相手の要求にはできるだけこたえて、手を抜かなかった。相手の容姿も体型もやり方も、すべてが私にとって同じものだった。金を生み出す機械と交わることに、感情なんて必要ないから。


 ただ、私は感じているふりをして、最後には笑うだけだった。お金を受け取って、ありがとうございます。と。




 そんな日々が二か月ほど続いたある日、母は死んでいた。部屋の隅でひっそりと、首をつっていた。


 何となく、そんな気はしていた。汚れた金を得れば得るほど、身体だけじゃなくて、心まで汚れていく気がしていた。


 母は、きっとそれに気づいていたのかもしれない。母は、自分の努力不足だと、死体で物語っていた。娘一人養えない、母親の末路だと、母は叫んでいた。


 顔は、笑ってなんかいなかった。苦痛と悲しみで、醜く歪んでいた。世を呪うように。




 私は、壁にもたれながら、床に座る。母の死体を眺める。多分、泣いていたと思う。でも、わからない。私は、ふぅ、と息をつく。


 目をつぶる。




 私は母の死体をそのままにしておいた。部屋には徐々に腐敗臭が広がっていくだろう。もうすでにそうなってるかもしれない。でも、関係ない。私は、いつも通りに学校に行く。




 いつも通り笑う。皆もいつも通りだ。母が死んでも誰も気づかない。誰も悲しまない。世界は、悲しまない。笑ったりも、しない。私はこんなにも笑っているのに。




 私は、死ぬことにした。そうするのが、最善手でないにしろ、きっと正しい気がした。

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