第8話 「シオリ……山中 志桜里です。えっと、……」

「好きな食べ物はなんですか?」


 彼女が俺に初めて質問をした。


「卵焼き」


 俺はすこしだけ、考えたあとそう返事をした。

 子どものころ絵本でよんだ卵焼きがすごく美味しそうだったのだ。あの太陽みたいなこっくりとした黄色がずっと心の中に残っている。

 どんな味なのか何度も想像した。

 あの頃のお弁当には必ず卵焼きが入っていた。


 彼女にそんな話をするとふんふんと頷く。

 正直、「卵焼きが好き」なんて言ったらちょっと子どもっぽいって笑われるかなと思っていたけれど、彼女はそんなことはなく。すごく真剣にどんな味なのかたずねてきた。


 他にも色んな話をした。

 好きな色に血液型なんていう小学生が自己紹介のときに書くような内容から、最近見た動画や子どものころの何気ない思い出まで。


 彼女と話すのはとても話しやすかったし、楽しかった。

 なんて言えば良いのだろう。

 ずっと、昔から知っている人間、たとえば幼馴染とかそれくらい親しい間柄で話しているみたいだった。


 また、彼女の会話の距離感は絶妙だった。

 敬語とくだけた口調がまざっていて、すごく遠すぎも近すぎもしなくて心地が良い。

 そして、なによりも彼女の笑顔が可愛かった。

 その笑顔をみようと、俺は気づくといつもよりたくさん喋っていた。俺が話せば話すほど彼女は笑ってくれる。すごく嬉しかった。


 普段はこんなに人に自分のことを話さないのに。

 普段の俺はどちらかというと聞き役だった。

 実際、聞き役の方が日常生活においては美味しい役回りなのだ。


 みんな自分の話を聞いて欲しいと思ってるから。

 おとなしく相槌をうち、秘密は守り、相手の話の腰を折らない。

 それだけで、相手は俺のことを信用し、良い奴だった思ってくれる。だから、俺は色んな人間の秘密を知っていた。


 意外と人気があるのだ。俺みたいなふわっとしてどこにも属さない人間は。

 良い奴と思われるのは悪くない。

 どこのグループにもすいすい入っていけるし、馴染める。

 ずっと、固まって一緒に行動するより、時々こっそり相手の話を聞いてやるだけの方がずっと気楽だった。


 だから、人にこんなに自分の話をするなんて今までなかった。

 しかも、俺にとっては昨日会ったばかりの女の子に。


 すごく新鮮で心地良かった。

 自分っていうあやふやで、ぼやけた存在が、はっきりとした輪郭を持ち始める。

 ああ、俺はここにいたんだ。

 俺という人間は存在するんだということが実感できた。


 体中にちゃんと血が流れて、指先まで温かくなるのが分かった。

 良い子でなければいけない子供も、高校にはいってオチぶれた生徒も、アルバイト一つ受からないダメな高校生も、そこにはいなかった。


 ここにはちゃんと「俺」という一人の人間がいて、好きなものも嫌いなものもあって、それが許されていた。

 ああ、俺ここにいていいんだって思えた。


 彼女といると、普段は絶対に人に話さない些細なことも、彼女に話したくなった。

 窓の向こうの道を歩く子供が風船を持っていて、ふと子供のころ遊園地にいくと俺は必ず風船をほしがったのに絶対に買ってもらえなかったこととか、そんなどうでもいい話までしてしまう。

 でも、彼女はそんなくだらない話でも、話題を変えることなく全てを聞いてくれるのだ。


 こんなに心地よいことは初めてかもしれない。


 夢中で話していて気づいたら、外は暗くなりかけていた。

 こうなると日が暮れるのはあっという間だ。太陽がこっくりとしたオレンジ色になったのを合図に各家がシャッとカーテンを閉める。すると空もカーテンが閉められるごとに、一面にさあーっと紺色や黒の薄いベールを一枚ずつかけていくようにどんどん暗くなる。星の出番がやってくる。


 俺はこの時間帯が子供の頃は大好きだった。

 夜が来るのは怖いし、遊びを終わらせないといけないのは寂しいのに。なぜだか、その怖さや寂しさにどきどきして、不思議な悦びがあった。やっぱり俺は変なのかもしれない。


 とりあえず、あまり暗くなるまで女の子が出歩くのはよくないので、今日は解散となった。


 帰り際、俺は大変なことに気づいた。

 彼女の名前を聞いていないどころか俺の名前も名乗っていなかった。


 好きな食べ物から子供の頃の話まで相手は知っているというのに、一番基本である名前をお互いに知らないなんて変な感じだった。

 なんだか、すごく恥ずかしかった。


「ねえ、君のこと何て呼べば良いかな?」


 俺は苦し紛れにこう聞いた。だって、今更「俺の名前は西宮 アキラっていいます。あなたの名前を教えて下さい」なんて言えない。恥ずかしすぎる。


「シオリ……山中 志桜里です。えっと、……」


 今度は彼女が戸惑った。


「西宮 アキラ」


 お互いをよく知っているはずの俺たちの自己紹介はその日の会話の仲で一番、ぎこちなかった。

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