第15話 桐生千隼はプロである

「なあ千隼。プロとアマの違いって何か分かるか?」


 昔――もう五年ほど前になるか。


 翡翠屋の厨房でレシピ本を読んでいた時、不意に爺ちゃんがそんなことを訊ねてきた。


「いきなりどうした、爺ちゃん」


 訝りながら隣を見ると、祖父はペティナイフを研ぎながら顔をしかめた。


「厨房では師匠と呼べ。で、プロとアマの違いは何か、お前には分かるか?」


 爺ちゃん……師匠は、再び同じ問いかけをしてきた。


 俺は読んでいたレシピ本を閉じ、少し考える。


「……まあ、技術じゃね? プロなら技術でアマチュアに負けるわけにはいかないし」


「違うな。そんなことじゃない」


 当たり前だと思って出した答えが否定され、俺は少し驚いた。


「じゃあ、その分野でお金を稼いでるかどうか……とか?」


「それも、違うな。答えはもっとシンプルさ」


 二つ目の解答も外れて、俺は低く唸った。


 正解がさっぱり分からない。師匠はいったい何を言おうとしてるのか。


 しばらく、ペティナイフを研ぐ音だけが厨房に響く。


「……駄目だ、ギブ。プロとアマの違いってなんなのさ」


 降参した俺が訊ねると、師匠は嘆かわしいとばかりに溜め息を吐いてから、正解を教えてくれた。


「答えはな、『プロは言い訳をしない』ということだ」


「なんだそれ」


 全然ピンとこない正解を示され、俺は首を傾げた。


 そんな俺に、師匠は意図を説明してくれる。


「アマチュアっていうのは言い訳をしてもいいんだ。レシピが悪くて失敗した。材料が悪くて失敗した。機材が悪くて失敗した。そんな言い訳を、全部使っていい」


「……プロは使っちゃ駄目なのか?」


「ああ。プロというのは環境を整えるのも仕事のうちだからな。材料が悪くて失敗したのなら『その材料を用意した自分が悪い』。機材が悪くて失敗したのなら『その機材を使った自分が悪い』。全てそうさ」


「……なるほど。大変だな」


「そうだ。だからパティシエはお菓子作りばっかりしてちゃいかん。多くを学び、人として成長しなければ環境を整えることはできない。馬鹿はいいパティシエにはなれんのさ。いい環境を作るには多くの知識と、何より視野の広さがいるからな」


 きっと、師匠の言っていることは正論なのだろう。


 けど……どこか釈然としないものもあった。


「それ、なんか理不尽だ。どうしようもない失敗だって、世の中にはあるじゃないか。それすら言い訳できないなんて、納得いかないよ」


 拗ねたように反論する俺に、祖父は笑ってみせた。


「そうだな。確かにどうしようもない失敗ってのはある。だから――大事なのは失敗した後なんだろうよ。失敗した後、仕方ないと言って終わらせるのか。それとも実力で取り戻そうとするのか。そこが、アマとプロの違いだ」


 そう言われて、俺は渋面を浮かべる。


「言ってることは分かったけど……厳しい世界なんだな、やっぱり」


 道行きの過酷さに顔をしかめる俺に、その道を数十年に亘って歩んできた師匠は、飄々とした様子で肩を竦めた。


「いいや、むしろ優しい世界さ。なんせ結果さえ成功ならそれでいいんだから。途中で誰がどんな失敗をしたとしても、立ち上がり、最後に帳尻を合わせればそれが正義。自分に力があれば、誰かの失敗を実力で取り返してやれる」


 そこで師匠は、ペティナイフを研ぐ手を止めて、真っ直ぐに俺を見た。


「だから千隼。お前は結果で誰かを救えるプロになれよ」






「今からウェディングケーキを作り直す! 全部のオーブンに火を入れろ! 予備の材料も持ってこい!」


 鉄火場と化した厨房に、俺の指示が響き渡る。


 途端、聖が反応した。


「事情はお嬢からの連絡で聞いた! コース料理は俺一人で仕上げる! 深紅、お前は千隼に付け!」


「わ、分かった! ちーちゃん、まず何から作るの!?」


 さすが経験豊富なスタッフ。


 ウェディングケーキがポシャるという超弩級の緊急事態にも、ちゃんと対応して動き出した。


「何はともあれスポンジケーキジェノワーズだ! あれがなきゃ話にならない!」


「了解!」


 焼成と冷ます時間まで考えると、90分はギリギリだ。真っ先に取りかからないといけない。


「それと今回はレシピを変える! さっきのレシピじゃどうあがいても間に合わないからな!」


「分かった! どういうレシピを使うの?」


 深紅の問いかけに、具体的に答えることはできない。


 何故なら――


「悪いがだ。骨子になる作業だけ先にやって、作りながら完成させる!」


「はぁっ!?」


 俺の答えに、深紅が目を見開いてフリーズした。


 当然と言えば当然。俺の返答はそれだけ非常識なことだったのだから。


「アドリブって……ちーちゃん正気!? 料理ならともかく製菓だよ!?」


 ああ、深紅の言うことは正しい。


 製菓は正しい分量と手順が成否を握る世界。


 レシピを守ること、レシピに忠実であることこそが鉄の掟であり正義なのだ。


 だから、レシピのない即興調理アドリブなんて、そもそもコンセプトからして間違っている。


「できないと思うか?」


 俺のやっていることは非常識な暴挙であると、そう分かった上で深紅に問いかけた。


「当たり前だよ! 普通のお菓子でも大変なのに、よりにもよってウェディングケーキでなんて……そんなこと、ちーちゃんだって一度もやったことないでしょ!?」


「ああ、やったことない。だから――無理かどうかなんて、一度も確かめてない」


「そんな理屈で……」


 俺の言い分に、深紅は絶句した。


「深紅、いいから手伝ってやれ」


 一人でコース料理を仕上げる超絶技巧を見せながら、聖が妹を説得する。


「そこにいる男を誰だと思ってる。お前が言うような常識なんて、他の誰よりも知っている奴だぞ。その男が、全部分かった上でこれしかないと腹を括った。今は、それほどの事態なんだ」


「…………っ!」


 聖の言葉に、深紅は息を飲んだ。


 そしてそれをゆっくりと吐き出すなり、落ち着いた顔で俺に向き直る。


「ごめん、余計な時間を使わせた」


「構わん。まずジェノワーズを作るぞ。分量は元のレシピと同じ。ただし、今回は一枚一枚を薄くして、その分だけ数を増やす」


 薄い生地なら焼成の時間も、冷却の時間も短くできる。


 その分手間は多くなるが、それを技術でカバーできてこそのパティシエだ。


「分かった! 準備する!」


 深紅のサポートを受け、俺はジェノワーズを作り始めた。


 ジェノワーズを先にやり始めた理由は、単純な時間配分ともう一つ。


「深紅。それが終わったらリンゴを厚さ一ミリの半月切りにして、赤ワインで煮込んでくれ」


「了解!」


 ジェノワーズ作りは日本のパティシエにとって、最も多くこなす作業。


 故に思考などせずとも身体が動くほど手順は染みついており、作業しながらレシピを考えることができるのだ。


「桜の塩漬けの予備はなし。アンビバージュはさっきの残りを使って、仕上げは――」


 残りの作業時間、作りかけのパーツ、今ある材料。


 脳みそをフル稼働して新たなレシピを検討していく。


 まるで目隠しで綱渡りをしているような気分だ。


 踏み出す一歩が正しいのかも分からない。今いる位置が本当に安全なのかも分からない。


 もしもほんの少しでも正解から外れれば、一気に転落する地獄のゲーム。


 ああ、だけど――


「やり遂げてみせるさ」


 だって、できなきゃ湊が泣く。


 一番この結婚式を成功させたがっていたのはあいつで、だからこそこのまま失敗したら、湊はこの結婚式のことを思い出す度に傷付くことになる。


 俺は、そんな結末を認めない。


 だったらやるのだ。たとえ、それがどんなに無謀な挑戦でも。


「ちーちゃん! ジェノワーズの焼き時間と温度は!? この薄さだとどれくらい焼けばいいのか分からないよ!」


「一八〇度で十分だ! 天板を下から叩くの忘れるなよ!」


 深紅の疑問に、俺は勘だけで堂々と答えた。


 実験も実証もしていない数値。ほんの数分でも間違っていたら、一発で結婚式が破綻する。


 凄まじいプレッシャーに、全身が総毛立った。


「大丈夫だ、合ってる……!」


 俺の中にある力の全てを総動員して、目隠しのままこの綱渡りを駆け抜ける。


 大丈夫、俺ならできる。命綱ならちゃんとあるから。


『ぼくがうぇでぃんぐけーきをつくるから――』


 命綱それは、あの日から俺が積み重ねてきたことの全て。


 何度も作った。何度も失敗した。何度も失敗の理由を考えた。何度も乗り越えた。


 その全てが、今の俺を支えている。


 俺は自分の経験を信じている。これまでの積み重ねの全てが自分を支える命綱になると。


「ああ……それなら、この結婚式の趣旨にも合ってるか」


 思わず微笑が零れた。


 この結婚式は、自分の一番いいところを見せるためのもの。


 であれば、俺が見せるべきはこの積み重ねに他ならない。


 トラブルの末、最後の最後にこの原点に辿り着いた。


「ちーちゃん、ジェノワーズ焼けたよ!」


 十分後、深紅がオーブンから取り出したのは黄金色に焼き上がったジェノワーズだった。


 焦げの一つもなければ生焼けでもない。成功だ!


「よし、冷ますために窓を開けろ! 雪のおかげで室温を一気に落とせる! その間にリンゴを仕上げるぞ!」


 深紅がワインで煮ていたリンゴの薄切りは、綺麗に着色してピンク色になっていた。


 俺はリンゴ同士が半分重なるように横一列に並べ、くるくると巻いていく。


 そうして出来上がるのは、ピンク色のリンゴで出来た薔薇アップルローズ


 桜の塩漬けがない今、先生に贈る餞別のメッセージはこれしかない。






 時間はあっという間に過ぎていった。


 生地を三段に重ね、クリームを塗り、フルーツを並べ、美しく飾り付けていく。


 そうして最後のデコレーション以外の全ての作業が終わったのと同時、俺のスマホが電子音を鳴らした。


 九〇分を知らせるアラームである。


「ちっ……残りは向こうに行って仕上げるぞ!」


「了解!」


 俺と深紅はケーキを台車に乗せ、急いで廊下に出る。


 と、そこにいた奴らの姿に、俺は驚いた。


「桐生。もう一度運ばせてくれ」


「頼む。今度は失敗しないから」


 笹本と杉崎。


 二人が覚悟を決めた表情で佇んでいた。


「いいだろう。任せる」


 俺と深紅は全力疾走のようなペースで九〇分フル稼働をしていた。体力に不安があるのも事実だし、この場面の助っ人は助かる。


「感謝する!」


 二人は俺たちからケーキを受け取ると、先導するように歩き出す。


 廊下を進み、魔の階段を今度は無事に降り、渡り廊下を抜けてスタッフ用に仕切られた入り口から体育館に入った。


 それとほぼ同時、友人代表のスピーチが終わりを迎える。


「まずいよ、ちーちゃん。友人代表のスピーチが終わったら、もうケーキ入刀のはず」


 深紅の口調にも焦りが滲む。


「早く仕上げるぞ」


 舞台袖に用意された簡易的な作業スペースに、台車が無事に設置された。


「二人とも、助かった。ここから先は任せろ」


 今度はちゃんとやり遂げた笹本と杉崎に感謝する。


「ああ!」


「あとは頼んだぞ。桐生、高梨!」


 そう言い残すと、邪魔にならないようにか、そっと二人は捌けていった。


 運搬を代行してもらえたおかげで体力も集中力も残ってる。


「やるぞ、深紅!」


「うん!」


 俺たちが作業体勢に入ったのと同時、湊が舞台から降りてきた。


 そして作業中の俺たちを見るなり、表情をこわばらせる。


「未完成……! あとどれくらい掛かる!?」


「三分だ!」


「分かった。なんとかする!」


 責任感の滲む声で請け負った湊は、一瞬だけ俺が用意したアップルローズを見ると、すぐに踵を返してステージに出る。


「あと少しだ! 一気に仕上げるぞ!」


 その背中を見送る暇もなく、俺と深紅はケーキの仕上げを始めた。


 飾りのクリームを絞り出していく。


『この後は、新郎新婦によるケーキ入刀です。が、その前に僭越ながら生徒代表として、私も先生に祝辞を述べさせていただきます』


 スピーカー越しに、湊のスピーチが聞こえてきた。


 これが終わる前にケーキを仕上げなければ。


『今回、この結婚式を作る上で、大きな問題がたくさんありました。人数、経験、予算、そして――取り返しがつかないと思うほどのトラブル。今、こうして式を無事に進められているのは、多くの人たちに助けられてきたからです』


 スピーチを聞きながら、俺はアップルローズを花束のように飾り立てる。


『私を助けてくれたのは、先生に救われた人たちでした。先生を祝いたいと思う人、先生がいなければ学校を去っていたという人。そんな人たちが、力になってくれたのです』


 生クリームのデコレーションを終えた深紅が、搾り袋を置く。


 同時に、俺も最後のアップルローズを並べた。


 ――完成。


 九〇分を少し過ぎたが、それでもこの仕事をやり遂げた。


『一年前、私たちの多くは他人でした。名前も顔も知らない、同じクラスに割り振られただけの人間。けど、今は違います。先生の下で同じ時間を過ごし、仲間になり、今ではこうして困難な計画を成し遂げるだけの絆を手に入れました』


 スピーチを続けながら、湊がこちらにアイコンタクトを送ってくる。


 俺はそれに頷き返し、台車に乗ったケーキをゆっくりとステージ上に運んだ。


 歓声が聞こえる。


 三段重ねのウェディングケーキ。その頂点には、ピンクの薔薇の花束が載せられていた。


『ピンクの薔薇の花言葉は、『愛の誓い』。そして『感謝』。こんなにも大変な計画を成し遂げられるだけの多くの絆。それこそが、私たちが先生から受け取った宝物であり、私たちから先生へと贈る餞別です。一年間、本当にありがとうございました』


 湊のスピーチが終わるなり、俺と彼女は揃って一礼した。


 一拍遅れて、会場から拍手が鳴り響く。


 顔を上げると、花嫁姿の先生もうっすらと涙を浮かべながら手を叩いていた。


 俺と湊は、顔を見合わせると小さく微笑む。


 そして、最後に湊はマイクに向けて言葉を紡いだ。



『それでは、ケーキ入刀のお時間です』

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