第8話 ささやかなお茶会

「では、本当にお世話になりました」


 荷物を持った亜里砂ちゃんの母親が、見送る俺たちに笑顔で別れの挨拶をした。


 今日は、亜里砂ちゃんたちの滞在最終日。


「いえ、お役に立てたのならば幸いです」


 湊も満足いく仕事ができたからか、晴れやかな様子だった。


「千隼さん。きっとまた来るから、その時はまたお菓子作り、教えてくれる?」


 初日の緊張はどこへやら、亜里砂ちゃんは朗らかに話し掛けてくる。


 俺も、彼女に笑顔で答えた。


「もちろん。今度はもっとすごいの教えてあげるからね」


 そうして俺が答えたところで、駐車場から車がやってきた。


 運転席には、亜里砂ちゃんの父親が乗っている。


 それを見て、湊と俺は深々と頭を下げた。


「この度はありがとうございました。またのご利用を心よりお待ちしております」


 そんな湊の言葉に見送られ、一家は車に乗ってホテルから去って行った。


 頭を上げると、車の後部座席から手を振る亜里砂ちゃんの姿。


 それに、二人揃って手を振り返す。


「行っちゃったね」


 ぽつりと、湊が呟く。


「ああ」


 俺も、静かに相槌を打った。


「また来てくれるかな?」


「多分な」


 小さな感傷。


 普段、厨房に籠もりきりの俺は、ここまで深く一人の客と関わることなんてなかったので、少し思うところがある。


 とはいえ、この仕事に別れは付き物。


 俺たちは車が視界から消えるまで見送った後、踵を返してホテルに戻るのだった。






 さて、亜里砂ちゃん一家の滞在終了に合わせて、もう一つ終わったものがある。


 それは――


「今日であたしたち三人のバイトも終わり! みんなお疲れ! かんぱーい!」


 深紅の音頭で、俺たちはジュースが注がれたコップを打ち鳴らした。


 従業員用の休憩室。


 今日は俺たちの貸し切りとなっているこの空間で、俺と高梨兄妹の臨時バイト終了を祝う打ち上げが行われていた。


「三人ともお疲れ様。うちのシェフたちが特別に色々作ってくれたから、食べてってね」


 湊がホテルスプライト特製オードブルを給仕すると、くったくたになった俺と深紅は目を輝かせる。


「おお、めっちゃ気合い入ったもの作ってくれたな、先輩たち」


「ね。めっちゃ美味しそうだし勉強になる」


 大半はホテルのビュッフェで出すものと同じだが、ところどころ各シェフのオリジナルと思しき逸品が入り交じっていた。


 感嘆の声を上げる俺たちとは対照的に、聖は一人だけ複雑そうな顔をしている。


「俺は感動よりも先に恐ろしさを感じるな。俺たちのバイトは終わりだが、このホテルの繁忙期はまだ続く。にも関わらず、これほどのもてなしを用意する余裕があるなど」


「確かに。鍛え方が違うな」


 聖の言葉に、俺は苦笑しながらも納得してしまった。


 体力・回復力だけなら若い俺たちのほうが上のはずなのに、先輩たちはまだピンピンしている。


 作業における無駄の省き方、力の抜きどころと入れどころ、そういう体力の効率化がまだまだ俺たちには届かない次元にいるのだろう。


「一品を作るだけなら渡り合えるが、一〇〇品作ると確実に差は出るってか……いや、まだまだ勉強は終わらんね、聖君」


「ああ。日々是精進だ」


 目指す頂の高さに身を引き締める男二人に、深紅が呆れたような視線を向けてくる。


「あたしからすると、二人も大概おかしいけどねえ……この歳で普通に一線級の厨房に混じって働けるなんて。あたしはまだ下積みなのにー」


 ぷくっと頬を膨らませて、恨みがましそうな目をする深紅。


 今回、彼女はまかない担当で、唯一客前に出す料理を作らなかったのだ。


「いや、まかないのほうが大変だろ……なあ?」


「ああ。俺も絶対にやりたくない」


 戦慄する俺の言葉に、聖も深々と頷いて同意した。


「なに? まかないってそんな大変なの?」


 一人、厨房の掟に明るくない湊だけが小首を傾げる。


「ああ。まかないって大抵の厨房だと若手がやるんだが……それってつまり、常に自分より料理の上手い人たちに、料理を振る舞うってことでな」


「あー……なるほど」


 俺の言葉に、湊も察したような声を上げた。


 すると、深紅も苦笑を浮かべる。


「うちのお父さんも元は和食の店で働いててね……でも、まかないに和食を作っても誰も食べてくれなかったんだって。そりゃそうだよね、一流の和食料理人からしたら、若手の未熟な和食なんて食べられたものじゃないし」


 あー聞くだけで寒気がする。


 俺たち四人の昼食品評会なんて比じゃないくらいのプレッシャーだ。


「うむ。それで我が父はまかないを食べてもらうため、他の和食料理人が詳しくないだろうフランス料理に手を出し……そして、そっちのほうが上手くなってしまった結果、ビストロの道を究める決意をしたと」


 聖がそうまとめると、湊は目を丸くした。


「二人のお父さんって、そういう経緯でフランス料理の料理人になったんだ……」


「そうだよ。だから、あたしがここのホテルでまかない作りやるって言った時も、いつものフランス料理じゃなく、和食の作り方を教えてくれたもん。これを覚えないと心折れるぞって」


 ま、ホテルはフランス料理のシェフ多いからな。


「そっか。その武器で深紅はまかないの仕事を乗り切ったんだ。お父さん、ナイスだね」


 湊がまとめようとするが、深紅は地獄を思い出すように遠い目をした。


「乗り切ったって言えるのかなあ……結構残されたし、繁忙期で体力勝負だから仕方なく食べたって人もいたし……あの大量に残飯が乗った皿を洗う時の惨めさったらなかったね。いっそ、料理人なんかやめてちーちゃんのところで働こうかと思ったレベル」


 やはり、まかない地獄は相当効いたらしい。


 ここは朗らかに癒してやるか。


「おう。うちは全員料理が専門じゃねえからな。まかない作りで苦労することはないぞ」


 そう告げると、深紅の表情がパッと明るくなる。


「だよね! やっぱりパティシエールになろうかなあ。ちーちゃん、一から教えてくれる?」


「もちろんだ。なんせ俺は今回、人にお菓子作りを教えるスキルも学んだからな。いつでもどんとこいだ」


「あはは。ついでに弱ってる女の子を口説くテクも身につけたようだね? 千隼。いや、亜里砂ちゃんを通して多くのことを学んだようで何より」


 気付けば、湊がとんでもなく恐ろしい笑みを浮かべていた。


 あ、やべ。ちょっと調子に乗りすぎたかも。


「いやいや、もちろん従業員として誘っただけですけどね! お前がやってるのと同じで」


 そう俺が慌てて釈明すると、湊はくすっと噴き出した。


「あはは! 千隼、慌てすぎ! まったく、そんなに私のことが好きかね」


「おまっ……からかいやがったな?」


 じとっとした目で睨むと、湊はこくりと頷いた。


「もちろん。今のは半分冗談ですよ」


「残りの半分が怖いんだわ! そのノリでからかうなら十割の安全性を保証してくれ!」


「大丈夫だって。残りの半分はずっと私の中で封印して、いざという時まで出さないから」


「『いざ』って何!? それ完全に俺が痴情のもつれで破滅する時じゃん!」


「その通り。私が溜めに溜め込んだ不満がいつか爆発して、千隼は破滅するのです」


「やめろ、そのパンドラの箱みたいなシステム! 不満があるなら今解消しろ!」


「大丈夫。今こうして千隼をからかうことで解消されたから」


「仕事が早いな、お前は!」


 湊は満足したのかつやつやしているが、俺はどっと疲れてしまった。


「む? 終わったか。ではそろそろ料理を食べないか。せっかくの絶品も冷めてはもったいないのでな」


 と、そこに聖が空気を読まない……いや読み過ぎた一言を放つ。


「……そうだな」


「ちょっと盛り上がりすぎたね」


 顔を見合わせて反省する俺と湊。


 気を取り直して、料理に向き直ることに。


「じゃ、いただきまーす」


 そうして、今度こそ打ち上げが始まるのだった。






 そうして数時間後。


「すぅ……すぅ……ん……」


 打ち上げは、疲れ果てた深紅の寝落ちによって幕を閉じた。


「深紅を起こすのは忍びないね。聖、タクシー呼ぼうか?」


 テーブルの片付けをしながら、湊が小声で聖に話し掛ける。


「心遣い感謝する、お嬢。しかし、俺が背負っていきますので」


 妹の肩にそっと上着を掛けながら、聖は穏やかに答えた。


「片付けはこっちでやっておくから、もう上がっていいぞ、聖」


 俺がそう申し出ると、聖は笑顔で頷く。


「すまんが、頼む」


「いいさ。深紅は頑張ったからな」


 俺も寝落ちする友人を穏やかに見つめる。


 厨房は力仕事で、立ち仕事で、体力仕事。どうやったって男のほうが有利なのだ。


 パワーが物を言う中華ほど露骨ではないが、フランス料理だってその傾向はある。


 にも関わらず、男の俺たちですらへろへろになる厨房に、深紅は最後まで立ち続けた。


 たいした少女である。


「お嬢、千隼。また学校で」


「ああ」


「またね」


 挨拶を終えると、聖は妹を背負って静かに休憩室を去っていった。


 残されたのは、俺と湊の二人。


「よし、私たちもパパッと片付けて帰ろっか!」


「おう」


 湊に頷き、俺たちは片付けを続けた。


 二人とも給仕担当と厨房担当である。


 それなりに手際よく片付け、帰宅するべく休憩室を後にした。


 エントランスを抜け、ホテルを出ると、三月の冷たい夜風に吹かれる。


「うわ、まだまだ寒いねー」


 湊が首を竦めて軽く震える。


「ああ。春って暖かいイメージあるけど、四月中旬くらいまでは実質冬だよな。早く暖かくなるといいんだけど」


 俺も着ていたコートのボタンを閉じ、寒さに備えた。


「そう? 私は寒いのも好きだけど」


 と、湊は意外なことを言い出した。


「む、湊って割と寒がりじゃなかったっけ?」


 そう首を傾げていると、湊はそっと俺の手を握ってきた。


 互いの体温がじんわりと伝わる、くすぐったい感覚。


「千隼も寒いの好きでしょ?」


 どこか悪戯っぽい笑みで俺を見上げてくる湊。


「……そうだな。好きになったかも」


 そのまま二人、しばし無言で歩く。


 会話がなくても気まずくはならない。


 お互い、そんなことをしなくても繋がっているから。


「ねえ、一回翡翠屋に寄ってもいい?」


 しばらく沈黙が続いた後、ぽつりと湊が呟いた。


「まあいいけど……何か用か?」


 うちの店もとっくに営業時間は終わっているし、発注や仕込みも師匠がやってくれてるはずだ。寄る必要が見当たらない。


「んー……特にないけど、しばらく行ってなかったから、ちょっと行きたくなって」


「なるほど。ちょっと分かる」


 素直に納得した俺は、湊の意思を尊重して店に向かうことに。


 慣れた道を歩き、一週間ぶりに我が店へと舞い戻る。


「一週間離れていただけなのに、妙に感慨深いな」


 しんとした店内に入ると、少しの懐かしさに包まれた。


「そうだね。なんか帰ってきたって感じがする」


 俺と同じ感慨を味わっているらしい湊に、ちょっと苦笑する。


「お前のホームはさっきまでいたホテルだろ」


「細かいことはいいの。それより千隼、外が寒くて冷えちゃった。何か温かいもの飲みたいなー?」


 わざとらしくおねだりしてくる湊。


「しょうがねえな。紅茶でいいか?」


 それに小さく溜め息を吐きながら頷くと、彼女はにこりと笑った。


「うん。お願い」


「あいよ」


 まあ、確かに三月の夜道で俺も冷えた。少し温かい飲み物が飲みたいところである。


 俺は厨房へ向かうと、ミルクパンで水を火に掛けた。


 ティーポットとカップを温め、茶葉を用意する。


 全ての準備が整うと、俺はトレーに紅茶一式を載せてフロアに戻った。


「おまちどう……ん?」


 喫茶スペースにやってきた俺を迎えたのは、香ばしい小麦とバターの香り。


「お、やってきたね。じゃーん!」


 口で効果音を言いながら湊が見せてきたのは、テーブルの上に置かれたスコーンだった。


 市販品……じゃないな。ホテルの残り物って感じでもない。となると――


「深紅にでも作ってもらったのか?」


「どうしてそういう発想になるのかな! さっきの自慢げな『じゃーん!』をちゃんと聞いた!?」


 ぷくっと頬を膨らませてご立腹な湊。


「え、もしかして湊が作ったのか?」


「その通りですとも!」


 再び、湊は自慢げにスコーンを見せてくる。


 意外な展開だ。湊がお菓子を作るなんて、調理実習かバレンタインくらいだというのに、わざわざこのタイミングで作るなんて。


「……いったい、どういう風の吹き回しだ?」


 まさか、この打ち上げのためだけに作ったということはあるまい。


下積みアプランティ卒業祝い、してあげるって言ったでしょ?」


 悪戯っぽい湊の表情。


「確かに言ってたけど……そのためにわざわざ作ってくれたのか」


 ただでさえ繁忙期な上、亜里砂ちゃんのこともあって、湊はめちゃくちゃ忙しかったはずなのに。


 決して慣れていないだろうスコーンを、俺のために作ってくれたのか。


「その……なんていうか、ありがとう。めっちゃ嬉しい」


 好きな子にこんなサプライズをされて、喜ばない男がいるだろうか。


「よしよし。その反応が見られたなら、苦労した甲斐があったね」


 俺のリアクションがよかったのか、湊も満足そうだった。


「じゃあ、紅茶が冷める前に食べちゃおうか」


「そうだな」


 俺たちは向かい合わせになって席に着く。


「いただきます」


 スコーンを手にして、一口食べる。


 広がるバターの香り、さっくりした食感の生地。紅茶との相性が絶妙な甘味。


「美味しいな……」


 素直な感想を零すと、湊はそれまで詰めていた息を吐くように深々と溜め息を吐いた。


「よかったー。味見はしたけど、失敗してたらどうしようって思った」


 ものすごく緊張していた様子の湊に、俺は亜里砂ちゃんのことを思い出して、少し苦笑してしまう。


「そんなに緊張しなくてもいいだろ」


「む。何を言うかね。さっきまかないの話をしてる時に千隼自身が言ってたでしょ。自分より料理が上手い相手に料理を振る舞うのがどれだけプレッシャーかって」


「はは、確かに」


 そのプレッシャーは、お菓子の世界でも同じこと。


 にも関わらず、湊がこうして俺のためにスコーンを焼いてくれた気持ちが嬉しかった。


「でも本当に美味しいよ、これ。さすが洋菓子店の店員だな、胸張っていいぞ」


 そう手放しで褒めると、今度は湊も嬉しそうにはにかんだ。


「ま、これくらいはね。私もちゃんと、『最高にお菓子を上手く作れるコツ』を知ってるから」


「……そっか」


 照れ臭くなった俺は、言葉少なに頷いてから再びスコーンを食べた。



 そうして、俺たちのささやかなお茶会は続くのだった。

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