第5話 誰かにとっての特別な一日・1

 戦場のように忙しい厨房で、俺はデザートを仕上げていた。


「いちごのミルフィーユとシフォンケーキあがり! 次は!?」


 翡翠屋とは違う、大勢の人間が動く職場で、必死に流れてくる仕事をこなす。


「千隼! パイ包み用のパイ生地がそろそろなくなる! そっちで補充できないか!?」


 隣でオーブンを操りながら叫ぶのは聖だ。


「任せろ! 代わりに三番のオーブンを見てくれ! 焼き上がりのタイミングは分かるな!?」


「無論!」


 俺は彼と背中を預けるように立ち回り、互いの仕事を補っていく。


「まかない出来ましたー! 作業が一区切りした人から休憩入ってください!」


 忙しく働く俺たちの下に、まかない班の深紅の声が響いた。


 ――ここは『ホテルスプラウト』の厨房。


 即ち、湊の両親が経営するホテルである。






「つっかれたー……」


「うむ。毎年のこととはいえ、恐ろしくハードだったな……」


 俺と聖は、従業員用の休憩室で、ぐったりと倒れ伏していた。


 と、そこに従業員ホテリエの制服を着た湊がやってくる。


「お疲れ、二人とも。毎年毎年大変な時期に呼んじゃってごめんね?」


 ちょっと申し訳なさそうに苦笑を浮かべ、俺たちの前にコーヒーを置く湊。


 それを見て、途端に聖はしゃきっとした。


「お気になさらず。このホテルへの恩返しは我が一族の使命。むしろ、お役に立てることは喜び以外の何物でもなく」


「俺もここの仕事は勉強になるからいいさ。気にするな」


 彼に一拍遅れて背筋を伸ばした俺も、コーヒーに手を付けながらフォローを入れる。


 三月というのは卒業旅行シーズンのピークであり、つまりはホテルの書き入れ時だ。


 そのため、俺と高梨兄妹はこの時期になると……というか繁忙期になる度、このホテルで一週間の修行兼バイトをしている。


「そう言ってくれるとこっちとしても安心できるよ。それにしても、二人とも今年から鍋を振らせてもらえるようになったんだね。さっき厨房見てびっくりしちゃった」


 湊の言葉に、俺と聖は揃って喜びの表情を浮かべた。


「ああ。三年かかってようやく仕上げまでやらせてもらえるようになった。まだまだこれからだけど……ま、嬉しいっちゃ嬉しいよ」


「俺もここの焼き場グリャーダンを任されるとは、非常に誇らしい気分です。このポジションを誰にも譲らないようにしなければ」


 俺たちみたいな小僧、それも外様のシェフ・パティシエとなれば、基本的には包丁仕事や、材料の手配などをする、下積みアプランティというポジションになる。


 鍋を振るう――即ち、料理の味を決める仕事というのは、それだけ腕が必要だからだ。


 この店の手伝いをすることになって三年、俺たちはようやくそこに辿り着いた。


「むぅ……やっぱりスカウトしたい逸材揃い」


 湊はそう呟いたものの、さすがにへとへとの俺たち相手に押し切るような悪辣さはないのか、それ以上は言ってこなかった。


「ねえ、そういえば深紅はまだ休憩じゃないの?」


 代わりに、この場にいないもう一人の仲間について話を振った。


「妹ならば、先輩方の仕事を見たいそうで、まだ厨房に残っています」


 聖がそう報告すると、湊は少し心配そうな顔になった。


「そう……熱心なのはいいけど、休まないと持たないよ。これからまだ長いんだし」


「確かに。では、俺が様子を見てきましょう」


「うん、よろしくね」


 湊に頼まれた聖は、コーヒーを飲み干すと休憩室から出ていった。


 残されたのは、俺と湊の二人。


「ねえ千隼、少し外の空気を吸わない? 気分転換したいし」


「ん、構わないぞ」


 彼女の誘いを受け、俺もゆっくりと立ち上がる。


 休憩室を出ると二人で廊下を進み、裏口から外に出た。


「いやー、やっぱり日光はいいね」


 従業員以外立ち入り禁止の裏庭で、湊はぐっと伸びをした。


「そうだな。この仕事やってると、どうしても屋内に籠もりきりになるし、たまには外の空気を吸わないと気が滅入る」


 朝から厨房にいた俺も、日光を浴びて少し気分が晴れた気がする。


「その割には、随分と楽しそうだったけどね?」


 少しからかうような湊に、俺は肩を竦めた。


「そりゃ、下積み卒業だからな」


 下積みの仕事が大事じゃないとは言わない。厨房を支える重要な作業だ。


 けど、重い責任があり、それに見合うだけの技術も要求されるパティシエの仕事は、やはり充足感が違う。


「ふふっ、まさか三年で下積み卒業しちゃうとは思わなかったな。聖は天才だから納得だけど、千隼もすごく頑張ったね」


「ま、それなりにな」


 ほら、聖だけ先に下積み卒業して湊に褒められるとか、嫉妬の炎で焼死しちゃうし、俺。


 そうならないよう、死ぬほど頑張ったのだ。


「それに……多分、チーフは俺のことを六月に使いたいんだと思うぞ。だからその練習がてら、ここで使ったんだ」


 六月――ホテルにある、もう一つの繁忙期。

 ジューンブライドと呼ばれる結婚式シーズンだ。


「ああ、なるほど。千隼のウェディングケーキ作りの腕は、それはそれは群を抜いてるもんね。なんせ、小学校の頃とか毎日のように練習してたし」


 過去を懐かしむように、くすくすと笑う湊。


「やかましい。昔の話だ」


 人生最大の黒歴史に触れられて、俺は渋い顔をした。


「えー、そうなの? 私との結婚式でウェディングケーキ作ってくれるんでしょ? 今から練習しといたほうがいいんじゃない?」


 上目遣いでこっちを見つめながら、からかってくる湊。


「お前は本当にその思い出が色褪せることを許さないな」


 ちなみに中学以降も、仕事としてウェディングケーキ関連を担当することになったので、こっそり仕事中に湊のことを考えまくっているが、それを言うともっとからかわれるのは目に見えているので、がっつり黙秘します。


「そりゃ大事な思い出だし?」


 俺のリアクションに満足したのか、楽しそうな笑みを浮かべる湊。


「それより、せっかく下積み卒業したんだし、何かお祝いをしてあげなくちゃね。何がいいかなあ」


「この忙しいのに、そこまでしなくていいって。気持ちだけ受け取っておく」


 悩み始めた湊に、俺は少し嬉しくなりながらも遠慮をする。


「大丈夫だって。こういうお祝い事には敏感でいないと、この仕事はできないからね。期待しててください」


 そう言う湊があまりにも楽しそうな表情だったので、俺は思わず頷いてしまった。


「……ん、分かった。期待しとくよ」


「うん! それにしても、だいぶいい気分転換になったね。そろそろ戻る?」


 湊に言われて、裏庭に立っている時計台を見る。


「そうだな。休憩時間はまだあるけど、そろそろ戻って……ん?」


 と、彼女の言葉に答えようとした時、不意に時計台の根本に寄りかかっている子どもの姿が見えた。


「湊、あれ」


 短い言葉で伝えると、彼女も子どもの姿に気付いたようで、眉根を寄せた。


「どうも迷子っぽいね。行こう、千隼」


「ああ」


 迷子となれば放ってはおけない。


 俺たちは二人揃って少女に近づいていった。


「お客様、どうかなさいましたか?」


 少女に威圧感を与えないよう、湊はしゃがみ込んで視線を合わせながら訊ねた。


「すみません。ちょっと迷っちゃって……」


 年齢は十歳くらいだろうか? 不安そうながらも、しっかりと受け答えをする少女。


 とはいえ、湊の丁寧すぎる対応が逆に壁を感じさせたのか、少し警戒心が見える。


「そっか。じゃあお姉ちゃんがロビーまで連れてってあげるね」


 少女の警戒を見た途端、湊が即座に対応を変えた。


「あ、ありがとうございます」


「気にしなくていいよ。これが私の仕事だからね。それより、保護者の方はいるかな?」


「はい。両親と一緒ですけど……二人は今、ホテルの近場にある店を見て回ってると思います。私は疲れたから部屋にいるって言っていますから」


「そっか。それなら部屋に連れていくね」


 フレンドリーに接する湊の態度で警戒を解いたのか、少女の表情が和らぐ。


「そういえば、まだ自己紹介してなかったね。私は湊。で、こっちのずっと黙ってるお兄さんが千隼。君の名前は?」


亜里砂ありさです。風間かざま亜里砂」


「亜里砂ちゃんね、よろしく」


 にこやかに挨拶しながらも、恐らく湊の脳内では客室名簿に載っている名前とのすり合わせが始まっているはずだ。


「えーと、亜里砂ちゃん? どうして君はあんなところにいたんだ?」


 一方、俺は少し疑問に思っていたことを訊ねる。


 見慣れぬ土地だろうに、こんな子どもが一人で通常立ち入らない場所を散策していたというのは、なんとなく訳ありの匂いがした。


「それは、その……買い物がしたくて」


 ちょっと言い淀んだ様子の亜里砂ちゃん。


 踏み込むべきか、踏み込まざるべきか。


 判断に迷う俺に代わり、湊がにこりと笑顔で話し掛けた。


「ご両親に内緒で何か買いたいの?」


「はい……その」


 俺と湊が揃って待つと、亜里砂ちゃんはゆっくりと語り始めた。


「実は明後日……両親の結婚記念日で」


 その言葉だけで湊は事情を察したようで、納得したように頷く。


「なるほど。じゃあ、今回は結婚記念日の旅行なんだ。それでせっかくだから、亜里砂ちゃんからご両親に何かサプライズでプレゼントをしたいと?」


「はい。それでホテルの敷地内で何か売ってないかと思って探してたんですけど……気付いたら知らない場所に」


 どうやら、これが事の顛末らしい。なかなかのいい子だな。


 事情を聞いた湊は、考えるように間を空けてから、一つ頷いた。


「ふむ……それなら予定変更しよっか。今からご両親のところに行ったほうがいいね」


「え……で、でも」


 両親に内緒で事を進めたいらしい亜里砂ちゃんは、少し戸惑いを見せる。


 そんな彼女に、湊は少し悪戯っぽい表情を見せた。


「この辺は観光客向けの店がいっぱいあるからね。両親のところに辿り着くまで、色んな店を見ることができるよ。ね?」


「おい湊、ちょっと来い。業務連絡だ」


 そこで俺は話を切り、湊の手を取って引っ張る。


「ごめんね、亜里砂ちゃん。ちょっと仕事の話みたい」


「は、はい」


 湊ちゃんを残し、俺たちは少し離れた場所へ行く。


「何よ、急に。話の途中だったんですけどー」


 亜里砂ちゃんに声が届かない距離になった途端、無理やり話をぶった切られた湊は不満そうな顔をした。


 が、俺はそれ以上のしかめっ面を浮かべる。


「正気か? お前。今どれだけ忙しいと思ってるんだよ。悠長にプレゼント選びを手伝ってる時間なんかねえぞ」


 なんせ助っ人を必要とするほどの繁忙期である。休憩時間だって残り僅かしかないのだ。


 俺の言葉に、しかし湊は納得しない。


「だからって放っておけないでしょ。あの子、放っておいたらまた抜け出すよ。旅先でそんなことになったら警察沙汰になるだろうし……旅行の思い出が台無しになる」


 彼女の言葉にも一理ある。が、俺はやはり頷けない。


「今、何百人の客がいると思ってるんだ。一人の客のために仕事増やしてる余裕なんかないぞ」


「――それは違うよ」


 真っ直ぐ、思わず息を飲むほど純粋な視線で、湊が俺を見つめてきた。


「私はね、『何百分の一』みたいな気持ちでお客さんに接したくない。うちのホテルを利用する人にとって、ここでの滞在は特別な一日のはず。お客さんにとってうちのホテルは『一分の一』なんだよ。たった一つしかない。だから、私もその気持ちに応えたい」


 強い、強い気持ちのこもった言葉。


 その場の勢いとか、ただの善意とか、そういうふわっとしたものではない。


「誰かにとっての特別な一日。私は、それをちゃんと支えられる人でありたい」


 ――信念。


 このホテルはそうでありたいという哲学。


 自分はそういう仕事の仕方をしたいというプロの矜持。


 それが、今の湊からは滲み出ていた。


「……はあ、分かったよ」


 そんなものを見せつけられたら、俺としては引かざるを得ない。


 それが湊にとって譲れないものだと知っているし――そんな湊を、俺は魅力的だと思ってしまっているから。


「けど、物理的に手が足りないのは事実だからな。どんな綺麗な理想も正論も、体現する術がないならただの絵空事だ」


 特別な一日を楽しみに来ているのはあの子の家族だけじゃない。


 一組に肩入れしすぎて、他のお客さんの相手が疎かになるようではプロじゃない。


「大丈夫! 私一人で頑張るわけじゃないからね。深紅も聖もいるし、何より千隼がいる。千隼なら、私の信念をきっと守ってくれるでしょ?」


 好きな子にそう言われて、奮い立たない男がどれだけいるだろうかね。


 俺は一つ溜め息を吐くと、苦笑を浮かべた。


「……しゃーない。ま、臨時とはいえ今はここの従業員だからな。雇い主様に従ってやるよ」


「そうこなくちゃ!」



 こうして、忙しい中で新たなミッションが発生したのだった。

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