第4話 人生を賭けた勝負をする幼馴染
放課後。
「まったく、紛らわしいことして」
一応、誤解だということは理解してくれたものの、まだちょっとご機嫌斜めな湊。
「紛らわしかったのは聖だけだよ……あいつ、絶対いつか蹴る」
あの中二病患者は、世間一般の感性から絶妙にずれている男なので、たまにああいう天然爆弾みたいなことを悪意なく言ったりするのだ。
「そもそもさ、私たちがこういう曖昧でよく分からない状態だから、ああいう誤解が生まれるんだと思うの。いい加減、決着を付けたいんだけど」
まだご機嫌斜めな湊が、それでも正鵠を射たことを言ってくる。
「確かに、それは俺も望むところだ。けど、どうするんだ? 話し合いじゃ解決しないことはお互いとっくに分かってるだろ」
話し合いじゃ解決しないし、曖昧なままじゃ付き合えない。
付き合ってからでは話したのでは、相手を手放したくないあまり、お互い望まぬ妥協をしてしまうだろうから。
俺は湊の側にいるために本心を殺してホテルに行こうとするし、湊も俺と一緒にいるためにうちの店に来てしまう。
その押し殺した本心は、いつか人生の後悔に繋がると分かっていても。
「俺はお前にうちの店に来てほしいけど、それでお前が後悔するのは嫌だぞ。ちゃんと、お互いに納得できる形じゃないと」
「それは私だって一緒。翡翠屋に未練を持ったままうちで働かれても、お互い幸せになれないし。だから、後腐れなく勝負で決めようと思う!」
湊は真っ向からそう言い切ると、スマホの画面を俺の前に掲げた。
「これを見て!」
「なんだ、これ……うちの店の売上データ?」
湊のスマホには、うちの商品の売上が載っていた。
「ここ見て。フルーツタルトとチーズケーキの売上。この二つの商品は、翡翠屋の中でも定番メニューだけど、なんと毎月の売上がほぼ同じなの」
「それは俺も知ってるけど……それが勝負にどう繋がるんだ?」
「簡単です。私と千隼、二人でどちらかの商品をプロデュースして、より売上を伸ばせたほうが勝ちということにするの!」
「……なるほど、それは面白そうだな」
湊の説明で、俺の胸にも灯が灯った。
妥協で夢を諦めるのでは未練が残るが、実力で敗北して諦めるのであれば納得はできる。
「俺はパティシエとしてレシピを改良し――」
「――私はフロアスタッフとして商品に合った売り方を考える」
俺の製菓技術と湊のホスピタリティ。どちらが客の心を掴むのかという勝負だ。
「条件は売上だけか?」
「ううん、利益率を下げないことも条件。極論、コスト度外視で広告打ったり、高級食材を使ったりすれば、簡単に売上は伸ばせるからね。そういうのはなしで、ちゃんとプロとしての勝負をしよう。それで負けたほうは勝ったほうの言うことを必ず一つ聞くこと」
ちゃんと理に適った縛りだ。
これなら俺も納得して勝負に挑める。
「よし乗った! 俺が勝ったら即行で付き合ってお前のことをものすっごい幸せにしてやるわ!」
「やれるものならやってみるがいいさ! 私が勝ったらもう千隼は私なしじゃ生きていけないようにしてあげるからね!」
二人、バチバチと火花を散らす。
通行人から「なんだ、この無駄に熱い痴話喧嘩……」という呟きが聞こえた気がしたが、それはスルーして総力戦に突入する俺たちだった。
湊がフルーツタルトを担当したいと言い出したので、俺の担当はチーズケーキになった。
これから俺はこのレシピを改良し、売上を伸ばさなければならない。
「勝負は三日後。試行錯誤には時間が足りないが……泣き言を言っても始まらねえか」
夜の厨房で俺は一人呟く。
とにかく味さえよければ売れると言いたいところだが、そうはいかないのが商業の世界というものだ。
たとえば同じレシピの料理だとしても、ただ『オムライス』と書いてある商品と、『ふわふわ卵のオムライス』と書かれた商品なら、九分九厘後者が売れる。
広告や言葉の力はそれほど強大で、人の心を操ることができるのだ。
そして、そういった人の心を察し、操る力――ホスピタリティを極めているのが、双葉湊という少女である。
「……味方にすると頼もしいが、敵に回すと恐ろしい女だね、まったく」
一つ溜め息を吐くと、俺は意識を切り替えてレシピの改良案をメモ帳に書いていく。
「どう改良するかなあ……」
悩みながら、元のレシピを眺める。
俺が担当するのは、『スフレ・オー・フロマージュ』――生地にたっぷりのメレンゲを使って、ふわふわに仕立てるタイプのチーズケーキだ。
わざわざ海外産のチーズを何種類も取り寄せて作る、師匠こだわりのレシピだけあって、俺では簡単にいじれないほどの完成度を誇っている。
「まずはいくつか作ってみるか」
色々と考えつつ、試作品を作る作業に入った。
数種類のチーズを使い、ふわふわのメレンゲと合わせて焼いていく。
泡立てた生クリームを入れてさらにふわふわ感を増したり、逆に食感をしっかりさせてみたりと、とにかく色んな種類のチーズケーキを作ってみた。
「む……どれも美味いが、元のレシピの完成度を超えられないな」
目の前に出来たチーズケーキの山を見ながら、俺は試食用のフォークを置く。
色々と作ってみたものの、どれもピンと来なかった。
「ふう……ちょっと頭冷やすかー」
行き詰まりを感じた俺は、一度休憩を入れるために厨房から出る。
そこで、まだ店に残っていたらしい湊とばったり廊下で出くわした。
「お……」
「あ……」
お互い、微妙な空気で向かい合う。
先に口を開いたのは、俺のほうだった。
「まだ残ってたのか、湊」
「そりゃ、決戦は三日後だからね」
これは向こうも本気だな……まあお互いの人生が掛かってるんだから当然だけど。
「で、千隼の調子はどう?」
「順調に決まってるだろ」
本当はめちゃくちゃ行き詰まっているものの、弱みを見せれば容赦なく付け込んでくるのが勝負の時の湊である。
「なるほど、だいぶ行き詰まってるみたいだね」
そして、俺の嘘もあっさり見破ってくるのも湊である。幼馴染みとは厄介なものだ。
「そういうお前はどうなんだよ」
仏頂面で訊ねる俺に、湊は余裕綽々の笑みで答えた。
「もちろん、もう勝算は見えたよね」
「なるほど、随分と行き詰まってるようだな」
当然、俺も湊の嘘は簡単に分かる。幼馴染みとは便利なものだ。
「うぬぬ……おのれ千隼め」
図星だったのか、湊は少しいじけたように拗ねてみせる。
と、その時、彼女のお腹がくーっと鳴った。
「随分と女子力の低い音が聞こえてきたな?」
「うるさい。ダイエット中だからいいの」
ちょっと恥ずかしかったのか、湊は顔を赤らめてこっちを睨んできた。
そんな彼女に、俺は苦笑を浮かべる。
「ミートパイの仕込みあるけど、焼くか?」
「……お願いします」
食欲には素直な湊だった。
マリネ液とハーブでじっくり下味をつけた豚肉を粗みじんに切り、甘味のないパイ生地に包んで焼く。
焼成が進むにつれ、焼けた小麦と豚の脂の匂いがじんわりと漂ってきた。
「ほい、できたぞ」
「ありがと」
店内の喫茶スペースで、俺は湊に出来たてのミートパイを切り分けてやる。
豚の脂身やホルモンに加え、アクセントとしてピンクペッパーも入れた自信作だ。
「あ、美味しい。でもこれ聖の味付けに似てるね。昼間のパテに影響受けた?」
一口食べるなり、湊は的確に元ネタを当ててみせる。
「ああ。あの味付けなら、こういうレシピにも合うと思ってな」
ビストロ料理が本職だけあって、聖のパテは見事なものだった。
俺もその味付けを見習って、一品作ってみたという次第である。
「ピンクペッパーがいい仕事してるね。肉の臭みが消えて美味しさが引き立ってる。喫茶スペースのレギュラー化も夢じゃないよ、これ」
「ほう、そこまでか」
「うん。これに合うドリンクを考えて、もう一品サイドメニューを作れば昼食の需要を勝ち取れるよ。お酒のおつまみにもできそう……店長に相談してみよっかな」
生き生きとした表情でミートパイの売り出し方を考える湊。
それを静かに見守っていると、その視線に気付いたらしい彼女が、小首を傾げた。
「なに? じっと見ちゃって」
「いや、楽しそうだなって思ってさ」
そう答えると、湊はにこりと笑って頷いた。
「まあね。こうやって新しい商品の売り出し方とか考えてる時って、夢が広がる感じで楽しいんだよねー。ま、実際に思い通りに売れないことも多いけども」
「そっか。お前が楽しいなら俺もこのレシピを作った甲斐があるわ」
一人満足する俺に、どこか優しい表情を見せる湊。
「うん。私もね、千隼が作ったものをどうやって売るかって考えてる時が一番楽しい。だから、それをうちのホテルでやりたいなって……そう思うんだよね」
この勝負、俺たちの対立の根幹にある感情を、湊は見せてきた。
「俺も湊とこういう話をしてる時が一番楽しいし……だから、これからもこの店でそれを続けたいと思ってる」
彼女に、俺も自分の本心で応じた。
どちらが悪いわけでもない対立。きっと、どっちに転んでも幸せなのに、それでもお互いに譲れないもの。
「……まったく、いつまでも平行線だね」
「ほんとにな」
苦笑を浮かべる湊に、俺も同じ表情で返す。
全力を尽くさないで夢を諦めたら、きっと悔いが残ってしまう。
だから、この勝負が必要なのだ。
しばし、二人で穏やかに食事を続ける。
「ごちそうさま! いい気分転換になったよ、おかげでアイディアがまとまった」
ミートパイを食べ終えると、湊が気力に満ちた様子でそう笑った。
「おう。俺もだいぶ考えがまとまった。三日後を楽しみにしとけよ」
最後に一つ火花を散らしてから、俺たちは平和な夜食を終えたのだった。
そうして迎えた三日後。
今日は祝日なので学校は休み。丸一日を勝負に費やせる。
「いよいよ私たちの因縁に決着が付く時が来たね! 千隼!」
厨房で全ての準備を整え、販売スペースに出てきた俺の前に、腕組みをした湊が立ちふさがった。
「おうとも! いよいよ俺の彼女になる時が来たようだな、湊!」
全力は尽くした。湊は強力な敵だが、今の俺ならばきっと超えられる。
「随分な自信だね? 相当レシピのアレンジがうまくいったように見えるけど」
「もちろんだ。食べてみろ」
俺は試食用に改良型チーズケーキを切り分け、湊に差し出した。
ライバルの策に興味があるのか、彼女も素直に食べる。
「いただきます。はむ……ん? 前よりコクがあるような。チーズを変えた?」
と、一発で改良点を当てる湊。
「正解だ。マスカルポーネの比率を増やして、コクと旨味を強くした」
師匠のレシピは完璧で、純粋な完成度で上回ることは難しかった。
が、このレシピが作られたのはもう十年近く前で、現代の主流の味付けからは少しずれてしまっている。
俺がやったのは、その微調整だ。
「いいところを突いてきたね、千隼。確かにこれは美味しい」
少し悔しそうに褒めてくる湊。
そんな彼女に、俺は更なる秘策を見せることにした。
「更に、改良点をアピールした商品POPも作ったぞ! お前だけが宣伝できるわけじゃないからな!」
俺は『マスカルポーネ増量で美味しさアップ!』と書かれた商品POPを彼女に見せつける。
が、湊はそれを見て不敵に笑ってみせた。
「ふ……その程度で宣伝をしたつもりかな?」
「なんだと?」
訝る俺に、湊は余裕綽々の表情で答えた。
「厨房に籠もっていて気付かなかったようだけど、この店内をよく見てごらん?」
「店内を?」
言われて、俺はぐるりと周囲を見回してみる。
と、そこには昨日までとは違う光景が広がっていた。
「こ、これは……!」
店の至る所に、フルーツタルトの宣伝ポスターが貼られている!?
入り口のドアから待機列、ケーキが売られているガラス製のショーケースまで!
うるさくない程度に、しかし店に入る客の動線の先、視線が行く場所に、効果的にフルーツタルトの写真と文字がある。
「ぐぬ……これは刷り込まれる……!」
ただ店に入って、注文するまでの間に、フルーツタルトの存在が脳裏に焼き付く宣伝の方法だ。
何を買うか迷った時、『とりあえずフルーツタルトにするか』と無意識の内に思ってしまうほどに。
「それだけじゃないよ! 店のHPやSNSでもフルーツタルトに使われている旬のフルーツを特集して興味を引く仕掛けを作ってあるし、喫茶スペースでもフルーツタルトとドリンクのお得なセットを販売してる!」
言われて、俺は喫茶スペースのテーブルに置いてあるメニュー表を見る。
すると、見覚えがない『本日限定! フルーツタルトとドリンクセット』というメニューがあった。
「馬鹿な……これでワンコインだと? おいこれ、本当に利益取れてるんだろうな?」
うちのメニューの相場からすると、破格の値段だ。
利益率を下げないという対決ルールに反するのではないか。
「もちろん。ドリンクは利益率がいいからね! それに、ここに使われているドリンクは、今日から採用したものばかり。今まで存在しなかったメニューだから、利益率が下がるわけがない」
やられた……!
確かに過去に扱ったことのない商品なら、元の基準となる利益率が存在しない。
だから、赤字にならない限り、どれだけ安く売ってもルール違反にはならないのだ。
「ふっふっふ。半端に宣伝方法について考えるより、大人しくレシピの改良にもっと力を入れたほうが勝算あったのにね。私の土俵で勝負したのが敗因だよ!」
始まる前から勝利宣言をする湊。
「ま、まだやってみるまで分からねえだろ!」
「その通りだね。けど――二時間後も同じことが言えるかな?」
そう言い切ると、湊は入り口のドアに向かい、『CLOSED』になっていた立て札を裏返し、『OPEN』に変えた。
「さあ、勝負の時間だよ」
こうして、俺たちの戦いが始まった。
――そして二時間後。
「予想通り、って感じだね」
厨房から出てきた俺に、湊はどこか勝ち誇ったように話し掛けてきた。
「ぐっ……!」
思わず呻きながら、俺はショーケースの中を睨んだ。
チーズケーキの残数は十個。それに対して、フルーツケーキは残り四個まで減っている。
同じ数を作っていたのに、だ。
「ま、チーズケーキも普段よりは売れてるけどね? ただ、これから喫茶スペースが利用される時間帯になれば、ますます私が有利になるよ。さて、ホテルに就職する準備はできたかな? 今度の休み、うちの料理長に挨拶しに行っちゃう?」
「誰が行くか!」
粛々と俺の就職準備を進めようとしてくる湊に、俺は必死の抵抗をする。
「往生際が悪いなあ、千隼は。心配しなくても、ちゃんと私が幸せにしてあげるよ?」
無駄に器がデカいな、こいつ。
とはいえ、ホテル就職の足音が聞こえてきたのは確か。
俺は一つ溜め息を吐くと、腹を括った。
「こうなったら仕方ない……これだけは使いたくなかったが」
「へえ? まだ何か策があったんだ」
俺が新たなカードを切ろうとすると、湊は面白がるように笑った。
そんな彼女を無視して、俺はポケットに忍ばせておいた新たなPOPを取り出し、ショーケースに飾る。
「なにこれ……『チーズケーキの焼きたて時間表』?」
POPに書かれていた文字を見て、湊が不思議そうに首を傾げた。
一方、俺は半ば自棄になりつつ答える。
「ああ、そうだ。これから一時間に一度、俺はチーズケーキを焼く。そしてこれはその焼きたて時間を表示したものだ。実質、これからこの店には常に焼きたてチーズケーキが置かれている状態になる!」
焼きたてというのはそれだけで魅力だ。ふわふわのスフレ菓子なら尚更。
焼きたて時間に来店したお客さんは絶対に買いたくなるし、他の時間に来たお客さんも、焼きたての時間にもう一度立ち寄ってみようかなと思うもの。
調理時間を制御できるパティシエならではの作戦だ。
ただ一つ問題があるとすれば――。
「千隼、正気? それ普段の何倍もの作業になるよ!?」
この作戦の問題点を理解した湊が、唖然としたようにこっちを見てきた。
そう、10ホールのケーキを一回焼くのと、1ホールのケーキを十回焼くのでは労力が全然違う。具体的に言うと、ほぼ十倍近く違う。
「正気だとも! だから出し惜しみしてたんだよ! けど負けるよりはマシだ! 俺は今から望んで地獄を見る!」
そんな彼女に、俺は大見得を切ってみせる。
「て、ていうか本当にできるの? 今日は店長もいないし、フルーツタルトだって千隼が作らなきゃいけないんだよ? 普段の仕事量から考えて、絶対に無理だと思うんだけど!」
「いいやできるね! 何故なら俺は――このために他の全ての仕事を見直し、改良し、時間を作ったから!」
そう、俺はチーズケーキだけではなく、パティシエとしての全ての作業、仕事を改良したのだ。
全ては湊に勝つために……!
「た、たった三日でそこまでやったの!? めちゃくちゃだよ! たまに思うけど、千隼ってだいぶアグレッシブに馬鹿な時があるよね!」
俺の暴走に、あの湊ですらドン引きした様子を見せる。
「あっはっは! 馬鹿じゃなきゃお前みたいな女に惚れるか! よっしゃ、ここからが本番だぞー!」
「だ、だいぶやばい底力見せ始めたんだけど! そこまでして勝ちたいか! そんなに私が好きか!」
「もちろんだとも! 百回生まれ変わってもお前より好きになる女はいないね! というわけでお前に勝つ!」
敗北濃厚の中、俺の中で何かがぶっ飛んだ。
ケーキを焼いては補充し、売れたのを確認してはまた焼く。
そんな工程をどれだけ繰り返しただろうか。
途中から手伝いに入ったバイトの人間もドン引きするようなテンションの中、俺はひたすらチーズケーキを焼き続けた。
そして迎えた閉店時間。
「ど、どうやら……俺の……勝ちのようだ……な……!」
息も絶え絶えになりながら、俺は勝利宣言をする。
今日の売上データを見ていた湊も、渋い顔をして頷いた。
「うわあ……チーズケーキ、普段の四倍も売れてるじゃん。通常の作業工程でもこれだけ売れたら大変なのに、あんな負担かかる体制でこれ捌いたの……?」
が、その表情は負け惜しみというより、感心と呆れが混じったようなものだった。
「当たり前よ。勝因を一つあげるとしたら愛情です」
ただし、疲労困憊でもう立てないけども。家まで辿り着けるかな、これ。
「まったくもう……千隼は本当に千隼だねえ」
溜め息を吐きつつも、あんまり満更ではなさそうな湊だった。
それを見て、ようやく俺の中にもじわじわと嬉しさが湧いてくる。
湊に勝った……! 長年俺たちの間に燻っていた大問題が解決したんだ!
「早速だが湊! 負けたほうは勝ったほうの言うことを聞く件についての話をしたいんだが!」
将来はうちの店に就職するのを要求、そして壁がなくなったことで即座に告白というパターンに持ち込もうとする。
「せっかちだね、千隼は。まあ、私としてもその話をするのはやぶさかではないけど、そんな子羊みたいに足をぷるぷるさせてる男に告白はされたくないなって思うの」
言われて我が身を振り返れば、確かに足はぷるぷる、息も絶え絶え、上半身もふらふらで、とても女の子に告白できるような状態ではなかった。
「た、確かに……ちょっと休んでからにするか」
「それがいいよ。私も明日の分の発注を済ませちゃうし、落ち着いてから改めて話を聞きたいな」
そう言って、花が咲くように笑う湊。
見慣れたはずの姿に思わずドキリとする。いよいよ、この子と付き合う時が来たのだ。
発注表を持って冷蔵庫に向かう湊を見送ると、俺は喫茶スペースの椅子に座り、体力を回復する。
疲労と高揚、そして緊張が入り交じり、座りながらも身体がふわふわと浮いているような気分だった。
「ねえねえ、千隼」
その時、店の奥で発注をしていたはずの湊が、こっちにやってきた。
「どうした?」
発注が終わるには早い。いったい、どうしたのか。
「あのさ、チーズケーキに使うチーズがもう全部なくなってるんだけど、これ追加分発注してないよね?」
「あ」
言われて、俺は自分の失策に気付いた。
いつもの四倍売れたということは、いつもの四倍材料を消費したということ。
にも関わらず、発注は普段の分しかしていない。
「うわ、やっちまった……! うちで使うチーズ、その辺の店じゃ売ってないしなあ。今から発注して、届くのは最速で何日後だ?」
うちのチーズケーキは、師匠がチーズ選びからこだわって作り上げ、俺がそれを更に改良したもの。同じ種類のチーズでも、メーカーが変われば味も変わってしまう。
「あの業者だと二日後になるね。つまり、二日間チーズケーキは欠品。それだけじゃなく、他のチーズ商品にも影響が出るよ」
それはまずい。師匠にどやされるし、うちのチーズケーキを楽しみにしてくれているお客さんにも迷惑をかける。なんとか取り戻さなくては。
「どうにか手に入れる方法を探さないと……湊、心当たりはないか?」
「うーん……なくはないけど、どうだろうなあ?」
どうにも歯切れの悪い返しをする湊。いったい、どんな心当たりなのか。
「なんだ、いったい」
「いや、そのチーズ使ってるの、私が知る限りうちのホテルの厨房くらいなんだよね。だから、うちの料理長に頼まないと手に入らない」
「あー……なるほど。となると微妙だな。向こうも余分な仕入れなんてしてないだろうし」
チーズは保存が利くから数を持っててもいいが、棚卸しの時に計算が面倒になるし、保管スペースも取るから、そこまでの数は置いていないだろう。頼めるかは五分五分だ。
「あ、そこは心配しなくていいよ。料理長にはチーズを多めに仕入れるよう、三日前に頼んであるから」
俺の心配をよそに、湊は朗らかに……いや、朗らかすぎる表情で話を続ける。
「三日前……?」
なんだか、妙に嫌な予感がしてきた。
「そう。私たちの勝負が決まった時に、保険としてね。ほら、千隼ってチーズケーキを売る方法ばっかり考えて、発注にまで頭が回らなさそうじゃん? だから、私が気を利かせておいたの」
「そ、そうか。それは助かる。じゃあ早速料理長に連絡を――」
「すると思う?」
「……思わない」
この後の展開が読めた俺は、渋面でそう答えるしかなかった。
「だよね。だって、今の私はこの店のウェイトレス。実家のホテルに頼み込むのは公私混同が過ぎるっていうか、お給料以上の仕事かなって思うの。私の業務内容に含まれてないしね」
湊がにっこりと笑った……が、俺にはその笑みが酷く恐ろしいものに見える。
そもそもの話、ただ俺のミスをフォローするつもりなら、この店の発注量を増やせばよかった。
それをせず、わざわざこの形を取ったってことは、
「あ、でも今の私なら千隼の頼みも聞いちゃうかもよ。だってほら――千隼には今、私に一つだけ言うことを聞かせる権利があるし?」
「そうなるよなあ……!」
勝者の権利、一つだけ言うことを聞く権利をここで消費させる。
そのために湊はこの状況を作ったのだ……!
俺はぎゅっと目を瞑り、様々な葛藤と戦いながら口を開く。
「……なあ湊。『勝ったら相手の求める条件で付き合う』じゃなく、『相手の言うことをなんでも聞く』にして、命令の内容に幅を持たせたの、このためか?」
「まあそうだね」
「自分が先にフルーツタルトを担当するって言って、俺にチーズケーキを担当させたのも?」
「うん。フルーツだと簡単に材料を調達できちゃうもの。けど、チーズケーキの材料は海外産。発注ミスをした時、簡単には取り戻せないと思ったし」
「……最初から、この展開を狙ってたのか?」
「ううん、もちろん普通に勝つつもりだったよ。けど、千隼は私のためなら時々すごい力を発揮するからね。その時の保険にしようと思って」
俺が目を開けると、そこにいたのは悪びれることもなく笑みを浮かべる湊。
それも当然だろう。実際、彼女は何も悪いことをしていない。
悪いのは、発注ミスをしてしまった俺だ。
むしろ、湊はそれを挽回するチャンスをくれている天使である。
なのに……何故だろう? 彼女が魂を対価に契約を迫る悪魔に見えだ。
「……勝者の権利を行使する」
俺は疲労感がたっぷり滲んだ声で、勝者としての言葉を紡ぐ。
……俺が湊のホテルではなく、うちの店で働くことにこだわるのは、この店のパティシエであるという誇り故だ。
だが、ここで私情を優先して自分のミスを見なかったことにすれば、その誇りも地に墜ちるし――なにより、きっと湊に失望される。それはプロとして尊敬できないと。
「そっちの料理長に頼んでチーズ譲ってください……」
――つまるところ、俺に選択肢などないのだった。
「勝者に頼まれちゃ逆らえないなあ。今回は特別に譲ってあげるね!」
敗者とは思えないほど溌剌とした口調で頼みを聞いてくれる湊。
一方の俺は、自分の手からこぼれ落ちていった未来を、無念とともに見送った。
「くっそう! もうぜってえ発注ミスなんかしねえ!」
勝負に勝って試合に負けた男の憐れな叫びが、厨房に響いたのだった。
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