第5話
つむぎの病院でのボランティアは週三回だが、藤也はつむぎが出るときには一緒に来るようになった。尊の話によると、彼はつむぎがいないときもたまに尊の病室を訪れるらしい。意外なことに、勉強も教えてくれるのだとか。藤也の方がすぐに「もうこの辺でいいだろ」と切り上げるそうだが、それでも算数も読み書きも教えてくれるのだと言う。教え方は至極大雑把らしいが。
ボランティアの活動が終わり、つむぎは今日も尊の病室に顔を出すと、もう藤也がいた。二人は漢字の勉強をしていた。熟語の読みの問題だ。
「ばんいぬ……?」
「馬鹿かお前、ばんけんって読むんだよ。家入ろうとしたらワンワン吠える犬」
「あ、知ってる、番犬かあ。番犬、番犬……」
「ダジャレ考えてねえで、次いくぞ。これは?」
「でん、でんいけ?」
「でんいけって何だよ、誰が行くんだよ。これはでんち。ほら、リモコンとかにぶっさすやつ」
「電池!」
尊は音読みと訓読みの使い分けが少し苦手なようだ。でものみ込みの早い彼女のことだから、一度覚えた漢字は忘れないのだろう。それよりも、藤也の熟語の意味の説明の方がつむぎは気になった。適当にも程がある。
あれでよく尊ちゃんは理解できるな、と感心しながら見守っていた。
「こぎゅう!」
「プッ、お前音読み意識しすぎだよ。これはこうし。ガキの牛だよ。そのまま読んでいいの」
「えー、たけるその違いがよくわかんないなあ」
「違い……そんなのノリと感覚だよ。本とか読んでてこぎゅうなんて言葉、出てこないだろ? いっぱい本を読め。そして慣れろ」
藤也の言っていることは適当なようで、なんとなくその通りのような気がした。読みの問題は、たくさん文章を読んで慣れていくしかない。
「じゃあ、あなたはたくさん本読んでるのね?」
つむぎが後ろから声をかけると、藤也は首だけぐるりと振り返り、
「俺は本は読まない主義だ」
と変な威張り方をした。それを聞いた尊が、拍手をしながら藤也を見上げる。
「さすが天使さん!」
この二人は、彼らにしかわからない絆で繋がっていて、彼らにしか通じない世界が広がっているのだと思った。つむぎはそんな二人が微笑ましくて、眩しかった。思わず手をかざしそうになるほどに。
「ねえ、天使さん、本読んで!」
突然、尊が藤也の腕を掴んで声を上げた。
「あ? 本?」
「うん! たくさん本読んで漢字に慣れるんでしょ?」
「それはお前、自分で読めよ」
「天使さんが読んで!」
尊は棚の上に置いてあった絵本を手に取り、藤也に渡す。尊のお気に入りの絵本だ。
つむぎが図書室での貸し出し当番のとき、尊は窓際の席で絵本を読んでいることが多いのだが、その絵本はいつも同じだった。幼稚園から小学校低学年向けらしく、文字は大きくてほとんど平仮名で書かれている。たまの漢字もちゃんとふりがながふってある。
絵本を受け取った藤也は、面倒さそうな顔をしながらも、読み聞かせを始めた。
「〝光の天使〟? 何か壮大な題名だな」
むかしむかし、天国にアナエルといううつくしい天使がいました。アナエルは、生きているときにたくさんよいおこないをした人間を、天国につれて行くおしごとをしていました。
そんなアナエルには一つ、すきなことがありました。それはこまっている人間をたすけてあげることです。アナエルはいつも天国から人間のせかいのようすをのぞいて、たすけがひつような人間のまえにすがたをあらわします。たすけてあげたとき、人間のいう「ありがとう」のことばに、アナエルはうれしくなるのでした。
けれど、天国では、よいおこないをした人間を天国につれていくいがいは、してはいけないことでした。神さまがきめたおきてをやぶることになるのです。
おきてがあるのにそれをまもらないアナエルはある日、天使さいばんにかけられてなかまの天使たちに口ぐちにせめられました。
「アナエル、どうしておきてをまもらないんだ」
するとアナエルは、
「ぼくはこまっている人間をたすけることがすきなのです。見て見ぬふりはできないのです」
といって、しくしくとなきました。
アナエルのなみだのうったえもきいてもらえず、天使さいばんのけっか、アナエルは心をうしなってしまいました。なにもかんじず、かんがえることもできず、ただあたえられたおしごとをこなすだけの日びです。おきてどおりにはたらくアナエルを見て、なかまたちはホッとしました。
ある日、アナエルがなんとなく人間のせかいをのぞくと、一人の女の子が川でおぼれているところが見えました。アナエルはむねがむずむずとするのをかんじました。
「どうしてだろう、ぼくは心がなくなったはずなのに」
そのあいだにも、女の子はどんどんながされていきます。アナエルはおもわず、天国をとび出しました。アナエルは、うしなった心をとりもどしたのです。
女の子がたきつぼにおちそうになったまさにそのとき、アナエルの手が女の子のうでをつかみました。そして、ぐっとからだをだきよせ、空にまいあがりました。女の子を川からすくい出すと、かわらにいた女の子のお父さんとお母さんに、
「ありがとうございます。あなたはむすめのいのちのおんじんだ」
となんどもなんどもおれいをいわれました。アナエルは、
「ぼくはやっぱり、人だすけがすきだなあ」
と、しみじみとおもいました。
けれど、そのようすを見ていたなかまの天使たちに、アナエルはとらえられてしまいました。
「心をなくすだけではたりなかったか」
天使さいばんで、アナエルはえいえんに、天国からけされてしまうことになりました。
アナエルは、
「さいごにたった一人でも人間をたすけられてよかった」
といって、なみだをながしながらきえていきました。なかまの天使たちの目には、アナエルのなみだがキラキラとひかって、うつくしい川になっていくのが見えました。
おしまい。
絵本を読む藤也の声は、いつもつむぎに暴言を吐くときの憎たらしさを含んだ声ではなく、弱き者を大きな翼で包み込む、まさに天使のように柔らかな声だった。高くも低くもなく、肋骨を振動させ、その奥にある心臓に真っ直ぐに響いてくるような声。つむぎは思わず聞き惚れていた。
「なんだこの本、ガキに読むにしては随分と難しいな」
心地良い声にまどろんでいたつむぎは、読み聞かせが終わった藤也のトーンが変わった声に、驚いて目を瞬かせた。
「お前、こんな本が好きなのかよ」
「好きだよー。天使さんかっこいいでしょ」
「かっこいい……そうかぁ? よくわからんな」
「天使さん、強くてかっこいいの。たけるも天使さんみたいに強くなりたいなあ」
藤也はますますわからないというように、首を捻っている。つむぎも正直、尊の感覚は理解できなかったが、「強くなりたい」と言った彼女の声がかすかに震えているように聞こえて、切ない気持ちになった。体が丈夫になりたい、という意味もあるのだろうが、それよりも余命わずかであることに対して、やはり不安や恐怖もあるに違いない。いつも明るい尊だが、その小さな胸にはどれだけの葛藤が埋れているのだろう。
もっと強くなりたい、この不安が消えるように。
つむぎには尊がそう言っているように聞こえた。
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