第6話
三人で過ごすようになってから、一ヶ月が過ぎた。
ボランティア活動を終えたつむぎは、エプロンを外しロッカーにしまう。
今日の当番は、敷地内にある花壇の手入れだった。雑草を抜き、景観を整え、水をやる。
夏が終わり、秋が顔を覗かせていた。たまに夏が名残惜しそうに熱気をぶり返してくる日もあったが、今日は風があり比較的涼しく、過ごしやすかった。
いつものように尊の病室へ向かっていると、エレベーターの前で藤也を見かけた。
「藤也」
声をかけると、
「あ、おう」
ぶっきらぼうな返事が返ってきた。
「今来たんだ」
「ああ」
「そう言えば、仕事は決まったの?」
「……決まってない」
「ならまだニートなんだ」
「うるせえ! いい仕事がねえんだよ」
吐き捨てるように藤也は言う。
「何でもいいじゃない、とりあえず」
「お前もとりあえずでボランティアやってるのかよ」
「とりあえずって言うか……」
藤也の問いに、つむぎはしばし考え込んだ。ボランティアをしている理由を問われたことは今までになく、つむぎ自身も深く考えたことはなかった。
「うーん、学生の頃からやってて、何となくそのまま続けてる感じかなあ」
「何となく、ねえ。やりたくてやってるんじゃないのかよ」
「そりゃあ、やってて楽しいけど……」
つむぎはそれ以上、言葉が出てこなかった。やりたい、という強い気持ちで活動しているのか、自分でもはっきりしなかった。
「仕事はしてんのか?」
「してるよ。週三で派遣会社の事務」
「週三で生活できんのかよ」
「……まあ、収入は少ないけど、別に他に趣味があるわけでもないし、生活は十分していけるよ」
「へえ」
藤也によると、自分のやりたいことがわからず、仕事探しに苦戦しているらしい。藤也は相変わらず口が悪いものの、以前と比べると大分ましな会話ができるようになっていた。
「仕事探しよりもまず、自分探しでもしたらいいんじゃないの」
我ながら良いことを言った、と悦に浸っていると、
「黙れよ」
藤也はそれだけボソッと呟いて、自分が黙った。彼にも色々と考えるところがあるらしい。つむぎもそれ以上口出しはしなかった。
かく言うつむぎも、仕事は縁があった会社でバイトをしているだけ、ボランティアをしている理由もうまく答えられない、とそこに確固たる自分の意志があるわけではなかった。
つむぎは、「仕事探しよりも自分探し」だなんて、偉そうなことを言える立場じゃないな、と少し反省をした。
尊の病室前に着き、つむぎがノックしようと片手を挙げたと同時に、ドアがガララッと開いた。尊が中からぴょこんと顔を出し、
「いらっしゃーい!」
と元気な声を上げた。
「わあ、尊ちゃん、びっくりしたあ」
「えへへ! 足音でわかったの」
そう言って、尊は藤也の足に抱きついた。藤也は尊の頭をなでる。
「ねえ、中庭行こう! 先生から、いいよって言われたんだよ」
尊は顔を目一杯輝かせて、藤也とつむぎを交互に見上げた。
「そうなんだ。今日はいいお天気だしね。じゃあ行こうか」
つむぎが言うと、尊は目をキュッと細くして満面の笑みを見せた。
「庭には二羽ニワトリがいるー」
「ニワトリなんかいるのかよ」
尊のダジャレに対し、藤也は目を丸くする。
「ニワトリなんているわけないでしょ。尊ちゃんのダジャレよ」
つむぎが藤也に耳うちする。藤也は未だに尊のダジャレを真に受けるときがある。
ナースステーションに一声かけて、三人で中庭へ出る。中庭はコの字型の病院の建物の、文字通り真ん中に位置していた。いつもつむぎと藤也が使っているエレベーターで一階まで降りる。エレベーターホールから左へ真っ直ぐ行くとリハビリスペースがあり、その先のガラス張りの窓の向こうが中庭だった。引き戸を開けると中庭へ出られる。
中庭には背の高い桜の木が一本植えられており、その下に木でできたベンチがいくつも置かれていた。車椅子でも通れるように、地面はなめらかなコンクリートで舗装されている。花壇や生け垣もあり、季節の花がとりどりに咲き乱れている。今の時期は、ちょうど彼岸花が咲いている。もう少しすれば、金木犀の甘い香りが中庭いっぱいに漂う頃だろう。
「お外!」
中庭へ出るなり、尊が深呼吸をした。外へ出たのは久しぶりだと言う。
「へえ、初めて来たな」
藤也も辺りを見渡し、軽く伸びをした。
「気持ちいいねー」
尊が両手を広げてくるくると回る。
「あっ、あのお花何て言うの?」
尊は中庭の奥にたくさん咲いている彼岸花を指差し、駆けて行った。つむぎと藤也も後に続く。
「これはね、彼岸花って言うお花だよ」
「ヒガンバナ?」
尊はしゃがみ込んで、花弁を指でつつきながら聞き返す。
「そう。毎年このくらいの時期に咲くんだよ」
「ふうん。何でヒガンバナって名前なの?」
「え、何でだろう。お彼岸近くに咲くからかな?」
つむぎは答えに詰まった。つむぎ自身も、彼岸花の名前の由来はわからない。すると藤也が尊の隣に腰をおろし、
「昔、母さんが言ってたんだけどな」
と話し始めた。
「彼岸花って、彼の岸の花って書くんだけど、それは最愛の夫を亡くしたある妻が毎年岸辺に咲く彼岸花を見て、ああ彼が岸辺にいるわ、って呟いたことが由来らしいぜ」
「へえ、そうなんだ!」
尊は目を丸くして頷いた。
「まあ、母さんは作り話が得意だったから、この話も多分嘘だけどな」
藤也はにやっと笑い、彼岸花を指で弾いた。つむぎは、藤也が懐かしそうに目を細めたのを見逃さなかった。それはとてもやさしい顔だった。幼い頃亡くなった母との思い出を、彼は今も大切にしているのだと思った。つむぎも急に、実家にいる父親と母親が恋しくなった。
「嘘だとしても、なんかロマンティックね」
つむぎも藤也の隣にしゃがんで言った。
「そうか?」
「旦那さんのことが彼岸花に見えちゃうくらい愛してたってことでしょ」
「……お前のその解釈、変だぞ」
「え、そうかな」
「ねえ天使さん、肩車して!」
尊が勢いよく立ち上がり言った。彼岸花がかすかに揺れる。
「は? 肩車?」
「うん!」
尊は返答を待たないで藤也の背中側に回りこみ、乗っかろうとする。
「待てよ、肩車なら前からのほうがやりやすいんだ」
そう言って、藤也は尊を自分の前に立たせ、両足の間に頭をくぐらせると、彼女のすねを掴んで立ち上がった。
「わあ! すごい、高い!」
尊は両手を空に伸ばし、空気をかき混ぜるようにちたぱたと動かした。藤也はゆっくり歩き出す。
「すごい、すごぉい!」
尊は興奮した様子で何度もそう声を上げた。背の高い藤也の肩に乗って見る景色は、小さな尊にはさぞ新鮮なことだろう。自分が普段見ている世界がぐんと広がるのだ。つむぎも幼い頃、父親に肩車をしてもらったことがあった。いくら手を伸ばしても決して届かなかった庭の桜の花に初めて近づくことができて、とても感動したのを覚えている。
桜は下から見上げるとピンク色の一つの大きな花が咲いているように見えていたが、間近で見ると枝にちょこんと座るようにいくつもの小さな花が咲いていることを知った。
尊は藤也の肩の上で何を感じているのだろうか。つむぎは尊の満開の桜のような笑顔を見上げ、自然と笑みがこぼれた。
「天使さんの髪、さらさらー」
尊の興味は景色から藤也の髪の毛に移ったようだ。彼の栗色の柔らかそうな髪の毛を手ですくって、さらさらと風に流している。
「おい、引っ張るなよ」
「三つ編みしていい?」
尊はすでに小さな指を絡ませて藤也の髪を編みながら言った。
「藤也の髪って本当なめらかだよね。シャンプー何使ってるの?」
「別に普通の全身洗えるソープだよ」
「えっ、それでそんなさらさらになるんだ」
「お前が洗ったらごわごわになりそうだな」
藤也はククッと馬鹿にしたように笑う。つむぎの髪は毛量が多い上にくせが強く、しばっていないとすぐに広がってしまう。だからいつもポニーテールにしているのだ。
「髪の毛が柔らかい人って、将来ハゲるのよね」
つむぎも負けじと言い返した。
「最悪だな。親父もハゲかかってるしな。遺伝すんのかな」
「決定だね」
「うるせえブス」
藤也のおなじみの言い草に、つむぎはおかしくなって声を上げて笑った。つられて藤也も笑う。尊は三つ編みに集中していたのか、
「天使さんの髪、さらさらすぎて三つ編みできないよお」
とため息を漏らした。
中庭を一通り巡り、入り口の前で藤也は尊を肩から下ろそうとした。すると尊は、
「やだー、降りたくないー」
と藤也の首にしがみついた。
「おい、どうしたんだよ。肩車はもういいだろ」
「たける、もっとお外で遊びたい」
藤也がしゃがんでも、尊は頑なに降りようとしない。
「尊ちゃん、そろそろお部屋に戻らないと」
つむぎも声をかけるが、尊はいやいやと首を振るばかりだった。
いつもは素直に言うことを聞くのに、今日はどうしたのだろう。こんなふうに駄々をこねる尊は初めて見た。あまり長く外にいても尊の体に障ってしまう、とつむぎが途方に暮れていると、
「よし、じゃあ屋上に行こうぜ」
藤也が尊の膝をポンポンと叩いて言った。
「屋上でまた肩車してやるから。ここよりずっと高いぞ。街がぐるっと見渡せるんだ」
「屋上行く!」
尊は目を輝かせて叫んだ。
「なら一回降りろ」
藤也が屈むと、尊はすんなり地面に降りた。
「ちょ、ちょっと、屋上なんて行っていいの? 先生の許可とか……」
「いいんだよ。たまにはこいつも発散させないとな」
「そんな勝手に……」
つむぎは絶句したが、藤也は尊に向き合い、
「今みたいに、もっとわがまま言っていいんだぞ。いつもいい子でいたらしんどいだろ。自分の殻を破れ」
と言った。尊はじっと藤也の目を見て、話を聞いていた。そして、
「うんっ、たける、じぶんのからをやぶる!」
と右手を挙げながら笑った。
つむぎは尊の体調が心配だったが、楽しそうにはしゃぐ尊を説き伏せて病室に戻すことはできなかった。藤也の言う通り、たまにはストレスを発散させたほうがいいとも思った。
尊はずっと病院の中で、いい子にして過ごしてきたのだ。久しぶりに外に出て気持ちが解放された分、中へ戻るのが名残惜しいのだろう。
「ほら、行くぞ」
藤也が尊の手を引きながら、つむぎを振り返った。
「うん」
つむぎも二人の後に続いて中庭をあとにした。
エレベーターで六階まで行き、降りてすぐの階段を登る。屋上へ続くドアを開けた瞬間、ビュオオオッと強い風が三人に吹きつけた。
「うわあ! 屋上初めて来たー!」
尊が弾んだ声を上げた。
真ん中まで歩いて行くと、藤也が身を屈めて、
「肩車、するんだろ」
と言った。尊を肩に乗せ、立ち上がる。
「すごぉい! 高い高いー!」
「さっきと眺めが全然違うだろ」
「全然ちがうー! 高いー!」
尊は風に髪をなびかせながら、空に向かって叫んだ。
「柵がなかったら、もっといい眺めなのにね」
つむぎが藤也の隣に並んでそう言うと、
「それはさすがに危ないだろ」
藤也は顔をしかめ、真っ当なことを言う。殻を破れなどと言っていたくせに、まともな発言をする藤也がなんだか矛盾しているようで、つむぎはくすっと笑った。
「ここから見ると、人とか車とか豆みてえだな」
「そうね。ただでさえこの病院は高台にあるしね。建物が全部模型みたい」
つむぎは柵の近くまで行き、街を見下ろした。尊が肩に乗っていて危ないので、藤也は柵には近づけない。
「おやまあ、お山が見えるよ!」
尊が手を額にかざしてお得意のダジャレを披露した。
遠くの山はもう紅葉していた。赤と黄色と深緑が織りなす眩いほどの色彩は、つむぎの目の奥に鮮やかに焼きついた。どの色も完全に溶け合うことはなく、けれど、お互いが引き立つ絶妙なバランスで混ざり合っている。
「お空に手が届きそう!」
尊は片手を藤也の頭に置きながら、もう片方の手を空に伸ばした。けれど、その手は敢えなく空を切る。
「お空って、本当に高いところにあるんだね」
感慨深そうに尊は呟いた。
「天国ってお空の上にあるんでしょ?」
「そうだな。空のずっと上だな」
「そんな遠いところに、どうやって行くの?」
「さあな。ロケットみたいにバビューンとひとっ飛びできたらいいよな」
藤也の答えに、尊はキャハッと笑った。つむぎも想像したら面白くて、ふふっと笑い声が漏れた。
ずっと見ていたくなるような眺めだった。なんてことはないはずの街の景色が、こんなにも胸に迫るのはどうしてだろう。
つむぎは先ほど、もっと外で遊びたいとだだをこねた尊の気持ちがわかる気がした。
「天使さん、ありがとう! とっても楽しかった!」
屋上を出ると、尊は満足そうににっこり笑って藤也に礼を言った。
「また肩車してね!」
「ああ、今度な」
藤也は肩を回しながらそう答えた。
尊を病室に送り届け、つむぎと藤也は病院を出た。つい十数分前まで屋上で見ていた景色の中に今自分がいることは、狐につままれたような気分だ。
「なんか、急に背が縮んだみたい」
「は?」
「さっきまで高いところにいたから」
「ああ……」
つむぎの感覚は、藤也にはあまりピンとこなかったようだ。曖昧に受け流される。
「あ」
屋上の余韻が抜けないつむぎだったが、あることを思い出し、歩みを止めた。
「ねえ、アドレス教えてくれる?」
「何だよ、突然」
怪訝そうな顔をして、藤也も立ち止まる。
「いや、そう言えば聞いてなかったなって。屋上から帰るとき、あとで聞こうと思ったの。尊ちゃんのことで何か連絡することがあるかもしれないでしょ」
「まあ、いいけど」
ポケットから携帯を取り出し、藤也は連絡先をつむぎに送った。つむぎの携帯のアドレス帳に、〝如月藤也〟の名前が登録される。
「ありがとう」
「ん」
二人は坂を下り、交差点の手前で別れた。
自分とは反対方向へ歩いていく藤也をつむぎは何気なく振り返り、その猫背気味の背中を見送った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます