第4話
「つむぎさん、どうしたんですか? なんだか今日、上の空ですよ」
総合受付の前でぼんやりと立っていたつむぎに、宮音が横から声をかける。
「わっ、宮音ちゃん」
「つむぎさん、患者さんが来ても全然気づいてないじゃないですか。ぼーっとして」
「あ……ごめん」
つむぎは今、院内案内の係をしていることをすっかり忘れていた。今日、藤也は来てくれるだろうか。そればかり考えていて、仕事に身が入っていなかった。宮音に指摘され、気を引き締めようと頬をパンパンと叩く。
しかし、少しするとまたつむぎは、一昨日自分が藤也に言った言葉や尊の楽しそうな笑顔を反芻して、係そっちのけになってしまう。その度に宮音に脇腹をつつかれては我に返る、を繰り返すうちに時間が過ぎていった。
やっとのことで活動が終わり、午後一時。つむぎはエレベーターの前に立って、藤也が来るのを待っていた。この前は時間通り来たが、今日は五分過ぎても姿を見せない。やはり、来ないか……。
藤也にだって、外せない用事があるのかもしれない。いくらなんでも、一方的すぎただろうか。
あと五分だけ待って、来なかったら一人で尊ちゃんの病室へ行こう。そう考えていたとき、
「おい」
後ろから声がした。驚いて振り向くと、不機嫌そうな顔をして藤也が売店の方から歩いて来た。てっきり入り口から来ると思っていたのに。
「え、何で中から」
「……別にどうだっていいだろ」
藤也は目をそらしながら早口で呟いた。
「でも、来てくれたんだ」
つむぎは嬉しかった。彼が来てくれたこと、尊にまた会ってくれること。
「お前なあ、言い逃げするなよ。あんな風に言われたら、無理やり来いって言われるより断りづれえぞ」
藤也は呆れたようにため息をついた。
「ごめん。でもよかった。尊ちゃん喜ぶよ」
「俺も暇じゃねえっつうの」
小声で呟く彼の背中を押して、尊の部屋に向かった。
「尊ちゃん、こんにちはー」
病室に入ると彼女は起こしたベッドにもたれかかり、うとうとしていた。私の声で起きたようだ。
「あっ、つむぎちゃん! 天使さん! こんにちは!」
「ごめんね、起こしちゃったかな」
「ううん、寝てないよ。早く遊ぼ!」
尊は嬉しそうに笑って、手招きした。
「ボートで遊ぼうと!」
「ボートなんてねえだろ」
つむぎは、尊のダジャレに真面目に答える藤也がおかしかった。
「そうだ……これ」
尊のそばに行くと、藤也がリュックからごそごそと何かを取り出した。
「あっ、お絵かき帳!」
尊が嬉しそうに受け取る。
「お絵かき帳、何で? まだ残ってなかったっけ」
不思議に思った私が聞くと、
「この前、俺が一枚破っただろ。その……悪かったな、勝手に破って」
確かにあのとき、藤也は自分の書いた絵を尊のお絵かき帳から破って丸めていた。つむぎは、尊がそっとお絵かき帳を撫でていたのを思い出した。
「天使さん、ありがとう!」
尊は満面の笑顔で藤也にお礼を言い、お絵かき帳を抱きしめた。
ああ、そうか。藤也はさっき病院の売店でこれを買っていたのだ。つむぎは彼が外からではなく、中から現れた理由がわかった。
「意外と律儀なのね」
つむぎが茶化すと、
「うるせえブス」
相変わらず口が悪い。けれども、藤也の一面を知るたびに、彼に対する印象が次々と塗り替えられていく。暴言も照れ隠しなのだと思うと、不思議と怒りは湧いてこなくなった。
「今日はね、天使さんがくれたお絵かき帳でお絵かきする!」
尊がお絵かき帳を高く掲げて言った。藤也は「げっ」と言いながら眉をひそめた。
「また絵描くのかよ」
「天使さんがくれたやつで描きたいもん」
「紙なんてどれも同じだよ」
夢がないことを言う藤也をつむぎは肘でつついて制し、
「尊ちゃん、今日は私を描いてくれる?」
とフォローする。
「いいよ!」
「可愛く描いてね」
尊は表紙をめくり、一枚目につむぎの似顔絵を描き始めた。つむぎは丸椅子に腰掛け、一生懸命にクレヨンを動かす尊の様子を見ていた。
尊は子供らしく丸みを帯びた輪郭に、こぼれそうなほど大きな瞳、形のいい鼻、薄い花びらみたいな唇が行儀よく収まっている。動くたびに、肩までの真っ黒な髪の毛がさらさらと揺れる。
可愛いなあ。
つむぎは尊をうっとりと眺めた。顔も可愛らしいが、性格も素直でいい子だ。自分にもこんな妹がいたらなあ、と思う。つむぎは一人っ子なので、兄弟がいる感覚がわからない。だから、尊のことを本当の妹のように可愛がっているのだ。
「できた!」
尊がクレヨンを置いた。くるっとお絵かき帳をつむぎと藤也のほうに向ける。
「そっくりだな」
絵を見るなり、藤也が大口を開けて笑った。つむぎはどんな反応をすればよいのかわからなくて、つい黙ってしまった。
尊が描いたつむぎの顔はこの前の藤也の絵と同様、力強いタッチでぐりぐりと目や口が描かれていた。周りにピンク色に塗られた花らしき塊がたくさん散っていた。
「可愛く描いてくれてありがとう」
適切なコメントを思いついたつむぎは、尊に微笑みながらそう言うと、
「いや、見たまんまだろ」
と藤也が茶々を入れた。
「うるさい」
「激似だって」
「可愛いってことでしょ?」
「だからこの絵の通りだよ」
つむぎと藤也のやり取りを、尊はにこにこと笑いながら見ていた。藤也に絵を馬鹿にされていることは気づいていないようだ。
「つむぎちゃんと天使さん、仲いいねー」
と目を細めながら言う。
「誰がこんなドブスと」
「はあ? 失礼ね!」
「真実だろ。こいつの絵を見ろよ」
「だ、だから可愛いでしょうが」
そんな調子の二人を見て、尊が楽しそうにキャハハッと笑った。
三時を過ぎ、尊に「また来るね」と言い、つむぎと藤也は病室を出た。
エレベーターの中で、つむぎは藤也に話しかけた。
「お父さんの具合大丈夫なの?」
「ああ、今リハビリ中」
「そっか。今日はお見舞いはいいの?」
「午前中にリハビリ見てきた」
「そうなんだ。じゃあ、ずっと病院にいたんだね」
「ああ」
短くしか答えない藤也に、つむぎは一問一答をしているような気分になってきた。
「今日は来てくれてありがとね。仕事は忙しくないの?」
つむぎがそう尋ねると、藤也の表情が急に硬くなった。
「どうしたの」
「……仕事は、してない」
「え?」
「決まらねえんだよ、なかなか」
イライラしたように藤也が頭を掻く。
「藤也って学生なの?」
「いや」
「じゃあ、今ニート?」
「ニートって言うな! 単発のバイトならしてる」
「へえ」
この前も今日も、時間に融通がきくように見えたのはそのせいか、とつむぎは思った。
二人は一階でエレベーターを降り、正面玄関に向かう。
「ねえ、ちょっとお茶していかない? 奢るからさ」
つむぎが誘うと、
「腹減った」
と藤也は言った。つむぎは思わず笑ってしまった。行かねえよ、と言われるかと思っていたのに、誘いに応じてくれたことが意外で嬉しかった。
「ならファミレス行こうか」
つむぎの提案に、藤也はこくりと頷いた。その姿がなんだか子供みたいで、つむぎはまた笑みがこぼれた。
ファミレスは病院を出て坂をまっすぐ下り、大通りを右に曲がってすぐのところにある。
店内はまだ四時前ということもあり、人の入りはまばらだった。窓際のソファ席に案内され、つむぎと藤也は向かい合って座った。
「好きなの頼んでいいよ」
つむぎが言うと、藤也は早速メニューを開きながら「おう」と短く返事をした。
机の上のボタンで店員を呼び、注文をする。
「ドリンクバー一つ」
「ジューシーハンバーグとマルゲリータとふわトロオムライスと山盛りポテトフライで。あ、ドリンクバーも」
つむぎは目を見開いて藤也を見た。店員が去ったあと、メニューをラックに戻す藤也に急いで尋ねる。
「ちょっと、まさかそれ全部一人で食べる気?」
「ポテトはお前も食っていいぜ」
「そうじゃなくて、その量を一人で食べられるのってこと」
「食えるから頼んでんだろ」
「……胃袋が宇宙ね」
「このくらいは食えるだろ、男なら」
取るに足らないことのように藤也は言う。少食のつむぎは、主食やメインを二種類以上食べる感覚が理解できない。実家ではいつも、主菜、副菜、汁物、そして主食がバランスよく食卓に並んでいた。一人暮らしをするようになってからも、なるべく自炊して食事には気をつけている。
ドリンクバーでつむぎはウーロン茶を、藤也はメロンソーダを選び、席につく。
「それで?」
藤也がメロンソーダをストローでぶくぶくと泡立てながら、上目遣いでつむぎを見る。
「それで、って?」
「何か話があるんじゃねえの」
「ああ……」
つむぎは藤也に出会った日からずっと、気になっていたことがあった。それを聞いてみたくて、帰りに藤也を誘ったのだ。彼がつむぎの意図に気づいていたのは少し意外だったが、つむぎはソファに座り直して話を切り出した。
「その、図書室で私が、尊ちゃんはあまり長く生きられないって言ったとき、藤也はなんか苦しそうな顔してたよね? どうしてかなって気になって」
「……」
藤也は一瞬目を大きく開くと、俯いて黙り込んでしまった。気まずい空気が二人の間を漂った。
「あっ、別に言いたくないなら無理しなくても……」
慌ててつむぎが言う。しばらく沈黙が流れたあと、ふいに藤也が顔を上げた。
「母さんがさ、俺が中学のときに死んだんだよ。ずっと病気で入院してて。退院したらあれしたい、これもしたいって言ってたのに、結局全部できなかった。お前にあんなこと言われて、なんか母さんと重なったんだよ」
「……そうだったんだ」
つむぎは、藤也が苦しそうな表情をした理由に納得した。自分の母親と似た境遇の尊のことを、無碍にはできなかったのだろう。
「なあ、あいつは何の病気なんだ?」
藤也が尋ねる。真剣な顔をしていた。
「尊ちゃんは、小児がんよ。進行性のがんで、手術したけどまた転移しちゃって、色々試したけどもう治癒は見込めないんだって。尊ちゃんのお母さんがそう言ってた」
「そうか……。お前はどこであいつと知り合ったんだよ」
「院内ボランティアよ。尊ちゃん、よく図書室で本読んでて、私が当番のときたまに話すようになって。それで、仲良くなっていくうちに尊ちゃんに、勉強教えてって言われたの。入退院繰り返してるからちゃんと小学校に通ったことがないんだって。だから今、私が活動のある日に尊ちゃんに読み書きとか算数を教えてるの」
「なるほどな」
藤也が頷いたとき、ちょうど山盛りポテトが運ばれてきた。
「お前も食えよ」
ポテトを四、五本束にして口に運びながら藤也は言う。
「私が払うんだけど」
呆れながら、つむぎもポテトに手を伸ばした。
「ねえ、また尊ちゃんのところに来てくれる?」
つむぎは恐る恐る藤也に聞いてみた。また断られたらどうしようという不安が頭をよぎった。藤也も尊に興味を持っているようだが、次も来てくれるという確信は持てなかった。
「ああ、予定が合えばな」
けれど、藤也は承諾した。その言葉を聞いて、つむぎのこごっていた心は一気に氷解していった。思わず口元がにやける。
「でもあんた、今ニートなんでしょ? なら、いつでも来られるね」
嬉しくて、つい藤也をからかってしまう。
「あ? 単発のバイトならしてるって言ってんだろ」
「そうだったね。じゃあ暇なときによろしくね」
「ふん」
その後、藤也の頼んだ品が次々と運ばれてきた。ガツガツと平らげていく彼の様子を、つむぎはポテトを一本ずつつまみながら眺めていた。顔は綺麗だけど食べ方は汚いな、と思う。藤也の、口の端に米粒をつけた姿を見てつむぎは、やっぱり子供じゃん、と笑ってしまった。
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