第3話
「無理ですよー、無理無理。だって私、子供が大の苦手ですもん」
三日後、つむぎは再びボランティアのシフトが一緒になった宮音に、尊との関係や彼女のお願いのことを話したところ、返って来た答えがこれだった。
「そう言わずに……」
「無理ですって。私、子供に嫌われちゃうんですよね」
「尊ちゃんはそんな子じゃないよ」
「それでも無理です。高校の頃、職業体験で保育所に行ったとき、私だけ全然子供に懐かれなくて、部屋の隅っこでずっとおもちゃの片付けしてたんですよ。もうあれ以来トラウマです」
「……そ、そっか」
宮音の頑なな拒否に、つむぎはそれ以上何も言えなくなった。宮音が行けないとなると、つむぎにはもう他に誘えそうな友人はいなかった。もともと、交友関係は広くない。
今日も活動のあと、尊の元へ行く予定だった。つむぎが友人を連れて来るのを楽しみにしているであろう尊を、がっかりさせたくはなかった。
重い足を引きずりながら持ち場まで移動する。今日は院内にある図書室で、本の貸し出しや整理作業に当たっている。
図書室に入ると、
「つむぎちゃん!」
絵本がたくさん並んでいる棚の前にいた尊が、つむぎの姿を見るなり手を振った。
「おはよう、尊ちゃん」
「あとでお部屋まで来てくれるよね?」
「うん、行くよ。でもね、私のお友達は……」
「みんなで遊ぶの、楽しみにしてるねっ」
「えっと……そのことなんだけど……」
「ママにお菓子もらったから、みんなで食べようねっ」
「あ……」
尊はキュッと目を細めて笑い、踵を返して行ってしまった。本棚から一冊の絵本を取り出し窓際の一番奥、彼女のお気に入りの席に座った。楽しそうにページをめくっている。
尊は、今日つむぎが友人を連れて来ると思い込んでいる。期待に胸を膨らませているのが手に取るように伝わって来る。
そんな尊の姿に時折目をやりながら、これは困った状況になってしまった、とつむぎは思った。尊のしゅんとした残念そうな顔を思い浮かべるだけで、胃が痛くなる。貸し出しカウンターの中で返却された本を整理しながら、つむぎは一人悶々としていた。
十時になると、尊は迎えに来た看護師とともに、検査のため図書室を出て行った。それとほぼ入れ違いに、カーキ色のシャツにジーンズ姿の若い男が入って来た。
この図書室は子供達だけでなく、入院しているお年寄りや家族の見舞いに来たサラリーマンなども利用する。つまり、様々な人が来るので若い男が入室して来ても何の不思議もなかった。
だが、つむぎは男が気になってチラチラと見てしまった。男が、雑誌コーナーから乱雑に一冊引き出し窓際の一番奥の席にドカッと座ったからだ。そこは尊の特等席だ。もちろん、誰がどこに座ろうと自由なので尊だけの席ではないが、つむぎはそわそわと落ち着かない気持ちになった。
本の貸し出しや椅子を整えるなどの作業をこなしながら、目では男の様子を見ていた。尊ちゃんが帰って来る前にどいてくれないかな、と念を送りながら。
頬杖をつきながら雑誌を読んでいた男は、そのうち首がカクンカクンと傾きだした。何度も頭が手から外れる。
眠いのだろうか。早く行って欲しいのに。つむぎはやきもきしながら男を見ていた。
ゴンッ。
大きな音がした。つむぎが少し目を離していた間に、男はテーブルに頭を打ちつけたようだ。片肘と額をテーブルにくっつけたまま動かない。
最初はただ寝ているだけだと思っていたが段々、もしかしたら打ち所が悪かったのかもしれない、と思い始めた。つむぎは急に不安になり、男に近づいて丸まった背中に声をかけた。
「大丈夫ですか?」
男に反応はない。
え、やばいんじゃないの……。
「大丈夫ですか、聞こえますか」
軽く肩を揺すりながらもう一度呼びかけると、少し間を置き男がゆっくりと身を起こした。窓から差し込む光に透けた栗色の髪の毛がサラッと揺れる。
「何だよお前……寝てただけだよ」
そう言って心底迷惑そうに顔をしかめた。額に赤く跡がついている。
「あっ……ごめんなさい! 失礼しました」
自分の勘違いに恥ずかしさが込み上げ、急いで立ち去ろうとしたつむぎは、はたと気づいた。男は当たり前のように寝てたと言ったけれど。
「……じゃなくて、ここは本を読むところなので、寝るのは控えてください」
つむぎは仕事を任せられているスタッフらしく、男に注意した。また寝ようとしていた男は、ピクっと動きを止めた。
「チッ、ドブスが」
そのとき、聞き捨てならない言葉が聞こえた。
「はあ?」
思わず反応してしまう。どの口がドブスだなんて失礼な言葉を言っているのかしら。つむぎは男の顔をじっと覗き込んで、ハッと息を飲んだ。綺麗な二重でアーモンド型の目、長いまつ毛、スッと通った鼻梁、適度な厚みの赤い唇……。
肌は透き通るように白く、神話に出てきそうな中性的な雰囲気をまとっていた。
「あ? 文句あんのかよドブス」
だが、それを打ち消す程に口が悪い。初対面の人にこんな暴言を吐かれる筋合いなどないし、地味ではあるかもしれないがつむぎは自分をまあまあの顔立ちだと思っていた。ドブスは言い過ぎだ。
「何であなたにそこまで言われなきゃいけないの」
「別に間違ってねえだろ」
あんたこそブサイクでしょ! と言えないのが悔しい。
「とにかく、ここは図書室です。寝たり騒いだりするならよそへ行って」
「お前だってうるせえよ」
ああ言えばこう言う。つむぎはこんなに捻くれている人間と接するのは初めてだった。ここまであくが強いやつはそういないだろう。
「いいから! 他の人の迷惑だから」
「今誰もいないけど」
そう言われて振り返ると、確かに室内にはつむぎと男しかいなかった。男が勝ち誇ったような顔をつむぎに向ける。
つむぎが何か言おうと口を開いた瞬間、ガラガラと前のドアが開き、
「つむぎちゃーん」
検査から戻って来た尊が、つむぎを見つけ名前を呼んだ。
「尊ちゃん」
「えっと、こんにちは」
尊は律儀につむぎの横にいる男にも挨拶をした。男はどうしたらよいのかわからないといった様子で、もじもじしている。
尊は男の顔を見て目を見開き、
「天使?」
と言った。
「「え?」」
つむぎと男の声が重なった。男は一層困惑した様子で、尊を凝視しながら押し黙った。
「天使みたいに、きれいだから」
尊は少し顔を赤らめてポソポソと呟いた。天使、とは確かに男の見た目をうまく形容
している。口を開けば悪魔のようだが。
「あ、もしかしてつむぎちゃんのお友達?」
尊の瞳が煌めいた。
「あとで来てくれるの?」
尊はつむぎを見上げてそう尋ねた。その嬉しそうな表情を前に、違う、とは言えなかった。男は頭の上にハテナマークを浮かべたような顔をしている。
「うん、あとで一緒に行くね」
ぎこちない笑顔をつくり、つむぎは言った。
途端、尊は花が咲いたような満面の笑顔になった。
「やったあ! 楽しみっ」
尊はその場でくるくると小躍りした。
「尊ちゃん、お部屋に戻りますよ。先生の回診があるからね」
また前のドアが開き、淡いピンク色のナース服を着た看護師が尊を呼んだ。
「それにもうすぐお昼ご飯だし」
「はあい」
尊は返事をし、
「じゃあ、つむぎちゃん、天使さん、またあとでねっ」
と手を振りながら看護師の元へ駆けていった。
ドアが閉まると同時に男が、
「おい、何の話だよ」
と怪訝そうな顔でつむぎを睨んだ。
「えーと……」
つむぎが言葉に詰まっていると、男の眼光がますます鋭くなる。
「あなた……このあと、暇?」
「はあ?」
「私、一時に活動終わるんだけど、一緒に尊ちゃん、さっきの子の病室に行ってくれない?」
「は……なんで俺が。意味わかんねえ、嫌だよ」
「お願い! 尊ちゃんに今度私の友達連れて来るって約束してて。でも、なかなか来てくれる人いないの。尊ちゃん、すごく楽しみにしてるのよ。あなたのこと、私の友達だと思ってる。お願い、三十分でいいから一緒に遊んで!」
つむぎは必死に頼んだ。
天使さん。尊は男のことをそう呼んだ。天使みたいにきれいだから、と。
勝手なのはわかっている。けれど、一緒に行くと言ったときの尊の弾ける笑顔を思い浮かべると、どうしてもこの男じゃないといけない気がした。
「断る。何で俺がお前の都合に合わせなきゃなんねえんだよ」
しかし、男は無碍もなく拒否した。確かにその通りなのだが、つむぎも引けなかった。
「ご飯奢るから、お願い」
「そんなのに釣られるかよ」
「あなたの都合も考えないでこんなこと言って、申し訳なく思ってる。でも、あの子の嬉しそうな顔、見たでしょ。やっぱり来られませんでした、なんて言えないよ」
「知らねえよ」
男は冷たく言い放つと、椅子から立ち上がった。つむぎに背を向け、歩き出そうとする。
「ま、待って」
つむぎは慌てて男を追いかけた。もう、諦めた方がいいのかもしれない。そんなことが頭をよぎった。引くに引けず、意地になっているだけかもしれない。尊の悲しむ顔を見たくないという理由で、見ず知らずの人を振り回すのは自分勝手だ。これで駄目なら諦めよう。
つむぎはドアに手をかけようとした男の前に滑り込み、言った。
「お願い! あの子、あんまり長く生きられないのよ……」
背の高い男の顔を見上げるのは怖かった。また眉間にしわを寄せて断られるのが、怖かった。つむぎは男の喉仏が隆起しているのをじっと見つめていた。
男は何も言わなかった。なかなか言葉を発さず、かと言って歩き出すこともしない男の様子を不思議に思ったつむぎは、恐る恐る顔を上げた。男と目が合う。
男は何故か傷ついたような表情をしてつむぎを見下ろしていた。瞳に暗い色が宿っている。つむぎは「え」と口が動いたが、声は掠れて出なかった。
「わかったよ。行けばいいんだろ」
ふいに目線をそらし、男が面倒くさそうに言った。ジーンズのポケットに両手を突っ込む。
「い、いいの?」
つむぎは拍子抜けした。男が折れるとは思っていなかった。断られたら大人しく引き下がるつもりだった。だが、男は「チッ」と舌打ちをして、
「ああ」
と面白くなさそうに言った。
「ありがとう!」
お礼を言うと、男に睨まれた。
「あの、一時までまだ時間あるけど大丈夫?」
「別に。こっちも用あるし」
素っ気なく男は答えた。
「じゃあ、一時に一階のエレベーター前に来てくれる?」
「ん」
そう言って、男は図書室を出て行った。つむぎも急いで仕事に戻る。何だか胸のあたりがふわふわとして、そこだけ宙に浮いている感覚だった。尊はあんまり長く生きられない、と告げたときの男の苦しげな表情が気になったが、とりあえず尊との約束を守ることができそうで安心した。
つむぎは一時からの時間を待ち遠しく思いながら仕事をこなした。いつもは割と人がいる図書室も今日は利用者がほとんどいなくて、ときどきカーテンが夏の風に揺れるだけだった。
一時を三分ほど過ぎ、つむぎは小走りで一階のエレベーター前へ向かった。
もしかしたら、男はすっぽかすかもしれないとの不安が頭をかすめた。その場しのぎで行くと言っただけで、本当は来る気なんてないのかも……。
けれど、エレベーターの向かいの壁に寄りかかって立っている男を目にしたとき、つむぎは安堵と興奮が拮抗して自分の体を巡っていくのを感じた。
つむぎの姿に気づいた男は、壁から背中を離し、
「遅えよ」
と口を尖らせた。
「ごめん、一時ちょうどに終わったから」
「チッ」
男はまた舌打ちをする。
「ちゃんと来てくれたんだね、ありがとう」
笑顔で男にお礼を言うと、
「笑った顔、キモッ」
吐く真似をする。つむぎはその態度に腹が立ったが、でも来てくれただけましか、と気持ちを切り替えてエレベーターのボタンを押した。
「ねえ、名前何て言うの?」
「お前から名乗れよ」
「私は叶野つむぎ」
「……ふじや」
「下の名前は?」
「今のが下の名前だよ。如月藤也」
つむぎは男の名前を綺麗な響きだと思った。でも、それを伝えるのは気恥ずかしくてやめておいた。
エレベーターが五階に到着した。つむぎが先に降り、いつものようにナースステーションに軽く頭を下げる。藤也も頭を下げたのか単に下を向いただけなのかわかりかねる曖昧な角度で、コクンと首を縦に振った。
「ねえ、藤也くんってこの病院の関係者? それとも誰かのお見舞い?」
「藤也でいい」
「あ、うん」
「親父が入院してんだよ。今日手術だった」
「え、大丈夫なの、お父さん」
「別に。膝の手術だし」
「そうなんだ。じゃあ、午前は手術が終わるのを待ってた感じ?」
「まあな」
話しているうちに尊の病室の前に着いた。
「ここが尊ちゃんの部屋」
そう言って藤也の顔を見上げると、仏頂面の中にもわずかな緊張が伺えた。
「尊ちゃん、つむぎだよ。開けていいかな?」
ノックとともに呼びかける。はーい、と聞こえたのを確認し、中に入った。
「こんにちはー」
ベッドに腰掛けていた尊が、つむぎと藤也の方にパタパタと駆けてくる。
「こんにちは、つむぎちゃん、天使さん! 来てくれたんだあ」
尊ははち切れんばかりの笑顔で、拍手するように手をパチパチと動かした。尊の笑顔とは対照的に、藤也は居心地が悪そうな顔で固まっていた。
「これ、ママがくれたお菓子! つむぎちゃんと天使さんにもあげるねっ」
尊はテーブルの上に乗っていた小さな箱を開け、二人に差し出した。チョコレートの焼き菓子だ。
「ありがとう、尊ちゃん」
つむぎはお礼を言って、箱の中から一つ手に取った。フィルムを開け、その場で口に運ぶ。ほどけるような甘い味が、舌に広がった。
「天使さんもどうぞ」
藤也はロボットのような手つきで、焼き菓子を受け取ると、
「ど、どうも」
と消え入るような声でボソッと呟いた。
「このお菓子、おかしい!」
尊がいつものダジャレを言った。
「は?」
けれど、藤也はそれを知る由もなく、焼き菓子のパッケージを訝しげに眺めている。
つむぎが小声で、
「尊ちゃん、ダジャレ大好きなのよ」
と説明する。藤也はああ、と納得したようだが、反応に困ったように眉をピクピクさせていた。
「ねえねえ、遊ぼ! お絵描きするー」
そんな藤也の様子に構いもせず、尊は引き出しからお絵かき帳を引っ張り出した。
「天使さん、そこに座って」
藤也は引きつった表情のまま、言われた通り丸椅子に座った。尊は藤也をモデルにして絵を描き始めた。
焼き菓子で口の中の水分がなくなったので、つむぎは飲み物を買いに、一旦病室を離れようとした。藤也が不安げな視線を送ってきたが、ガッツポーズしながら「頑張って!」と言って部屋を出た。つむぎには態度がでかいが、尊の前ではタジタジな藤也の様子を見るのは愉快だった。
「はあ? お前これ何だよ、全然似てねえ!」
再び病室に戻ると、藤也の不服そうな声がつむぎの耳に飛び込んできた。どうやら、尊の絵が出来上がったらしい。
「お前、これじゃあ天使って言うより悪魔だろ」
子供相手になんて言い様だ。藤也に文句を言いに行こうとして、ペットボトルを机に置きながらふと尊が描いた絵に目をやると……。
お世辞にも上手だね、とは言い難い。輪郭を黒いクレヨンで書いているせいか、その顔は確かに藤也の言う通り悪魔のような風貌をしていた。しかも、彼の着ているカーキ色のシャツを描こうとしたらしいが色がなく、真緑のクレヨンと輪郭の黒が混ざって、何ともグロテスクな色合いになっていた。
とは言え、そんなこと尊には口が裂けても言えない。それなのに……
「お前、絵下手すぎ」
藤也はズケズケと思ったことを口にしてしまう。さっきまでのぎこちなさはどこへ行ったのか。
尊は真実を突きつけられ、落ち込むかと思いきや、
「えー、たける絵下手かなあ? じゃあ天使さんが書いて」
にこにこと藤也にクレヨンを持たせた。
「たけるのこと書いて」
つむぎは尊の切り返しのうまさに脱帽した。私なら絶対に喧嘩になっていただろう、と思う。
「俺の方が百倍うまいぞ」
そう言ってやる気満々に画用紙に向かう藤也の方がよっぽど子供に思えた。
「ほらできた」
ものの三分ほどで藤也はクレヨンを置いた。
つむぎが覗き込むと同時に、
「うわー、天使さんも絵ヘター!」
キャハハと尊がおかしそうに笑い声をあげる。
「プッ……これはひどいわ」
卵に髪の毛が数本生えている、という具合の、今時幼稚園児でも描かないような絵がそこにはあった。目、鼻、口は福笑いのように歪んでいる。
「ある意味、芸術ね」
「黙れブス」
尊とつむぎに笑われたのが悔しかったのか、藤也は顔を真っ赤にしてお絵かき帳から自分の書いた絵を破り取り、グシャッと丸めた。
「絵なんて描いてられっかよ」
つまらなそうに足を投げ出す。
「じゃあね、次はトランプ!」
尊は藤也が乱暴にテーブルに置いたお絵かき帳を引き出しの中に戻し、「トランプと、ランプ!」と言いながら、猫の柄のトランプを出した。つむぎは尊がお絵かき帳をしまうとき、そっと表紙を撫でたのを目にした。その仕草の意味を考えようとしたとき、
「つむぎちゃん、トランプで何したい?」
と尊がつむぎの腕を引っ張ったので、すぐに意識がそれた。
「そうだなあ、ババ抜きは?」
「いいよ!」
尊は小さな手からカードをこぼしそうになりながらてんを切ると、藤也、つむぎ、自分の順に配っていった。
「天使さん、ババ抜きのルール知ってるよね?」
「そんなの知ってるに決まってんだろ。馬鹿にするなよ」
配られた手札を眺めながら、ぶっきらぼうに藤也が言った。
同じ数字のカードをテーブルの真ん中に捨て、準備が整ったところでゲームを始める。
最初はじゃんけんで勝った藤也が尊のカードを引いた。
カードを引き、数字が合えば捨てる、をぐるぐると時計回りに繰り返すうちに、
「やったあ、上がり!」
尊が一抜けた。つむぎと藤也の勝負になる。
ババはつむぎが持っていた。数字の方を引かれればつむぎの負けだ。
「こっちだろ」
しかし、藤也が引いたのはババの方だった。
「チッ」
おなじみの舌打ちをする。尊が藤也のカードを覗き込んで、ふふっと笑った。
「こっちだ」
つむぎがカードを引くと、見事数字が合い、藤也の負けが決まった。
「んだよ、ババ引けよ」
「あんた、目線が一つのカードにしか向いてないんだもん。それがババでしょ。わかりやすいのよ」
「あ?」
「たけるもそれ気づいてた!」
尊が手を上げながら言った。藤也は心当たりがないというように、不服そうな顔をしている。
「もう一回やるぞ」
尊とつむぎが返事をする前に、藤也はテーブルに散らばったカードを集めて、ろくにてんも切らずに配り始めた。
勇んで第二回戦をやったはいいものの、またもや藤也が負けた。ババに目線がいく癖はそう簡単には直らないようだ。悔しそうな藤也の表情に、尊とつむぎは声を立てて笑った。
藤也は、何をするにも最初は必ず面倒くさそうに誘いに応じるが、少しすると尊よりも楽しそうに遊んでいた。口は悪いけれど、無邪気で憎めないやつ。つむぎの藤也に対する印象は出会ったときよりも確実に良くなっていた。
ふと腕時計を見ると、午後三時を回っていた。尊の体に障らないように、彼女の部屋に行くときはいつも二時間程で切り上げるようにしていた。そのことは尊も理解していて、 帰るときには快く見送ってくれた。
「尊ちゃん、そろそろ私たち帰るね」
ベッドを挟んでつむぎの反対側にいた藤也が顔を上げる。尊も名残惜しそうに、つむぎを見上げた。
「もうそんな時間かあ。また来てね、つむぎちゃん、天使さん!」
また来るね、と言って尊に手を振りながら病室を出る。藤也も、
「じゃあな」
と軽く手をあげ、つむぎに続いて部屋を出た。
正面玄関に向かいながら、つむぎは藤也に今日の感想を聞いてみた。
「どうだった? 尊ちゃん、可愛いでしょ」
「……まあまあな」
「楽しそうに遊んでたじゃない。また遊んであげてよ」
「もういいよ。ガキの相手は疲れる」
藤也はため息をつきながら顔をしかめた。
「え、それじゃあ、もう来ないってこと?」
「ああ」
「ま、待ってよ。尊ちゃんだって、また来てねって言ってたじゃない」
「知らねえよ。とりあえず今日来てやったんだからもういいだろ」
そう言って藤也は先に歩いて行こうとする。
「尊ちゃんもあんたも、あんなに楽しそうだったじゃない」
彼の背中に向かって叫ぶが、立ち止まってくれない。せっかく仲良くなったのに。尊の「また来てね」という声がつむぎの耳の奥を駆け抜けた。
そこでつむぎはハッと気づいた。
つむぎの一方的なお願いに、藤也は応えてくれたのだ。彼には彼の気持ちや考えがあるのに、つむぎはそれを無視していた。尊と友達になってほしい、また来てほしい。それはつむぎの勝手な願いだ。押し付けてしまっては、彼だって聞いてはくれないだろう。
藤也の背中はどんどん遠ざかっていく。つむぎは走って追いかけた。
「待って……」
藤也に追いつき、正面に回り込んで、今さっき考えた台詞を一気に伝えた。
「あなたの言ってることはわかった。私からはもう何もお願いしない。あなたが今日尊ちゃんと過ごしてどう思ったか、彼女の笑顔を見てどう感じたか。自分の気持ちに正直に行動して。もし気持ちがあるなら、明後日の同じ時間、私はここで待ってる。今日は来てくれて本当にありがとう」
それだけ話すと、彼の反応も見ずにその場を後にした。走りながら、ちょっと上から目線だったかな、と思ったが、取り消すことはできない。あとは藤也が決めることだ。
彼の選択と私の願いが一致するといいのだけれど。
つむぎは祈るように明後日を待った。
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