第2話


リビングの東側の壁に掛けられた丸い時計の長針が、カチリと動く。午前八時三十分。家を出る時間だ。

つむぎはドアを閉めると上、下の順番に鍵をかけ、マンションを出た。

「暑い!」

思わず声が漏れた。風通しのいいリネン素材のシャツとはいえ、七分袖では随分と暑く感じる。

 つむぎは夏の太陽に手をかざし、指の間をすり抜ける光を眺めた。

 眩しいものに手をかざすと、その光がゆらゆらと揺れながら瞳に届く。直視できないほどの強い光でも、手のひらを一枚挟むと途端にやさしく映る。

 木漏れ日に小さな手のひらをかざした、幼い日の光景があまりに鮮やかに瞼の裏に焼きついたから、大人になった今でも眩しいものにはつい手をかざす癖が抜けない。直接触れることはできないが、暖かい光の根源をわずかでも掴めたような気がして嬉しくなるのだ。

 つむぎはかざした手を下ろし、満足そうに笑みを浮かべると、歩くスピードをわずかに速めた。

 緩い坂道を登っていると、バス停のそばに夫婦らしき中年の男女が、辺りを見渡しながら立っていた。

 つむぎは、道がわからないのかな、と思いながら近づいて行くと、

「あの、すみません」

 女性のほうに声をかけられた。

「総合病院へ行きたいんですけど、どっちへ行ったらいいんですかね?」

「ああ、それなら私も今から行くところなので、一緒に行きましょうか」

 つむぎが笑顔で答えると、女性はホッとしたように、

「あらまあ、親切にありがとうね」

 と礼を言った。つむぎは彼らと連れ立って歩き出した。

「あなたも誰かのお見舞い?」

 女性の問いかけに、つむぎは首を振り、

「いえ、私は院内ボランティアをしているんです」

 と答えた。

「へえ、ボランティアなんてえらいわね。どんなことをしてるの?」

女性は興味があるというふうに、目を丸くして尋ねた。

「病院内の案内をしたり、花壇を整えたり、図書室で本を貸し出したり、ですね。主な仕事は」

「そうなの。頑張ってるのねえ」

 感心したように、女性は微笑んだ。隣で男性も目を細めながら頷いている。

 二人に褒められ、つむぎは顔が熱くなった。そんなに大それたことをしているつもりはないが、そう言われると素直に嬉しかった。

 坂を登りきり、広大な敷地の病院に着くと、夫婦はつむぎに頭を下げながら、総合受付へ歩いて行った。離れて暮らす息子のお見舞いだと言っていた。

 つむぎは朝からいいことをした気分になり、軽い足取りで一階の売店の隣のロッカールームへと向かった。

ロッカーに荷物を入れ指定のエプロンをつけながら、壁に貼ってある当番表を確認する。「今日は院内案内か」

 つむぎはそう呟いて、おろしていた髪の毛を一本に束ねた。

 九時になり、つむぎが一階の受付の前に立つと、先にフロアに出ていた宮音がうさぎのような足取りで駆け寄ってきた。

「つむぎさん、おはようございます!」

「おはよう、宮音ちゃん。なんか嬉しそうだね。どうしたの?」

 宮音は目を輝かせて、鼻息も荒く喋り出した。

「さっき、すっごいイケメンとすれ違ったんですよ! 整形外科の方に行きました。お見舞いかなあ。ここに立ってたら、帰るときまた会えるかも!」

「出た、宮音ちゃんのイケメン好き」

 つむぎは苦笑しながら相槌を打った。

「そこら辺にいるレベルじゃないんですよ! 最高級ですね、あれは!」

「そんなにハードル上げて、実際そうでもなかったりして」

「ひどい! つむぎさんも絶対目がハートになっちゃいますって!」

 宮音は次第に語気が強くなっていき、ほとんど叫ぶようにそう言った。受付前に並んでいた数人の患者が、いっせいに振り返った。

「しー、宮音ちゃん、ここ病院だから」

「あっ」

 宮音は肩をすくめて、おとなしくなった。

 たしなめたものの、つむぎは宮音の、周りが見えなくなるほど何かに熱中するところが可愛いと思っていた。この前も、医療ドラマにハマったと言い、泣き腫らして土偶みたいになった目で活動に来たことがある。他のスタッフたちにからかわれて、ドラマの魅力を熱く語っていた。

「すみません、消化器内科はどこですか」

新患と思しき初老の男性が声をかけてきた。仕事モードに切り替えた宮音がすぐさま対応し、つむぎのそばを離れた。そんなくるくると変わる表情も、彼女の魅力の一つだ。

 私も頑張ろう。

そう思いながら、つむぎは会計カードを持ってうろうろしている妊婦にやさしく声をかけた。



 午後一時になりシフト交代をしたつむぎは、ロッカーにエプロンをしまっていた。

「あーあ、例のイケメンに会えなかったなあ。つむぎさん、それらしき人見ました?」

 同じくシフトを終えた宮音が、パイプ椅子に寄りかかりながらため息をついた。

「うーん、見てないかな」

「つむぎさんに見せたかったのになあ」

「そんなにカッコいいの?」

「そんじょそこらのアイドルなんかより全然!」

「へえ……」

「異世界レベルでイケメンですから!」

 そこまで断言されると見てみたい気もしたが、つむぎはあまり男性に興味がなかった。

 決して冷めた目で見ているわけではない。でも、恋愛してみたいという気になったことは、二十五年間生きてきて一度もなかった。特段、不自由な思いもしていない。

 それよりも、つむぎには今、一秒でも早く会いたい人物がいた。会うと最高に癒される、つむぎの天使だ。その人物は、この病院の小児科に入院している。

「じゃあ私は、行くところがあるから。またね、宮音ちゃん」

「お疲れ様ですー。私もバイト行かなきゃ」

 宮音が椅子から立ち上がったのを横目に見ながら、つむぎは足早に部屋を出た。

 

エレベーターで五階まで行く。ドアが開くと、そこはもう小児科の病棟だ。つむぎはナースステーションにいる看護師たちに軽く頭を下げて挨拶をし、廊下の突き当たりの病室へと向かった。

 デイルームの前を通り過ぎようとしたとき、

「ゆうこちゃん、退院おめでとう!」

 という、舌ったらずな高い声が聞こえた。声のしたほうを振り向くと、数人の看護師と子供たちに囲まれた尊が、赤いニット帽をかぶった少女に花束を渡していた。

「ありがとう!」

 少女は花束を受け取り、ピンク色の花の中に顔をうずめた。

「いい匂い」

「あとね、これもあげる」

 尊は、折り紙で作ったと思しきリングがいくつも重なったネックレスを、少女の首にかけた。ネックレスの先には金色の大きなメダルがついている。

「尊ちゃん、ありがとう!」

「元気でね、ゆうこちゃん!」

 少女は皆に見送られながら、両親に手を引かれエレベーターのほうに歩いて行った。つむぎはすれ違いざまの少女の晴れやかな笑顔に目を奪われた。きっとこれから、少女には楽しいことがたくさん待っているのだろう。

 両親を見上げて笑いながら去って行く少女の姿を目で追い、つむぎは心の中で「おめでとう」と呟いた。



「尊ちゃん、つむぎだよ。入っていいかな」

 ドアをノックしながら声をかける。中から、どうぞー、と聞こえたのを合図に引き戸を開けた。

「つむぎちゃん、こんにちは!」

「こんにちは。尊ちゃん、調子はどう?」

「元気百倍アンパンマン!」

「そっか。よかった」

 デイルームから病室に戻った尊は、ベッドを半分起こし膝を伸ばして座っていた。にこにこと明るい笑顔でつむぎを見つめている。つむぎも自然と口角が緩んでしまう。

 つむぎはベッドの下にバッグを置くと、そばにあった丸椅子を引き寄せて座った。

「お友達、退院したんだね。さっき見たよ」

「ゆうこちゃん。たけると仲良しだったんだよ」

「寂しくなっちゃうね」

「うん……。でもゆうこちゃんの病気が治ってよかった」

 尊は一瞬目を伏せたあと、すぐに明るい笑顔でそう言った。自分はまだ入院したままなのに、友達の退院を素直に喜べるなんてオトナだなあ、とつむぎは思う。

 富田尊は、七歳の女の子だ。生まれつき体が弱く、四年前に小児がんと診断された。

入退院を繰り返していたため、満足に小学校に通ったことがなく、ボランティア活動を通じて仲良くなったつむぎが、尊に文字の読み書きや算数を教えている。

「尊ちゃん、今日は算数のお勉強をしようか」

 つむぎがそう提案すると、

「はーい! よろしくお願いします」

 と礼儀正しくお辞儀をして、尊は引き出しからドリルを出した。

「じゃあ、十一ページからだね。えーと、太郎くんは飴玉を十八個持っていました。お友達に九個あげると、残りは何個になるでしょう?」

「たろうくんに飴玉あげたろう!」

「ふふ。それで飴玉は何個かな?」

「九個!」

「わあ、計算速いね。正解」

 尊はとても聡明で、水をぐんぐん吸い込む土壌のように教えたことはすぐに覚えた。そして、正解すると可愛らしい笑顔で喜ぶものだから、つむぎにとって尊に勉強を教える時間は至福のひとときとなっていた。あまり笑えないダジャレも一緒についてくるのだが、そこも微笑ましかった。

「じゃあ、次は……」

「ねえ、つむぎちゃん」

 二人の声が重なった。

「ん、何?」

 つむぎが聞き返すと、尊はつむぎの目をじっと見て、

「つむぎちゃんは、お友達いる?」

 と尋ねた。

「え……」

 突然の質問に、つむぎは戸惑った。どういう意味だろう。私には友達がいないように見えるのだろうか。すると、尊は少し寂しそうな顔をしてこう続けた。

「あのね、たける、入院長いでしょ。お友達ができても、ゆうこちゃんみたいにすぐバイバイしなくちゃいけないの。みんな先に退院しちゃうから。退院したらもう、たけるのところには来てくれないんだ。ねえ、つむぎちゃんにはお友達いる?」

 どうやら、尊の質問はそのままの意味だったらしい。つむぎは深読みした自分を恥じた。

「まあ、いるよ」

 つむぎは今でもメールのやり取りをしている大学時代の友人や、宮音の顔を思い浮かべた。

「そっかあ。あ、でも、たけるもお友達いるね。つむぎちゃんはたけるのお友達だもんねっ」

「そうだね」

 つむぎと尊は顔を見合わせて、にっこりと笑った。つむぎの胸にくすぐったい気持ちが込み上げてきた。

「ねえ、つむぎちゃん。今度、つむぎちゃんのお友達も連れて来てよ。みんなで遊びたいな」

「えっ」

 つむぎは尊の申し出に、頭を巡らせた。

大学時代の友人は地元に帰らないと会えない。この街とつむぎの地元は、電車で二時間ほど離れている。向こうも仕事をしているし、なかなか時間は取れないだろう。

 となると、宮音はどうだろう。彼女もボランティアにバイトにと忙しいが、近くにいる分、まだ連れて来やすいかもしれない。

「わかった、今度ね」

 つむぎの返事に、尊はビー玉のような瞳を一層キラキラと輝かせた。

「つむぎちゃん、アリが十匹!」

「え?」

「ありがとう!」

 尊はつむぎが困惑している傍らで、

「アリさんがー、十匹でー、ありがとうっ」

 と歌っている。

 その後の尊はやる気が出たのか、真剣に算数のドリルと向き合い、問題を次々と解いていった。少し難しい問題でも全問正解だった。尊ちゃんは本当に頭が良いな、とつむぎは感心した。

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