第17話 安堵の暗闇
診療所の中では、テオが人間の老婆を診ていた。老婆の言葉に優しい表情で受け答えながら、左ひざを丁寧に触診する。すぐわきからミオが軟膏を塗り付けた布片を渡す。テオはそれを膝頭に貼りつける。テオの手の先からミオが包帯を巻き始める。
一連の診察の中でテオとミオの間では言葉は一度もかわされなかった。テオもミオも老婆に対して会話していただけではあったが、すべての行動がまるで流れるかのように、一つにつながっていた。
老婆は二人に何度もお礼を言って診察所を去っていった。
「これでとりあえずは終了かな~~」
背伸びをしながらミオが伝える。
「そうですか、ミオ、もう上がってもいいですよ。後は私一人でも何とかなりますしね」
「いいの? じゃぁ、ちょっとカミユの手伝いに行くわ」
言葉の終わりと扉が閉まるのは同時だった。
「少しくらい休んでからいけばいいでしょうに……」
笑いながらテオは独り言をつぶやいていた
診療所を出たミオは、カミユの家の前によく知った顔を見かけて声をかける。
「ラキアス卿! 戻ってきたの?」
「おお、ミオ、そうじゃ、先ほど定期便でな」
ラキアスは破顔してなじみのエルフに応じる。
「カミユは家にいるか?」
「ええ、今日はいるはずよ。診療所のためにちょっと頑張ってくれているのよ」
ミオは答えながら、カミユの家の扉をあける。
「カミユ~。上がっていい? ラキアス卿も一緒なんだけど」
少し間があいて女性の声が二階から聞こえてきた。
「ミオさん、どうぞ。二階まで上がってきてもらっていいですか?」
「わかったわ」
ミオとラキアスは互いにうなずいて扉をくぐった。
二階の通りに面した側の部屋からは、少しくせのある強い香りが漂ってきた。部屋の中央には、飾り気のない木のテーブルがあり、その上には複雑なガラスの機材が置いてあった。他にも木のへらや、すり鉢、小さな薬瓶などがにぎわいを見せていた。
「なんじゃぁ~こりゃぁ~」
荷揚げ直後の港の様な机の上を見て、ラキアスは驚いていた。
「おやじ、お帰り。ちょっと、まってて、今、大事なところだから」
ガラス機材の正面に立っているカミユは、手元のすり鉢からガラス機材の上にかぶさっている布片の中にすり鉢の中身をそっと移す。くせのある香りが一段と強くなり、そばにいるカミユの顔がゆがむ。それでも中身を移しきって布の端を手繰り寄せ絞って中身をガラス機材の漏斗に流し込む。
ガラス機材には、二本の縦長のガラスの管とその真下中央の大きなガラス瓶があり、今液体が注ぎ込まれた方の管には白い液体がてっぺんまで満たされ、もう一つには淡い赤の液体が三分の一ほど入っていた。
布をすり鉢に戻して手を拭いたカミユは、二つの管の下にある金属のレバーを慎重に操作した。淡い赤の液体が一滴こぼれる間に、白い液体が三滴こぼれる。少しずつ液体がたまり始めたガラス瓶に木のへらを入れてゆっくりとかき混ぜる。
管の中の液体は、そのほとんどがガラス瓶に移った。薄い桃色の液体がガラス瓶を満たしていた。さらにカミユはガラス瓶の下に埋め込まれた魔法回路の端に指を添えて魔力を込める。
魔力回路の中心のクリスタルがわずかに赤く輝きだす。と、ガラス瓶の中の液体がゆっくりと色を変え、最後に澄んだ濃い青色の液体が出来上がった。
「ふ~~。かんせ~い」
ガラス瓶を取り出し、慎重に脇に置いてから、カミユは安堵のため息をこぼした。
エリスは木のコップに入った水をカミユに渡した。
「お疲れ様でした。とっても難しいんですね。ポーション作るのって」
その言葉でようやく状況を理解したラキアスが感心したように声をかけてきた。
「そうか、ポーションを作っておったのか。にしてもいつの間に作り方覚えたんじゃ?」
ミオがガラス瓶の液体を薬瓶に移しながら代わりに答える。
「まぁ、小さいときからテオが作ってるのずっと見てたからね~」
「初めのころはよく失敗したけどね。分量間違えて……」
ばつが悪そうに舌を出すカミユ。
「それにしてもこの機材どうしたの? てっきり診療所で作るもんだと思ってたのに」
ミオは薬瓶に移す作業を続けながら質問してきた。
「この前、トラシアさんに古文書渡したときに、何か必要なものはないか? って聞かれて、ポーション作る便利な道具無い? って聞いたら、後からこれ届けてくれたんだ」
「普通は絞る分量で調節するのに、これって絞った後で調節できるのね。結構複雑そうね」
ミオの疑問に、カミユは肩をすくめて応じる。
「複雑に見えるけど、要は右と左に二つの薬草のしぼり汁入れて、あとは調節して混ぜるだけ。混ぜる比率はこの金属のレバーで調節できるから、失敗が無いのがいいところかな」
薬瓶に移しきったミオは感心した。
「40個作って失敗なしって言うなら、それはすごいわ。テオでもこれだけ作ったなら5個分ぐらいは材料無駄にしてるもの」
久しぶりにほめられたカミユは笑顔を浮かべた。ふとラキアスに気がついて話題を振る。
「で、おやじ。今日は何か用? おやじが訪ねてくるなんて珍しいじゃない」
自分の知らないところで、いつの間にか成長していた息子を見て、感心し、喜び、そして少し寂しさを感じていたラキアスは、反応が少し遅れてしまった。
「お? おお。忘れておったわ。トラシアからこれを預かってきたんじゃ。早く渡しておこうと思っての」
ラキアスは布の巻物を渡してきた。カミユは閉じ紐をほどいて中身を確認する。
「あ、もう複写したんだ。早いなぁ~~」
エリスが脇から覗きこんでいた。ラキアスもカミユの脇まで移動して覗きこむ。
「なんじゃこりゃ?」
「わかんない」
「おい。わけのわからんものをわしは運んだのか?」
もうちょっと喜ぶ姿を期待していたのだが、肩すかしをくらってしまって不満を呟く。
「遺跡の天井にこの図が張り付けられていたんだよ。何かあると思うんだ。トラシアさんも何かありそうだって興味深々だったし」
その巻物には確かに遺跡と全く同じ図形が描かれていた。線で複雑な形がいくつも記載されており、その周囲には小さな点が何ら意味なく散らばっていた。そして複雑な図形を切り分けるように、図全体に縦と横にまっすぐな線が描かれていた。
「まぁ、今すぐにはわからないけど、おいおい調べてみようかな」
巻物を元に戻してカミユはラキアスに礼を言う。
「おやじ、ありがと。持ってきてもらって」
「まぁ、気にするな。ついでだからの。おっと、本題を忘れるところじゃったわ」
「本題?」
首をかしげるカミユはラキアスの言葉を待った。
「殿下が今回のアルジェの手助けに感謝したいといわれての。祝いの場を設けようと話が挙がったんじゃが、テオやミオは診療所があるからアリアスから離れられんし、わしの家でやることになったんじゃ。明後日の夜は開けておいてくれ。ミオ。テオにも伝えておいてくれるか?」
「もちろん!」
ミオの答えを確認してラキアスはカミユの家を後にした。
ミオはカミユからすり鉢をひったくって、ポーション作成を再開する。
壊さないか心配な気分で胸いっぱいなカミユであった。
ラキアス邸の食卓はたくさんの料理でにぎわっていた。
料理の大半はラッシュに調理を依頼したものではあったが、一部はカシュトが腕によりをかけて作った自信作で、匂いだけでそばの人々は食欲に支配されてしまいそうな状況だった。
テーブルの上だけでなく部屋自体も人でにぎわっていた。
さりげなくエリスの隣で隙を狙いながら会話するラスタ。その後ろにはミネルバが控えており、ミオはそんなラスタをちょっかいという形でけん制していた。ガルフはラキアスと帝国の話をしていて、トラシアとカミユは、そばのテオも含めて、持ってきた巻物を囲んで話に花を咲かせていた。
「テオさん、この図に何か感じませんこと?」
トラシアはエルフの意見を聞いてみたいと考えて、そのままを口にした。
「図形…… 暗号でも無いみたいですし、形に意味がありそうですが……」
テオはカミユが持ってきた図形を真剣に覗きこんでいた。
「形に意味がある…… なるほど、それは確かに同意いたしますわ」
トラシアはこの図を、帝都でずっと見ていて、これが何か? という疑問を、その答えを求めようと考えていた。テオの意見は、解答ではないが、少し答えに近づいたと感じられるものだった。
「で、カミユさんはこの図から何か感じました?」
「まだ、1~2日だよ。全然、全く…… 何も浮かばない。ただ……」
「ただ?」
「ん。なんとなく気になるっていうだけ」
「それは、トレジャーハンターの勘では無いのですか?」
トラシアとカミユのやり取りにテオが割り込んできた。
「ん~~。宝探しとか、危険が近いとか、そんな感じじゃないから、ちょっと、戸惑ってて」
「これまでに一番近い戸惑いを言葉にできますか?」
テオはカミユの感覚に興味が出て、もっと知りたいと感じただけであった。しかし、カミユは思いのほか考え込んでしまっていた。
「一番近い? むぅ~~」
5秒ほど唸り声が聞こえてきて、テオはあきらめ始めたその時に声が聞こえた。
「一番かどうかわからないけど…… ミオやエリスに買い物頼まれて、なんとなく気になったけど、そのまま戻ったら、買い忘れたものがあった。って、そんな感じかなぁ……」
忘れるな! とミオが怒鳴った横で、ラスタがエリスに、俺は大事な人に頼まれたことを忘れるなんて絶対ないなと、聞こえるようにつぶやく。が、エリスは、忘れ物を一緒に買いに行くのも楽しいです。と、ミオの援護がないにもかかわらず、ラスタを孤島に置き去っていた。
「どんなたとえですか、それ!」
苦笑しながら感覚的な言葉は通じてはいた。だが、テオ以上にトラシアは反応していた。
「その例えをそのまま信じるならば、カミユさんはどこかでこの図形に心当たりがあることになりますわ」
トラシアの言葉は確かに正論だった。何か心に引っかかる。つまり、それは、これまでの記憶の中に、この図形に結びつく何かがあることを指し示している。
「昔の記憶ですか? それとも最近?」
テオはやや興奮気味に尋ねる。が、カミユは首をかしげたまま固まっていた。
「古文書の図形とか、記述とか、そんなたぐいですか?」
「たぶん、それならすぐ思いだせると思いますよ。毎日穴があくほど見ていましたからね」
トラシアの質問に、テオが答える。そんなやり取りがしばらく続いていった。
トラシアとテオが意見を出し合っていたときに、ふと、カミユは客間に飾ってあった帝国の地図が目に入った。先が二つに割れた半島とそのすぐ右側に細い湾を隔てて、広い土地が広がっている。見慣れた地図のはずなのに、なぜか心がざわつく。
「地図? 連邦政府時代……」
カミユは自分の古文書から得た知識を探っていた。
連邦政府時代には竜巻の壁を超える飛空艇が存在していた……
おもむろにトラシアから巻物をひったくって、壁の地図と見比べる。大きさが違うためわかりにくい。該当箇所だけ見えるように折りたたんで、壁から後ずさって、手元の布と壁の地図を見比べる。
「おい、カミユ何してるんだ?」
トラシア、テオの驚きの声に気がついたラスタが歩み寄ってきた。
「ラスタ、この布の図形と壁の地図を見比べてみてよ」
カミユの顔は興奮に包まれていた。ラスタは言われるままに、布と地図を見比べた。
地図は細かく地名が記されており、海路、空路が記載されているため、すぐには気がつかなかった。しかし、ようやくラスタもそれに気がついた。
「これ、まさか地図…… なの、か?」
壁にかかった地図は帝国が知りうる全土の地図であった。一方の布は相当小さく折りたたまれており、全体の何十分の一を示しているか簡単には推測できないほど小さな領域だった。
「おそらく、間違いなく、これが世界なんだ……」
ラスタの手から巻物が奪われた。奪った主はトラシア、わきの小さなテーブルにそれを広げて、その一部を凝視してから壁の地図を見る。
おもむろにカミユが古文書の一説を唱える。
「国が氷に閉ざされつつあった。人々は空飛ぶ船で竜巻の先、南と東に新天地を求めた」
「三つの国は互いに政策を共有することにいたり、ここに連邦政府を樹立する」
カミユの言葉にトラシアが続く。
「この横に伸びる線は、竜巻の壁だよね?」
カミユの言葉にトラシアはうなずく。
「帝国の北にはカリア王国、東はイダス共和国があったと言われておりますから、ここがカリアでこっちがイダスでしょう」
トラシアは布にペンで記載する。カミユはトラシアからペンを借りて、自分たちがいるであろう場所に、エルドリアとアルジェを記載した。
「て、帝国は、こんなにも小さいのか?」
ラスタはあまりにも小さな区域に自国の名前を記されて驚きを隠せなかった。巻物全体の隅っこのほんの一部の小片の領域にエルドリアの名前が記されていた。
「逆なんだろうね。世界は広いんだ…… こんなにも!」
カミユの言葉にラスタは心が躍り出すのを感じていた。
「広い? ああ、広いな、広すぎる……」
竜巻の壁の外側、これまで何度も夢見てきた世界は、自分の想像をはるかに超えていた。
帝国の端から端まで、帝国最速の自分の飛空艇でも日が暮れるほどの時間がかかる。それでも世界はそれ以上に広い。本当に? 疑念がわき上がるが、目の前の図形の一部はそれを否定することはできないほどに壁の地図に酷似していた。
ラスタは震えた、歓喜、それが一番自分の心を表すにふさわしい言葉だと気がついたときに、それは爆発した。
「トラシア!! 何としても、カミユの飛空艇を作れ! あれだけの金とコアクリスタルがあって、できないとは言わせない!」
一瞬、ラスタが何を言ったのかカミユはわからなかった。
トラシアは手を力一杯に握り締めていた、表情がラスタと同じ歓喜を示していた。
ガルフは顔に手をあて、何のために内緒にしてたんだか、とつぶやく。
ミネルバは少しだけほほ笑んでカミユの顔を見ていた。
テオとミオは顔を見合わせて笑っていた。
「カミユの飛空艇って、何? 俺の飛空艇?」
訳が分からず、ラスタに質問した。その言葉で我に返ったラスタは、目を泳がせた。
「あ、いや、俺、何言ってんだ? はは、ははは……」
カミユはラスタの正面に立ってラスタを見据えた。その脇にはエリスが不思議そうにラスタを覗きこんでいた。ラスタは観念して息を吐いた。
「アルジェ、いや、アシュアから、ドラゴン討伐の報酬が来たんだ……」
カミユとエリスは初耳の話を聞いて驚いた。二人の驚きを確認して、ラスタは一気に言葉を続ける。
「宝の換金額は5000万Gと強力なコアクリスタル、カミユとエリス以外はその受け取りを放棄した。だから、お前に内緒で小型飛空艇の建設をトラシアに進めさせている」
言葉を区切って息を整えて、固まったカミユに告げる。
「おまえの飛空艇だ! もしかしたら竜巻の壁すら越えられるかもしれない。帝国がこれまで実現できなかったほどの高性能な奴だ」
カミユは一瞬だけ息をのんで固まった。呼吸すらしていなかった。
数秒の間をおいて、エリスがカミユを覗きこんだ。そこで今度はカミユが爆発した。
「飛空艇? 俺の飛空艇…… 竜巻の壁を超える?? うおおおおお!!!」
カミユはエリスを抱きつき、抱えてその場で回り出す。
「か、カミユ……」
エリスは回りながら戸惑っていたが、カミユの表情はこれまで見たことが無いほど、うれしそうに輝いていて、それにつられて自分も笑っていることにようやく気がついた。
「カミユ、飛空艇が、夢が、そばまできているんですね? 私も一緒に……」
その言葉は最後まで続けられなかった。
エリスの手を強く握って、目を回しながら抱きつくカミユ。
「もちろん! 一緒だよ! みんなもね!」
カミユはその場に居合わせた全員に順番に目を馳せた。
ラスタ、トラシア、ガルフ、ミネルバ、テオ、ミオ、エリス……
全員が目やうなずきで答えてくれた。
カミユは右手を天に突き上げた。
その場にいた全員が満面の笑みをたたえていた。ひとしきり興奮の嵐が過ぎ去った後、皆、料理のおかれたテーブルにそれぞれ着席した。
ラスタがワインの入ったグラスを手にとって立ち上がる。
「少しドタバタしたが、軽く挨拶させてほしい」
数人が促すようにうなずく。静かな空気が流れた。
「先日…… ここにいるみんなの力で、帝国は、いや、俺は本当に救われたと思う」
ラスタはカミユの顔をみて言葉をつづけた。
「俺一人じゃ、アルジェは救えなかった。でも、みんなの力で、アルジェを救えた。俺はそれがものすごくうれしくて、本当にみんなには感謝している。皇太子としてではなく、一人の人間として、ここにいるみんなに、心から感謝する。ありがとう」
カミユとエリスはほほ笑んでいた。テオは静かながらも笑みを浮かべていたが、その分隣のミオは腕を組んで首を大きく縦に振っていた。
「殿下、少し長いですわ」
トラシアの声に促されてラスタはグラスを掲げた。
「そうだな、それじゃ、アルジェの救出成功を祝い、カミユの飛空艇完成を祈って……」
「かんぱ~い!」
全員の声が唱和して、部屋ににぎやかさが舞い戻ってきた。そして楽しい食事が始まった。ガルフやミオは、すぐに食べ物を口に運ぶのに全力を傾けていった。
驚いたことにミネルバも、その二人と同じく、食事に心を奪われていた。
「ミネルバ、そんなに急がなくても、食べ物たくさんあるから」
カミユは苦笑しながら、勇ましさを食事に向けている騎士に言葉を向けた。
「ん、うむ、いや、しかし、これはうまい」
カミユに応じつつも、ミネルバは食べる速度を落としてはいなかった。
「う~ん、ミネルバを説得するなら、食い物ということか、覚えておこう」
「おまえ、腹黒いな……」
ガルフが容赦なく突っ込みを入れる。ラスタは心外とばかりに反論を試みる。
「腹黒いっていうなよ、交渉事の基本は相手の意識がどこに向いているかを把握することが一番重要なんだぞ」
「身内相手に腹の探り合いは、いかがなものかと」
トラシアから向けられた冷ややかな視線がラスタに突き刺さる。
「敵よりも、味方の方が手ごわいんだが…… いや、なんでもない」
冷ややかな視線が殺意に変わるかとおもって、一瞬で言葉をひっこめた。
絶えない笑い声に包まれた部屋の入口に、初老の女性を認めたカミユが席を立って近寄った。
「カシュト、今日の料理美味しいよ。みんな喜んでる」
「え、あ…… はい、それはようございました」
いつもより少し元気がないカシュトを見てカミユは心配になって声をかける。
「カシュト大丈夫? なんか顔色悪くない?」
「い、いいえ、ただ、少しばかり作りすぎてしまいまして」
その言葉でカミユの顔は笑顔に戻った。
「そか、良かった。そのお盆の上のカップも料理だよね? もらうよ~」
声をかけながらカミユはカップを取って、口の中に中身を注ぎ込んだ。
「いけません!」
広い部屋を埋め尽くすような歓声を、鋭い声がうち払う。
「な、なに、そんなに怒らなくても。でも、これちょっと変な味、なんか辛いね」
もう一度味を確かめようと、カップに口を付けるカミユの手から、カップが無理やりもぎ取られた。
驚くカミユの目には、覚悟を決めたカシュトの顔があった。
「カミユ様、旦那様、申し訳ございません」
目に涙をためて言葉を告げた老婆は、まだ半分以上残っていたカップの飲み物を一気に飲み干した。
「おい、カシュト、どうしたんじゃ」
ラキアスが近寄ってきて、いぶかしげにカシュトに顔を向けるが、老婆はうつむいたままだった。
その時、そばの少年がよろけた。腹に手を当てると同時に、口に手を当てたが、こらえきれずに、むせびながらせき込む。
「カミユ!」
ラキアスの鋭い声に、テオがカミユに近寄って床に座らせようとしたが、それより先に膝から崩れ落ちた。
乾杯で飲みほしたワインと、わずかに口にした食事を吐きだし、腹を抱えてうずくまる。
「カミユ、しっかり、気分が悪いんですか?」
「ちょっと、カミユ、大丈夫?」
エリスとミオが心配そうに駆け寄って介抱を始めた。
みんながカミユの体に目を向ける中、医師である男の眼は、カミユが吐きだしたものの中に、食べ物ではない、赤い液体が混じっているのを見つけた。
「ミオ! 診療所へいって毒消しを取ってきてください!!」
普段はおとなしい男が血相を変えて、必死の思いで叫んだ。
「毒消し? 毒!!」
「早く!」
訳がわからなかったミオは、テオに腕ごとつかまれ扉の外に突き飛ばされた。普段ならあり得ない状況。頭が真っ白になっていたが、足が、体が反応していた。続いて頭が反応した。
「わかった。エリス、テオを手伝って、カミユに吐かせて!」
走り去りながらエリスに指示を出したミオは、ラキアスの邸宅の外に飛び出していった。
テオは、カミユを床に寝かせた。と、ほぼ同時に、水差しが差し出された。
「舐めて確認しましたが、この水は大丈夫です」
トラシアの声を聞きながら、水差しを受け取ったテオは、無意識のうちに自分も水差しの中に小指を入れて、水を舐め無害であることを確認して、カミユの口の中に中身を注ぎ込み、そして、吐かせる。それを再度繰り返そうとしたときに、カミユが水差しを制した。
「カミユ、辛くても我慢してください」
テオは力ずくでカミユに水を飲ませようとしたが、それ以上の力で押し戻された。
「カシュトを、先に…… エリス、カシュトを頼む」
その言葉で気がついたテオは、エリスを促した。
「カミユは私が見ます、カシュトをお願いします」
エリスは半瞬だけ迷い、そして、カシュトの元へと駆け寄った。
「カシュトさん、しっかりしてください。今魔法をかけますから」
エリスは声をかけると同時に、魔法を詠唱しようとしたが、痛いくらいに腕をつかまれて、その主を確認する。
「エリス様、申し訳ありません。孫がさらわれて、毒を…… 入れろ…… と」
「なんだと! 誰が! どういうことだ!」
そばにいた、ラキアス達が驚きの声を上げる。だが、わずかに呼吸する老婆の目からは既に光が消えつつあった。
「申し訳ありま、せ、ん…… カミユ様と、お幸せ……」
腕をつかんでいた手から力が消え、そして、エリスの腕を離れた手は床へと沈んだ。
少し前まで温かさを見せた老婆は、わずかに穏やかな表情で固まった。この先二度と動くことのない表情で。
エリスはこれまで死に触れたことがなかった。森の仲間たちは自分の知らないところで土に帰ってしまった。なぜ目の前の老婆は動かなくなったのか、頭がついてこなかった。ただ心が悲しみの色に染まっていたことだけは理解していた。
その心を自分自身で否定したかった。
「カシュトさん? カシュトさん、しっかり!」
顔に手を当て、起こそうとするエリスの肩を、トラシアがつかんだ。トラシアは首をゆっくりと横に振った。
エリスは生まれて初めて嗚咽を漏らした。そうしたいと思ったわけではなかった、だが、目から涙が、口からは嗚咽が、自然と、とめどなくあふれていた。
「カシュト……」
二回目の水を吐いたカミユが、涙を流しながら、厳しく、そして優しかった老婆の名前をつぶやいた。カミユはエリスを見て、そして自分も同じ表情、同じ声をあげていることを自覚していた。
その時、ようやく、ミオが毒消しをもって部屋に飛び込んできた。と、ほぼ同時に、薬瓶のふたを開けて、口に含んでカミユの口に口移しで流し込む。
口を離したミオは吐き戻させないように、自分の手できつくカミユの口を押さえこむ。カミユはあまりの勢いに驚いたが、胃の中が熱くなり吐き出しそうになって、それをこらえることに意識のすべてを奪われていた。
カミユを押さえながら、テオに持ってきた小袋を渡すミオ。
テオはその小袋を受け取りはしたが、それをどうすればいいかわからなかった。
「テオ、カミユは大丈夫か?」
ラキアスの声にテオが応じる。
「おそらく、大丈夫でしょう。それほど多くは毒を飲んでいないようです。すべて吐かせましたし、毒消しも間に合いました」
「なら、わしについてきてくれ」
ラキアスの顔には表情はなかった。ただ、強い覚悟があることだけはその雰囲気と口調から読み取れた。そして、ラキアスとテオは部屋の外に出ていった。
胃の熱さが我慢できるほどに治まってきて、カミユはミオの腕を軽く叩いて合図した。ミオはそっと力を抜いて口から手を離した。
「大丈夫?」
「うん、まだちょっとつらいけど、もう大丈夫だと思う」
せき込みながら答えたカミユは、ゆっくり立ち上がろうとした。
「まだ、寝てなさい! 何しようっての?」
「カシュトの顔を見たい」
部屋に入ったときに、状況は理解できていた。だからこそ、急いでカミユに薬を飲ませたのだった。ミオはカミユの顔色と脈拍、呼吸をみて、カミユの脇にいたミネルバに頼む。
「そっちから、支えておこしてもらえる?」
「カミユ、私の肩につかまれ、ゆっくりとな、無理するな」
うなずき、弱々しく起き上がって、カシュトの脇で涙を流していたエリスの隣に腰を下ろす。
「カシュト、辛かったろうに……」
そこにラキアスとテオが戻ってきた。
「おやじ、ワズはどうだった?」
カミユの声にラキアスは固まった。だが、観念して事実を告げる。
「こと切れておった。わしとお前とエリスに詫びの言葉があった。それと、孫を助けてほしいと」
カミユは力を込めて立ち上がろうとして失敗して、よろめく体をエリスが支える。
よろめく心を支えたのは仲間だった。
「おまえは、そこで休んでろ!」
「俺たちが、絶対助けてくるから、信じろ!」
ガルフとラスタが、怒りに体を震わせながら怒声をぶつけてきた。それはカミユに向けられたものではなかった。ラスタは腰にかけていた剣をつかんで言い放つ。
「ミネルバ、トラシア、ついてこい!」
「私たちも行きます」
普段は冷静なテオが、かなり強い意思をこめてラスタに告げる。ミオは言葉より先に、ラスタよりも先に、部屋をでて駆け出していった。それにみんなが続く。
「エリス、あなたはここに残ってカミユを見ていてください。痛みはなくなっても、体力はかなり削られています。カミユ、私たちを信じてください」
テオは、優しいが反論を許さない力強い言葉でエリスにカミユを頼み、カミユを制した。
「テオ、頼む」
その言葉を背に受けてテオも駆け出していった。
カミユはエリスの肩をつかんで泣くのを我慢することで精いっぱいだった。
エリスは優しく、カミユの肩を、心を抱きしめた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます