幕間 一杯のお酒を

フレイヤたちと別れた私が向かったのはとある酒場であった。


中央街の裏路地でひっそりと営業する小さな酒場だ。


昼間から酒を呑むのか、と私を知っている人たちにバレたらそう批判されそうだけど・・・・・・。


今はとにかく無性に呑みたい気分だったのだ。


このまま家に帰るのも味気ない。一杯くらい引っかけたってバチは当たらないだろうから。


「ーーーーーマスター、今お店やっている?」


扉を開けつつ、私はカウンターの奥でグラスを磨いている初老の男に声をかけた。


店内はこじんまりとした実に落ち着いた雰囲気の家具や内装で纏められていた。


酒場とは思えない、まるで品の良いカフェのような店に私は妙な居心地の良さを感じていた。


実家を飛び出した晩に、行き場もなく雨に濡れて呆然としていた私を店に迎え入れてくれて、閉店にも関わらずわざわざ私一人のために一杯のお酒を奢ってくれた。


その時に入れてくれたお酒の味は、今まで呑んだどの酒より美味しかった。


それから私は人生の節目の度にこの酒場に通い、カウンター奥の決められた席に座って一杯のお酒を注文して呑んでいる。


マスター、と呼ばれた初老の男は私の姿に気がつくと、灰色の切れ長の瞳を細めて涼やかな笑みを浮かべる。


キュッとグラスを拭いていた手を止めて、グラス置き場に拭いていたグラスを置く。


「あぁ、どうぞ。いつもの席は空いているよ」


「そう、ありがとう」


ギシギシと踏みしめる度に木の床が軋む音が耳に心地よい。少し年期が経っているせいか店内全体が古めかしい。


けれどそれが味があって良い相乗効果をもたらしている。


落ち着いた雰囲気のおかげか、ここの客層は比較的年寄りが多く、みな上品なオーラを纏った上客が多い。


昼間から開いている酒場だけでも珍しいのに、通う客層も相まって本当にここは穴場だ。


私は案内されるまでもなく、いつもの席に向かうとさも当然という風に椅子に腰掛ける。


メニュー表は見なくとも諳じて言えるほどに、私はこのお酒しか頼まない。


「マスター、いつものでお願い」


「・・・・・・かしこまりました」


薄切りレモンが一枚入れられた水の入ったコップと手拭きを置いたマスターは、私の注文を聞いて恭しく一礼するとすぐさま作業を開始する。


そして夏場には貴重なはずの氷の塊をカウンター下に設置された氷冷保管庫から取り出し、手にしたアイスピックでガシガシと氷を砕き始める。


本当に贅沢だ。


夏場なのに氷を使えるのは王侯貴族と裕福な豪商だけ。


しかし、それを許さなかった私のお父様が数年前に庶民にも氷を使えるように開発したのがこの氷冷保管庫であった。


これがあると氷の保管が容易になる。とはいえ決して安いものではないので、これが買えるのは主に飲食店だけとなっているのが現状だ。


それでも庶民の口にも氷が入るようになったので、お父様がしたことは十分にすごいことなのだが・・・・・・、それを手放しで喜べない天の邪鬼な自分が憎らしい。


全てが中途半端だ。


やるならば何故平民全ての元に氷が行き届けるようにしないのか。


貴族、しかも公爵家の当主にしては十分すぎるほどに、お父様はちゃんと領民のことを考えている。


それは分かる。分かるけど、どこか納得がいかない私がいる。


貴族の施しのように見えてやまない。領民のことを考える善き領主を演じ悦にいっているようにしか見えないのだ。


まぁ、施政も何も分からない小娘がと揶揄されるやもしれない。現に私は貴族としての生き方を放棄した身だ。


公爵家令嬢としての役割も義務も捨てた自分がとやかくいう権利はないのかもしれない。


だけど、貴方の娘としての文句は言わせてもらいたい。


『貴方はその程度で満足なの? 助けた気でいるの?』


私たちの牙は王のためだけにあるのではない。私たちを慕う領民を敵の刃から守るためにあるのだ。


家を出る前の私も彼らと同じだった。


だけど己の力量の無さと才能の欠如に絶望し、全てを放り投げて死のうと半ば自暴自棄になって家を出た時に、私はこのマスターと出会った。


自身の家のことと名誉しか頭にない私たち貴族と違って、彼らは見ず知らずの私を店に招いてくれて・・・・・・、あの酒をご馳走してくれた。


利己的な事しか考えない生き方を私は恥じた。


貴族とはなんて矮小な存在なのだろう。


私の価値なんて、小さなグラスに注がれた一杯の酒よりも無いに等しい。


私の正体なんてとっくに分かっているだろうに、彼らは追求することもなく平等に対等に一人の客として接してくれる。


嬉しい時には共に喜び、悲しい時にはソッと涙を拭いてくれ、怒りに燃えている時には我が事のように共に怒ってくれる。


私はそんな優しい彼らをいつしか家族よりも大好きになった。


お父様のことは尊敬もしているし、家族として愛してもいる。


もちろんお母様もお兄様も、そして双子の妹であるセレスティーナも愛している。


貴方たちのような武の才能を受け継がなかった私にも責任があるし、今さら貴方たちを僻んだり羨みはしない。


そんなことより私はもっと素晴らしいことに気づいたのだから。


己の内に眠る才能を。


家族を、ひいては私の大切で大好きな領民を守れる才能を。


今の私はこの才能に、この力に誇りを持っている。


彼らが太陽ならば、私はさしずめ月だ。


どちらが欠けていてもダメな、表裏一体の存在。


私があるからこそ、彼らは輝き、逆もまた然り。


それを気づかせてくれたのが、彼が作るこの店の創業当時の酒で、この店の看板名になっているーーーーーーー。



「ーーーーーーお待たせしました」


コトリ、とワザと音を立ててマスターは私の目の前に赤色の酒が注がれたグラスを置く。


血のように、バラの花びらのように赤い酒だ。


赤ワインでもない、この酒はマスターのオリジナルカクテルだそうだ。


レシピは秘匿だそうで、誰にも教えず受け継ぐことは未来永劫ないらしい。


ならば、この酒は彼そのもの。


私はこの酒を呑む度に彼の命を、彼の時間を頂いているのだ。


「ご注文の、“処女の生き血”でございます」


処女の生き血ね。


生々しい名前の割に、お酒自体の味は甘くて呑みやすい。仄かにバラの香りがするのも好ましい。


私はグラスを手に取ると、まずは酒自体の香りを楽しむ。まるで摘み取ったばかりのバラの豊潤な香りの余韻を楽しむと、お待ちかねの味を堪能すべくグラスの縁に口をつける。


コクリ、と喉を鳴らしてほんのわずかばかりの甘い酒を喉の奥へと流し込む。


あぁ、本当に美味しい。


ホゥ、と酒気がこもった吐息を吐き出し、私はいつものようにマスターに賛辞の言葉を贈る。


「・・・・・・うん、今日のお酒も美味しいわ。流石マスター、腕は衰えていないわね」


「ーーーーーーありがとうございます。実に光栄でございます」


変わらない言葉。


ほぼ毎日と交わされる台詞。


なのに、とても心地よい。


変わらない日常に感謝しながら、私はしばしの平穏な時間を享受する。


この格別な一杯の酒と共に。

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