第十八章 泥だらけのお姫様

セイラと別れた僕たちはフレイヤの先導のもと彼女の両親が営む宿屋“フレイヤの止まり木”へと向かった。


道中あの奴隷商の男たちと鉢合わせしないかドギマギしたが、そんなことはなく実にスムーズに宿屋へと辿り着くことが出来た。


今現在の時刻は昼を少し過ぎた頃か。


フレイヤ曰く、そろそろ宿屋に泊まる客が宿屋の門を叩くとのことなどで、僕たちは表門ではなく裏口から宿の中へと入った。


というか関係者は営業中は裏口から入るのが常識だよね、と僕は自身もアルバイトながら接客業に従事しているのでごく当たり前に行っていた。


裏口は宿の厨房に通じていて、俗に言う勝手口という場所だ。家族以外この裏口を使うことは出来ず、安全に人目もなく出入りが出来るとのこと。


フレイヤは首から下げた紐付きの鍵を取り出し、なれた手付きで鍵を鍵口に入れて開錠する。


古びた木の扉が開く耳障りで重厚な音と共に開き、ほんの少しだけ開いた扉の隙間から美味しそうな匂いが漂ってきた。


どうやら夕食の仕込みをしている様だ。ならば最低でも挨拶くらいはして通りすぎるべきか。


というか料理する場所に、この子を入れても良いのかな?


女の子にこういったことを言うのは本当に気が引けるけど・・・・・・、けれど言わなきゃいけないというジレンマ。


ごめん、後でちゃんと謝るから許して・・・・・・。


「あ、あのさフレイヤ。この子すごく汚れてるけど、このまま中に入っても大丈夫?」


「え? ・・・・・・あぁ、そう言えばそうだね。けれどウチには浴場がないから、大半の人は中央街にある公衆浴場に行くんだけど」


「そうなのか? でも、流石にこのままじゃあ行けないだろうし。・・・・・・どうするかな」


「あっ、希望者にはサービスでたらいに入ったお湯を渡してるから、今日はそれでこの子の汚れを拭ってくれないかな?」


「え? 僕が? それはちょっと・・・・・・」


女の子を洗うなんて、と尻すぼみながらも言葉を紡ぐ。


女は女同士、同性の方が気心が知れてるし、そもそも男の僕が女の子の身体を洗うなんて犯罪だ。


分かんないかなぁ、とフレイヤに嘆願するも、当のフレイヤはあっけらかんとした表情でとんでも発言を言い放つ。


「別に良いんじゃない? まだ子供だし、それにこの子は貴方の傍から離れたくないみたいだし」


いやいや、いやいやいや!!


そんな理由で!?


倫理的な問題で、これはダウトでしょ!!


僕はフレイヤに引き下がる。こればかりは譲れない。


そもそも生まれた時か一人っ子で、女友達や彼女もいたこともない僕が女の子の身体を洗うなんてそんなハードルの高い!!


童貞を舐めるなよ!!


女慣れしているヤリチンや陽キャとは格が違うのだよ! 色々と・・・・・・、はぁ。


僕の必死さが伝わったのか、フレイヤは渋々と言った感じだが頷いてくれた。


「・・・・・・仕方ないわね。だけど、せめて足くらいは拭いてあげなさい。中に入るにも足に付いた泥くらいは落とさないとだし」


「あ、あぁ・・・・・・、それくらいなら」


せめてもの妥協案なのだろう。


ハードルが下がったし、コミュニケーションにもなる。


警戒心を解くには軽い身体のスキンシップが有効だと聞いたことがある。


ここは心を込めてやろう。


僕は宿屋に入るまでにフレイヤが教えてくれた洗い場へと向かう。


その洗い場は宿屋の裏庭に設けられており、宿屋の利用者ならば誰でも無料で使用することが出来る。


野菜や洗濯物を洗う共用の洗い場で、すぐそばには水を汲む石造りの井戸が置かれていた。


ここから水を汲むのか。ぽっかりと開いた穴から中を覗き込む。そこが見えない真っ暗な井戸。


僕は地面に置かれた荒縄が取ってにくくりつけられた木桶を、手探りに井戸へとゆっくりと下ろしていく。


現代日本で暮らした僕にとって初めての体験だ。上手く水を汲めるかな・・・・・・、ドキドキさせながら桶を下ろしていく。


僕が水汲みをしている間、あの少女には近くにあったボロボロの椅子に腰掛けてもらい終わるまで待ってもらっている。


フレイヤはその間に両親に事のあらましを説明してもらっている。万事上手く事を運ばせるには彼らにも協力もとい理解が必要不可欠だからだ。


底に着いたか分からないが、ポチャンと水が弾ける音と、握った縄を通して伝わる僅かながらも液体が注がれた時特有の重たい感触。


よし、と確かな手応えを感じた僕は手繰り寄せるように縄を引き上げていく。


重たい。


そりゃそうだ。行きは空だったけど、帰りは水が入ってるんだから。


昔はこれを人力でやってたんだもんな。そりゃあ大変なはずだ。筋肉が悲鳴をあげているのが分かる。


プルプルと痙攣するように震える腕に力を込めて、僕は木桶を無事地上まで引き上げることに成功する。


ふぅー、とため息一つ。


僕は自分で汲み上げた水が入った桶へと視線を下ろす。


桶の半分ほどまで入れられた水。透き通ってキラキラと日の光に反射していた。


たかだか水を汲み上げただけど、こうやって見てみると感慨深いものがあるな。


僕はフレイヤに手渡された円形のたらいに水を注ぎ入れる。


これくらいあれば足を洗うには十分であろう。


僕はたらいを持って少し離れた場所で待つ少女の元へと歩み寄る。


重たい物を持っているせいか少しふらつくけど、折角苦労して汲んだ水なので溢さないように注意して。


僕はどうにかこうにか無事に少女の元へとたどり着いた。


ゴトリ、と僕は手に持っていたたらいを地面に置いて、


「ーーーーーーほら、足を洗うから。ここに足を入れて」


どっちからでもいいからね、とも付け足す。


焦らずに、ゆっくりと。


急いては事を仕損じるの心境で挑まないと。


少女は迷う素振りを見せたものの、おずおずと泥にまみれた枯れ木のように細い足をこちらに差し出した。


枯れ木のようなと表現したが、言葉通りの老人のような足ではなくて、しなやかで柔らかな肌の感触もある年相応の美しい足だ。


僕は壊れ物を触るように慎重に少女の足に手をやると、汚れるのも厭わずに彼女の足を洗う作業に取りかかる。


まずは水温の確認だ。指を水面に浸してみる。冷水でもなくかといって温くもないちょうど良い水温だ。


水温もクリアしたことだし、次の行動に移ろうか。


僕は手のひらをお椀の形にすると、少量の水をすくって少女の足にかける。


脅かさないように、ゆっくりと。


水をかけた瞬間、少女の足が反射でほんの少しだけ跳ね上がったが、それも一瞬のことだ。


どうやら水がかかったことに驚いただけらしい。二回目に水をかけた時は水温に慣れたのか大人しくしていてくれた。


パシャ、パシャ。


無心で少女の足を洗いあげる。汚れを見落とさずに丁寧に隅々まで。


固まった泥が綺麗に落ちる様は見ていて清々しい。


ふくらはぎから足の指の先まで磨き上げる(あまり奥の方は見ない方向で)。


片足が終わったら反対の足を洗う。泥にまみれていた足も数十分後には雪のように白く輝く素肌が日の下にお目見えした。


「ーーーーーーほら、終わったよ」


本当はこんなにも綺麗なんだ、と洗った当事者としては誇らしい気持ちになる。


それにしてもやはりこの女の子はいい身分の出身のような気がする。それは肌一つからも垣間見える。


本当ならば身体も洗ってあげたいけど、異性の裸を見る度胸も洗う度胸もない。


しのびないけれど、今はこれで許してもらおう。


僕は洗い立ての水滴が滴り落ちる白く輝く細い足を、ここに来る前に別れたフレイヤから手渡された布で丁寧に拭う。


「・・・・・・ぅん、はぁっ、っ!!」


拭く度に聞こえてくる妙に艶かしい吐息混じりの呻き声は聞かぬフリで。


昂りそうになる心を抑えながらも、どうにか無事に拭き終えることに成功した。


僕は汚れた水を洗い場のすぐ横の排水溝に流し入れる。石鹸とかを使用していないのでそのまま流しても大丈夫なはず。


僕は自身の手に付いた汚れを洗おうと、追加の水を汲むべく井戸へ歩み寄る。


あぁ、本当に日本での暮らしが懐かしく恋しい。蛇口を捻ればすぐに綺麗な水が出てくるのだから。


こんな重労働しなくても容易に水が出てくる文明の利器はここにはない。


もし日本に戻れたら普段何気なく使っていた水を今まで以上に感謝して使わせてもらおう。


それくらいに水汲みは面倒くさいものだ。たった二回しか使ったことない僕ですら嫌になるほどこの作業は一苦労だ。


とはいえこれ以外他に水を得る手段はないので、渋々ながらも僕は井戸での水汲みにせいを出す。


(手を洗うだけだからちょっとでいいかな?)


さっきのより気持ち少なめに、幾分か慣れた手付きで僕は桶に水を汲み入れる。


汲んだ水は先ほどと同じにたらいに注ぐ。余った分は井戸の中に戻した。


手を洗うだけだから手のひらが浸かる分しか要らないし、全部使うのは非常にもったいないからだ。


僕は手を洗いながら、やっぱり石鹸やハンドソープの偉大さや有り難さに今更ながら気づく。


あるとないとじゃ汚れの落ち具合が段違いだし、表面的には綺麗に見える手も目に見えない菌が付いている可能性がある。


そうなれば病気になる確率もぐーんと跳ね上がる。


なのでせめて石鹸くらいはあると助かるのだが・・・・・・、後でフレイヤに聞いてみようか。


まぁ、仮にあったとしても文無しの僕には高嶺の花か。


等々の考え事をしつつ僕は手早く両手に付いた汚れを落とす。


あんまり待たせるのも失礼だし、そろそろフレイヤが迎えに来るかもしれない。


僕は彼女の足を拭いた布で濡れた手を雑に拭うと、取り敢えずズボンのポケットに突っ込んだ。


汚くなった水はさっきと同じように排水溝に流し入れると、使い終わったたらいを共用の洗い場へと戻す。


さて、こんなもんかな。


なにか不備がないかと最後に確認の意味も込めて、僕はグルリと洗い場を見渡す。


うん、異常はなしと。


ならばここにはもう用はないよね。


僕は大人しく木椅子に腰掛ける少女の元へと歩み寄り、顔の高さに合わせるように跪くと怏々しくも被らせていたフードを手ずから外す。


外した瞬間に、長い長い白銀の髪がフンワリと広がり落ち。次いで現れた金と銀のオッドアイが日の光に反射するように輝く。


本当に、溜め息がこぼれるほどに美しい女の子だ。


まるで絵本から飛び出してきたかのような、儚さを纏った華奢で華美な少女。


さしずめ泥だらけのお姫様といったところか。


僕は相変わらずこちらを警戒する少女の気を少しでも紛らわそうと、普段はしないであろうはっちゃけた行動に出た。


後で思い返してみると、なんとも恥ずかしい行動だったと思う。


その行動とはーーーーーーー、



「・・・・・・お姫様、お手をどうぞ」


仰々しい仕草で彼女の前に、まるで物語に出てくる騎士がお姫様に傅くように片膝をついて跪くと、自身の手を少女へと差し出した。


わざとらしかったかな?


やっておいて今更と思うが、やはり気恥ずかしさは拭えない。すぐさま後悔するも、それは杞憂であった。


何故ならば、簡単なことだ。


お姫様が、笑ってくれたのだ。


初めて、微笑んでくれたのだ。


それだけで、僕のとった恥ずかしい行動は報われるというものだ。


まるで大輪の華が咲き誇るような美しい笑顔を見て、僕は時間の経つのも忘れて見惚れていた。


あぁ、やはり彼女はお姫様だ。


僕は本能的にそう悟ったのであった。

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