2-8. 嵐の前
出撃前夜。
マホトラス陣営との戦いとなるであろう戦地に赴くということは、激しい死線を越えなければならないことを意味する。それは、今までの戦いの比では無いのかもしれない。この先何が待ち受けているか、まだ誰も知る由もない。しかし、明確に目的がある。攻め込んでくるであろう敵勢力を排除し、そこに住まう人々を護る。それが彼に与えられた任務であり、彼が自らに課す義務の一つだ。それを果たすために、征くべき場所に向かうことになる。
「―――――――――――。」
食事も済ませ、身支度も済ませ、明日の朝早くにここを出発するだけになったアトリは、寝るまでの時間をどのように過ごそうかと迷い、普段と違うことをしてみようと思い立ってそれを実行していた。静かな夜。城下町の賑やかな雰囲気も静寂と変化し、既に王都カルディナは深い眠りについていた。時間は23時半過ぎ。もう少しで日も変わろうかというところ。実際のところ、彼も王城で眠りにつこうと当初は思っていたのだが、実際には中々寝付けず、少し気分転換をしようという気になったのだ。それだけ、彼としてもこの出征にかける思いがこれまでとは違うということにもなるだろう。彼が今いるのは、王の丘と呼ばれる場所。城と城下町を一望できるスポット。かつての国王が残した言葉を記録する石碑のすぐ近くにいた。自由と平等を約束するために邁進した、先代の国王。かの王が目指した理想の国は、形はどうあれその礎を築くことには成功している。だが、いまだ不穏な世の流れは続いており、そしてかつて同胞でありこの国を興すために尽力した者たち同士が刃を向けるという事態になっている。いつまでも世が平和でいることは無いのか、そう思わざるを得ない。
彼自身、分かっていたこと、理解していたことだ。暫くこの城に戻れなくなること。それは今までの比では無く、場合によっては戻れなくなることも考えていた。再び戦いが己の身を削ることになるだろう。
それでも。
誰かが戦わなければ、その誰かが報われなくなる。
助けられるものがあるなら助けたい。
彼の目的に変わりはない。
「ん…………?」
王の丘に風が吹く。その風に乗り何かがはためく音が聞こえたので、彼はその音の鳴る方を振り返る。王の丘、このような時間に訪れる者はいない。実際彼もこの時間には数度しか来たことがないので、そうだろうと思っていた。そこに現れた人は、あまりにも意外な人だった。
「こんばんは、アトリくん。さっき、ここに向かって歩いて行く姿を見ちゃった」
彼の前に現れたのは、王女エレーナ。昨日、出征前の挨拶を済ませたつもりでいたのだが、まさか彼女がここに現れるとは思ってもいなかったのだ。
「エレーナ………!!衛兵も連れずこんな時間に………っ!」
「ふふん。ちょっと私もやり過ぎかな?とは思ってたけど、そこは大丈夫!」
「………何が大丈夫、なんだ………?」
「ほら、帰り道はアトリくんがいるから!」
それに、夜間だけは私だけの自由行動時間だからね!と笑顔でピースしながら、彼にアピールをするエレーナ。その姿があまりに自信に満ちたものであったので、逆に彼としては拍子抜けしてしまっていた。いくら夜とはいえ、護衛もつけずに一人ここまで歩いてくるとは、と驚きもした。
「………いよいよ、明日だものね。」
「ああ。暫くは戻れなくなる。」
「そうだよね。ちょっと寂しいな」
「…………?」
あら、私だってそう思うことはあるんだよ?と少しばかり寂し気に、でも笑顔で彼にそう話すエレーナ。そうか、決して珍しいことでもないか、とアトリは思う。彼はそうした繊細な気持ちに関しては鈍感で、それをエレーナもよく知っている。普段から彼と関わり、話をしていれば、そうした人となりは伝わって来るものだ。
「私ね、最近やってみたいことが一つ出来たんだ。聞いてくれるかな?」
「ん?ああ。どんなこと?」
「それはね、貴方のお手伝いをすること。一緒に勉強すること、です!」
「………???」
彼女がこの時思い描いていたことは、普段二人が関わる場として使っている図書館以外に、このカルディナの中において彼の仕事の手助けが出来そうなものを想像していたのだ。彼の軍務に四六時中関わるのは当然不可能として、それ以外の些細な事なら一緒に出来るかもしれない、と彼女は思っていたのだ。
「一緒に勉強なら、半ばいつもしてると思ったが。」
「まあそうなんだけど?この間の宝物庫漁りも、とっても楽しかったよっ」
「漁り、か………なんかそう言われると悪い気がしてきたな。」
「でもあんな感じに分担作業で捗りそうなものってあるでしょ?そういうことなら私喜んで付き合うよ」
「はは、そうか、それは頼もしい。」
彼はそうやって笑ってくれるが、きっとそこに特別なものを抱いてはいない。と、彼女は自分の中でそう確信している。でもそれがいつもの彼らしいとも思っている。今、彼の意識はもう、この先の任地にいる人々に向いていることだろう。
―――――――――私って、イヤな女かな。こんな大事なときに、こんな。
あの時、お父様やお母様、アルゴス卿やアルグヴェイン卿の誘いとはいえ、あの日ああやって話すことが無ければ、今こうやって二人で話すことの出来る関係は築けていなかった。キッカケは些細なものだったかもしれないけれど、私は今のこの関係をとても大事に思う。アトリくんはどうかな。なんて聞けないけれど………。
「そのためにも、ちゃんと帰ってきてね。」
「もちろん、そのつもりだ。」
「ほんとうかなあ。アトリくん無茶する人だから。」
「気を付けるよ。本当に。」
けれど、そう直接的にではないけれど、今聞いておきたいと思うこともあった。なぜか、今聞いておかないと、この先聞けなくなるかもしれないという何かを感じた。本当に大したことでは無いことだけど。たぶん、彼的には。
「アトリくんって、誰かを好きになったこと、ある?」
「―――――――――――好き?」
半ば目をまん丸にして疑問の表情を浮かべるアトリくん。まあ当然といえば当然か、急にそんなこと言われると。けど、彼の様子が少し妙だった。“好き”という単語を幾度か自分の中で静かに繰り返していた。そんなに気にすることかな。その言葉に。でも、あんまりにも言葉が出て来ないアトリくんを見て、思わず援護射撃。もしかして………?
「たとえば、その、誰かといつも傍にいたい、とか…………」
「………ああ、なるほど。いつも会っている人たちが今後も変わらず会えるのなら、それでいいと思ってる」
「そ、そっか。アトリくんの歳頃ならそういう感情あるかと思って」
たぶん、というよりは確信。人を好きになったことが無いんだ、アトリくん。
*
今度お話するアトリくんは………前からご両親が居なくて、一人でここまで来たの。彼はあまり身の上話をしないけれど、凄く大変な思いをしてきたのは、間違いないのよ。
*
いつか聞いた、母からの言葉。彼には想像以上の壮絶な過去がある。エレーナは、そのような経験があるということは聞いていた。しかし、彼の過去に関わることを彼から直接聞いたことは少ない。特に彼は身の上話を殆どしない。長い間、親と話すことも無かった。きっと親からの愛情も、私のそれや、このカルディナにいる人たちのそれとは全然異なるのだろう。それが今の彼の人となりの一つになってしまっているのだろうか。たった一つの疑問、単語から、そこまで想像してしまった。
「エレーナは、そういう、誰かを好きになったことはある?」
「えっ、私?」
「ああ。」
「私………ふ、ふふーどうかな?誰かと一緒に居たいって思うのは私も同じかなーっ、なんて」
「そうか。良かった。身近にでもそう思える人がいるのなら、良かった。」
私はずっと、自分の気持ちを押さえつけていた。王家の人間だから。普通の人にはどうしてもなれないから。皆と同じような気持ちを、願いを、感情を、持つことを躊躇った。でもそれは、人そのものの否定。たとえそれが王家の一人であったとしても、そんなこと許されるものじゃない。だから、アトリくんはよく私に話してくれた。見抜かれていたんだ、きっと。普通の人にはなれない私を、気遣ってくれた。出来るだけ同じ歳の立場で物が言えるようにって………。
「帰ろうか。あまり遅い時間に居て良いものじゃないだろうから」
「………そうだね。ごめんねこんなところまで。エスコート、いい?」
「何も。そこはお任せを。それに」
「?」
―――――――――ありがとう。戦いに出ても、帰る理由があるのはいい。
その言葉は、嬉しさもあったけれど、余計に不安にもさせた。彼を責めるつもりはない。寧ろ、別に含みを持たせている私のほうこそおかしなものだった。けれど、どうしてなんだろう。
――――――――彼の姿を見て、彼が居なくなってしまうのではないか。
今まで彼の背中を見送ることは何度もあった。鎧も身に着けないで、軽装で剣を下げて、馬に乗って駆け出していく彼の姿を何度も見た。幾度の戦場を越えて、ボロボロになって帰ってきたこともあったけれど、彼は必ず帰ってきた。今回もそうであって欲しい。そうでなきゃダメ。でも、何か違う。いつもとは違う何かを感じてしまう。いつも通りだと言い聞かせる自分自身が「それは嘘だ」と言っているような。死地へ行き民たちを、兵士たちを護る。その任務はいつもと何ら変わりはないはずなのに。
出来ることなら、もっと、もう少し。
一緒に居たかった。
本当は行って欲しくない。そう思ったことが、今回のみならず、過去に何度かある。彼女が子供心に漠然とした不安で満ちてしまった経験があるからだ。
彼の進む道がどのようなものであるかは、大方想像がつく。だが、その過程にどのようなことを彼が経験するかは、分からない。もしかしたら、その過程が彼の結末を変えてしまうかもしれない。だが、その結果を得るためには、どうしても戦う必要があった。それは国の為、民のため、そして自分自身の信条のために。彼女エレーナに、それを止める力は無い。止めることも出来ないし、そうすることもない。引き留める、手繰り寄せる力も彼女には無いのだ。何故なら、彼女も彼を認めてしまっているから。
その生き様を、その姿を。
愚直なまでに己の信条とその果てにある理想を追い続ける、その背中を。剣と心を縫い合わせ一本の刃となったその気持ちが、たとえ折れ砕けようとも止まらない。少なくともこの時点で、今の彼を止められる者はいない。認めていると自覚しているのなら、私は彼を送り出すべきだ。その前に、少しでも一緒に時間を共有出来たら良い。そう強く思ったのが、ここ数日。
今まで多くの時間を彼と過ごしてきた。
彼との出会い、その過程にあった出来事や思い出。
そのすべてではないが、彼女はそれを記憶にとどめている。
数ある情景の中でもハッキリと思い出されるものが、幾つもある。
共に時間を過ごした間柄だからこそ、その時間が遠のくのは寂しい。
しかし。それでも彼女は信じ続ける。彼がいずれ戻ってくることを。
たとえどのような結果が彼を待ち受けていようと、いずれ必ず―――――――。
翌日。早朝、5時。
「相変わらず、出る時は早いんだな。」
「………アルゴス卿。もうお判りでしょうに。」
「そうだな。今更か」
城の通用口から裏門へ出て、厩舎へ。彼がいつも遠出する際に使用する愛馬を受け取り、そのまま郊外へ駆け出そうとすると、厩舎の外には七騎士の一人、アルゴスが彼を待っていた。相変わらずの完全武装姿。この時間なら人通りもほぼ無いので、目立つことは無いだろうが、厩舎を担当する兵士たちはアルゴスが現れてさぞ驚いたことだろう。そこへ、意外な人物がさらにやってきた。
「レイモンさん………?」
「たまにはな。」
「これは珍しい………」
何かあったのですか?と思わずアトリが二人に告げるほど、彼には珍しい光景だったのだろう。鍛冶士のレイモンがアトリの見送りに来ていたのだ。まだこの時間は工房も開けておらず、仕事の時間でも無いので寝ていても不思議ではない。それに、今まで彼の出征にレイモンが来ることは無かった。レイモンの目線は彼の剣にあった。
「大事にしろ。お前にしかそいつは渡しておらんからな」
「いいものを打っていただきました。ありがとうございます」
「それがあれば彼奴らにも引けは取らんだろう」
アトリは剣の柄をそっとなぞり、まだ実戦で使ったことは無いが、その剣を大切に使おうと改めて決意する。何しろ彼専用のものだと言う。これまでそういった経験が無かったため、それだけでも彼にとっては意味のあるものだった。レイモンが一瞬苦い表情を浮かべたようにも見えたが、彼には朝陽の光の加減でよく見えていなかったし気にすることもなかった。
「では、行きます。」
「気を付けろよ。」
「吉報を待っている。」
そうして、アルゴス、レイモンという二人の奇妙な組み合わせによる見送りを受け、彼は馬を駆けだして郊外へと向かっていく。その背中が見えなくなるまで、二人は静かに見届けた。
そして。
「………本当にこれで良かったのだな、アルゴス。」
静かに、レイモンは男にそう言葉を放つ。
「ああ。これは彼を彼自身から守るための手段でもある」
それに、同じく静かに、暗く、アルゴスが返答する。
あの男は、こんな形で使われるのを望まないだろうが、今目前に迫った危機に対処するには、そうするしかない。たとえ望まれない形で利用されるのだとしても、それで命が残り続けるのならそちらの方が重要だ。その細工の存在に彼が気付くかどうかは分からない。だがあえてこちらから言うことはしない。
…………こんな方法でしか、助力が出来ない国の惨めさを呪いたくもなるが。
――――――お前が危惧したように、事は始まってしまったよ。アーサー。
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