2-7. 兵士の卵




 出征を明日に控えたアトリの、カルディナ城にて。



 「クロエが?………珍しいこともあるのですね。」

 「まあクロエも女性だ。身体の管理はしっかりしているとはいえ、敏感なこともあるだろう。という訳で、お前に手伝いをしてほしい。」

 「………ええ、それは構いませんが、私に子供たちの剣術稽古など………」

 「初めてではないだろう。それに、子供たちもお前の腕の良さはよく耳にしている。いつもより張り切るかもしれないな。チェイス軍曹と上手くやってくれ」



 王城内にて剣術稽古の指南役であるクロエが、極度の体調不良を起こして一日動けずにいるとの情報をアルゴスからもたらされたアトリ。過労と女性特有の身体の具合が重なったと言うことで、理由を知ったアトリはそれ以上のことを聞くことはしなかった。ただ、彼女が居ないと王城に通う子供たちの剣術稽古の先生がいなくなる。元々この仕事を彼女一人に任せていることが妙なものではあったが、恐らく代わりもいないのだろう。特にこの戦時下にあっては。彼も明日からウェストノーズへの行程を始めることになっているが、昨日に引き続き今日も具体的な仕事を指示されることなく、明日への準備を進めるだけであった。そこでアルゴスが彼に頼んだのだ。

 「分かりました。善処します」

 「彼らは兵士になりたいと志す兵士の卵だ。一日だけだが、しっかり頼む。」

 「はい。それでは」

 彼らは皆、兵士になりたいが為に鍛錬を重ねる子供たちだと言う。かつて彼も同じ行程を経験したことがある。兵士になるためには、まず訓練生として身体と精神を鍛え、剣術を磨き、学問に励む必要がある。そのうち、今特に重要視されているのが、剣術である。マホトラス陣営との戦争状態にあるウェルズにとって、兵士の育成と数を揃えることは急務である。とはいえ、一日二日の指導をしたところで兵士になれるはずもなく、時間を使って教育を施さなければならないのが現状だ。新たに兵士になるためには、その為に困難な訓練を乗り越えなければならない。幸いにして、兵士を志す者の多くが自ら希望して鍛錬を積んでいるので、厳しい修行にも喰らいついて行こうと発奮する人も多い。国側としてもその方が都合が良いに違いない。だが、国は今長期的な戦争に備える為に必要な兵員が揃わないという苦境を迎えている。出来ることなら早くこの養成所の見習いたちを戦場に送り出したいと考えていることだろう。剣術を中心に訓練させるのも、すぐ戦場に出ても立ち回れるという理由からであった。

 「やあ、アトリ殿ですね。まさかこのような形でご一緒できるとは。」

 「その、宜しくお願いします。チェイス軍曹は普段は何を………?」

 「基本、王城勤務ですが、軍務においては事務関連を少々。」

 「なるほど………では一つ頼まれて欲しいことがあるのですが。」

 「はい。なんでしょう?」

 「私は皆を指揮したり、取り纏めたりすることは苦手です。その、訓練の進行役は軍曹にお願いしても良いでしょうか………?」

 もし、この会話をこの間マホトラス陣営との戦いを経験した味方兵士が見ていれば、何をそんな謙遜するのか、と彼に問いかけたことだろう。彼は自分では全く自信を持っていなかったが、民たちを避難させながら敵の侵攻を食い止める時に、周囲の味方兵士に的確に指示を飛ばしていた。彼の行動によって救われ、また次なる行動を迅速にできた兵士も多かったことだろう。この時の彼は、訓練生を相手にどのような振る舞いをすればいいのかが全く分からなかったため、明らかに自分よりは年上であろうと推測できるチェイス軍曹にその辺りの進行を任せたのだ。

 「分かりました。承りましょう。剣術については逆にお任せしても?」

 「ええ。それは構いません。」

 「ありがとうございます。いやあ、何しろアトリ殿の剣腕は広く有名ですからな。私は事務方なのであまり機会は無いかと思いますが、見せてもらうとしましょう。」

 まあ、実戦と訓練とではやり方も異なるものだから、あまり参考になるかどうか、と彼は静かに思いながらも、とにかくこの役目を果たすことを目的とした。明日から長い旅になるし、恐らく激しい戦いとなるだろう。その前の、少しだけの気分換えになればいいのだが。



 「整列!!………宜しくお願いします!!」

 王城内には幾つもの鍛練場があり、普段から剣術稽古や訓練に使われているところもあれば、既に現役の兵士として方々で活躍をしている者たちが修行や鍛練に使うところもある。今日二人が来たのは道場でも兵士になろうと志す者たちが使うところ。彼はここへ来るのは初めてではなく、今の立場になってもクロエと幾度か来たことがある。かつては彼もここを使ったが、今となっては遠い過去に思える。子供たちには代表者がいるようで、時間が来るまで自主練習や会話をしていた子供たちに号令をかけ、入ってきた二人の前に整列して挨拶をする。一同、“クロエ先生ではない人が来た”と思っていたことだろうが、子供たちの多くはアトリに視線を向けていた。その中でチェイス軍曹が話をする。

 「今日はクロエ教官が休みとなったので、我々二人で監督をすることになった。チェイス軍曹と、こちらは兵士アトリ。今日一日だがよろしく!」

 「「はい!!」」

 「では、号令を掛けてくれたそこの君。実戦形式での訓練をやる前に、いつもしている準備運動と基礎訓練を皆に指示してくれるかな」

 「はい!………各々散開、準備運動用意!!」

 なるほど。この規律正しい生徒たちは、クロエが直々に教えているということもあって、とても統率が取れている。二人はそのように評価した。あのクロエのことだ。やる時はとことんやる人だし、子供たちを相手にしても遊び無しで関わっているのだろう。教官としては素晴らしい存在のはずだ。そのクロエが居ないにも関わらず、それほど動揺せずにすぐ自分たちの訓練に取り掛かれる。これなら、こちらが手を焼くことも無いだろう。40人ほどの生徒は、年齢も体格も性別もバラバラだ。見たところ、皆殆ど10代だが、限りなく20代に近い者もいれば、まだ13くらいの者もいる。まず彼らは準備運動をした後に、皆がそれぞれ持つ木剣を両手に持ち、構えの状態から振り下ろす動作を繰り返す。素振りというものだ。

 「中々の気迫ですな。」

 「ええ、まったく。」

 「アトリ殿の時もこのような感じでしたか?」

 「自分の頃は、そもそも年齢層が根本的に異なりました。今は皆若い。それだけでも変化したと言えるものです。」

 彼らは一体何に憧れ、誰を見てそのような理想を抱くようになったのか。20代や30代で兵士になる者もいる中で、子供のうちから鍛錬を積み重ねる者がこれほど多くいることに、アトリも内心驚いていた。素振りは百回以上繰り返すとのことだが、アトリは静かに、邪魔をしないように道場内を歩きながらその様子を眺めていく。

 「肩の力が入り過ぎている。一度深呼吸をしてから構え直し、一度振り下ろしてみると良い。空気を斬る音がより鋭くなる。」

 「は、はい!!」

 「数をこなすのも大事だが、繰り返す一振りに何を課題とするかも考えるんだ」

 一人ひとりに教えるのは難しいのかもしれないが、見て回りながら、彼は多くの子供たちに端的に、しかし正確にアドバイスを告げた。チェイス軍曹は、実戦形式の訓練は終わっているものの、事務の仕事を請け負うことが殆どなので、戦場に出ることも無ければ、日常的に鍛錬を積むこともない。アトリという人間がどのような生活を送り、これまでどのような活躍をしてきたかを、チェイスは知っている。彼と話し、こうして共に仕事をするのは初めてであったが、感心していた。恐らく戦っている時の彼は強者としての在り方を振る舞っているのだろう。しかし今は、こうして子供たちに優しく、為になることを分かりやすく教えている。そういった側面もあるのだな、と素直に思っていたのだ。

 「…………?」

 その子供たちの中にも、一際目立つ存在もいる。二人の少年少女。見たところ、他の子供たちよりも年齢が低いように見受けられる。自分も人のことを言えたものでもないが、兵士としての訓練を始めた頃と同じように思えた。二人は他の子供たちと何ら変わらない動作を繰り返しているのだが、その剣筋はとても重々しく、しかし軽やかに動いている。風を切る音も他の人より段違いに太く鋭い。その太刀筋はあの歳にして磨き上げられている。素質が良いのか、それとも既に長い時間の経験を積んでいるのか。

 「よし。では今日はこれから模擬試合をしてもらう。二人一組になり、時間は1分。相手の武器を失わせるか、一度でも直撃を受ければ即終了だ。判定はこの私チェイス軍曹がさせてもらおうか。」

 「っ………はい!!」

 チェイス軍曹にも、子供たちの中で二人の少年少女が際立って良い動きをしていると見え、その二人含め他の子供たちの実力を知りたいと欲し、実戦形式での練習を行うことにした。後に子供たちから聞いたことだが、模擬試合はそれほど数をこなしている訳ではないらしい。というのも、まだその段階に至っていない習熟度のため、もっと修行を積んだ後にさせる方針であるとクロエが話していたとか。子供たちが一同に緊張した表情を見せたのは、恐らくそのためだろう。号令を掛けてくれた代表の生徒に聞き、それぞれ実力が近い組み合わせを作ってもらった。いつも木剣の打ち合いで組み合わせるものだと聞く。

 「クロエ教官の方針だと聞くが、アトリ殿はどう思います?」

 「方針は方針で従うべきでしょう。もっとも、この国は速やかに兵士を整えたいと欲しているでしょうけれど、焦ったところで良い兵士は育ちません。」

 「まあ、現実は理想のようにはならない、ということですか。」

 「兵士として認可されるには試験に受かる必要があります。その意味で、この訓練は決して無駄にはならないでしょう。」

 そして二人は一組ずつ模擬試合を始めさせる。道場の中央でそれを行い、周囲を兵士たちが囲んでその様子を見る、という構図だ。一組ずつ対戦が行われた後、アトリとチェイスの二人がアドバイスを伝え次の組に渡すというものだ。かつて、彼が僅か数週間でこの過程を終わらせた時も同じように模擬試合をしたが、その時は教官を相手に全く引けを取らない戦いを繰り広げた。唯一負けた相手が、その当時の師匠としての立ち位置にいた、クロエだった。

 暫くその様子を眺め続け、時に彼らに役立つようなアドバイスを皆に聞こえるように伝えるアトリ。そして、二人が注目した、他の生徒たちの中でも際立って動きの良い少年少女の組み合わせが来る。



 「ちょっと久し振りかな?こんな気持ちで戦うのは………!」


 「そうか?俺にとってはいつもと変わらんが………いつもと変わらず、負けないぞ、“クリス”」


 「いい加減私も“エクター”から一本取りたいんでね………行くよ………ッ!!」



 少女クリスと少年エクター。

それが二人の少年少女の名前だった。他の生徒たちが、アトリとチェイスを前に緊張した様子で立ち合いを始めたのに対し、二人は笑みも浮かべながら、対峙した。打ち合いが始まってすぐに分かることがあった。二人が対峙した直後に生まれた独特の雰囲気。互いに楽しそうにする一方で、他の者たちからは一切感じることの無かった剣気を二人は身に纏っている。無論、それは殺気ではない。だが、二人から溢れ出る剣気は互いに引けを取らず、決して譲ることのない気の強さを感じられる。

 「――――――――――!!」

 「ハッ――――――――!!」

 単純な力の強さでは、やはり男子であるエクターに軍配が上がるのだろう。しかし、クリスと呼ばれる少女も巧みに剣術を駆使しながら、場を移動し間合いを支配している。速攻かつ迅速に動く立ち回りをするクリスに対し、迎撃の姿勢を取りながら、確実にクリスの構えを乱さんとする力強さを持つエクター。その激しい動きは、道場の床を鳴らし振動を起こさせるほど。明らかに他の生徒たちに比べて、鋭い動きを見せている。

 「…………凄いなこれは」

 隣でチェイス軍曹は感嘆している。アトリは腕を組み、その様子をじっと見つめていた。1分近くの戦闘となるだろうが、とても情報量の多い戦闘でもあった。年齢から見ても、他の生徒たちに比べ年下で力も劣ると思い込んでいたのだが、実際はその逆だった。この二人なら、この生徒たちどころか、現役の兵士たちでも圧倒できる場合もあるだろう。これまで、数年の間で多くの兵士たちが誕生し、任地へ赴いている。彼は他の兵士たちとは異なる任務を帯びているので、配属されたばかりの兵士たちと仕事をする機会は殆ど無い。しかし、あるいは任地においてはこうした手並みを持つ新兵もいるのかもしれない。

 ―――――――――だが、その強さを目前に、心に翳りが降りかかるのも分かる。



 戦いは無くならない。この国が関わることが無いものであったとしても、世の中はずっと争い、戦い合い、そして殺し合いが続いて行く。これまでの歴史が証明しているように、これからの未来においてもその構図は変化しないだろう。飽くことのない戦いに身を投じることになるであろう彼らを前に、アトリは冷徹な心を手にした。こんなに優れた子供たちも必要とされ、前線へ送られ、そして惨たらしい死を迎えることになるのだとすれば、一体世界はどれほど荒んでしまっているのだろうか。どれほどの流血を望み、渇望し、それでもなお人の醜い争いを求めるのか。出来ることならこんな未来のある子供たちが戦闘に駆り出され命を枯らすことのない世の中にしたい。そのためにこそこの腕は振るわれるべきである。



 この時のアトリは自らも子供のうちであることを完全に蚊帳の外に置いていた。これまで国の為に忠を尽くし、多くの戦いに出ては多くの人々を救ってきた、自らの立場から思うことを心の中で表出させていた。優秀な、そう優秀な人材として認可されることになるだろう二人の少年少女は、そう遠くない未来に兵士としての道を歩み始めるに違いない。マホトラスとの戦いに出れば、その命が危うくなるのは必然だ。そんな未来の長い子供たちをも巻き込んだ戦いをしなければならないのか、と彼は嘆く。

 「あっ…………!!?」

 「よし、取ったぞ!」

 「ああぁもう………私のばか。」

 二人の戦いは、最後強烈な剣戟を加えたエクターにクリスが耐えられず、手元から剣を弾き飛ばされてしまったことで終焉を迎える。チェイスがそこまで、と声をかけた後で、他の生徒たちの試合では起こらなかった拍手がその場を包む。二人ともやや呼吸を乱していたが、互いに笑顔を見せるくらいにはまだ余裕があるらしい。

 「二人とも見事な戦いだった。他の皆とは異なる戦法だったので、参考になる部分とそうでない部分があると思うが、こうした技術は基本が出来ているからこそ出来るものである。皆も彼らに負けないよう、切磋琢磨して欲しい」

 「「はい!!」」

 それからも模擬試合は暫く続き、それなりに腕の立つ生徒たちもいた。アトリやチェイスが日頃から教官として彼らを指導しているのなら、早めに現場に上げたいと思う人材もいた。しかし今日の彼らは監督役でありそれを進言する立場にはない。アトリに至っては、たとえ素質があろうと戦わせること自体を躊躇う気持ちもあった。国としては一刻も早く戦力を確保したい。だが、子供たちを戦争に動員して未来を拓けるものなのか。矛盾した気持ちが彼を苛む。それでもこの場で必要とされている役割は果たし、彼らの次なるステップのための助力をすることは出来た。

 「「ありがとうございました!!」」

 恐らく、この調子ならこの二人はそう遠くない未来に、兵士として戦場にやってくるだろう。兵士の卵たち。殻を破る時間は個々によって異なるだろうが、いずれ来るその時が、はたして本当にこの国が求めるべきものなのか。



 「アトリさん!!」

 数時間の剣術稽古が終わって、彼はその日の任務をすべて完了させた。明日はいよいよウェストノーズへの出征が始まる。といっても一人で行くことになるのだが。後は夜に食事を済ませ、明日に備えて休むとしよう。そう考えながら廊下を歩き始めると、先程彼が指導していた生徒役で、あの生徒たちの中では有望株と言われていた少女クリスが走りながら声を掛けてきた。

 「君は先程の………クリスさん、だったかな。どうした」

 「あっ………お疲れ様です!すみません、突然」

 彼の前に辿り着くなり、ビシッと姿勢を正して一度敬礼をした少女クリス。彼も流石に生徒全員の名前を覚えることは出来ないが、この少女の動きはチェイスが注目していたのと同様に、彼もよく印象に残っている。そのためすぐに思い出すことが出来た。凛々しくもまだ子供のような表情もある、元気そうな少女。道着姿でセミロングの濃い目の茶髪を後頭部で縛り下ろしている。背は他の男子生徒たちと比べると小さめだが、この細身ながら繰り出される斬撃はとても鋭く力強いものであった。一瞬だけ強調された胸元にも視線が行ったが、すぐに彼女の顔に戻す。発育が良いのだろう。

 「畏まることも無い。先程は惜しかったな」

 「いえ!その………もう少しのところでした。私、いつも彼とペアを組んで戦うのですが、彼に数えるくらいしか勝てなくて………」

 「エクター君から一本取ったことはあるんだな。その時の感触は覚えているか?」

 「………いいえ、正直………無我夢中だった、と言いますか………」

 なるほど、このことを聞きに来たのか。彼から見れば、少年エクターと少女クリスとの間にはそれほど大きな実力差は無いように思えていた。しかし彼女からすれば、自分が彼に殆ど勝ったことが無いということからも、差は歴然としているように感じられるのだろう。無理も無いことだ。本当に敵わない相手だって世の中にはいる。だが二人はそうではない。互いに切磋琢磨して高みを目指しているように、彼には思えた。その実力差を埋め、出来ることなら越えて行きたい。それが彼女の目指すものの姿なのだろう。

 「君たちは、同学年なのか?」

 「はい!よくエクターとは稽古以外でも一緒に練習をしています」

 「そうか、良い意識を持っているんだな。私から言うとすれば、彼を相手にあまり気張り過ぎず、誰に対しても等しく勝ちを得られるような立ち回りを目指すと良い」

 「………?それは一体………」

 彼の助言は彼を相手にするというものではなく、実際に戦場に出た時のことを想定したものだった。無論、同じ歳の同じ力量を持つであろう相手を意識しないというのは難しい。だが、実際の戦場では相手の力量など戦ってみなければ分からない。エクターという存在を目標にするのは充分に良いだろう。しかし、彼と同じ力量の兵士が現れるかもしれないし、それ以上の存在が現れる可能性もある。


 「よく考えてみて欲しい。今貴方はこうして小さな町の一角で、知っている人と打ち合うことが出来る。ただ………それがいざ、外の世界で戦闘をすることになれば、相手がどのような人など見極めることは難しい。私とてそんな芸当は簡単には出来ない。だから、誰か特定の人を目標にするのではなく、己のために己を鍛え上げる。誰に対しても隔たりなく自分が勝てるように、鍛錬を積み重ねる。『この人には勝てるから手を抜いてもいい』、『この人相手には全力で戦うべき』という、気持ちの切り替えは大切かもしれないが、実戦では通用するかは分からない。少しの気の緩みが命の危機に直面することもあるのだから」


 彼女は静かに、深々と頷く。戦場で顔を合わせる敵兵士は、当然赤の他人であり見知らぬ兵士だろう。どれほどの腕前で、どのような考えの持ち主で、どのような戦略を打ち立ててくるか。それを瞬時に見極めるのは容易ではない。この時、アトリも同じようにして相手の行動を読み取るのは難しい、と教えていたのだが、彼は幾多の戦場を経験し、これを察知する能力に長けている。もし彼女が戦場に出ることになれば、はじめからそのような分析をしながら戦うことなど出来ないだろう。はじめての人殺しは、彼もよく覚えているが、目の前のことで一杯になるのだから。


 「貴方も実戦に出れば分かる。実際には理論よりも経験が物を言うことのほうが多く、マニュアルなどというものは当てにならないことの方が多い。経験したその腕が、身体が、その頭が何よりのマニュアルになる」

 「………アトリさんも、今まで沢山の戦闘を……?」

 そんなことは聞かなくても分かっている。兵士となればこの町にいる部隊のように、直轄地の防衛のための駐留部隊一員となったり、城の警備なども行う。時には自国の領土を護る為の戦いに出向き、死線を越えることもあるだろう。クリスが聞きたかったのは、形式上の回答ではない。彼が今まで具体的にどのような経験を積み、何を感じてきたか、ということ。その質問の意図をアトリもよく分かっていた。

 「………ああ。もう数え切れないくらいには」

 「大変、ではありませんか………?」

 「大変でない訳が無い。だが貴方たち兵士を目指す子どもは、それを承知でこの世界に志したんだろう?」 

 「はい!その点については充分に覚悟をしています」




 ―――――――――――。

 目の前の少女はその言葉を笑みを浮かべて放った。兵士を志す。殺戮と破壊の世界に足を踏み入れる。それを心から欲し、願うものがいる。それを目の当たりにした彼は、視線を逸らし、城壁の窓から見える外に視線を移した。クリスも思わず疑問符を浮かべるような表情をする。もうすぐ夕暮れ。雲の切れ間から鮮やかな赤い色が差し込んでくるようだ。その情景と彼女の言葉を乗せながら、彼は幾つかの記憶を瞬時に思い返していた。

 彼の周りにも、そう志して命を賭した者が何人もいた。何人も、何人もそういった綺麗な理想を思い浮かべて、儚く散って行った者を見た。ああ、そうだとも。俺はそういう人たちの未来を繋げる為に、破壊される今を護る為の戦いを続けてきた。だが実際には彼らが救われたことなど無い。助けられたなどという実感もそう持ち合わせてはいないだろう。



 「――――――――覚悟、か。そんなものは無い方が良いのかもしれない。」


 「え……………?」



 クリスは、アトリという剣士のことを知っている。こうして会って話すのは初めてだが、国にとても強い剣士がいて、一人でも多くの死地に赴いて大勢の人々を救っている兵士がいる、と聞いていた。実際に彼の前で彼と話してみて、その強さを知ることは出来ていないが、人々を護るという強い信念と優しい心を持っているんだと、彼女は思っていた。今もそれに変わりはない。前評判通りの強く、かつ優しい男性。そんな存在に彼女は尊敬の念を抱いていた。会ったことも無い人に尊敬の念を抱くなど、普通そうあるものではない。その勇敢な心を自分も持つんだ、と意気込んでいた。

 だが、今この瞬間の彼は、その存在が揺らいで見えた。表情は変わらず、しかしその瞳はどこか遠くの、かつての自分を見つめるようで。




 「覚悟はあった。多くの戦場を越え、多くの人々を犠牲にし、幾多の挫折を経験しながら、その先にこうして今も生きている。世の中には知らないだけで、数限りなく争いが起こり、その度に人の命が幾つも失われていく。戦いが無くなれば、そんなもので命を落とす人もいなくなるのだろうが、現実に戦いは無くならない。人々は飽くなき愚行を繰り返すんだ。貴方が向かう世界も、こうした人々の愚行の中にある。

――――――――貴方は、何のために兵士になりたい?」



 低い声色で告げるアトリ。幾多の経験から物を言うその言葉の数々は、一切の経験を積んでいない彼女には痛々しいほど突き刺さるものに思えた。実感が無いから立場に沿った考え方は出来ない。それでも、アトリが歩むその道が恐ろしく大変なものであることを痛感するには充分すぎるものであった。

 兵士になる理由。それは人によって様々だし、その意思は本来尊重されるべきもの。自由と平等が約束され、誰にでも自分の思う生活を送る権利が保障されている、この王国。だがアトリは、本当ならこのような少女が戦場に来てほしくは無かったのだ。戦いに巻き込まれれば、命など幾つあっても足りはしない。初陣で命を落とす味方など、今まで何人いたことか。その中で自分がこうして生き続けているのは、実力があるのか、あるいは単に運がいいのか。両方あり得るかもしれない。僅かな気の緩みが命を落とす原因となる。生半可な気持ちで兵士になりたい、などと思うべきではない。その先は決して明るい道ばかりではない。だからこそ、彼女にそう問いを投げかけたのだ。



 「私は、私を育ててくれた人たちと、その環境の為に恩返しがしたいんです」


 「………恩返し………?」


 「はい。親無き私をずっと育ててくれた、町の人がいます。料理をしてくれて、一緒に遊んで、時に叱ったり怒り合ったり、沢山の時間を町の人と過ごしてきました。この国が今、大きな危険を抱えていて、そのために多くの人が巻き込まれようとしている………だから、今度はその生活を私が護りたい、と思ったんです。」



 真っ直ぐな瞳を彼に向けてそう話す少女。アトリとしては、何も自分を産み育ててくれた環境に恩返しがしたいというのなら、兵士という方法に限ったものでもないと思っていたのだが、そこは彼女の意思なのだろう。自分が何のために兵士になりたいのか、兵士として何を目指したいのか。彼女にはそれが軸としてしっかりと備わっているのだろう。それは望ましいことだ。今まで育ててくれた人のために、その人たちが今後も安心して生活をしていけるために、兵士として国を護り、民を護り、そして自分をも護る。その力を身に着けたい。

 …………そんな彼女の姿に、彼はかつての「自分」を思い出す。





 *



 この手で、誰かを護れるのなら。

 幸せに暮らすことが出来るのなら。

 その時間を、未来の為に紡ぐことが出来るのなら――――――――。



 *



 その瞳が、その言葉が、まだ何も知らない少女だが、輝かしいものに思える。これから先に待ち受ける未来がたとえどれほど淀んだ暗いものであったとしても、今心に抱えている輝かしい思いは、決して穢れることもなく。そうであってほしいと彼は心に思う。かつての自分も、己の信条を信じ続けて、そして今もこの道を歩み続けているのだから。

 「………駄目、でしょうか?」

 「………いや、駄目なんてことはない。ただ、私も少し昔を思い出していた。己が信念を決して忘れず、毎日鍛練を重ねると良いと思う。そうすればきっと、貴方が目指したいものに近づくことは出来るだろう。」

 決して易しいものではないが、ぜひ精進して欲しい。彼はそう言うと、少女に背中を向けて歩き出す。それ以上、今ここで話すことは無いと背中が告げるように。きっと、少女と少年エクターは、遠くない未来に兵士となり前線に来るだろう。次に会えるかどうかは分からないが、どうか彼らが戦いに潰されることが無いように、と彼は小さく心の中で祈るのだった。

 「アトリさん、今度私が兵士になった時にでも、ぜひお手合わせ願います!」

 「…………今度、ね。その時を楽しみにしているよ。」

 「はい!約束です!」




 手に取り留めておくほどでも無い、細やかな約束―――――――――――――。

この時の約束が、後に意外な形で実現することになるのだが、その時を迎えるまでに、まだ数年の歳月を必要とする。





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