2-4. 漠然とした不安




 今日は本当に中身の濃い一日だった。身体に圧し掛かる疲労を感じながら、自室に戻ってきた彼はすぐに眠ることはせず、壁に背を任せて座っていた。既に夜も遅く、周りの兵士たちも就寝している。皆、今日という一日を終え、明日に向けて身体を休めているのだ。一方の彼は、かなりの疲労を感じているはずなのに、中々寝付くことが出来ずにいた。だから、いっそ眠気が一気に来るまで本でも読んでいようと思い、明かりをつけていた。石の壁に囲まれた小さな部屋で、一人読書をする。

 ――――――――読書をしながら、彼の思考は全く別の方に向いていた。



 「……………。」

 この国にも、かつて魔術師がいた。それは事実であると彼女は話した。魔術という法外な奇蹟の分析をするために、研究者がいたことも知った。だが今はその存在は居ないという。魔術師がこの国を離れたのと、貴族連合会の叛逆が露呈した時期は同じである可能性が高い。マホトラス陣営に魔術師が多くいる可能性がある、ということはウェルズ王国から魔術師が彼らのもとへ流出したと言えるのではないだろうか。王国はそれを故意に隠しているのではないだろうか。ウェルズ王国だけが魔術という存在を知っていた訳ではないと思うが、ここで研究をしていた内容が外部に漏れるのを王国は嫌ったはずだ。そして今、現実に魔術師は存在し、マホトラスの陣営は彼らを筆頭に侵攻の手を広げている。彼らに同じく対抗しようとするには、やはりこちらも魔術師を用意するべきなのだろう。しかし道具のように手に入るものでもない。まず魔術師になるための手段が無いのだから。

 「…………そろそろ、寝るか。」

 考えるばかりで謎が深まる。今はこれ以上考えたところでどうにもならない。ようやく少しばかりの眠気が来たので、今のうちに寝てしまおう。







 ………………。

 夢を、見ている。ここは現実ではなく、夢の中の世界だ。

目の前には地平線まで広がる美しい自然の大地と、その大地を照らす太陽の輝き、そして青く澄み渡った空が見えている。誰が見ても美しい光景だと言うだろう。一面に広がる緑の草原はまるで絨毯のよう。草花は彩り豊かに咲き、自然の造景をより温かく演出している。

 …………そんな自然の中に、一人の男が立っている。あれは誰だろうか?

なるほどこの夢は自分自身ではなく、他人の誰かを遠く背中から見届けているような構図になっているようだ。草原の中を一人、ゆっくりとした歩調で進む男の姿を見ている。男は全身を黒い服装で身に纏っている。まるであの黒剣士のように。この夢にストーリー性は無いのかと思うくらいに、静かに、ただ静かにその男が歩いて行くだけだった。風が吹こうと、草木が靡こうと、それ以上のことは起こらない。この夢は一体何を伝えようとしているのか。そう思っていた矢先、変化が生じた。

 ――――――――――――――。

 夢の中に映る黒い姿の男は、その場に止まり、片膝をついて視線を下ろした。まるで何か地面にあるものを拾うような仕草を見せた。背中からの姿しか見えていないアトリは、それが何をしているのかまでは分かっていなかった。ただ男が何かを拾い上げる動作をした、その瞬間。




 ――――――――――――――っ!!?

 視界一杯に白い輝きが現れ、目の前が見えなくなる。一瞬ではあったが強烈な光だった。その直後、突如荒れ狂う風に大自然が暴れ始める。風が吹き荒れ、草原の草は風の勢いに負け次々と空に舞っていく。瞬く間に変貌する世界の景色。まるで時間を加速させたかの如く、高速で世界が変わっていく。美しかったはずの大地は黒ずんでいき、豊かな草原は瞬く間に消滅し、男の姿のみがクローズアップされていく。見ているだけの彼ですら、その光景に意識を吸い込まれていくようだった。そこに身体は存在しないというのに、荒れ狂う風に飛ばされそうだった。あるべき輝きが失われていく。黒い闇がすべてを支配していく。その光景を、見ているだけの彼ですら圧倒される。言い知れぬ恐怖と不安が荒波の如く心を打ち付ける。不安定になるのを理解する。どうすればこの夢は醒めるのか。何を伝えようとしているのか。そして、あの男は一体誰なのか。

 黒い世界に一面支配されたとき、男が立ち上がり、振り返った。彼のほうを見るように。夢の中だというのに、彼の存在を知覚しているかのように。だが不思議なことに輪郭はぼやけており、表情は全く見て取れない。それさえ分かれば、あれが誰か分かったかもしれないのに、判別すら出来ない。




 ただ。なんとなく、その男には見覚えがあるような、気がした。

 自分はあの人を知っている。どういう訳か、そんな気持ちにさせた。

 それで何になるのか。それが何なのか。



 ――――――――――――再び世界が転調する。

黒ずんだ世界から再び白い輝きが発せられ、元の景色に戻るのかと思いきや、やがて世界全体が白と赤のコントラストで覆い尽くされる。先程まで見ていた美しい大地とも異なる、新たな世界が形成されていく。視界の変化は高速で、まるで幾つもの景色を早送りで見せられているような、そんな様子だ。だからだろう。時間が急激な加速をしているように感じられるのは。

 そうして、目の前に現れた景色は。




 ………………。

 世界が、赤く染まっている。

 空も、雲も、大地も、そして太陽までも。

 誰がこのような光景を覆すことが出来るだろうか。

 どこまでも続いていく、赤い炎。

 すべてを飲み込むかのような、光景。

 先程まで見えていた美しい大地は、空は、今はもう存在すら許されなかった。

 燃え盛る大地。崩れゆく瓦礫の数々。

 外界から隔絶されたかのような、見たことも無い空虚な姿。

 あらゆる物が混在していてもなお、空っぽにしか見えない大地の果て。

 元々あったものが失われ、奪われ、その果てに永久に棄てられたと言うべきか。

 取り戻す術を持たず、やり直すことも叶わず。



 ただそこにあるだけの、地獄を見た―――――――――――。




 その地獄の中で、いつの間にか男は剣を持っていた。多くの躯が転がり、多くの武器が無残な姿で転がり、男もまた、戦う道具にすらならなくなったボロボロの剣を地面に突き刺した。一人しか残っていない、滅びの果て。迎えられた地獄の中で、為す術もなくただ一人、男は悔しそうに、その景色の中に沈んでいく。




 「っ……………!!?」

 そこで、夢は途切れた。一つ、心臓の鼓動が張り裂けるくらい大きく脈打つと、彼は勢いよく起き上がった。まだ周りは暗い。時間も、先程からそれほど経っていない。身体は全身に冷や汗をかいていて、気分も優れなかった。目眩、吐き気、悪寒にも似た感覚。あまりに突然すぎる出来事に、彼の心身も驚いていた。口の中一杯に広がる血の味は、身体の中から逆流してきたものだろうか。吐き出しそうになるがそれをグッと堪える。一体何が起きたのか分からない。そのくらい急激な体調の変化だった。やがてそれも落ち着いてくるが、彼の脳裏にはあの幾つもの映像が鮮明に思い出される。

 「…………何だったんだ、今のは…………」

 最後、何か言っていたような気がする。だがそれは彼には聞き取れなかった。男の姿は顔が見えなくとも思い出すことは出来る。だが言葉は分からなかった。数分経ちようやく身体が落ち着いてきた。だが全身を襲う倦怠感は強く、立ち上がるのも難しいと感じるくらいに身体は強張っていた。それでもあまりの出来事に身体を冷やし、水分を欲したアトリはゆっくりと部屋から出て、城内の井戸水を汲み上げる給水所に来て、顔面から水を浴びる。

 …………ハッキリ言って、あの光景は異常だった。異常そのものだった。彼が地獄だと感じたのは本能的なものだった。綺麗だったはずの大地が、瓦礫の山と燃え盛る荒地にすり替わり、炎の柱が幾重にも重なり立ち昇る。あの中では誰一人生きられはしないだろう。その中で一人立っていた、あの男。本当に誰だったのだろうか。そしてこの夢が、いつも見るような夢とはかけ離れた別のものであると、彼は本能的に区別していた。水を浴びて更に落ち着きを取り戻したが、身体の様子は変わらない。とにかく夜中だ、静かに部屋に戻ろう。

 それから時が進むが、彼は眠りにつくことはなかった。眠れば、またあの夢を見るのではないかという言い知れぬ恐怖に襲われていた。強張った身体は全力で睡眠を拒否していた。幸いと言うべきか、明後日の出発まではアルゴス卿に自由行動を許されている。身体を休める必要があるだろう。時間が過ぎても寝ることはなく、ただ壁に背を委ねてその場に留まるだけだった。そうして時間が過ぎると朝になり、王城の中が動き出す時間となったが、彼は動くことはしなかった。食堂が空いても食欲がない。とにかくじっと身体を動かさずに、部屋に留まった。



 「アトリ様、大丈夫ですかっ…………!?」

 「っ……………」

 ただじっと身体を動かさずにその場に留まっていたところ、どうも目を開けながら意識を他所に飛ばしていたらしい。いつも彼の部屋を掃除に来てくれる奉公人、メディナが扉を開けて、彼の姿を見るなり掃除道具を目の前に置いて駆け寄ってきた。茶髪の整った顔立ちをした彼女の表情は焦りに満ち溢れており、とても心配そうにしているのが彼にも分かった。

 「あ、ああすまない。少し疲れていたんだろう」

 「戻られていたのですね……でも、無茶し過ぎです。少しは休みませんと……」

 「そうだな………旅の反動というものだろう。」

 今までに感じたことのないくらいの倦怠感は、言葉では旅の疲れだと言うが、実際はあの夢が原因だろう。彼女にそれを打ち明けることはしなかったが。彼が起き上がろうとすると、彼女は優しく両手を彼の両肩に添えて、どうかそのままに、と言ってきた。そんなことされたらそれ以外の術を持てない。彼がその場にいても自分は仕事が出来る、ということだろう。掃除道具を持つと、手際よく彼女は部屋を綺麗にしていく。彼が居ない間も欠かさず掃除をしてくれるので、いつ帰ってきても部屋は清潔な状態に保たれている。

 「アトリ様は、今日は軍務がおありなのですか?」

 「とは思うが、明後日にはまた出征するので、一応休みは貰っているよ」

 「…………また、戦いに出られるのですね…………。」

 少し悲しんだ眼をするメディナ。この献身的な性格を持つ女性は、彼が幾度となく戦場を往来していることをよく知っている。それを知る度に、どうしてか悲しそうな表情を浮かべるのだ。

 「アトリ様。この国はそんなにも苦しい状況にあるのですか?それとも………アトリ様一人に多大な負担がのしかかっているのですか………?」

 「答えかどうかは言えないが、前者の傾向が強いのだろうな。それを何とかするために戦いに行く。だから各々の負担は強く多くなる。避けられないのさ」

 「そう、なのですね………私たちは、平穏が当たり前の日常だと思っていました。このカルディナはとても活気に満ち溢れている。私もその一員ですし、そんな平穏が壊されるなどと今ですら信じられません………」

 それもそうだろう。無理もないことだ。いまだカルディナに戦いの兆しは全くなく、危機感すらも無い。ともすれば国の兵士たちでさえこの現状を甘く見ている者も多いことだろう。実際に現場で戦っている者たちにしか伝わらないものがある。このカルディナに所属する兵士たちは遠くの戦地に派遣されることは、今のところはない。アトリのように各地を転々としながら戦う兵士でも無ければ、全体の危機感を

把握するのは難しいだろう。それ以外に、遠くからもたらされた情報を頼りにするしかないのだから。

 「でも、ここに在るような平穏を守る為にアトリ様が征かれるのなら………私はその帰りを信じて待ち続けます。」

 「………ありがとう。なんだかそう言われると少し照れるな」

 「ここはいつでも使ってもらえるように、ピカピカにしておきますのでっ」

 この子の献身さにはいつも感心させられる。根も優しく、多くの人から慕われていることだろう。こういう人たちの幸せを護ってあげられるような人で在り続けたい。それを口にすることはなかったが、彼はそう思うのであった。


 身体の疲れが取れる気はしない。それでもあの夢を見た直後に比べれば、幾分かは良くなったように感じられる。全身に襲い掛かっていた重みは多少軽くなった。それでも身体はまだ休息を欲している。これまで戦場で幾らでも疲労を感じることはあったのだが、今感じているそれは今までのとは異なるものに思える。その出どころも理由もよく分からないままだった。彼は上層階へ行き、展望フロアに出て昼間の風にあたっていた。今日も、メディナが言うように、この街に戦争の火の粉が降りかかるとは思えないほどに、平穏で、活気に満ちているカルディナ。そんな光景を見下ろすと、彼は目を細々とさせる。自分の知る現実はこれほど活気に満ちたものではない。自分がそうなりたいとは思わないが、自分が知る今とここの今とではあまりにかけ離れ過ぎている。それも、仕方のないことだとは思うが。

 「あら、珍しいところにいるもんだね。戻ってきたんだ?」

 後ろに気配を感じたので振り返ると、そこにはクロエが腕を組みながら立っていた。腰に木剣を下ろしているところを見ると、剣術稽古の最中か終わったところなのだろう。次の世代の兵士を育てるという役割を持つクロエは、毎日軍務をこなしながら子供たちや兵士を希望する者たちへの指導を行っている。実に多忙なことだろう。

 「クロエか。久し振り」

 「アンタ、随分顔色悪いね。なにしたんだい?」

 「いや、特に。疲れが溜まっているだけさ」

 この時クロエはアトリが何か隠し事をしている、と思い込んだがそれを問いただすことはしなかった。実際それを言われたとしても、彼にすら分からない事象もある。そうかい、と少し穏やかそうにクロエが言うと、彼女は彼の横に立ち、同じく外の景色を見ながら、衣服のポケットから何かを取り出した。それは“煙草”と呼ばれているもので、以前から彼女が煙草を吸っていることを彼は知っている。彼が彼女から剣を倣っていた時からのものだから、もう長い時間それを嗜んでいることになる。マッチ箱を擦って火をつけると、口にくわえたそれに火を移した。口から静かに煙を吐く。

 「………クロエ。それ、どんな感じだ?前から気になってはいたんだが」

 「ん、これかい?中々いけると思うけどね。でも全然手に入らないのさ」

 「何故?」

 「何故も何も、原産は東の大陸だって話だ。私は貿易商人からこれを仕入れてるから、この街には売ってないしね」

 「一体どこで買ってるんだ…………?」

 「そいつは秘密だ。色々と情報は仕入れとくモンだよ」

 どことなく胡散臭い気もするが、それ以上は問わないことにする。所謂嗜好品と呼ばれる部類のもので、コーヒーや菓子などもそれに含まれるという。煙草を吸っている人を城の中で見かけることは殆ど無いが、確かアルゴス卿は吸っていたな………と彼は思い出す。

 「…………なんだ。吸ってみるか?」

 「…………あ、ああ。一本だけ」

 クロエは少し笑みを浮かべながら、“気に入ったら自分で手に入れる方法を探してみるんだな”と言って、彼に一本手渡す。そしてマッチ箱を借りて吸い始める。味わったこともない風味が瞬く間に襲い掛かると、むせてしまった。クロエはクスッと笑ってみせたが、

 「まあ、意外と悪くは無い味だな」

 「そうかい?じゃあこれはタダでくれてやる。でもあんまり根元まで吸い込むんじゃないよ」

 彼がそういう反応を見せたので、何の躊躇いもなく煙草の入った小さな箱を彼に投げ、彼はそれを掴んだ。きっとクロエは他にも多数持っているんだろうと想像する。不思議な味ではあるが悪い気はしない。たまにこういう楽しみを持ってみることにしょう、と彼は思う。

 「んで、次はどこに?」

 「ウェストノーズ。要衝を防衛しろ、との仰せだ」

 「またそんな遠いところに………あっちは大陸の端だろうに」

 「襲われる危険の高い地域だと言う。住んでいる人も多いって聞くからね」



 恐らく、この少年なら土地や状況に関わらず、そこに多くの人がいて、差し迫った危機が存在するという状況がある時点で、返事を定めていたことだろう。そこに住まう人々を護り抜くために戦う、死地の護り人。どのような危険が彼に襲い掛かるかは分からないが、たとえどれほど遠くで戦になろうと、彼は歩みを止めることはせずその地に赴くことだろう。クロエの推理は的を射ていた。彼は事情を把握するなり、その要請をすぐに受け入れた。しかもそれは上からの圧力ではなく、兵士としてただ単に命令に従ったというだけでもなく、自らの信条にかけてその地で戦うと誓ったのだ。出来る限り多くの人を護る為に、出来ることをする。それが彼の今の心境だ。そうなるだろうということは、クロエにはよく分かっていた。今度こそ本当に死ぬかもしれないというのに。

 

 「とにかく、自分を生かすことは常に考えときなよ。どんな奴らかは知らないが、強い相手であることは間違いないんだろうから」

 「……ああ。」

 彼女と共に遠くを見渡す。地平線を覗いてもなお見えない先に来ているであろう、脅威。それを思うと気が心配を起こす。クロエから彼に向けられた忠告は、今初めて受けたものではない。この戦いが始まった時から、戦う兵士は常に死と隣り合わせであることを、何度も教えられているし、彼自身もそう言い聞かせてきた。

 長い目で見た時、

安息の日は訪れることなく、遠ざかるばかりである。



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