2-3. 王女と少年(Ⅱ)




 既に夜は遅く、王城はどのフロアも静けさを持っていた。時間にして22時過ぎ。彼らは宝物庫で三時間近く資料を読み漁っていたことになる。アトリとしては、その手伝いに王女エレーナが来るとは予想しておらず驚いたが、助けになったのは確かだった。エレーナは、王家の人間として魔術に関する情報の一部を持っている。彼女自身はその担い手では無かったが、魔術が実在しこの国ではかつてそれの研究が行われていたことも分かっていた。魔術とは決して表に出してはならない情報の一つであると戒め、封印してきたのだ。その封印は今も継続しているが、アトリには情報が開示された。王と七騎士が彼に期待する部分を含めて、彼にその情報を拾ってもらいたいと判断したからである。

 これらの情報を調べていたとき、彼は自分が魔術師であれば、あのような強い敵とも互角に戦えるだろうに、という歯痒い思いも抱いた。他の兵士たちが犠牲にならず、自分が彼らと対峙出来ればもっと戦闘の運びをやりやすくなるだろうに、と。だがそれは叶わない。彼には、魔術師になるための手段が手元には無いし、宝物庫にもない。こうして情報を取得できたことは彼にとって大いにプラスだが、それを活かせるかどうかはまだ分からないのである。



 「本当に良いのか?こんな夜更けに」

 「大丈夫っ。それにアトリくん、初めてじゃないでしょ?」

 「いや確かにそうだが………あれはまだお互い小さかったというか」

 「ふふ。ヘンなこと言うのね。」

 宝物庫での調査を終えた後、彼女からの提案で昼間に作ったパンケーキを食べて欲しいと言われたアトリは、彼女の強気な押しに押されながら、彼女の部屋までやってきた。彼にとっては彼女の部屋を訪問するのは初めてではないが、視線が頻繁に泳いでしまう。彼がエレーナと知り合い、城内で遊ぶようになってから、幾度も彼女の部屋を訪れてはいる。だが、お互いに大人という側面を身に着けるようになってからは、そういった機会も少なくなった。それに加え、アトリが兵士として死地に赴くようになってからは、城内で顔を合わせるということ自体が珍しいことになってしまった。それでも、こうして彼女の部屋に来るのは緊張する。本能的に。

 「お茶も淹れるね。ちょっと苦めだけど」

 「ありがとう。」

 それでも椅子に腰を落ち着かせると、少しばかり気も緩んだ。遠方の地から帰還したばかりで、王から新たな命令も貰い、その夜に宝物庫の資料を読み漁った。なんと内容の濃い一日だっただろうか。そしてその一日の終わりには、王女エレーナの部屋で間食を楽しむことになるとは。彼は自然と彼女の後姿を目で追っていた。作り過ぎたというパンケーキを運ぶ姿も、お茶を淹れる姿も。その作法がとても礼儀に適っていて、上品さを窺える。彼には全く無い一面を彼女は持ち合わせていて、その姿に少し見惚れてしまっていた。

 「はい、どうぞっ」

 「こんなにあるのかっ………!?」

 「うん。お願いしますっ」

 私もちょっとは食べるから!と彼女は満面の笑みで、ティーカップも二つ持ってきていた。この時間に間食して大丈夫か、と聞こうとしたが、彼女があまりにも良い笑顔でそう言ってきたので、それ以上の言葉は出なかった。思えば、こうしてエレーナの手作りを食べるのは初めてではないだろうか。

 ナイフとフォークを使いながら切り分けたケーキを口に運ぶ。時間が経っているはずなのに、しっとりと柔らかく沈むような食感で、味も甘く整っているように感じられた。それと合わせてお茶を飲む。このお茶とパンケーキは中々に良い組み合わせだと感じた。

 「どう??」

 「…………美味い。うん、言葉が出て来ないが、とにかく美味い。」

 「やった!」

 小さくガッツポーズ。そんなに嬉しいのだろうか。無粋だが、自分で料理を作ることに慣れている彼は、料理、食事などは日常の補給の一部であるという考えばかり持っているため、特に楽しむものとか喜ぶものであるという感情は抱かなかった。誰かに振る舞う機会が無かったからというのと、彼自身の今の置かれた立場が長いこと続いて、彼の精神がそのように変化してしまったことが要因である。彼にとって今の目の前の彼女はとても輝いて見える。“少女”らしいというべきか。

 「これは元々誰向けに作ったんだ?」

 「私たち王家のお手伝いをしてくれるみんなに、だよ。衛兵も召使も、このフロアの人たちみんなに」

 「それは凄い。一人でそんな大量に作ったのか」

 「うん。でも王家の住まう上層階はそれほど人が居ないから、そんなに大変でも無かったよ?一応七騎士たちにも食べてもらったんだけど、みんな反応がそれぞれ違って面白かったー」

 ――――――――彼女曰く、ほぼ堅物の集まりである。

 七騎士という存在も、普段から民衆の前に出ているものでもなく、また兵士たちにとってもそれほど近しい存在でもない。アトリは彼らと関わる機会も多くは無いが、他の兵士に比べればかなりあると言っても良い。だが、それは仕事上での付き合いでありプライベートを過ごすことは殆ど無い。アルゴス卿くらいなものだろうか。彼女は騎士全員にパンケーキを振る舞ったそうだが、中でも秘書官のアルグヴェインが面白い反応だったと言う。


 *


 「はい、どうぞ。」

 「………………。」

 きっとアルグヴェインは甘いものを食べるような人ではないのだろう、というのが彼女の見た目からの印象。忠節の騎士にしてこの国の政務を支え、軍務においては強大な権力を持ち、そして王の側近中の側近である。肩書としては申し分ないほどの高位な騎士だが、その彼がパンケーキを言われるがまま食した時。

 「…………大変に美味です。しかし王女、これは私のような拙い騎士に振る舞うより、大切な方の為に振る舞うべきでありましょう。」

 「大切な者のため?」

 「そうです。これほどの腕をお持ちなのだから、さぞ殿方も納得されるでしょう」


 *



 「ってね。凄く真面目な回答だったけど、どこか斜め上な気がして吃驚しちゃった」

 「はは、そうか。アルグヴェイン卿にもそういう一面があるとはね」

 恐らくアルグヴェインの言う大切な人というのは、もし彼女にそういった好意を抱いている男性がいるのなら、ということを指しているのだろう。職務に忠実に全うする秘書官がそういう主旨の話をするのも珍しいな、と彼も思ったのだ。そして同時に思った。――――――――エレーナは、誰か好きな人はいるのだろうか、と。彼は聞くことはしなかったが、彼女に好意を抱く男性はそれなりにはいるだろうと考えていた。王の娘であり、上品で清楚、容姿端麗なお嬢様。一般市民から人気を集めているところもあり、そういう人は多そうだ。もっとも、彼女が市民と普段から関わっている訳ではないから、想像できない部分も多いのだが。

 「………ねえ、アトリくん。」

 「?」



 彼女は、ティーカップをそっと皿の上に置くと、真面目な表情で彼に問う。



 「………アトリくんは、今の自分に、後悔していない………?」

 そして次の瞬間、そう言い出した時には、彼女は俯きながら不安そうに話をしていた。その場の空気が入れ替わるのを肌身で感じ取るアトリ。和気あいあいとしたものから、重たい空気に変わっていく。急にそのようなことを言われるとは思わず、その温度差の変化に少し戸惑ったアトリ。なぜ彼女がそのようなことを言い出したのかは分からないが、何か自分の腹の内を聞きたいのだということは理解できる。エレーナを相手に彼がそれを隠す理由は無かった。曝け出すこともしないが、包み隠すこともしない。表面的なものであり、内在的なもの。そのような距離感にある想いを彼は話す。

 「―――――――――後悔か。無いと言えば、それはウソになる。」

 「………………。」



 そう。後悔はある。何度挫けそうになったか分からない。あの時こうしていれば、もっと多くの人々が救われたのではないだろうか。あの地で、あの戦いで、自分がもっとよく立ち回ることが出来ていれば。思い返すだけで過去の映像がドッと脳内に流れ込んでくる。それくらい、彼は多くの戦いを経験した。この国で現状一番戦闘経験を積んでいる男、と言われるほどに、多すぎる戦いを経験した。それも、自治領地が危機に瀕した際に派遣されるという仕事の性質もあって、どちらかの絶望的な状況を見届けることも沢山あった。何度思い返したところで、もう過ぎた時間げんじつを覆すことは出来ない。

 後悔。その言葉を言われ、一番強く脳裏に焼き付いている光景が思い描かれる。





 *



 ………これは違う。断じて違う………!

 俺は、こんなものを見届ける為に戦ってきたんじゃない………ッ!

 これは、あり得てはならない現実ユメだ――――――――――――!!




 あの時。自らが最後に引き起こした、滅びの光景。ただ一人残った少年と、生きる者すべてを躯にした領地の中、剣の墓標と化した丘の上で、彼は、慟哭した。


 *




 「だけど、俺は自分で選んだこの道が、間違っていたとは思っていない。これからもそう思いたくはないな、とは思っているよ。この手で護れるものがあると、信じ続けているから」

 彼女は僅かに口を開けながら、彼の言葉を聞いた。それが彼の信条だ。今も苦しむ誰かの為に剣を取る。その手で護れるものがあるのなら、その道を貫く。前にも聞いたことではあったが、なんともアトリらしいと彼女は思った。彼が死地の護り人としての立場を確立する時から、その信条は変わらない。途上、多くの苦難を経験し、その意志の色は大分変わってしまったようだが、それでも信じ続けている。彼女はその言葉を聞いて少しだけ安心し、多くの不安を彼女の心の中に残していた。

 「……………そっか。あのね、その………私たちが、とってもアトリくんに苦労ばかりかけることを頼み過ぎてる、から…………」

 彼女は知っていた。自惚れと言われてもいい。けれど彼女だけには分かっていた。アトリという少年は、私との話の中では本音と言われる部分の少しを打ち明けてくれる。彼女の言う“私たち”という存在は、王家であり、国でもある。エレーナは王家の娘でありこの国の中枢の人物の一人。たとえ彼女自身が政務や軍務に関わることが無かったとしても、王家として代表者という存在に位置することは間違いないことだ。その“私たち”が、彼に多大な負担を掛けていることは明白であった。彼という存在を頼り切っていることから、彼がどんどん擦り減ってしまっている、と彼女は本気で心配をしていたのだ。そう直球で話すことは出来ていなかったが、彼にもその辺りを察するところはあった。

 エレーナは、何も悪いことはしていない。この立場自体が悪いものではない。




 「エレーナ。それは貴方が心配することではない。それに、俺は自らこの道を望んだ。望んで歩いている。だから、心配しなくても大丈夫。」


 「…………うん。」



 彼女が命令したことではないし、彼が望んだことでもある。国の目指したものと彼の理想とは一致していた。だからこそ彼はその道を今も、長い間貫き通してきたのだ。後悔があったとしても、その道を閉ざすことはしない。彼が自らの信条を間違っていたものと思うまでは、その剣を下ろすことは無いだろう。エレーナは何も気にする必要はない、と優しく話したのだ。



 「私もね…………後悔の日々。本当は王家の娘になんて生まれていなかったらって、思う時さえあるんだ」

 「エレーナ……」

 それを他の誰かが聞いていたら、かなりの爆弾発言だっただろう。幸いにして夜遅く、しかも部屋には二人だけ。城内の高層階は他の城内の階層と比べても遠くへ離れているので、誰にも聞かれてはいない。だがその言葉を聞いたアトリの心中は複雑だ。そして何が言いたいのか、何を思っているのかも、分かってしまっている。



 「ウェルズっていう名前は好きだよ。こう、何というか、誇り高いものを感じる。先代の影響もあるし、そういう教育を受けてきたから、というのもあるんだと思う」

 だが、そのように言葉を連ねるということは、あくまでその誇り高さの影響は他人からの受け売り、他人から摂取した刺激物に過ぎない。他の人がそれを初めて聞けば、そう思ってしまうだろう、とアトリには感じた。無論、彼女自身が王族としての誇りを忘れた訳でもなく、それが他者から強いられたものでもない。ただ今この場で話す彼女の言葉は、王族としての言葉ではなく、一人の私人としてのものであったから。

 自分は、心の底から王を尊敬し、信頼し、忠誠を尽くすものである。というのは、エレーナの立場ではない。彼女もいずれは王家の一人として、この国の土台を支えて行くことになる。それが明日になるか、それとも数年後の未来になるかは、いまだに分からない。だが、余程の事が無ければ未来は確約されているようなものだ。動かし続けている歯車に己の一生を噛み合わせて行く人生。普通の民たちとは明らかに違う生活を十数年間も送り続けてきた彼女。だからこそ、時々周りの人たちが眩しく見えてしまうのかもしれない。

 「私はどうあっても、他の民たちとは一緒になれない。王族という殻から抜け出すことが出来ないもの。時々それが悔しくなる。このままでいいのかなって。少しだけ他の人たちが羨ましく思えてしまうの。こう、自分のしたいことって、何だろうなーって」

 少しの笑みを浮かべながらも、その目はどこか悲壮感に満ちていたような、そんな表情。彼女は知っていた。これからの人生が、王家の一人として王族のみならず、国をも支えて行くことになるのだと言うことを。それでも彼女は思っていた。自分の人生、何一つ自分から見つけ出し、導き出し得た答えが無かったのではないか、と。それでも彼女は分かっていた。王族の一人という立場の中で、この身が決して避けて通ることは出来ない歯車の上に存在しているのだということを。

 彼にも分かっていた。どれほど彼女が強く願い望んだとしても、王家であることを捨てることは出来ない。彼女自身が自分の存在そのものに疑問を持ちながらも、自分が王家の人間であり王家の責務を果たす立場であることを理解しているからだ。だから。どれほど悩みを抱えたとしても、最終的な答えは既に見えている。しかし。これは彼女の弱さだ。彼女が普段誰に明かすことのない、自分自身の弱さだ。答えが見えていて、その答えのために進み続ける彼女。自分を理解し、存在をも理解し、それでもなお疑問を持ち続ける彼女の弱さ。王家という存在に束縛され続ける、脆さ。その弱さは今まで普通に持ち得るものであった。ただ、それが表に出て来なかっただけ。何故このタイミングでそのような言葉を走らせてしまったか。それは彼女にも正確には分からない。

 「無理に考えを導き出すことも無い。確かにエレーナのそれは、運命のように定められているのかもしれない。いつも高貴に王家の者として振る舞うのは、本当に大変だろうと思う。けれど、だからこそ、後ろを振り返りたくなる時もあるだろうから。人前で見せられないこともあるだろうから、そういう時は俺も力になりたい。」

 「っ………………」

 「多少は、気持ちも和らげられると思うし、その、頼ってくれていい」

 「…………ありがとう、アトリくん。本当に。」



 その言葉にどれほどの意味が乗せられていたかは、分からない。彼女は少し潤んだ瞳を見せながら、それでも笑顔を浮かべて彼にありがとうと伝えた。幾重にも意味が重なった言葉だろう。彼女は、生まれた瞬間から自らの運命の歯車を回し始めている。余程のことが無い限りは、その運命は決しており、定められた道に沿って進むしかない。それが王家の人間として生まれた者の定めだ。それを運命と決めるのであれば、その運命から抗うことは出来ない。彼女がどれほど思い描こうとも、彼女の言うように、他の民たちのように過ごすことは出来ない。それを知っている彼は複雑な心境だった。彼女の自由意思は叶えられるものではない。だからせめて、辛く苦しいと思う彼女の心を幾分か和らげられればと、そう願う彼であった。

 「ごめんね。こんな時間まで付き合ってもらって。ありがとう」

 「いいや。パンケーキも無事に食べきれたし、良かった。」

 「ふふ、そうね、助かったっ」

 そうして、彼は彼女と別れ、王家のフロアから離れていく。




 彼自身が望んだこと。“私たち”が彼に頼んだこと。自治領地の民たちを一人の少年に救わせるという、前代未聞の任務を頼んだこと。そのすべてが彼に重荷となっているんじゃないかと、心配だった。でも、彼はその任務をこなし続け、今も人々の為になろうと思い続けている。彼が一人で戦って大勢の人々を護る中で、ウェルズ王国という存在の評価も変わった。自治領地が危機に瀕した時、ウェルズ王国は救いの手を差し伸べてくれる。どんな形であれども。そう思う人々も増えた。彼のおかげで、この国の内も外も、ある一面においては良い方向へ向かっていったはずだった。国は彼を利用した。彼の実力、彼の行為、そして彼の信条を利用して、多くの領地を手にし、多くの民たちを迎え入れた。彼の功績は計り知れないものだろう。

 けれど、その陰で、彼は少なからず疲弊した。していないはずがない。間違いなく彼は心を擦り減らせていた。彼がそれ以外の道に進もうとしないのは、それ以外の道を彼が知らないから。そして何より、その道は彼自身が望んだことだから。だからこそ、彼女は分かっていた。分かっていて、止めたくても止めることが出来なかった。彼がこのままその道を進めばどのような状態に陥るか。その立場を確立させる要因の一つが王家であったのだから、直接的な関わりが無くとも、彼女には後悔も、罪の意識さえあった。こんなこと本人の前で言えるはずも無かったが、たとえ話したとしても、彼は気にすることは無い、と言っただろう。それが余計にもどかしいと思うこともあった。彼はよっぽどのことが無い限り、折れない。だから彼に頼りきってしまう。国も、軍も、民たちでさえ、恐らく。



 彼は言った。彼女エレーナの立場は他の民たちとは異なる、定められた運命の歯車である、と。しかし、それは彼に対しても言えることである。たとえ性質が異なるものであったとしても、国は彼の立場を容認し確立させた。

 ――――――――――彼の未来を定めたのは、私たちなのだから。

 そう、一人だけで、誰に聞かせる訳もない言葉を心の内で並べながら、独白した。




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