1-16. 見えざる奇蹟




 「何者だ貴様。ほかの兵士とは異なる者のようだが」

 「私はマホトラスに与する者の一人として、お前たちを抹殺する。それだけだ」

 「なるほど。確かに貴様は強い兵士のようだが、もう貴様の味方は居ないぞ?」

 僅かに一分で複数人の兵士を、それも圧倒的な力量で斬り伏せた男。黒い鎧に黒いマントを羽織る、全身黒づくめの剣士。表情は無く、ただ冷淡に目の前の敵を斬り伏せる、不気味な存在。二本の剣を所持しているが、そのうちの一本だけを使い、アトリたちに対する。ヒラーが男と話をする。確かにヒラーの言うように、既にマホトラス陣営の兵士たちは後退して町の外に逃れている。ウェルズ王国の兵士たちも多くの犠牲を出しながらも、この町で時間稼ぎをすることには成功している。しかし、

 「そうだな。しかし、私ならばここに突破口を作ることも出来るだろう。」

 男は、そんなことを言い出した――――――――。

一人で突破口を開くなどと、無謀にもほどがある………というのが普通の考えだし、そんなことを言う人も世の中には殆ど居ないだろう。しかし、何故かこの男が言うことには現実味を帯びているように感じられる。この男から感じられる強力な威圧感プレッシャー。身体の内から警戒せよと伝令されるこの感覚。何度か剣戟を交えただけで分かった、明らかなる技量の高さ。ただの剣士ではない。剣士ではあるが、それ以上の何かを有する者。彼にはそう思える。

 「ともあれ、邪魔をするのなら容赦はしない」

 「何が目的だ。この地は既に貴様たちの求めるようなものは無いと思うが」

 「我々の何を知ってそう口にするのかは知らないが、敵は一人でも多く排除しておくに越したことはない。私の上にいる者ならばそう言うだろう」

 「なるほどな。下の連中は良いように上の奴らに懐柔させられている、ということか」

 「好きに言え。まあ私はこんな内輪揉めに興味は無いのだが」

 内輪揉めとは無論、元々両者は互いに協力し合う一つの勢力でありそれらが分裂したことによる、今のこの戦争のことを指す。そういえばあの槍兵も同じようなことを言っていたな、とすぐに彼は思い出した。あるいは、多くの人にとってそういう印象が植え付けられた戦争なのかもしれない。

 「なら何故戦う。面倒な内輪揉めに関わる必要などないのではないか。」

 ここで初めてアトリが会話の中に入る。

 「そこまで語る口は持たん。ともあれ邪魔者を排除することが今の目的だ。」

 「―――――――――。」

 アトリの隣で、ヒラーが拳を握りしめて強い口調で男に言い放つ。

 「よくも私欲で我が同胞たちを倒してくれたな…」

 「私欲?それはお互い様だと思うのだが、違うか」

 「断じて違う!我々は国の繁栄を支え、他の領地を護り、そして自由で平和な世界を維持するために尽くしている。お前たちのような私欲で他の領地を侵略し、好き勝手に荒らし続けているような連中とは訳が違う…!」

 声を荒げながら主張するヒラーに対し、ここで初めて男は薄ら笑みを浮かべて見せた。まるで彼の主張を小ばかにするような眼差しも一緒に向けていた。嫌味のようにも聞こえる声色を口に乗せつつ、男はこう話す。



 「確かに我々は私欲のまま動いているように、お前たちからは見えるのだろう。それもそうだな。しかし、常に王国の秤の上で物の価値を計算されては困るな。現実はそう上手くはない。お前たちは、今一度マホトラスという『国』が出来上がった経緯を調べなおすといい。そこにどれほどの意味が含まれているか。その原因が今の世の中を作り出しているものと知れば、おのずと我々の目的も見えるだろう。お前たちは、自治領地で発生する戦争を収束させるために戦っている。この町とて例外ではないだろう。だが、お前たちとてよく知っているはずだ。誰かを護るためには、誰かを犠牲にしなければならないということが」



 ―――――安息のまま平和が訪れることなど、無い。



 薄ら笑みを浮かべながら放たれたその言葉には、重みがあった。特に、人々の生活の苦難、外敵に侵略されることで失われる時間を発生させないために戦っているアトリにとっては、とても印象に残る言葉があった。誰かを護るためには、誰かを犠牲にしなくてはならない。その理は認めたくはないが、彼もよく知っている。平和は平穏という形だけで維持出来るものではない。その礎を築くために必要な犠牲もある。これまでの歴史が証明している通り、あらゆる事象は戦争や争いによる過程を送ったうえで成り立つ。自分は、まさにその過程を今送り続けている身。人々の生活の為に、人々を斬る。現状、この国の中で最も戦闘経験を積んでいるであろうと言われている彼に、その言葉は痛く突き刺さった。改めて自らの立場を、自らが犯す愚を突き付けられているような気がして。



 「いつまで正義面をしているかは知らないが………そうだな、同じ私欲を充たす者の集団として言うなら、ハッキリお前たちの存在は邪魔でしかない」

 「お前たちが………人の為に戦っているとでも、言うのか…?」

 「無論だ。最終的にはそこに行きつくだろう。醜い争いが続くから人は大地を枯らすのだろう?ならば、戦いを戦いで封じればいい。お前たちにはお手のものだろう?これまでもそうしてきたのだから」

 次の瞬間。再び男はその切っ先を彼らに向け、臨戦態勢を取った。暫く会話を続けていた二人だが、それが途切れるなりすぐに交戦状態に入る。有言実行するためであろう。マホトラスにとって対立するウェルズの兵士は邪魔者でしかない。彼らには彼らの信念があるようだが、今それを問いただすことも無い。元より両者は相容れない存在となったからこそ、こうして潰し合いをしているのだから。

 町の中、既にウェルズの兵士たちも後退を始めている。その中で、黒の剣士と対するアトリとヒラー。戦いは終始黒の剣士が圧倒しているが、アトリはその攻撃を受けつつ流している。ヒラーは明らかに剣戟を打ち込まれる度に疲弊している様子だ。このままでは長くは持たないだろう。相手からの攻撃を受けるだけでも、体力を消耗する。まして目前に迫る死という現実が、より疲労を増してしまうのだろう。ヒラーはそれでも他の兵士たちとは異なり善戦していたが、

 「ハァッ………なんて奴だ………!」

 やがてそれも苦しくなり、防御すらままならなくなる。そうなれば男の敵ではない。アトリが前面に出て庇おうとするが、手数の多く威力もある攻撃を一人で受けきれず、彼も同様に後退しながらの戦いとなる。

 「―――――――――――ッ!!?」

 「しまったっ…………!!!」

 ついにヒラーの武器が黒剣士の攻撃により弾かれてしまい、生まれた隙をついて男はヒラーの胴体に向かって突きを繰り出した。反応できなければ身体の内部を貫かれて即死であったが、ヒラーはそこで自分の利き腕ではない左腕を突き出した。左手の防具を破壊しながら皮膚を、肉を抉る。鈍い音と地面に散乱する防具の音が混じり合う。突きを躱された男の二撃目も迫るが、アトリがそれを全力で受け止める。そこでアトリと男との間で鍔迫り合いを起こすが、男はなんとその片手間、負傷したヒラーを瞬時に蹴り飛ばして戦闘不能にさせた。一瞬の出来事ではあるが、信じられないような光景だった。吹き飛ばされ方が尋常では無い。家の壁に激突し吐血しながら意識を手放すヒラー。普通の人が人を蹴り飛ばしたって、そんなに勢いよく、また距離長く飛ばされるはずがない。アトリも相手の攻撃で剣を弾かれそうになるが、なんとかそれを堪えた。重く圧し掛かる一撃を受けきれず、地面を抉りながら後方までスライドして、間合いを取る。

 「くっ……………」

 「どうした。その程度では無いだろう。」

 「はっ………何を思ってそう言うのだろうか」

 「…………?」

 突然、男の剣気が弱まった。圧倒的な手数と力強さで押していたはずの男から、まるで正気が失せたかのようだった。そして無表情のまま、しかしその姿は何かを思い浮かび考えるようだった。

 「――――――――――そういうことか。なるほど」

 そして、自分の中で何かに気付いたようで、そう静かに口にしていた。それが何であるのかは分からなかった。一人で考え一人で納得する。あまりに不気味な光景ではあった。彼にはこの男が何を考えているのかが読めていない。相手の表情や言動から読み取れるものは非常に少ない。剣士として、相手の佇まいや表情、言動から行動を予測するということがよくある。だがこの男にはそれが通用しない。だから彼にとって終始この男は不気味に思えたのだ。それに加えて、この感覚。

 「――――――――――――!!?」

 「―――――――――――。」

 そう、あの槍兵と戦った時にも感じた、この感覚。既視感。言葉では説明できないほどの大きな威圧感プレッシャー。身体を脈打つ妙な感覚。一つひとつの鼓動が強く、高く彼の身体の内部を打ち付ける。こんな奇妙な感覚に陥るのは、はじめてだった。急速に男の剣気が膨れ上がったかと思えば、猛烈な速度で突き出された剣に彼は反応が遅れ、脇腹を剣が掠めて行く。続いて横薙ぎの剣。今度はしっかりと剣で対応したが、全身を襲う激痛は第三撃目の反応を鈍らせた。剣ごと身体が大きく弾き飛ばされ、転がりながら身体を打ち付ける。彼の持っていた剣は粉砕され、武器を失う。だが幸いと言うべきか、彼の転倒したすぐ傍には、この男に殺された兵士の武器が今も残っている。彼は痛む身体に負荷をかけながら、その剣を手に取り立ち上がる。

 ………この一瞬の攻撃、明らかに今までのそれとは異なるものだった。



 *



 まずい、このままでは本当に殺される。この男は、あの槍兵と違って楽観的な振る舞いが全くない。あのような力を使われては、こちらがもたない。本当にまずい………。これが限界なのか。だが、あまりに不自然で不可解だ。実力が伴わないことによる死を感じることはあっても、こんな不可解な現象を打ち出されて追い詰められることで感じる死は、全然実感が無い。




 *




 「流石に辛くなってきたようだな。無理をすることはない。人間はいつか死ぬもの。その時がいつ来るかは、時の運命のようなものだ」


 「運命………だと…………」


 ここで死ぬのが運命。いつ定められるか分からないからこそ、巡ってきたその機会。確かにそうだ。間違ってはいない。いつか人は死ぬもの。不老不死などというものは物語の中の世界でしか存在し得ない。現実がそう甘くないことは、今までもこれからも味わってきたし、味わうはず。

 だが、死ぬのが「今」だと決めて諦めて良いものか?


 否。

 それは断じて許されない。この身がある限り、一人の兵士として戦わなければならない。そうでなければ、この信条は果たせない。

 「………、そんな運命、信じたくはないな。少なくともここで死ぬということは。俺が本当に死を迎える時があるとすれば、それは…」

 「…………」

 心の中で、確証も無い独りだけの呟きを放つ。答えにもならない、誰かの回答にもなり得ない、自分ただ独りの言葉。しかし、彼の中には確たる事として信じ続けていること。少なくとも、この段階では。



 「ならば、その運命に抗ってみるがいい」

 男は剣を構え直す。今にでも突入してきそうな勢いだ。それに対し、アトリも同じく剣を構える。味方の兵士が落としたもの。志の中で遂にかなわなかったもの。傷ついた剣と対するのは、黒い剣。今までと状況は変わらない、圧倒的に不利な状況。己が持つ剣も借り物に過ぎない。この状況でどのようにして戦うか、考えた。

 槍兵と対峙したあの時、あの不可解な現象を前に、自分は何とかそれを凌いだ。自分ですら理解できないことが自分の身に起きた。だが事実として、自分はあの槍兵の猛烈な攻撃を奇蹟の如く防ぎきった。確たるものは存在しない。予感のようなもの。それに自分の命を賭けるなど、暴挙も良いところだろう。



 だが、もしそこに活路があるのだとしたら。




 「―――――――――――!」

 黒剣士の剣が奔る。あの槍兵と同じように、剣先は不可思議な事象を纏っていた。それをハッキリと彼は見ることが出来た。槍兵とは異なる事象のようだが、やっていることは同じだ。ヒラー隊長は、恐ろしく強い敵がいるという話をした時、それが魔術によるものではないか、と疑いを持った。そんな物語でしか聞いたことのないような話をはじめは信じることは出来なかった。だが、今。彼は目の前に現れたこの黒剣士とその存在を重ね合わせ、それに対応する自分ですら懇願するようにその存在を信じていた。そうでなければこの剣戟を回避することは出来ない、と。だが、もしそれを信じて使って回避できるものであれば、なんだっていい。この場で生き続けられるのなら、どんな法外な奇蹟であったとしても。

 「はああぁぁぁっ!!!!!」

 「―――――――――――!?」

 奔る黒の剣戟。それを、彼は防ぐ。事は単純だが今までの攻防とは全く異なる。常人では理解できないほどの速度で繰り出される剣戟を、受け手となったアトリもまた理解し難い速度で対応する。自分が異常であると認識する余裕は無い。お互いが剣戟を打ち合う度に、激しく砂埃が舞う。風が吹き荒れる。それほど威力と速度のある戦いだった。彼の基本的な戦闘スタイルは防御からの一転攻勢。相手の隙をついて確実に仕留める戦法。どうもこの黒剣士にはそれが通じない。隙を見出せず、ただ受け続けるだけではこちらが消耗する。であればどうするか。相手と同じ速力を持つ剣戟を打ち放つことが出来れば、攻撃もまた防御になる。そうすれば、先日の夜のように自力で切り抜けられる。剣戟が一つ、二つ、三つ…交わる。彼の持つ剣は砕けない。男の持つ黒剣も勢いづく。相手の太刀筋一つひとつをよく見極め、攻撃しながらも受け止めていた。強い衝撃が身体に広がっていく。真っ向から鍔迫り合いを起こすことを避け、放たれる一撃を受け流しては攻撃を加える。攻撃を加えることで相手は防御に出る。それがこの運命を回避する手段だと分かれば、それを実行するだけのこと。そうすれば、法外な奇蹟とやらが後押ししてくれる―――――――――!!

 「くっ…………!!!」

 それでも黒剣士は彼の姿を見て、それを上回る剣戟を放つ。明らかに先程までの彼とは異なる速度と技量で対応されたのを見て、男も更なる力を入れる。手数に加え重い一撃を次々と繰り出すその男。アトリはそのすべてに対応し続けていたが、長時間もたせられるようなものでもなく、次第に速度が低下し始める。この男に押し切られる前に何とか切り抜けたい。

 一瞬の隙を突かれ、目の前に剣が奔って来る。身体の中央を狙われた一撃。回避できなければ即死も免れない。その時、アトリの中の心音が一つ、激しく聞こえた。外の人にも聞こえているのではないかと思うくらいに、強く激しく。先日の槍兵との対峙の時にはこれが全く何であるかを理解できなかったが、今は多少は考えが至る。これこそが不可解な現象の発生だと。

 「ハッ――――――――――!!!」

 目の前に迫った剣先を、彼は弾いた。そのうえで更に強く前へ踏み込み、今度は男の姿勢を崩させた。流石に男も間合いの中で体勢を崩されるのを嫌ったのか、大きく後ろに後退して間合いから外れた。僅かに1分ほどではあるが、常人離れした剣戟の応酬が繰り広げられた。

 「―――――――――はぁ、はぁっ」

 「――――――――――――――。」

 アトリは息が上がっている。それに対し男は至って冷静だ。明確に間合いを嫌い男から後退したのはこれが初めてだった。男は変わらず静かに冷静に、自分の剣を目で追う。するとその変化に気が付いた。黒い剣の刃先の一部が欠けている。最後、アトリの剣戟をまともに受けきった時に、剣が耐えられなくなったのだ。それを見た男は、その場で静かにその剣を鞘に仕舞い込む。

 「っ…………」




 「本当の目的は果たされた。この場は去るが、次は無いと思うことだ。」



 そう、一言言い残して、男は彼に背を向けて歩いて撤退していく。風が吹き男の黒づくめのマントが靡く。何が本来の目的なのか、さっぱり分からなかったが、なんにせよこの場を切り抜けることが出来た。物凄い疲労感を感じていた。痛む身体を気にしつつ、倒れ伏すヒラーのもとへ駆け寄る。既に意識は取り戻していたようだが、動かずここにいたらしい。

 「………ああ、すまないアトリ殿。俺としたことが何と情けない」

 「気になさらないで下さい。あの男を前に、私たちは生き延びたのですから」

 「はは、そうだな。だがそれは貴殿の力あってのものだ。少し見て見たかったが」

 ヒラーの身体を起こし、負傷した箇所を手当てする。アトリ自身も負傷しており、脇腹からの出血を起こしていたので、互いにその場で手当てをしたうえで立ち上がる。――――――――自分の身体も傷つき、痛みも当然あるだろうに。それでも、彼は傷ついた味方の身体を真っ先に気遣う。その眼が語っている。こんな状況下、これ以上味方を失うことはしたくないのだ、と。ヒラーは内心で思っていた。深手を負った訳では無いが、この傷は移動するには支障をきたす。そうなれば、先に逃げた民たちを追いかけるのに、この身体は邪魔になる。ならば、いっそ自分を置いてアトリ殿だけでも先に行ってほしい。だが、それを言うのを躊躇ってしまった。彼の優しさを垣間見る。きっと多くの同じような光景を目にしてきたのだろう。多くの人々を斬り殺しながら、多くの人々を護り続けてきたのだろう。それが死地の護り人の姿だった。ただ戦うだけではない。相手を気遣い、庇い、支える姿勢。子供のそれとは思えないほどの出来た人間のように感じられる。一体どれほどの過去を彼は背負い続けてきたのだろう。どれほどの苦境を越えて今があるのだろう。人の過去を見たり聞いたりするのを、ヒラーは出来るだけ避けている。だが、気になることは幾つもあった。

 「大丈夫ですか…騎乗は身体に応えますが…」

 「それはアトリ殿とて同じだろう。だが留まる訳にはいかない」

 「………そうですね。出来るだけ早めに、安全の確認をしないと………」


 「行こう。この領地は事実上滅亡した。だが、まだ民たちは生きている」



 生きているものがいるのなら、その人々の為になることを少しでも出来たらいい。それが戦いであったとしても。この命が続く限り、出来ることはある。黒剣士の激しい攻防を切り抜けた彼は、命あることを大事に思いながら、失われた領地を後にする。じきに、ここはマホトラスの陣営が占領することだろう。今は留まるよりもしなければならないことがある。

 「私も幾多の戦場を経験しているが…」

 「え………?」

 お互いに気遣いながら移動し続ける。アトリの傷は自分自身ではあまり気にならなくなっていた。傷口もしっかりときつく締め、止血もしてある。痛みにも慣れていた。ヒラーの様子はあまり良いものではなかったが、それでも意識ははっきりとしている。恐らく本人は無理をしているのだろう、とアトリは思っている。そんな時。ヒラーが一言呟く。


 

 「貴殿のようなお方は、初めてだ」

 そう静かに言い切ったヒラー隊長。だがそれ以上の言葉は、その口からは聞こえなかった。何も死ぬ間際の遺言などではない。ただ一言。あるいはそれも伝える目的でない、不意に出た言葉だったのかもしれない。アトリは確かにそれを聞く。だが驚くことはしない。頷くこともしない。ただ、その時少しだけ瞳を閉じる。そして一人、心の中で思う。瞳に記憶された、確かな情景を思い出して、そうかもしれない、と。

 色々な光景を見てきた。目を背けたくなるような現実も知った。それが事実なのだと受け入れたくない時もあった。その眼に写された様々な情景が、たとえどれほど醜い光景であったとしても、今の彼を存在させている一つの要因ともなり得る。これからも、それを知ることになるだろう。あの町のように。あるいは、今日以上の光景に遭遇するかもしれない。その時、再び自分の命が危うくなるかもしれない。

 それでも、この眼で見なければならないものがある。見届けるべきものがある。それが、どんなに辛く苦しい道のりだとしても。

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