第16話 走れ

 俺、斎藤琢磨は全速力で走っている。前と後ろと片手にリュックサックを身に着け、汗だくになりながらとりあえず教団支部からそこそこ近くにあるネットカフェまで猛烈な勢いで走っている。


 俺には使命がある。教団が大層に押し付けてくるクソ下らないお説法などでは無い。俺が俺自身に授けた使命がある。それを達成する為に今、持てる全ての体力を使って走っている。教団の出家信徒候補であり、もしかしたら幹部候補でもあったかもしれない仮面を脱ぎ去り走っている。


 今の俺は「アムリタ教団のから被害を受けた信者の家族の会の事務所」の構成員としての斎藤琢磨であり、被害者の会会長へと届け物をするべくネットカフェまで走っている。

 牢屋から他の信徒達と共に去ったあと、あの暴行ハゲオヤジから「食堂で飯を急いで食べてから続きの講習を受けること」と言われ、食堂に行くふりをして教団内で寝泊まりしている宿舎棟へ急いだ。荷物を全てまとめて事前に確認しておいた逃走ルートから誰からも見られずに教団支部から抜け出した。予定外の出来事だった上に休憩中の信者に見つかりはしないかと、かなりヒヤヒヤしたが今のところ追手らしき影はない。


 俺は寮生たちが暴行され監禁されている時、正直言ってチャンスだと思った。思ってしまった。今ではそう思ったことを心の底から後悔している。だが今は一刻も早く手にした隠し撮り映像を会長に送り、警察にも連絡し、彼ら寮生を地獄の牢獄から救い出す為に行動しなければならない。

 俺は寮生を生贄に捧げる事で教団を潰す為に必要な、教団上位信徒による暴行と監禁の映像という非常に強力な証拠の始終を動画に収めることに成功した。自分はスパイとして教団の下部組織であるインド哲学研究会から入会し、非常に熱心な研究会構成員である事を演じ、アムリタ教団に入信してからも熱心な篤信信徒である事をアピールし出家信徒になる為の講習まで受ける身になっていた。


 ここまでやるのには理由がある。寮生の彼らを一時的であれ見殺しにしなければならないほどの理由が。


 俺の母親は俺が中学3年生の頃に死んだ。俺は父親によって育てられた。母親は死の5,6年前にアムリタ教団の出家信徒になっており、家にいる事はまったくなく、事実上の別居状態になっていた。

 父親は必死になって俺を一人前になるように厳しく優しく育ててくれた。父親は母親については「最初からいなかったと思いなさい。そうすれば悲しくなくなる」と常々言っていたし、思春期が始まりつつあった自分にとっては母親がいない現実はむしろ特別感すら覚え始めていたくらいだった。

 そういう事もあり、母親の不在に慣れ始めていたので、時と共に母親がいない事へのつらさは薄らいでいった。


 そんな中だった。母親が突然帰ってきたのだ。いや、帰って来たというよりも返されて来たのだ。それも遺体となって。遺体は不要とばかりに教団から返されたのだ。警察からは「自殺であり事件性は無い」と言われ、教団からも迷惑そうに「遺体を処分してくれ」とばかりにあしらうような対応だったそうだ。父親の悔やんでも悔やみきれない顔が忘れられない。父親は言った。


「張り倒してでも、引き倒してでも、何をしても止めるべきだった。宗教にのめり込み家庭を捨て、荷物をまとめて教団へ向かう母親に対して当時の自分は冷たい視線を送るだけだった」


「あんな女に妻や母親を名乗る資格などないと思っていた。だがこうして遺体を目の前にするとな、やっぱり母さんはかわいそうだよ。やりきれないよ」


 父がボロボロと涙を流しながら薄暗い部屋で棺に入った遺体を見ながら嗚咽混じりに言っていたのを明確に覚えている。

 母親は家庭も社会も捨ててまで教団へ赴いたのにも関わらず、そこで宗教的な魂の救いを受けられず、完全に居場所を失ったのだ。そして絶望の中で死んでいった。アムリタ教団がなければ俺たちは、俺のお母さんは死ぬことなく今も生き続けていたに違いない。俺はアムリタ教団への強い憎悪を心に燻ぶらせ続けながらしばらく生きていく事になる。


 そしてその燻った種火のような憎しみから自然発生的に萌芽し、自身の意思で育て上げた使命がある。アムリタ教団を壊滅させる事だ。これは大学生になってから接触するようになったアムリタ教団被害者の会の小林会長からも多大な影響を受けている。自分を偽り、他者を騙し、友人を酷い目を遭わせても、いや、そこまでしたからこそ絶対に壊滅させる。

 やつらを閉鎖的コミュニティから引きずり出し、白日のもとで法的に社会的に抹殺してやる。教団に入信した時点で元より後戻りして尻込みするつもりなどない。絶対に潰してやる。


 その為にも今はネカフェにとにかく急ぐ。そしてようやくネカフェについた。自動ドアが開くのも遅く感じる。レジで事前に作っておいた会員カードを見せて個室に通してもらう。個室ならば追手が来ていてもそう簡単には見つからないハズだ。

 夏の昼、太陽の直下を猛ダッシュしたせいもあり、汗がびっしょりだ。店内のエアコンが容赦無くその汗を冷やし、かなり寒く感じる。


 急いでパソコンを起動し、荷物からケーブル類を探して胸ポケット内に入れておいた小型で薄型のカード状のカメラに接続する。それから着ていたTシャツを脱いだ。腹部に直にガムテープで貼り付けておいた通話だけが出来る薄型PHSを剥がして取り出す。はやる気持ちを押さえつつPHSを机の上に置く。隠しカメラもPHSも教団内部でスパイ活動をする時の為に用意しておいたものだ。


 出家信徒の候補者は手荷物を全てチェックされて検査を受ける。しかし衣服のポケットや、まして服の中に手を突っ込んでまで調べたりはしない。さすがに隠しカメラを胸ポケットに入れて荷物チェックを受けるわけには行かなかったので、使うときまではPHS同様お腹に貼り付けて隠し持っていたが。

 荷物チェックは入る時に一度あるだけでそれ以外の時に抜き打ちで検査されることは無い。いや、結果として無かった。事前に抜き打ち検査が無いこと知っていたわけではないので、内心常にハラハラしながら生活していた。


 パソコンが起動してカメラ内の映像をチェックする。カメラのレンズの視野はバッチリ暴行シーンと監禁の映像を映していた。音声も問題なく録れている。内容を確認してから一旦別のSDカードに移し替える。これは警察で見せる用だ。前半の助長な部分を削除して緊急性の高い事案である事を即座に理解してもらう為である。

 俺はすぐさまメールアカウントにログインして今までカメラで撮った全ての映像を被害者の会会長に送りつける。カメラで撮ってあるのは今回の暴行シーンだけではない。それ以前の講習内容なども記録してある。教団の内部情報は多ければ多いほど良い。とにかく敵を知らなければならないからだ。


 それにもし仮にこの後追手が自分を探し出し、俺を殺しにかかってもこの動画さえ会長の元に送る事が出来たのだから、俺の最低勝利条件は満たした。動画さえあれば会長のコネで各社報道機関へリークする事が出来る。そうすればきっと大騒ぎになる。テレビの夕方の番組で特集が組まれるくらいの騒ぎになってくれるだろうし、会長がそのように仕向けてくれるだろう。とにかく動画は送った。PHSで会長宅にダイヤルする。数コール後に会長が電話に出る。


「はい、小林ですが」


「小林会長ですか?俺です、斎藤です。教団から脱出しました!」


「おお、斎藤君か!何があった?実は悶着を起こしてもらう為に君の友だちを教団に差し向けたところだったのだが。騒ぎか何かを起こしてくれたかな」


 桜井たちを寄越したのは会長だったのか。通りでカーシャーヤを着ていると思った。あれは教団に入信する時に買わされるものだ。あの4人が持っているはずが無いし、自分の知っている限りお古のカーシャーヤが被害者の会の資料置き場に1着置いてあっただけだ。

 恐らく桜井か誰かが手先が器用な人間に頼んで複製を作ってもらったに違いない。それにしても会長のせいでとんでもない事になってしまった。呑気に「騒ぎか何かを起こしてくれたかな」などと言っている場合ではない。


「騒ぎどころではありません!彼らは教団に捕まって手酷く暴行され監禁されています。その映像と他の内部映像を送りましたので見て下さい。俺は今から警察署に駆け込んで助けに行ってもらいます。会長も報道機関へ映像を流して下さい。……メールの使い方はわかりますね?」


「大丈夫だ。君に教わったからな。それにしても……いやぁ、彼には、桜井君には本当に悪いことをしたな。潜入が失敗して軽い騒ぎになってくれればそれを君がビデオに撮ってくれるだろうと踏んで軽い気持ちで送り出してしまった。本当に申し訳ないな。……わかった。絶対に騒ぎ立ててやるからな。任せなさい。君は早く警察へ」


「反省と後悔は後にしましょう。今は彼らを救い出す事が第一優先事項です。それでは、また」


「ああ、また」


 電話を切って深く深呼吸する。荷物をまとめてレジへ向かう。もどかしい思いをしながら会計を済ませてまた走る。ここから15分ほどの場所に警察署がある。冷えた体がまたあせだくになる。息が切れて頭がぼんやりしてくる。でもそれがなんだと言うんだ。友人たちはもっと苦しい思いをしているし、アムリタ教団の危険性を大々的にアピールする絶好の機会だ。何一つ無駄に出来る時間は無い。とにかく馬のように走って警察署へ。


 ああ、俺はきっと彼らから心底嫌われるだろう。嫌われ、軽蔑され、憎悪され、きっと寮にいられなくなるかも知れない。大学は前期休学しているから問題無いとは言え、あの居心地の良い寮と寮生との関係がここで切れてしまうのは正直寂しいし、とてもつらい。でも仕方がない。いくら予想出来なかったとしても、結果的に自分は使命の名の下に友人たちを過酷な仕打ちに遭わせてしまったのだから。

 彼らは俺を怒りの拳で殴り倒す権利がある。少なくとも4発はもらう計算か。とてつもなく痛いだろうが、仕方が無い事だ。もしそれで許してくれるのであれ体中がボコボコの青アザだらけになったとしても仕方が無い事なのだ。俺はそれだけの事をしたのだから。


 走っているうちに警察署に辿り着く。門を抜け、駐車場を抜け、正面出入口へ向かう。自動ドアが開く。俺は思いっきり叫んだ。


「誰か助けてください!友だちが殺されそうなんです!」

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