第17話 扉の先

 オレ、吉岡は今日ほど子どもの頃から今までずっとやっていた体操に感謝した日はない。

 それは本当に不本意な状況下での謝意ではあるものの、それでも自分の肉体へ、そして自分の肉体を維持し続けてきた自分自身へ「ありがとう」と言いたい。


 黒服のハゲオヤジはオレたちを拘束し木の棒で2発ずつぶん殴った。ぶん殴られて牢屋みたいな所に突っ込まれて放水されて放置されている。

 恐らく肉離れや骨折などは無いと思うが、それでもめっちゃ痛かったし、何より今はとてつもなく寒い。部屋の温度は低く、体表面をしこたま濡らした水はどんどん体温を奪っていく。他の3人と比べて肉体的・精神的に自分を保っていられるのはオレだけのようだ。


 体操での練習中に怪我をして肉離れや骨折をした事もあるし、冬のめちゃクソ寒い中で動いても全く温まらない体をなんとか動かしながら練習に励んでいたお陰で、体も心も他の3人に比べたらダメージが比較的少ないように思う。他の3人は全員横たわっているものの、座りながら周りを見ている余裕があるのはオレだけのようだ。壁にもたれかかって周りを見ると、桜井さんと高田さんは時折うめき声を上げながら身じろぎをしているが、ヒョロくておチビの三山に至ってはマジで死んでいるのでは無いかと思うほどピクリとも動かない。恐らく気絶しているのだろう。


 ここにいる全員が死に至るほどの傷を負っているわけではないと思う。だがハチャメチャに痛かったし寒いし怖い思いをしたのは間違いない。

 オレは三山がいれば教団衣の複製と施設内での信者としての自然な振る舞いをしてくれる事を期待して桜井さんと高田さんに打診してみた。まぁ正直言ってかなり悪い事をしてしまったと今では強く反省している。


 仮に三山がいなければ桜井さんが一人で教団に潜入して斎藤さんを説得に行っただろう。もしかすると一人で行った方が上手くいったかもしれない。あの時のオレは三山のコスプレ時の「降りてくる」様な振る舞いは教団内部を自然に歩き回るのに必要だと考えていた。三山がいればチーム全体が三山に感化されて不自然さが減ると思ったし、コスプレ系のイベント以外で外に出る事がない三山にちょっと冒険させてやろうなどという偉そうな事すら考えていた。


 それがこのザマだ。暴行されて水浸しにされて監禁されている。この状態が一体いつまで続くのか皆目検討もつかない。そして何より限りなく真っ暗に近いこの部屋でオレを含めた全員がいつまで正気を保っていられるのかもわからない。


 オレは自分の心身への信頼とこんな目に合わせてくれた黒服のクソオヤジへの憎悪を燃やす事で自分を保っている。頭と腹は相変わらずじんじんと痛むし夏のくせにこの部屋はやたらと冷えるしで、強いストレス状況にいる事がいつまで自分の自我を保たせてくれるのかわからないのだ。


 先の見えない不安と暴行監禁されているという直接的恐怖がオレ自身を少しづつ蝕んで行くのがわかる。要は少しづつ弱気になっているのだ。

 こうなると、気絶しているであろう三山がある意味羨ましくもある。寝ている間はこういった事から遮断されるからだ。


 そうか。そうだ。オレも寝よう。タフ野郎を気取ってクールに状況観察なんてしてても心を摩耗させていくだけだ。時間経過と共にヤスリがけされていく精神を一時的にシャットダウンして正気を延命させる為にもよい手段だと思う。


 以前友だちの一人に鬱のやつがいた。今では大分良くなっているらしいが、そいつが言っていた。


「自身が存在する。ただそれだけでつらいんだ。だったらそのつらい自分自身を消せばいい。対症療法的には寝て逃げる。根本的には自殺する」


 オレはこの言葉を聞いてから自殺というのは長期的かつ最終的な逃避の方法であり、消極的救済であると悟った。

 もう、これから先どうにもならないんだ。その強烈なつらさや絶望感から永久に自分を解放する為の根本的解決の手段として自殺を選ぶのだと。

 それからというもの「自殺する勇気が無い」なんて言説を鼻で笑うようになった。自殺者にとっては自殺に勇気は必要がない。必要なのは自殺の方法に関する知識だけだ。


 自殺は「ああコレで解放されるんだ。楽になれるんだ。つらさを感じる主体としての自分自身を永久に無くすことが出来るのだ」という、そういう救いの手段なのだと思うようになった。


 もちろん彼らにとっても絶対に自殺は喜びでは無いと思う。決してそんな事はないと思う。しかし存在からくる苦痛を癒やすことが出来ない絶望感は、存在そのものを消し去る事でしか解決出来ないと、それしか選択する余地は無いと、そう思ってしまうのだろう。

 だから消極的救済なのであって、失意の中で絶望の中で自殺を選択する。


 オレはそんな風に自分を追い込んでしまう事はどうしても避けたい。トラウマものの体験をしてしまった後でもそう思う。


 だから今は寝てしまおう。寝て逃げるのだ。





 それは突然に来た。前触れ無く来た。眠りに入っていたせいで時間経過はわからない。だが、とにかくそれは来た。


 施錠されたあの忌々しい鉄の扉が開いたのだ。

 数十分か数時間かわからないが、気持ちとしては久しぶりに見た照明が部屋の中に入ってくる。確かここに連れてこられた時は薄暗かったはずの廊下は蛍光灯がちゃんと点灯している。


 まだモヤがかかったような寝起きの視野ではあったが、開け放たれた扉の向こうには十人近い人だかりが出来ているようだ。明るさにまだ慣れていない上に逆光な為、扉に集まった人々は黒だかりにしか見えなかったが、オレは当初、教団の連中が来やがったと非常に強く警戒した。しかしその警戒はすぐに解かれる事になる。


「君たち大丈夫か!今助けてやるぞ!おい!この鍵を早く開けろ!」


 人影の一人がオレたちを見て叫ぶ。青い教団衣を着た男が命令されるがままに無表情で檻の鍵を解錠した。檻の扉がギィという金属の擦れる音と共に開けられると同時にヘルメットを被った一団がドカドカと入ってくる。そしてオレたち一人ひとりに取り付いて質問したり怪我の具合を見たりと忙しそうに動き回っている。どうやら彼らは救急隊員のようだ。


 それを見てオレは心底安心した。となると先程叫んでいたのは警察だろうか。目が明るさに慣れるに従ってスーツ姿の屈強そうな男達が部屋の内外にいるのに気づく。ああ、やっぱり警察だ。

 外部からの絶対的な権力を持った組織でなければ、閉鎖的で階層的な教団内部において命令を下せる人間はそうそういない。それこそ黒い教団服のあのオヤジくらいだろう。


「大丈夫ですか。喋れますか?痛い所はありますか?」


 救急隊員と思われる男性がオレに矢継ぎ早に質問をしてくる。質問をしている間にもライトを照らして体全体の状況を確認している。忙しい事だ。


「頭と腹を強く殴られました。あと寒いっスね」


「なるほど。お腹を見せてくださいね。失礼します。……ああこれは良くないな。でも大丈夫。多分内臓にも筋肉にも影響は無いですよ。立てますか?」


「多分立てます。痛てて……」


「肩を貸しますね。無理そうなら担架で運びますから」


 促されるままに立ち上がり一歩一歩踏みしめるように歩いてみる。意外と歩ける。


「大丈夫みたいです。一人で歩けます」


 そう言いながらも救急隊員の肩を借りてゆっくりと檻の外へ出る。今まで楽な姿勢でいたせいか立ち上がると腹部の痛みが再発し自然と前かがみになってしまう。その度に救急隊員が力強く、そして辛抱強くオレの歩みをサポートしてくれる。頑強な身体のお陰で比較的軽症だったオレが一番最初に牢屋部屋から出た。


「すみません、少し休ませて下さい」


「大丈夫ですよ、ゆっくりいきましょう」


 比較的軽症と言えどもやはり信じられないくらい頭も腹も痛い。痛みに耐えながら檻がある部屋の外の廊下で休んでいると、俺以外の3人が担架で運ばれて行った。

 正直ラクそうだなと思ったが、一度立ち上がって歩き始めたのだし、痛みよりも言い出すことの恥ずかしさが勝って頼めなかった。


「あの人達も命に別状は無いんですよね?」


「予断をすべきでは無いと思いますが、見た感じでは重体には見えませんね」


 オレの問いに救急隊員が冷静な声音で答える。


「あなたも応急処置を受けてもらいます。外に救急車が待たせてありますので、そちらまで一緒に行きましょう。無理そうなら言ってください」


「わかりました。とりあえず歩きます」


 痛みに耐えながら一歩一歩あるいて行く。前回来たときは薄暗かったこの廊下も今では照明が全て灯っていて足元がハッキリと見える。ここに拘束されて連れてこられた時は「これはヤバい事になった」という思いで一杯だったが、救急隊員と話しているうちに「オレは助かったのだ」という思いが段々と実感として湧いてきた。


 しばらく歩いて行くと教団施設の正面出入口が見えて来た。ロッカールームと玄関を兼ね備えた出入口を抜けるべく、ガラスを隔てて外の様子を見る。

 ……何だか騒がしそうだ。救急車とパトカーが数台ずつ教団敷地内に停まっているのはわかる。今更ながら誰かが警察に連絡したからこうして助かったのだ。

 だが、教団敷地外の柵の外を囲っている人だかりは一体なんだろう。ここからだと少し遠くてよくわからない。かなりざわついているようだ。

 出入口の自動ドアの遮音性の高さと、群衆までの距離のせいで騒がしそうだと言うことしかわからない。


 今はとにかく外に出たい。その気持ちでいっぱいだった。

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