第14話 発見と説得
高田さんの提案により僕は1階のトイレの一つに入り、その個室にこもった。教団内部のトイレは極めて清潔だった。隅々まで、本当に隅の隅までホコリ一つなく掃除されている。今僕が「誰も来るな」と強く念じながら閉じこもっているこのトイレの個室も新築の様な綺麗さだ。
話によると元々は病院らしいので中古物件をリフォームしたのだろう。とは言え、ここの信者は共同生活を営んでいると聞くし、日常的にこのトイレを使っているはずだ。ここだけ使っていないはずも無い。仮に使っていないのだとしても自然に積もるであろうホコリが一つ無いなんてことはないはずだ。ほぼ毎日のように掃除がされているのだと思う。知っている限りどの宗教も掃除は重要な修行の一つとして位置づけられているし、恐らくはその修行と称した毎日のメンテナンスによってこの病的な程の清潔感が保たれているのだと思う。
匂いも消臭剤のお陰もあり爽やかで、洋式便器の内部も外部も根本付近も床のタイルも黒ずみや糸くず一つ落ちていない。
この偏執的清潔さのトイレを見ると僕のいる寮のトイレはなんて汚いのだと思う。週1回はトイレやキッチンや廊下などの寮の共同部分の掃除があるが、大体2日も経てば元通りだ。週1の全体掃除は生活上の義務だし、運営委員による監督もあるので手は抜けないが、寮生の低いモラルのせいですぐに汚くなる。大したものだと思う。
さてあと1分ほどで予定の時刻になる。正直言って自分は探し人である斎藤さんの事をほとんど知らない。見た事はもちろんあるが、背が高くてやせ型くらいの印象しかない。
寮という場所は風呂という1ヶ所しかない上に毎日使う場所に夕方から夜までの間、ほぼ全員の寮生が集まる関係で大体の寮生とは顔見知りにならざるを得ない。共同浴場で会ってもある程度深い関係にならないとおしゃべりをしたりする事はあまりない。なので斎藤さんと話をした事は一度もない。
正直言って今回桜井さん達に直接頼まれたりしなかったら肩入れすることは絶対に無かった。にもかかわらず今現在こんな場所にいるのは好奇心と人の役に立てるかもしれないという思いを桜井さん達にかき立てられたからに他ならない。自分は今緊張の中にいるしある意味危機的な状況下にあるとも思う。新興宗教の団体施設に潜入して顔見知り程度の個人を無償で救出するなんてことは人生の中で味わえることではないのも確かだ。そういった危険をおかす冒険心が僕の中にあったことに僕自身が驚いている。
僕は頭の中で食堂までのルートをイメージして信者としての振る舞いを脳内再現しながらトイレの個室のロックを外した。磨かれ輝くタイルの上を新品同様のスリッパで歩いて外に出る。皆とちゃんと合流できるだろうか。口の中が渇いて舌が粘つくのを感じる。食堂までの道のりの床を意識的にゆっくりと歩く。
背後の方で小声で話す人たちの声が聞こえる。どうやら僕は講習が終わった人たちの一番先頭にいるらしい。怪しまれていないだろうかと思い背筋が強張る。肩から腰までの背筋に視線が刺さるような錯覚すら覚える。
食堂近くまで来ると寮生の一団が食堂前の廊下で散らばっているのを発見した。3人に目配せだけして、僕も彼らから遠すぎず近すぎずの距離を保って誰かを待っているかのように立つ。そうしていると何人かの信者が自分たちのペースで歩いてやってくる。中には楽しそうにお喋りをしている人達もいる。よかった。厳粛な雰囲気で一列に並んで来られたら僕たちが話しかける隙が無いどころか不審者として映ったに違いない。
教団衣のフードを目深に被り鼻先とフードの間から横目で窺うように斎藤さんを探す。背が高くて痩せ型……、背が高くて痩せ型……。心のなかで呪文の様に唱える。お願いだから早く見つけられてくれと強く願う。様々な背格好の人たちが小声で話しながら、あるいは一人で粛々と歩いている。
そうして数分しただろうか。それらしき人物を見つけた。一人で歩いている男性がいて、背格好は寮で見た斎藤さんによく似ている。しかし、フードに隠れて顔から下しか見えない。ここからでは本人確認が出来ない。
僕は思わず桜井さんを見る。桜井さんもその人に気が付いたようで、フードのせいで目は見えないもののジッと背の高い男性を凝視しているのがわかった。桜井さんは手で自身の太ももを叩いて合図する。そして僕を含めた3人を順番に見てから動き出す。どうやらこの人が斎藤さんで間違いないと踏んだのだろう。僕たちも桜井さん同様に動く。
さっきから緊張しっぱなしで呼吸が浅い。思いっきり深呼吸しながら3人の位置を確認し、斎藤さんと思われる人を取り囲むように動く。そして桜井さんが口を開いた。
「斎藤、待て」
斎藤さんと思しき人はピタっと止まった。桜井さんはその人の真正面に立っており僕は斎藤さんの真後ろにいる。ほか2人は左右を緩く固めるように立っている。表情は全くわからないが相当驚いていることだろう。
「ここじゃ目立つ。ちょっと付き合ってくれ」
「わかったよ」
囲まれている人物が返答する。この声は聞いたことがある。斎藤さんの声だ。4人で囲んだままだと目立つと判断したのか、横を固めていた2人が僕の後ろに少し間を開けてついて来る。
「そこの部屋なら使ってないはずだよ。話すならそこで話そう」
斎藤さんが桜井さんに話しかける。桜井さんは一瞬だけ僕たちの方を見てから斎藤さんについて行くように促した。僕は黙って頷いて2人について行く。僕の後ろにいた2人もついて来ているようで後ろから足音が続く。
斎藤さんは木製の扉を押し開いて中に入る。続いて入ると数畳の物置のような部屋だった。奥に薄いレースカーテンがかかっていて中は少し薄暗い。折りたたみの椅子が数脚と掃除機が何台か置いてある。ここは余っている部屋なのだろう。
最後尾にいた高田さんが扉を静かに閉めた。桜井さんが被っていたフードを外す。それを見て僕たちもフードを外す。斎藤さんは少し躊躇してからフードを外した。その顔はかなり困ったような笑顔だった。
「揃いも揃ってよく来たね。歓迎は出来ないけど、今ならまだ間に合う。早く帰ったようがいいよ。ここには色んな所に監視カメラが備え付けられているけど、常時監視している人はいないそうだから」
「今ならまだ間に合うのはこっちのセリフだ斎藤。さっさと寮に帰るぞ。荷物は諦めろ。今すぐ出る」
「それは出来ない。ここではまだしなくてはならないことがあるんだ。諦めて帰ってほしい。……高田君、吉岡君、君たちも何故来てしまったんだ。ここに入り込んでまで引き止めるのは良くないことだとわかるだろう。そして……、すまない君の名前はわからないが、寮生だということはわかるよ。君こそなぜここにいるんだい?」
斎藤さんはもっともな質問を僕に投げかける。僕は好奇心と冒険心とある種の献身的精神をくすぐられてここにいるだけだ。正直言って斎藤さんに何かの未練があるわけでは決して無い。しかしそれを説明しようにも今はそうするべきでないと思い黙っていることにした。
「話を逸らすな斎藤。今。今だ。今すぐ出るぞ。荷物は後で着払いで送ってもらえ」
「そういうわけにはいかない。僕には使命がある」
「なんの使命だ。わけのわからない宗教的使命感がもう芽生えたのか。俺たちはお前がこれ以上マインドコントロールされるのを黙ってみているわけにはいかない。そして悲惨な将来を迎えるであろうお前のことを忘れて生きていくことは出来ない。帰るぞ」
「……強引だなぁ。でも、ダメだ」
斎藤さんは強い葛藤の中にいることが見て取れた。笑顔はとうに消え去り強く歯を噛み合わせているのがわかる。眉間にシワが寄って薄く目を閉じながらどうしようか本気で悩んでいる。桜井さんのストレートな語りには一切の嘘がなく直接的に斎藤さんの心を揺り動かしている。
「もしお前が帰らないというのであれば俺たちはこの施設内で大暴れして大騒ぎに発展させるつもりでいる。そうすればお前の教団内部での居場所はなくなる。むしろ出ていって欲しくなるくらいだろう。警察が来て俺たちは不法侵入と器物破損の罪で捕まって、お前はさんざん教団内で腫れ物のように扱われ、教団での地位なんかももう望むべくもない」
ちょっと待って欲しい。暴れるなんて聞いてない。ハッタリだろうか。ハッタリじゃないと本当に困る。警察に逮捕されるなんてさすがに容認できない。お願いだから本気じゃないと願いたい。横目で高田さんと吉岡を見る。高田さんは腕を組んで真っ直ぐに斎藤さんを見ている。吉岡も強張った表情で真っ直ぐ斎藤さんを視線で捉えている。え、まさか本気でこの3人はやるつもりなのか。僕は嫌だ。その場合はさっさと逃げなければ。僕が焦っていると斎藤さんが口を開く。
「桜井、高田、吉岡、あと君、……俺はなお前たちに話して無いことがある」
斎藤さんの口調が変わった。恐らくはこれが本来の斎藤さんの話し方なのだろう。何を話すつもりなんだろうか。
その時だった。後ろでガチャッと扉が開く音がした。思わず僕たちは振り返った。そこには丸坊主で首が太く、黒いローブを身にまとった40代くらいの大柄なオジサンが立っていた。一瞬驚いた顔をしていたがすぐにその表情は憤怒の顔になる。そして大きな声で叱責するように叫んだ。
「貴様ら!こそこそと何をしている!神聖なアシュラムでヤーマを犯しておるのではあるまいな!」
斎藤さんが僕たちの間を縫うように前に出て頭を下げる。
「マハーカッサパ=グル、我々はそんなことはしておりません。今日の講習でもありました通りヤーマの遵法について決意を固めようと話をしていたのであります」
妙ちくりんな名前で呼ばれたオジサンはまだ怒っているようだ。僕たちを順に強い眼光でジッと見ていく。
「貴様ら3人。なんだそのカーシャーヤは。なぜ昔のものを着ている!常に新しいカーシャーヤを着用せよと厳命されておるだろう!おい貴様、アムリタヤーマの第4を言え」
僕の方に指差してキツい眼光のオジサンが詰め寄る。そんなもの知るはずも無いし、あまりの展開に何も答えられず、僕は目をパチクリさせるよりなかった。数秒してからオジサンは強く息を鼻から吐き出し、今度は高田さんを指差す。
「貴様は!どうだ!言え!」
高田さんは黙ったままだ。顔は見えないがそうとううろたえているだろう。この場を完全に支配しているのはこのオジサンだったし、僕たちは完全にバレて絶体絶命のピンチの中にいた。
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