第3話 確信

 桜井さんの様子を見ていると不安な気持ちになってきた。そんなにおかしいのか?

「じゃあ俺行ってきます……なんだか不安だし」

「ああ、そうするといい」

「先輩は行かないんですか?」

 桜井さんはごろんとカーペットに横になり、無言でこっちに背を向けた。

「じゃあ俺だけで行ってみますね」


 共同部屋を後にして斎藤さんの部屋へ向かう。斎藤さんの部屋は自分とは違ってベータ棟にある。ベータ棟に入る時に靴箱を確認する。靴箱に靴があり、代わりに便所草履のようなスリッパが無くなっている。斎藤さんは確かに寮内にいるようだ。

 確か3階だと思ってぺたんぺたんとスリッパの音を鳴らしながら階段を上がる。桜井さんのあのまるで何かを諦めたような、消極的な拒絶のような反応は一体なんだったのだろう。


 インド哲学系のサークルには大体2種類しかないと聞いている。真面目な学術系研究サークル。あとはヨガ等を隠れ蓑にした宗教団体のフロント組織。前者ならなんの問題もない。不真面目で有名なこの寮生から学究の道を往く学徒が生まれることは素直に良いことだ。

 だが後者はまずそうだ。いくら信教の自由があるとはいえ、かつて地下鉄で毒ガス事件を起こした団体も元々はヨガ研究会だったと聞く。そういったヤバめな組織がバックにいるサークルはこの大学にもいくつか存在するとだろう。少なくともゼロって事は無い。

 どんな宗教団体であれ、どこの大学にだって必ず信者獲得の入り口となっているサークルがあるはずだ。それに引っかかったのだろうか。


 そうこう考えている間に斎藤さんの部屋の前に着く。ノックしようとしてこぶしを胸まで上げたところで、やっぱり帰ろうかな、と思いはじめた。

 もしかして自分は猛烈に失礼な事をしようとしているんじゃないか。自分が斎藤さんの行動を制限しようとする権限なんかどこにもない。人は変わりたいなら変わるべきだ。

 ……だがもうここまで来て引き下がるのもな。桜井さんに行ってくると宣言してしまったわけだし。やるだけやってしまえ。


 この寮と同い年であろうかなり年季の入った鉄製のドアをノックした。

 コンコン

「斎藤さーーん、いますー? 高田ですけど!」

 しばらく間を置いてから、部屋の中からこちらに近づいてくる足音が聞こえてくる。扉の前まで来て鍵を外す音がする。扉が開く。

「ああ……高田君か。一体どうしたんだい?」

 中から出てきたのは丸坊主の男だった。いや、顔と体格と声は斎藤さんだ。だが何故丸坊主なんだ? あと、高田君?? この人は自分のことをタカダと呼び捨てにするか、大馬鹿野郎と罵っていたはずだ。しかもその口調は一体なんだ。育ちの良いお坊ちゃんのような穏やかな口調と語尾だ。


 自分は今の状況に明らかに圧倒されていた。脳内のツッコミが追いつかず玉が飽和したビリヤード台のように混沌とした思考になっている。言葉が出てこない。なんと言えば良いのか分からない。そうしていると斎藤さんから声を掛けてきた。

「もしかして桜井君に言われて心配してやって来てくれたのかな?」

 自分は声も出せず首を縦に振るので精一杯だった。斎藤さんは一歩前に踏み出し手を伸ばすように合掌した。高身長の斎藤さんが近くに寄ってきて不気味な威圧感が増す。そして合掌のジェスチャーの異様さに自分はさらに固まった。

「ありがとう高田君……。ありがとう桜井君……。ナマステ……」

 ナマステって。完全にインドじゃないか。アウトなやつだコレ。からからになった口内からやっとの事で言葉を絞り出す。

「あの、……斎藤さんは新しくサークルに入ったと聞いたんですけど、本当っすか?」

 思ったよりも流暢に言葉が出たと思う。斎藤さんが口を開く。

「うん、とても善いサークルに入ったよ。ヨガによって精神の修行を行うサークルでね。導師、これは指導者の事を言うのだけれど、この御方が偉大なヨガマスターなんだ」

 斎藤さんはうっとりとした顔で答えた。自分が所属しているサークル活動やそのリーダーへ陶酔しているのだろう。

「高木君!あなたも是非入るべきだよ!素晴らしいサークルなのだから!」

 高身長の斎藤さんが詰め寄るようにグッと近づき、両手を自分の肩にガッシリと置いた。力が強い。これはなし崩し的に入部させられてしまうかもしれない。

 自分は斎藤さんの両手を掴みくぐるように抜け出す。逃げよう。

「あ!用事があるのでまた今度ー!」

 後ろで何かを言っている声が聞こえたが無視して走り出した。久しぶりに身の危険というものを感じた。

 これは結構まずい状況かもしれない。斎藤さん自身も結構アブない感じになっていたし、自分がそのヤバくなった斎藤さんに目をつけられたかもしれない。自分の両肩に手を置いて顔を近づけてきた時の斎藤さんの濁った瞳が頭から離れない。

 なんなのだ。どうしてしまったのだ。逃げる時に「また今度」なんて言わなければ良かった。


「桜井さん!」

「来たか……どうだった」

 また寝転がってエロ漫画雑誌を読んでいた桜井さんが、雑誌から目を外してこちらを見る。

「どうだったって……桜井さん知ってましたよね?斎藤さんの変わりようを!なんでもうちょっとちゃんと教えてくれなかったんですか?」

 身の危険を感じた状況下から時間も経ってないせいで興奮が冷めていない。普段だったらこんなに食って掛かるような言い方はしないが、今は自分を抑え切れなかった。

「俺が味わったあの感じをお前にも味わって欲しかったんだよ」

 上半身を持ち上げるようにしてこちらを見る。周囲に何人か人がいる事に今更気付いて気まずい気持ちになった。

「それで、アイツのおかしさはわかったか?」

「ええ、まぁ……。確かにあの感じは結構ヤバい感じですね」

「そうだろう」

 また寝転がって雑誌を読み出す桜井さん。無言の圧力を感じる。この話をもうこれ以上するつもりが無いらしい。ここに立っている気まずさもあって立ち去ろうとする。


 すると隣の麻雀部屋の引き戸がスッと開けられる。

「あれぇ?高田さんじゃないスか!今オレ抜けるんで代わりに入ります?」

「いや、吉岡、そんな気分じゃないんだ。悪いがまたな」

「ああー、なるほどなるほど。そうスか、わかりました!おーい……高田さん打たないってよ!」

 年下の吉岡はいつも元気だ。だが今はその元気を受け止める気力が無い。

「高田さんアルファ棟っスよね?オレのところはベータ棟なんで!また!」

「ああ、また」

 互いに数歩歩いてから吉岡が振り返って声を掛けてくる。

「あ!……高田さん、斎藤さん絡みならオレもなにか手伝うんで。じゃ、また!」

 それに対して何も返答することが出来ず、自分は自室へ戻った。

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