第4話 悪夢の幕開け

 その日の晩。夜六時頃。武子は花のような香りを漂わせて、俺の部屋に来た。俺はできる限りいい酒を集めてきた。最近新聞広告にさかんに載っているカルピスも買ってきたのだ。武子は俺に寄り添い、酌をしてくれる。俺も返盃を武子にし、二人で近所中に響き渡るような声で騒ぎ、語った。俺は夢のような時間を過ごしていた。その夢ごこちは武子のある一言により終焉を迎えた。


「そういえば、最近岸サンのお部屋に行ったりしているの。物静かな絵描きさんで妾をモデルに絵を描いてくれるのよ」


 俺は「岸」の一言に、飲もうとしていた盃を途中で止めてしまった。この楽しい時間にも岸青年は俺の邪魔をしてくるのか。


 武子は不審そうな目で俺の方を見つめてくる。電灯の傘が何事もないのに揺れた。俺は無理やり笑顔をつくり、武子を抱き寄せた。武子は軽い悲鳴を上げ、俺にもたれかかってきた。俺は武子のことをじっと見つめる。武子も西洋人のように大きな瞳で俺の顔を見つめてきた。畳と花の香りのなか、俺はこの機に乗じ武子の唇を奪おうとしたがそれは武子の手により拒まれた。武子は大声で笑いながら「妾、好きな方がいるの」と云う。俺の心は何かに切り裂かれたような痛みを覚えた。武子が俺から声をあげながら離れる。


「佐藤サンは二番目に好きよ。サテ、一番になるかしら」


 これがリップサァビスというものかと一瞬考えたが、好きな女のことを信じようと俺は思った。灯の下で俺はにっかりと笑った。


「一番になれるように、努力するサ。よし、武子ちゃん。じゃんじゃん飲もう」


 八時頃まで二人のどんちゃん騒ぎは続き、俺がうつらうつらし始めたころ、武子は自室に帰っていった。俺は大の字になり、酒臭い息を大きく吐いた。酒のおかげで顔が耳まで熱い。若干の吐き気が俺を夢の世界でなく、現実にとどめていたが、少し眠ろうと思った。酒のおかげで今日は何もせずに済みそうだ。まぶたを閉じれば、酒で濁った頭のなかに色々なことが浮かんでは消えていく。武子が好意を寄せている相手は誰だろう。岸青年か。確かに彼は西洋人のような顔をしている。以前、武子と話していたとき岸青年が通りすがったことがあった。そのとき、武子はどことなく憂いを帯びた瞳で奴さんを見ていたっけ。恋の好敵手として岸青年のことを警戒せねばなるまい。うつらうつらとそんなことを考えていたが、やがて静かに俺は眠りの世界に落ちていった。


  気がつけば、朝であった。あくびをかみ殺し、起き上がろうとすると右手にすこし重みのある感触があった。なんだろうと俺が思って顔を右にやるとそこには血にまみれた庖丁があった。俺は酒に酔った頭でふらふらと立ち上がった。俺は何を寝ている間にやらかしたのか。まさか夢遊病か。夢遊病で、俺は人を殺したのか。でも一体誰を。昨日の晩に考えていたことは岸青年のことだ。俺は厭な予感がした。庖丁を握ったまま、俺は岸の部屋の扉を勢いよくたたいた。岸青年の部屋は俺が出した大きな音以外は沈黙をしている。俺は唾をその場に吐くと、岸の部屋に繋がる引き戸を開ける。


 しん、と静かな世界であった。俺は部屋に足を踏み入れる。何もない台所が目に入る。誰も出てくる気配がない。俺は少しだけ不安になり、岸青年の名前を呼ぶ。それでも部屋は沈黙を守っている。ふすまがある。そのふすまを開ければそこはおそらく岸の寝室だ。俺は薄氷を踏むがごとく、そうっとふすまを開いた。


 そこには岸青年が一人布団の中で寝そべっていた。俺は心底ほっとした。なんだ、眠っているのか。焦らせやがって。庖丁を右脇に置くと、岸青年を揺り動かす。何度岸、岸と呼び、揺さぶっても岸青年は起きてはこない。おかしい。俺は布団をめくった。すると、無残にも左脇を刺されて血にまみれている男の姿がそこにはあった。俺は岸青年の呼吸を確認しようと顔に自らのそれを近づけた。息はすでにない。俺が殺したのかとぼんやり考えていると、後ろからつんざくような悲鳴が聞こえた。後ろを振り返ると武子が真っ青な顔をして、座り込んでいた。武子は俺を震える手で指さした。


「アンタが岸サンを殺したんでしょ」


 違う。その一言が出てこない。俺の記憶に空白の時間に確信が持てないからだ。俺は庖丁をその場に置いて武子に近寄ろうとするが、武子は俺の姿を見ると逃げ出そうとする。俺は血にまみれた手で武子の手を掴む。


「どうして逃げようとするんだい。武子ちゃん」


「やめて、この殺人鬼。警察……警察を呼ばないと」


 武子の悲鳴を聞きつけた噂好きな婦人、長屋の住民たちがぞろぞろとやってきて人垣を形成している。ヒソヒソと声が聞こえる。「昨日怒鳴っているところを見た」という声も聞こえる。確かに俺のことだ。


やがて、騒ぎを聞きつけた警察官がやってきた。俺の右手を見るなり、警察官は俺の腰に縄をかけた。武子が警察官にすがる。


「お巡りさん、この人を殺して。妾の愛する岸サンを殺したんですもの。妾の十円札を盗んだのもきっとこの人よ。アア、こんな人だとは思わなかった」


 これは悪い夢だ。ああ、悪夢だ。

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