第3話 相談

 俺は目をできるだけ凝らして周りを見渡す。誰もいないことを確認した俺は自室に入る。長屋の住民は先ほど通った老人以外誰も俺のことを見ていない。そのことに安心した俺は深々と息を吐いて、その場にへたり込んだ。岸青年の十円札はおそらく俺の布団の下にあったものであろう。土くれのついた足、ささやかなる戦利品、そして岸青年の消えた十円札。俺は眠っている間に忘却された記憶と空白の時間に多大なる怖れを覚えた。布団の敷いてある六畳間にも行けず、玄関の式台に座り込み、俺はただただ途方に暮れていた。俺の脳は「俺はやっていないが何かをやった」という一方通行の想いが巡り、だんだんと頭が痛くなってきた。時刻は午前十時。最低な日曜日だ。この最低な気分をどうにかしたくなった俺は、同じ長屋に住む武子のところに行くことにした。武子は長屋で一番賢く、気の回る女だ。おまけに容姿も良い。彼女は、職業婦人で頬紅をいつもはたいている。髪も毛断もだんな髪型にしていて、すれ違うと香水の良い匂いがするのだ。俺は武子に好意を寄せていた。


 武子の部屋を三度たたくと、すぐにからからと引き戸が開く。上目遣いをして、誰かを待っているような女がそこには居た。俺はぎこちなく笑いかけると、武子はあからさまに残念そうな顔をした。俺は敢えて武子に明るく声をかけた。


「こんにちは武子ちゃん。ちょっと聞いてほしい話があるのだが、今は時間があるかな」


「アラ、佐藤サン。わたしそんなに暇ぢゃあないんだけど」


「イヤ、とても面白い話なんだ。な、頼むよ」


 面白い話。俺にとっては面白くもなんともないのだが、武子の興味を惹くため俺は必死であった。武子は片眉をあげた。


「ほんの五分くらいなら良いわよ」


 武子は引き戸の外に出てきた。俺は武子に最近、俺の足に土がついており気が付けば見知らぬ物が置いてあること等をかいつまんで話した。勿論、武子には岸青年の消えた十円札や布団の下の十円札の話はしなかった。武子は途中からケタケタ笑い、手をたたきながら云った。それは俺にとって天啓のような一言であった。


「それは夢遊病ぢゃあないの」


 夢遊病は、夜眠っている間にふらふら歩きまわる病だ。たしかにそれなら空白の時間にどこかに行って何かをやらかす・・・・ことは可能だ。しかし、俺がそんな精神病になる訳がない。俺は首を横に振った。武子は小首をかしげ、厭に笑いながら俺にとどめの一撃を入れた。


「そう云えば妾が夜散歩しているときに手をまっすぐに伸ばして、靴も履かないで歩いている貴方を見かけたわ」


 それは絶望の一言であった。俺が、夢遊病。精神病。武子の云うことは信じたくない。しかし足に付いた土やら部屋にある見覚えのない誰かの宝物が、それが真実だと物語っている。口惜しさのあまり、俺の瞳に涙が浮かぶ。すると、武子は先ほどの笑みとはうってかわった優しい笑みを浮かべる。


「今日の晩、貴方の部屋に行くわ。そういうときはたんとお酒を飲んで忘れましょう」


 俺は武子の優しさにすがることしかできなかった。気が付いたときには、武子の手を握り、何度も礼を述べていた。

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