第5話 藤堂蔵人という男

 夢から醒めれば夢は終わると終わる。そう思っていた。しかし現実という悪夢は無常にも続いていく。来る日も来る日も取り調べが行われる。俺はやっていないというが、物証の庖丁は俺の部屋から出てきている。何度、殺した記憶はないと云っても、「夢遊病だという証言が出ている」の一言を警察官が云う。俺は絶望しかけていた。このまま投獄され、最悪絞首刑に処されるのか。そうすれば、この悪夢も終わるのかと俺は死への逃避を始めていた。


 心が折れかけていたある日の取調室。警察官が見たことのない男を一人連れてきた。その男は身の丈六尺ほどであるがすらりとしていて、品の良い灰色の背広を着こなしている。どことなく清い印象を与える男であった。年の頃は二十代後半か。澄んだ切れ長の瞳が俺のことをじっと見据えている。男は優美な笑みを浮かべるとドロップの缶を俺に差し出した。


「開けてくれたまえ」


 男の声色は柔らかく、俺に対して敵意を抱いているものではなかった。俺は素直にそれを受け取り、ドロップ缶の蓋をたやすく開けた。男は笑顔を崩さず、ドロップ缶を受け取るとその缶をガラガラと振り、出てきた白いドロップを少し残念そうに見つめると柳のような美しい指でそれをつまみ、俺の前に突き出してきた。


「食べたまえ。清涼剤のようなものだ」


 俺がそれを受け取り、口に含む。薄荷の味だ。すぅっとした清涼感が何かを洗い流してくれる気がした。男は椅子に座ると、長い脚を組む。彼はもう一度大きな音を鳴らし、赤いドロップを口に含んだ。男は薄荷飴のような笑顔を浮かべた。


「おいしいかい」


「ああ。それよりも、アンタ誰だ」


「自己紹介が遅れたね。僕は藤堂蔵人という。君の御母堂から依頼を受けてね。この事件を調べているんだ」


 藤堂蔵人と名乗る男は男にしては高く艶のある声で名乗り、涼しげな目元を細めた。藤堂は俺に顔を寄せる。清い顔立ちに俺は一瞬心臓が跳ねる。藤堂は柔らかい笑みを崩さない。


「僕はね、君じゃないと思っているよ、佐藤恵一君。ふふ。さあ、君の口から事件のあらましを説明してくれたまえ」


 言葉が出てこない。俺に味方してくれる人間がこの世に二人いたとは。彼は悪夢から俺を醒ますために現れた使者なのか。憔悴しきっていた俺の瞳には涙が浮かぶ。


「俺は、岸という男を殺したかもしれないんだ」


「しれない、とはどういうことだい」


「わからない。岸を殺した記憶がない。俺は夢遊病で、夜靴も履かずにふらふらとどこかに出かけているんだ。もしかしたらそのときに……」


「夢遊病だって。根拠はどこにあるんだい」


 藤堂は至って真剣な目をしている。それは真実を追求する者の目であった。


「起きると足に土くれが付いていたりしたんだ。見知らぬ物が布団の下に隠されていた。それに武子だって……」


「その、武子という女性ひとは誰だい」


「武子は長屋に住んでいる職業婦人だ。そう、武子が俺が夜中に外を歩いているところを見ているんだ」


 そう、俺は夢遊病なのだ。俺自身が知らないところで罪を犯しているのだ。俺は肩を落とす。藤堂が細長い指を唇に当て、目を瞑る。小さなノック音と共に怖そうな警察官が入ってきた。彼が藤堂の肩をたたくと、藤堂は背広の胸ポケットから金色の懐中時計を出して時刻を確認していた。藤堂は俺に手をひらひらと振る。


「ふぅん。すまないが、時間のようだ。また来るね」


 俺が頷くと、彼は笑った。清涼感のある笑顔であった。

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