04

 その日、私ははやる気持ちを抑えてゼノ・ドメインの研究室へと向かっていた。

 リリが五歳を迎える日だった。研究に没頭するあまりそんな大事な記念日すら失念していた私にそのことを教えてくれたのは、まだ三歳だったエデンくんだった。前にエデンくんの誕生日を一緒に祝った時、リリの誕生日を聞いていて、覚えてくれていたらしい。

 これまで娘の誕生日プレゼントを買ったことなどなかった。そういう役割はすべて妻に押し付けていたからだ。

 故に、何をあげれば喜ぶのか見当もつかない。

 悩んでいた私にエデンくんがこっそり教えてくれたのは、クロノス一家が飼っているキロスという猫の存在だった。娘はキロスと遊ぶのが楽しみらしく、「自分も猫を飼いたい」と洩らしていたらしい。

 親がろくに家に帰らない家で猫を飼うことは難しい。そこで私が思いついたのは、猫のぬいぐるみをプレゼントすること……まったく、つくづく自分は父親失格だと痛感したよ。

 いや、親としてだけじゃない。私は科学者としても二流だ。私はクロノス博士のようにはなれない。だがそれでも、彼の力にはなれると信じている。

 このまま次元の歪みが蓄積されれば、間違いなく世界の秩序は崩れ、混沌に飲み込まれてしまうだろう。

 私はリリに何ひとつ父親らしいことをしてこなかったし、今さら普通の親子に戻ることもできないだろう。だからせめて、この世界の未来を救うという使命に人生を懸ける。

 今日は休日だから、研究所には誰もいないはずだ。人目を盗んでプロジェクトを進めるにはもってこいだが、今日だけは実験結果の確認に留めて早く家に帰ることにしよう。

 誕生会をやろうと言った時、リリは嬉しそうにしていた。

 こんな安物のぬいぐるみで喜んでくれるかはわからない。もっといいプレゼントを期待していたと、へそを曲げてしまうかもしれない。

 だが、それでも……今の私は、リリの顔が見たくて仕方がない。


* * *


 ゼノ・ドメインの上階、我々の研究室があるフロアへ足を踏み入れた時、異変に気付いた。


『ブーッ! ブーッ!』


 異常事態を知らせる機械音が鳴り響いている。

 いったい何が起きた? 予想外の事態に私は頭をフル回転させる。

 自分以外に誰かがいるとすれば、クロノス博士だろうか。今日は実験の予定はなかったはずだが……もしジオ・プロジェクトの実験をしているのだとしたら、まずい。

 以前、稼働実験中に次元の歪みが生じてしまい、局所的な時震が発生したことがあった。仮にあれ以上の時震が起きてしまえば、何が起こるか予測がつかない。


 ……いや、考えている時間はない。


 地面を蹴り、廊下をひた走る。クロノス博士の研究室の前を通過し、ターミナルコアへと到着した時、私は目を見張った。

 ターミナルコアの中央に鎮座するプリズマコア、そのすぐ前の空間に、黒く渦巻く巨大な穴がぽっかりと口を開けている。


「これは……まさか時空の穴か!?」


 時層のずれにより生じる、異空間を繋ぐトンネル。これまでの研究からその存在は予見されていたものの、私自身は半信半疑だったが……こうして実際に目の当たりにしては受け入れる他ない。

 問題は、「何故、今、この場に時空の穴が出現したのか?」――だ。

 私はクロノス博士の研究室に踵を返す。

 ひとつだけはっきりしていることがあった。この事態を引き起こしたのはクロノス博士だ。


「博士! クロノス博士、いないのですか!」

 研究室にもクロノス博士の姿はない。だが、確かに彼がそこにいた形跡が残っていた。

「これは……コアをフル出力で稼働させたのか!? 博士、あなたはいったい何を……ん?」

 クロノス博士の机に一枚のメモが残されているのを発見し、取り上げる。

 彼らしい几帳面な字体で記されている文章を読み進めるうち、私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 そこにはこう書かれていた。


『副主任。最初に手に取るのが君だと信じてこの書置きを残す。

 プロジェクトの稼働実験中に不足の事態が生じた。時空の穴が開いたのだ。

 調べたところ、この穴は二万年前の世界へと繋がっているらしい。

 それを知った時、私の中に悪魔じみた考えが浮かんだ。そう、この世界を救う唯一の方法についてだ。

 君がこれを読む頃には、私たち一家はすでにこの世界にはいない。

 αジオを体内に埋め込んだエデンと、ようやく完成したジオ・プリズマを埋め込んだセシル。この二人を連れて、私たち一家は過去に向かう。

 歴史を改変し、ゼノ・プリズマが開発された事実を書き換えるために』


「歴史を改変!? まさか、そんな方法が……いやしかし、そんなことをしたらこの私たちの住む世界は……」

 私は焦る気持ちを抑えてメモをめくる。


『聡明な君なら言わずとも理解できるだろうが、過去を変えればこの世界は消滅することになるだろう。

 だが、このままいけば確実に世界は混沌に飲み込まれる。それを避ける方法があると知っていて見過ごすことは私にはできない。

 この行為がどれほど罪深いことなのか、理解はしているつもりだ。

 それに正直なところ、うまく到着できるのかだってわからない。永遠にどこへもたどり着けないかもしれない。愛する子供たちとはぐれてしまう可能性だってゼロではないだろう。

 それらのリスクを承知の上で、それでも私とマドカはこうすると決めたのだ。

 この選択を正当化するつもりはない。許してくれとも言わない。

 だが、君にだけは……ジオ・プロジェクトに唯一理解を示し、人生を捧げてくれた君にだけは、正直に伝えておきたかった。

 これは手前勝手な考えかもしれないが、もし君が私の考えに賛同してくれるなら、私たちの後を追ってきて欲しい。もちろん、リリも連れて。

 君の協力があれば歴史改変の成功率も格段に上がるだろう。それに、これは完全に私のエゴだが……

 君とリリには消えてほしくないのだ。

 私は私の計画を実行する。だから君にも選択してほしい。

 どうするかは君次第だ。だが……願わくば、あちらの時代で再会できることを願っている』


 そこで書置きは終わっていた。

 メモを無造作にポケットに突っ込む。他の誰にも見られるわけにはいかない。

 博士の提案について、私は考えていた。

 私はどうするべきだろう?

 このままでは遅かれ早かれこの世界は崩壊する。悲劇的な未来を回避するには一度歴史をリセットするしかない……それが天才科学者であるクロノス博士の下した結論だ。他の誰にも否定することはできない。

 だが、そうなればこの世界は消滅する。私も、妻も、リリも、存在しなかったことになってしまう。


「博士の言う通り、リリを連れて過去に跳べば……少なくともリリだけは救うことができる。それにあのクロノス博士が私の力を求めてくれている……」


 だが――


「おとーさん?」


 背後から声がし、私は飛び上がる。

 振り返ると、研究室の入り口にリリが立っていた。


「リリ!? どうしてここに!」

「ご、ごめんなさい。でもおとーさんの帰りがおそいから、ここにいるのかなって」

「ここには来るなと言っていただろう! 誕生会をやるから家で待っていろと……」

「で、でも! エデンたちも来ないから、何かあったのかなって思って……」


 私ははっとして、まだ脇に抱えたままのプレゼントに視線を落とす。

 猫のぬいぐるみ。キロスと遊んでいるリリが楽しそうにしていたと教えてくれたのはエデンくんだ。


「……リリ。エデンくんに会いたいか?」

「え? う、うん。それはもちろん……」


 ジオ・プロジェクトの成功により世界を救うことが己の使命だと信じてきた。しかし、きっと世界などと大それた話ではなかったのだ。

 私はただ、リリに謝りたかったのだ。

 母を失ったこの子の寂しさに私は寄り添ってやれなかった。だからせめて、この子の未来だけは守りたいと。この子がこの世界で立派に成長した姿を見ること、それこそが私の使命であり、贖罪だったのだと。

 今更……こんなタイミングでようやく、そんな単純なことに気付いた。


「リリ、これを」

「……?」

 私がリリの傍に歩み寄り、ぬいぐるみの入った袋を差し出す。リリは不思議そうな顔でそれを受け取った。

「誕生日のプレゼントだ。お前が気に入るかはわからんが……」

「えっ! やったあ! ありがとうおとーさん! 開けてもいい?」

「ああ」

 リリは慣れない手つきで包装を開け、中身を見て「わあ!」と嬌声をあげた。

「かわいい! 黒いネコちゃんだ!」

「ああ。キロスに似ているだろう? エデンくんと相談して決めたんだよ」

「そうなんだ! 嬉しいな……おとーさん?」

 喜んでいるリリに背を向けて廊下に向かおうとする私を、リリが呼び止めてくる。

「すまないリリ。誕生会はまた今度にしよう」

「えっ? ど、どうして?」

「急ぎの用事ができてしまってね。もう行かなくてはならないんだ」

「……またお仕事?」

 振り返ると、リリの寂しそうな表情が目に入り、胸がチクリと痛む。

 私が研究にばかりかまけて家庭を蔑ろにしていた時、この子はいつもこんな顔をしていたのだろうか。

「ああ。クロノス博士に呼ばれているんだ。エデンくんたちもそこにいる。だから、誕生会は皆が戻ってからにしよう」

「……すぐに戻ってくる?」

「ああ、約束だ。必ず戻ってくるよ。エデンくんたちを連れて」


 母を亡くしても、父がこんな甲斐性無しでも、それでもリリはこの時代で、この世界で生きている。これからも生きていく。

 それを消させはしない。

 私をクロノス博士を止める。クロノス博士もマドカ博士も、エデンくんもセシルくんも、そしてキロスも……必ず全員を連れて帰る。


「じゃあ行ってくる。ちゃんと家で留守番をしてるんだぞ」

「う、うん……」


 名残惜しい気持ちを振り払い、研究室を出た私は、その足でターミナルコアへと戻る。

 時空の穴はまだ大きな口を開けていた。

 中を覗き込む。果てのない暗黒が広がっているのが見えるだけで、この先がどうなっているのか見当もつかない。

 こんなものに本当に飛び込むのかと足がすくむ。

 まるで自分が実験動物にでもなった気分だ。家族ともども飛び込んだクロノス博士の覚悟は相当なものだっただろう。

「……よし、行くか」

 怖気づいてしまいそうな心を鼓舞するために口に出して言い、足を踏み出す――その時だった。


「おとーさん!」


 リリの声――振り返ると、今にも泣きだしそうな顔をしたリリが駆け寄ってくるのが見えた。

「リリ!?」

 私が名を呼んだ直後、リリが懐に飛び込んできた。私の腰にしがみつき、顔をうずめてくる。それから、

「おとーさん! これ、かえすから! もっていって!」

 と、先ほど渡したぬいぐるみを差し出してきた。

「これを? しかし……」

「だって、すぐに帰ってくるんでしょ? だったらまだおとーさんがもってて! 帰ってきたらもういっかいプレゼントして! 誕生日おめでとうって言って!」

 振り絞るような震える声で叫びながら、私にぬいぐるみを押し付けてくる。

 幼心に気付いたのだろうか。私の決死の覚悟に……二度と戻れないかもしれない世界へ旅立とうとしていることに。


「リリ……」


 限界だった。

 気付くと私は、リリを力の限り抱きしめていた。


「ありがとうリリ。私の方がプレゼントをもらってしまった。こんな私に……」


 言葉が続かない。

 両手から伝わる温もり。最後にこの手に抱いたのがいつだったか、そんなことすら思い出せない。


「……おとーさん?」

「もう研究なんてどうでもいい。お前が立派に成長するのを見ることが私の夢なんだ。だから、約束するよ。私は必ず戻ってくる……このぬいぐるみに誓って」


 これが最後になるかもしれない。そう思うと決意が揺らぎそうになる。

 だが、いつまでもこうしているわけにもいかない。時空の穴がいつ閉じてしまうかもわからないのだ。

 私は抱擁を解いた。

 身体を反転させ、そのまま時空の穴に向かって足を踏み出す。渡せなかったぬいぐるみを脇に抱えて。


「おとーさん!」


 リリの声が追ってくるが、もう振り返らない。


(――待っていてください、クロノス博士)


 穴に体を躍らせる。

 私は光の届かない漆黒の闇の深淵に飲み込まれていった。

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