本多忠勝の悪夢

「何を言っているのだ!!今更そんな事ができる物か!!」

「しかし現にやっているのです、やられているのです!!」

「あの恥知らず共が……恥知らず共が!!」




 秀元は正則を罵らずにいられなくなった。


 あれほど無下に東軍を見捨てたはずの正則が、平然と西軍の主力の一角たる自分たちに攻撃をかけている。


 家康の仕掛けた埋伏の毒だったと思いたくもあったが、それにしては精巧過ぎた。


「あの連中はもう満天下の笑い者だ!まったく、どこまでも愚かな連中だ……!!」


 秀元は情けなさに身を任せるかのように泣きわめき、崩壊して行く軍隊を必死に後退させるべく軍配を振り回した。




※※※※※※※※※







「宇喜多秀家や小早川秀秋ら西軍首脳陣は徳川家を滅ぼした後徳川の故地である関東に福島や加藤・黒田を入封させ、徳川に代わって三成の子を五大老に付ける算段である」







 正信は福島らが西軍に走って以来、ずっとそんな噂を西軍の中に流し続けていた。


 徳川家を滅ぼした後の関東の統治は困難であろうから、豊臣家を代表する武闘派である福島らを領主にしてと言うのはわからない話ではない。


 そしてこのまま西軍が勝利した結果、八万近くに上る西軍を掻き集めて「豊臣家簒奪を図った」徳川家康を倒し豊臣家を守りきった三成の功績は当然ながら莫大であり、その息子に大きな報酬を与えると言うのも自然な流れである。


 そして西軍の中では五大老の宇喜多秀家や秀吉の正妻おねの甥小早川秀秋まで名目的には三成の配下であったのだから、秀家と同じ五大老の位まで引き上げると言うのもあながち暴論でもない――――と家康や正信は思っていた。




 しかし正則や黒田長政、加藤嘉明はそうは思わなかった。


 まず関東に移されると言う事自体秀頼のいる大坂から遠ざけられると言う事であり、それ以上に三成の子が五大老になると言うのが許せなかった。


(そんな事になったら、我々は永遠に三成に頭が上がらなくなるではないか!)


 正則は三成を認めた訳ではない。


 目標を見失い自分たちは豊臣家のために戦っているのだと言う名目だけが残り、その名目のために、それ以上にもはや何もできない過去の存在である石田三成の上に立ってやる事を考えていたからこそ、そんなに徳川が怖いかならば力を貸してやろうとばかりに上から目線で三成がまとめた西軍に付いたのである。




 しかし現実はどうだ、あの軸足定かならぬ臆病な若造だった小早川秀秋が、三成に心酔した結果吉川広家を討ち取り本多忠勝を退却せしめる猛将へと変貌した。


(「やはりあ奴は恐ろしい男だ、死してなおその力を高めている」)


 黒田長政は戦前秀秋への裏切り工作を行っていただけに、天満山奪還戦で秀秋の変貌ぶりを間近に見ていただけに、三成の存在がまるで消えていないどころかすさまじく肥大していた事実を目の当たりにして大きな衝撃を受けていた。




(このままでは例え噂が真実でないとしても、三成の存在が俺たちよりもはるかに大きくなっていると言う事実は揺るがない。これでは何のために西軍に付いたのか……ふざけるな、三成を英雄にするわけに行くか…!!)


 三成などいなくても豊臣家は外敵を破る事ができる、それを証明するための寝返りだったはずなのに、これでは三成に屈したも同然ではないか。




 もっとも、三成が率いていた軍に降った時点で三成に負けた事を認めたも同然だと家康も正信もわかっていたのだが、正則や長政はそんな事には全く気付いていなかった。




 三成を何があっても敗軍の将にしなければならない、そうでなければこの戦の意味がない。正則・長政・嘉明の心は一致した。


 そして脇坂安治・朽木元綱も、元より家康に内通を約束していた事もあり三者に同調した。その結果、松尾山の二万二千の軍勢は丸々東軍へと寝返ったのである。




※※※※※※※※※







「何を考えているのだ、あの馬鹿どもは!!」


 正則ら裏切りの報を聞いた秀秋は呆れ果てた表情で叫んだ。


「私も確かに治部少輔殿を裏切ろうとした、しかしお前たちも気付いているだろう治部少輔殿の猛き魂と穢れ無き心を!私には、いや武士ならばそんな男を裏切れるはずもなかろう!それがなぜ……!!」


 その原因の一端は天満山奪還戦で三成のお陰で勝てたと連呼した秀秋本人にもあるのだが、秀秋はそれに気付く事なく悲嘆の声を上げていた。


「中納言様……」

「こうなった以上逃げるしかない!」

「しかし、ですが……!」

「わかっている!我らの数ならば殿を務められるはずだ!それならば小早川の面目は立つはずだ!」


 それでも、この戦乱は確実に秀秋を成長させていた。誰も思いも寄らなかった人物の裏切りが起きた以上西軍に勝ち目はない、ならば佐和山まで逃げ込むしかない、その判断は極めて冷静だった。

 そして確信はなかったがおそらくは自分が真っ先に撤退を言い出したのであろうからには、自分が責任を取らねばならない。ならば殿となって他の軍の撤退を手助けするのが筋であろう。秀秋の判断は冷静だった。


「わかりました、全軍にそう伝えます!」

「よし、これより我らは西軍本隊の撤退を手助けする!丸山と天満山の中間辺り、中山道沿いに構え追撃してくる軍があれば討ち取れ!」


 秀秋の迅速な、かつ冷静な指示により小早川軍は最小限の混乱で後退を開始した。




※※※※※※※※※




「これか……」


 ゆっくりと後退していた高虎は正則寝返りの報を受けて急ぎ軍を返していた。


「現状では明らかに東軍不利、しかし長引かせる事も我らに利無し。だとすれば一発逆転を狙うしかなかった……」


 東軍が置かれていた、余りにも厳しい現況を高虎は把握していた。まともにやってもどうにもならない状況を覆すには、一発逆転の手を打つしかない。


「東軍の主力の身でありながらのうのうと西軍に寝返った以上、今さら東軍の旗に戻るなどできるはずもない……それが普通の発想だろう」


 だからこそ西軍は松尾山と言う要地を福島らに任せたのだろう。



「大夫殿たちには我々と徳川軍が正面衝突した所で松尾山から駆け下りて徳川の横っ腹を突いていただきたい。さすればこの戦役の最大の功労者は大夫殿たちとなります」


 おそらく小西行長辺りがそう言って持ち上げて松尾山へ配置したのだろう。



 普通ならばそれでいいはずだったのだ、普通ならば。秀家も秀秋も行長も、あれだけの裏切り方をした以上今さら家康の旗の下へのこのこ戻れるほど厚顔な奴はいないと思ったのだろう。


 しかしそれは辛辣に言えば甘い考えであり、家康に付け入る隙を与えた失態だった。


「徳川軍の方々には悪いが、この絶好の機会を逃す手はない!」


 とにかくこんな奇跡とも言える幸運が舞い降りた以上、掴み取りに行かない手はない。まるで予想し得なかった事態によって混乱の極致に陥り軍勢としての統率を失くした敗残兵たちを徹底的に狩り尽くして功績を挙げ、後の論功行賞での武器とする。随分と俗な話ではあるが、それが世の中と言う物である。



 それに、違う意味での焦燥感もあった。九月十五日の関ヶ原の戦いでは三成の突撃と同時に西軍は全面撤退を開始、結果西軍の犠牲は三成一人だった。


 その次の天満山攻略戦でも吉川広家の裏切りがあったにもかかわらず、大谷軍こそ全滅させたが明石全登率いる宇喜多軍と小西軍には無傷で逃げられてしまっている。


 要するに、西軍は非常に逃げるのがうまい軍勢であった。


 この千載一遇とも言える機会でこれまでと同じように決定的な打撃を与えられないまま西軍主力陣に逃げられよう物なら、今度こそ籠城戦に持ち込まれかねない。そうなれば一気に増えた兵が重荷に化けてしまう危険性がある。


「敵軍が撤退して行きます!長宗我部・長束も丸山を放棄!西軍本隊は中山道から佐和山へ逃げると思われます!」

「小早川は!」

「ある程度退いた所で足を止め態勢を整えております!」

「殿軍となるつもりか……」


 西軍の現況を聞かされた高虎は少し迷った。この時藤堂軍は丸山に近い所、すなわち中山道に近い位置にいたので西軍本隊を追いやすかったが、小早川軍に道を塞がれてしまえば西軍本隊への追撃は難しくなる。


 それだけに今の内に小早川軍や西軍本隊に攻撃をかけようかとも思ったが、秀秋がこの過酷極まりない殿軍を進んで受け入れた、と言うより自らその役目を買って出たであろう事もわかっていただけに迷っていた。


 今の小早川軍は大将の決意が揺るがないだけに強い軍勢であり、数も一万五千を数える。二千そこそこの藤堂軍ではどうにもならないだろう。



 一方、正則たちの裏切りによる影響をまともに受けている毛利軍を討つのは容易い。しかし彼らは側面から福島軍の攻撃を受けているだけでなく前面から池田軍や浅野軍、その後ろには徳川軍がおり、二千が加わった所でどれだけの足しにもなりはしない。


 そして戦果もおこぼれ程度にしかならないだろう、しかし確実ではある。




「何を戸惑っているのです!西軍本隊を追撃せねば!」

「そうだな、西軍本隊を追うぞ!」





 高虎は結局西軍本陣を追撃する事を決めた。




(我々だけならともかく、後ろには強大な徳川軍が付いているのだ!)


 確かに自分たちだけでは小早川軍を突破しきれないだろうが、後ろには強力な徳川軍本隊が控えている。それが続けざまに当たればさすがに今の小早川軍とて凌ぎ切れはしないだろうと言う計算が高虎にはあった。







「え………!!」







 ところが、その高虎がいきなり眼前に魑魅魍魎が現れたかのような表情で、強張った口を無理矢理に開いて一文字を吐き出したと同時に、藤堂軍は完全停止した。


「な、何事ですか!?」

「あ、あ…………だ……駄目だ!下がれ!毛利を狙うぞ!」


 そして、高虎は慌てふためきながら西軍本陣追跡の断念を宣言した。


「ちょっと待ってください!なぜ」

「何故もへったくれもあるか!つべこべ言わずついて来い!!」

「いやそんな…!………そんな………」


 高虎に必死に食い下がっていた馬廻りの男も後方を向いた途端に声を失くし、高虎に追従した。




※※※※※※※※※




「総攻撃の命が下っております!さあ、お早く!」

「………」

「これは大殿様の命です!!まさか大殿様の命が聞けぬと!?」

「いや……」

「なれば早うお願いします!!」




 本多忠勝の表情には生気がなかった。まるで三成が死んだ直後の福島正則を思わせるような、気力と言う物がどこにも感じられない表情である。


(ば、馬鹿な……………どうして、どうしてあんな………あんな下策が…あんな男が言い出した世迷言が………)




 忠勝は信じられなかった、いや信じたくなかった。目の前の光景を。

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